EX-1 その斧は何を割る
リルが10歳のときの出来事です。
トルカがその日、グレス家の若君を見たのは、見回りの途中だった。
川沿いの道は、ぬかるんでいた。
雨が降ったわけではない。上流から漏れた水が道の低いところに溜まり、車輪の跡に沿って腐った草の匂いを立てているだけだった。
下流へ向かう水路は細く、痩せていた。
土を掘って作った水路の底には、ひび割れた泥が露出している。そこを申し訳程度に水が這っていた。指で押せば止まりそうな流れだった。
グレス家の兵として、トルカはそこにいた。水路沿いの村々で揉め事が起きていると聞き、代官の護衛兼、見届け役としてついてきたのだ。
もっとも、剣が必要になることはない。
村人たちが怒鳴り合い、役人が言葉を濁し、誰も責任を取りたがらない──そういう、いかにも領地の揉め事らしい揉め事だった。
トルカは柳の陰で腕を組み、半ば退屈しながら、半ば呆れてそれを見ていた。
「ですから、堰を外せと言っているのではありません」
下流の村の男が言った。
額に汗を浮かべたその表情には、怒りよりも濃く疲弊が滲んでいる。
「せめて半日でいい。流してください。井戸が濁っているんです。家畜も水を飲めない。赤子のいる家もある」
「半日も流したらこっちの畑が死ぬ」
上流の村の男が苛立った様子で言い返すが、こちらも顔色が悪い。
「こっちにも病人がいる。水がなければ薬草も枯れる。あの畑は今年ようやく戻ったんだ。おまえらの村だけが苦しいような顔をするな」
どちらも正しい、とトルカは思った。
そして正しい者同士が争うと、だいたい話は進まない。
その場には、村の長たちと、グレス領の代官役らしい男がいた。
役人はしきりに顎を撫でていた。
「まあ、後で調整する。今年だけ、少しずつ我慢してもらうしかない。上流も下流も、互いに譲り合って――」
「譲る水がないから言ってるんだろうが」
役人の日和見的な言葉に、下流の男が低く唸った。
上流の村人たちの後ろで、子どもが拳を握って、泣くのをこらえていた。
小さな黒髪の少女だった。背丈も顔つきも幼い。顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に泣かないようにしている。
その足元には、泥で汚れた麻袋があった。中には折れた苗が入っている。
少女の家の畑は、堰から引いた細い水で、かろうじて保っているらしかった。
水争いの理屈など知らなくても、自分の家の畑が危ないことだけはわかっているらしかった。
「下がっていろ」
「でも」
止めようとする父親に、幼い声が抵抗する。
「み、水を戻されたら、うちの畑が……まだ、半分は生きてるのに」
「下がっていろ」
父親らしい男がもう一度言って、黒髪のこどもは、唇を噛んで黙った。トルカは、少しだけ眉を寄せる。
こどもが大人の都合を飲み込もうとしている顔は、あまり見たいものではない。
そのときだった。
「その堰は、誰が作らせた」
凛とした少年の声が響いて、場が静まった。
トルカは柳の陰から顔だけを少し出して伺うと、道の向こうに、ひとりの少年が立っているのが見えた。
身なりはよい。だが、飾り立ててはいない。グレス家の子だとすぐわかる程度には整っていて、それでいて泥道に立つことを嫌がる様子もない。
リル=グレス。
泣きそうになっていた黒髪の子と、歳はそう離れていない。
大人たちの顔を見るために、まだ首を動かして見上げねばならないほどの小さな身体に、妙に硬質な雰囲気を備えていた。
トルカは最初、それを生意気に感じた。貴族の子どもにありがちな、言えば周りが動くと信じている高慢さ。
しかし、それはすぐに違うのだと思い知らされることになる。
リルは、自分より大きな男たちの顔を順に見た。
上流の村人、下流の村人、役人、そして堰。
「若君。これは村同士の調整でして。すぐにお耳へ入れるほどのことでは」
役人が慌てて頭を下げた。
「水が止まっている」
「一時的なものです」
「下流の赤子と家畜は待てるのか」
役人は返答に詰まった。上流の男が一歩出た。
「若君。こちらにも病人がおります。畑もあります。堰を外せば、こちらの作物が」
「わかっている」
リルは言った。
声変わり前の高い声だったが、自分の放つ言葉の意味をしっかりと理解していることが伝わってくる言い方だった。
「どちらにも言い分がある。だから、大人たちは決められないんだな」
その場の空気がわずかに変わる。
トルカは腕を組み直した。
「若君、まずは双方の事情を改めて聞き取り――」
「聞き取っている間に、水が足りない家が出る」
「ですが」
「後で調整する、というのは今は何もしないという意味だ」
役人の顔が赤くなった。
言い方は大人たちの逃げ道を奪うような乱暴なものだが、間違ってはいなかった。
その乱暴さが、トルカには妙に眩しい。
大人たちが鼻白んでいる間に、リルは堰のほうへ歩く。
「若君?」
誰かが呼んだが、リルは答えない。
堰のそばに立てかけてあった作業用の斧を、リルは持ち上げた。
周囲がざわめく。
大人用のそれの柄は少年の腕には長く、刃も重すぎた。
「若君、おやめください」
「危のうございます」
「それは大人が――」
リルは美しいとは言えない動きで、斧を振り上げた。
腰が入っておらず、腕が斧の重みに振り回されている。
乾いた音が鳴る。刃は狙ったところから少し逸れ、堰の板の端を削っただけだった。
誰も動けないでいる間に、リルはもう一度、斧を持ち上げた。
その重さに、小さな肩が震えている。
それを誰も止められない。
二度目。板にひびが入った。
三度目。ひびが広がった。
四度目で、板が割れて、水が噴いた。
堰に溜まっていた水が、濁った藻をほどくように下流へ流れ出した。
最初は土と藻を巻き込んだ汚い水だった。だが、すぐに太い流れになった。
痩せた水路が息を吹き返し、下流の村人たちが、声にならない声を上げた。
一方で、上流側の畑へ流れていた水は細くなった。
畝の間にあった水が引いていく。
まだ青い苗は立っていた。
立っていたが、その根元から、かろうじて命をつないでいたものが離れていくのが見えた。
「あ」
それを見ていた少女の、小さな顔が青ざめ、声が漏れた。
リルは斧を下ろす。息が荒い。
柄を握った手の皮が少し剥けて、血がにじんでいる。
堰を壊したその手は、子どもの手だった。剣も斧もまだ似合わない、細い指だった。
「若君、これは……」
役人が呻き、リルは振り返った。
「俺が割った。上流の村も、下流の村も、役人も、悪者にするな」
誰も何も言えない。水音だけが大きかった。
「誰かが恨まれる必要があった。なら、俺が割ったことにすればいい」
トルカは、その瞬間のことを、後になって何度も思い出すことになる。
リルの言葉は立派だが、幼かった。
恨まれる、と言った。
まるで、自分が恨まれればそれで済むと信じているようだった。
上流の畑は戻らない。
黒髪の子の家の苗は、助からないかもしれない。
下流の赤子が助かったからといって、上流の病人のための薬草が枯れないわけでもない。
恨みを自分に集めることと、損なわれたものを償うことは違う。
それを、この若君はまだ知らない。
いや。
学ぶ途上にある。
大人たちが引かなかった線を、自分で引いた。
その線の向こうで誰が苦しむかを、これから知る。
黒髪の少女が、ふらふらと畑へ歩いた。
父親が呼んでも、少女は返事をしなかった。
泥の中に膝をつき、畝の間へ手を入れる。
さっきまで水があった場所には、黒く濡れた泥だけが残っていた。
指先で掘れば、まだ冷たい。まだ柔らかい。
けれど、そこへ流れ込んでいた細い水は、もうない。
これから死にゆくものの前で、少女は動けなくなっていた。
その小さな背中を、リルは見ていた。
そしてそのリルの横顔を、トルカは盗み見る。
勝ち誇った顔でも、救った充足に満ちた顔でも、罪悪感に打ちひしがれた顔でもない。
自分のしたことが正しいのか、まだわかっていない顔だった。
ただ己の行いの象徴である斧からは、手を離そうとしない。
「リル」
低い声がして、人垣が割れた。
トリア=グレス、リルの母であり、領主の妻の姿があった。
村人も役人も慌てて頭を下げる。
派手な装いではないが、その場の誰よりも場を支配していた。
「母上」
「何をしましたか」
「堰を割りました。下流に水が必要でした。上流にも」
「……」
トリアは、割れた堰を、流れ出した水を、下流の村人を、上流の畑を見た。
そして、泥の中に膝をつく少女を見た。
「助けた者の名を覚えなさい。
そして、損なった者の名も覚えなさい」
トリアの声は冷たくはない。
だが、甘くもなかった。
「水が届いた家の名を記しなさい。水を失った畑の名も記しなさい。助かった赤子の名を覚えなさい。駄目になった苗を植えた者の名も覚えなさい。あなたが割ったのなら、あなたが覚えなさい」
「……はい」
「恨まれるだけで済ませてはいけません。恨みは、罰ではありません。責任の代わりにもなりません。あなたが線を引いたなら、その線で裂かれたものを見なさい」
トルカは、思わず息を吐いた。厳しい。
リルは斧を置いて、泥の中へ入り、少女のそばに立った。
上等な靴が沈み、裾が汚れる。
役人が慌てて止めようとしたが、トリアが目で制した。
少女は顔を上げない。
「名は」
「この子は――」
「本人に聞いている」
父親が代わりに応えようとしたのを、リルが硬く、しかし少しだけ弱くなった声で制した。
少女は泥のついた手で死にゆく苗を握っていた。
「……ワヌレイ」
名乗る声は小さかった。
「家の畑は」
「東の三枚」
「作物は」
「麦と、豆と……薬草。母さんが、病気の人に売るやつ」
リルは頷いた。痛みを堪えた顔が少し白い。
「覚える」
黒髪の少女──ワヌレイは、そこで初めてリルを見た。
目に涙が溜まっている。
恨みも怯えもあった。
それから、どうしていいかわからない子どもの困惑があった。
「……あんたが覚えたら、畑は戻るの?」
リルは答えられなかった。
トルカは、その沈黙のほうをよく覚えている。
斧を振った音よりも。水が流れた音よりも。
その問いに、リルがすぐ答えられなかったことを。
「戻らない」
やがてリルは言った。
ワヌレイの顔が歪んだ。
「なら、何で」
「戻らない。だから、覚える」
子どもの理屈だった。
答えになっていないが、嘘ではなかった。
リルは泣かない。
ワヌレイも泣かなかった。
ただ、苗を握ったまま俯いた。
トリアが静かに言った。
「代官。下流へ水を流した分、上流の損耗を記録しなさい。種と食料を補填します。ただし、堰を勝手に築いた件も別に調べます。下流の村も、助かった顔だけをしないように。あなた方が得た水の一部は、上流の畑から来たものです」
役人も、下流の男たちも黙って頭を下げる。
トルカは、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
結局、最初からこうすればよかったのだ。
損を数え、名を記し、補うと決める。
それだけのことを、大人たちは誰もやりたがらなかった。
その大人たちの空白が、こどもに斧を持たせることになった。
リルはまだ泥の中にいた。
ワヌレイの家の畑を見ている。
見たところでどうにもならないものを、逃げずに。
それを、勇気と、無邪気に賛美していいものか?
トルカは、その横顔を見ながら思った。
こいつは、いずれ大きなことをする。
よいことか、悪いことかは知らない。
ただ、普通では済まない。
大人が先送りにしようとしたものを、斧で割り、割れたものの苦しみを引き受けようとする。
生きる喜びを知る前に、自分の傷つけ方を覚えた少年。
そんなこどもが、そのまま大きくなればどうなるか。
考えるまでもなかった。
たぶん、多くを救う。
たぶん、多くを損なう。
そして、その両方を自分の罪にしようとする。
トルカは柳の陰から離れた。
その日は、声をかけなかった。
声をかける理由もなかった。
トルカは振り返らなかった。
ただ、その日見た少年の名と顔が、はっきりと胸に残った。
リル=グレス。
グレス家の若君。
主君と呼ぶには幼すぎる、兵を率いる者でもない少年。それなのに、もう、自分の罰し方だけは決めているようだった。
そして何度も何度も思い出す。
斧が堰を割った音。流れる水の音。その後に流れた沈黙の音のことを。
リル=グレスが破滅に至る旅に出る、九年ほども前の出来事だった。




