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EX-2 夜道、酒、お姉さん

 トルカとワヌレイが、ティンドレットの賭場で勝ったり負けたりした二名とすれ違って、その少し後のこと。


 ティンドレットの夜は、思ったよりも明るかったが、明るいからといって、安全とは限らない。

 ワヌレイは、そう思いながら歩いていた。

 隣にはトルカがいる。

 リルの古くからの従者で、兵たちの中では年長の部類に入る男だ。いつもは落ち着いていて、無駄口も少なく、若を叱る時だけ少し声が固くなる。


 彼が追手を警戒するのは当然だった。

 だが、自分を領主館から引っ張り出して酒を飲みに出たはずの男が、夜道に出た途端、斥候の顔になるのは、やはり少し怖かった。


「ワヌレイ」

「はいっ」

「声が大きい」


 トルカは立ち止まり、通りの先を見た。その視線の先、角の向こうから、男が二人歩いてくる。肩を組み、調子外れの歌を歌いながら、時々ふらついては笑っている。

 どう見ても、ただの酔っ払いだった。


「下がれ」

「えっ」


 トルカはワヌレイの腕を軽く引き、建物の影へ寄せた。


「歩き方が乱れている。片方は刃物を持っているかもしれない」

「刃物?」

「腰の布が膨らんでいる」


 示された酔っ払いが、その膨らんだ腰布から何かを取り出した。干し肉だった。男はそれを齧り、もう一人に分けてやっていた。


「……」


 トルカとワヌレイの間を気まずい沈黙が通り過ぎて、それから何事もなかったかのように再び歩き出した。


「ワヌレイ、足元。釘」

「あっ、危な。ありがとうございます」


 トルカがワヌレイの足元に落ちていた釘に気づいて、拾う。ワヌレイが礼を言うと、トルカはその釘を指の中で転がし、近くの木戸の留め金へ差し込んだ。

 かちゃり、と小さく音がする。


「えっ」

「外れかけている」

「いま、開けたんですか? それ泥……」

「開けてはいない。開くか確かめただけだ」

「それ、違いあります?」

「ある」

「トルカさん、なんでそういうことできるんですか」

「昔、いろいろあった」

「それ、聞いちゃいけないやつですか」

「聞いてもいいが、答えない」

「同じじゃないですか!」


 トルカは少しだけ口元を緩めた。笑ったのかもしれない。

 その時、向こうの通りから、賑やかな声が聞こえてきた。


「で、あるからしてぇ!」


 やけに大きい声に、ワヌレイはびくりと肩を跳ねさせた。

 トルカは今度は隠れずに、声の方を見る。

 角を曲がって現れたのは、四人の兵だった。

 ジャド、ディエゴ、ヨハン、ケナス。

 全員、酒の匂いを連れている。


 中でもジャドは、見事にできあがっていた。背筋だけは妙にしゃんとしているのに、顔は赤く、目は据わっている。腰に手を当て、妙に古めかしい武士めいた口調で語っていた。


「よいか、ディエゴ殿。夜の戦場においては、まず礼を尽くさねばならぬ」

「なんの話だよ」

「床入りの話に決まっておろうが!」

「声がでけえ!」


 ディエゴが腹を抱えて笑った。ヨハンは顔を手で覆っている。

 ケナスは会話の輪には入らずただにやにやしていた。


「ジャド姐さん、続き続き」

「うむ。まず敵陣に入る前に、門を叩く」

「おい待て、例えが最悪だろ」

 面白がるディエゴ。得意げに語るジャド。やや辟易した様子のヨハン。


「門を叩くにも作法がある。相手が開けぬ門を、力ずくで押すな。酒と菓子を持ち、まずは機嫌を伺え」

「姐さん、下品なのかまともなのかわかんねえよ」

「下品な話ほど、礼節が要る。そして許しを得たならば、いざ尋常に」

「やめろやめろやめろ」

 ヨハンが慌てて止めに入った。

「姐さん、ワヌレイいる。ワヌレイいるから」

「む?」


 ジャドがこちらを見た。

 そして、ぱっと顔を明るくした。


「おお。ワヌレイ殿にトルカ殿ではないか」

「こ、こんばんは」


 ジャドが大股で近づいてくると、ワヌレイは反射的に身を固くした。

 ジャドは、女として美しいというより、まず強そうだった。

 背が高く、肩が広い。腕も脚もよく鍛えられていて、酔って足元が乱れていても、身体の芯はまったく揺らいでいない。髪はワヌレイに似て、黒く長いものが後ろで括られている。よく通る声と、遠慮なく人の頭を撫でる大きな手。


 そして、胸が大きかった。

 厚手の衣で押さえられてなお、胸元の存在感は隠しようがなかった。


 ワヌレイは思わず視線を小魚のように泳がせる。

 怖いわけではない。むしろ、日頃から好ましく感じている相手だ。

 ただ、近い。大きい。声も、手も、肩も、──胸も。

 ジャドの胸が大きいことは知っている。知っているのに、見るたびに驚く。自分でも馬鹿みたいだと思う。


「ワヌレイ殿、なぜ目を逸らす」

「逸らしてないです」

「逸らしておる。拙者の()()に圧倒されたか」

「武威……」


 ジャドは、にやりと笑ってさらに胸を張った。


「やめて」

「何故だ? ん?」

「見せつけてくるッッ圧がすごいッッッ」

「姐さん、ワヌレイ困ってんだろ」

「困難は若者を育てる」

「その困難はたぶん違うやつだぞ」

 たしなめに入ったヨハンが顔を覆った。

「頼むから、もう少しだけ上品に酔ってくれ……」


 ワヌレイも両手で顔を覆おうとしていたが、ジャドの大きな手が、その頭にぽんと置かれた。


「よしよし」

「わっ」

「夜道を歩くとは感心、感心」

「感心なんですか?」

「うむ。夜に道を歩くには、まず夜である必要がある。そして道である必要もある。その二つを満たして歩いている。立派なものではないか」

 支離滅裂である。

「酔ってるな~」

「酔っておる」

 ジャドはにこにこしながら、ワヌレイの頭を撫でた。遠慮がない。髪が少し乱れる。

 ワヌレイは困った顔をしたが、嫌がってはいなかった。むしろ、どう反応すればいいのかわからず固まっている。


「ジャド。飲みすぎだ」

 トルカが静かに言った。

「トルカ殿」

 ジャドは手を離し、やけに丁寧に頭を下げた。

「今宵は戦もなく、火急の命もなく、酒があった。飲まぬ方が無礼でござろう」

「明日、火急の命があればどうする」

「その時は走る」

「吐きながらか」

「武士の吐瀉に恥はない」

「ある、めちゃくちゃある」

 ヨハンが横から言った。

「いいじゃねえか。姐さん、今日は機嫌いいんだからよ」

 ディエゴはまだ笑っていた。

「うむ。酒はよい。人を少しだけ馬鹿にしてくれる」


「へっ、それ以上馬鹿になる余地あんのかよ」

 ケナスが後ろから言うと、ジャドはゆっくり振り返った。

「ケナス殿、そなた、今、拙者の器量に疑義を呈したな」

「おぉ? やるか?」

「今は酔っておるのでな。加減が雑になる。ゆえに見逃してやる」

「へっ、温情痛み入るぜ」


 ジャドはもう一度、ワヌレイの頭を軽く撫でた。今度は少しだけ優しかった。


「ではな。夜更かしはほどほどにするがよい」

「ジャドさんたちも」

「うむ。拙者らはこれから、帰って寝る」

「まっすぐ帰れればな」

 やれやれと言った様子のヨハン。

「大丈夫だって。俺がついてる」

 ディエゴが胸を叩く。

「おまえが一番あぶねえんだよ」

 呆れた顔をしたケナス。


 そうして四人は騒がしく通りを過ぎていった。

 ジャドの声だけが、しばらく響いて聞こえた。


「よいか、門を叩く時はな、まず相手の都合を聞くのだ!」

「またその話かよ!」


 やがて声は遠ざかった。

 ワヌレイは、髪を押さえながら息を吐いた。


「ジャドさん、酒飲むとああなるんですね」

「普段から半分はああだろ」


 トルカは歩き出した。

 少し行くと、目的の酒場が見えてきた。

 扉の隙間から、笑い声と、肉を焼く匂いと、薄い酒の匂いが漏れている。

 トルカが扉を開けた。


 中は思ったより狭かった。

 丸い卓がいくつも並び、酔った男たちが低い声で話している。壁際では女給が皿を運び、奥の炉では肉と芋が焼かれていた。

 トルカは隅の席──壁を背にできる場所を選んだ。

 ワヌレイはその動きにまた気づいてしまったが、今度は言及せず、椅子に座った。

 足が床につくか、少しだけ怪しい。

 トルカは女給を呼び、酒を頼んだ。


「濃いやつを二つ」

「ワヌレイもですか?」

 少し目を輝かせるワヌレイ。

「おまえが言い出したんだろう。ただし、一杯だけだ。一口ずつ飲め。妙に楽しくなっても二杯目はない。眠くなったら言え」

「はい。はい。はい。はい」

「気持ち悪くなったらすぐ言え」

「心配しすぎです」

「心配するに決まっている」


 女給が、小さな杯を二つ置いていった。

 中の酒は、領主館で味わったものよりもずっと濃い匂いがした。

 ワヌレイは杯を両手で持った。


「これが、大人の……」

「苦い。強い。あとで後悔する」

「飲む前から嫌な説明しないでください」


 ワヌレイは、おそるおそる口をつけ──次の瞬間、顔をしかめた。むせ込まなかっただけ大したものかもしれない。


「か、からい。喉が燃えます。大人、普段こんなの飲んでるんですか」

「だから大人は愚かになる」

「なるほど……」


 それでも、ワヌレイは杯を置かず、さらに傾け、飲み干す。子供が苦い薬を飲み込んだ後のように、妙に誇らしげな顔をした。


「の、飲めました」


 トルカは一瞬黙る。

 その言い方。

 両手で杯を持つ仕草。少し涙目になりながらも褒められるのを待つような顔。丸い頬。細い肩。大きすぎる上着。

 やはり、どうしても、気になった。


「ワヌレイ、おまえ、いくつだ」

「年ですか?」

 ワヌレイはきょとんとした。


「二十二です」


「……二十二?」

 トルカは杯を手にしたまま固まっていた。


「十二ではなく?」

「二十二です」

「十五でもなく?」

「二十二です」

「嘘だろ」


 昔のワヌレイを知らないわけではない。

 少し考えれば、二十二という年にも辿り着けたはずだった。

 だが、察しがつくことと、納得できることは違った。


「なぜそんな傷つくことを言うんですか」

 ワヌレイは少しむくれた。トルカは目をそらす。


「ワヌレイ、ちゃんと大人です」

「……それは、すまん」


 トルカにも、自分が失礼なことを言った自覚くらいはあった。

 ケナスならそこで笑うのだろうが、あれと同じ棚に並ぶのは御免だった。


「ワヌレイ、大人のお店だってちょっと憧れありますからね」

 そして襟を正そうとしていたところに新たな爆弾が投下された。


「おい」

「なんですか」

「大人の店て」

「ワヌレイは、大人の女です」

「見えねえんだよ」

「それはワヌレイの責任ではありません」

「まあ、そうだが」

 背格好はともかく、振る舞いについては本人の責任と言えなくもない。それを言うと確実に長くなるため、トルカは賢明にも黙った。

「なので、綺麗なお姉さんがいる店に行く権利があります」

「……それは」

「はい」

「男が行く店ではないのか」

「え?」

「いや。おまえは女だろう」

「はい」

「なら、その……男の方に興味があるものかと」


 短い間があった。

 その間に、自分の言い方がまずかったことにトルカは気づいた。


「ワヌレイが女だと、男の人を好きじゃないと変ですか」

「変とは言っていない」

「でも、そういう意味ですよね」


 世間では、そういうことになっている。

 家も、神殿も、婚礼も、子の名乗りも、だいたいそういう形でできている。

 だが目の前の相手を、その世間の型に押し込めていいかは別だ。


「……すまん。今のは、俺が悪い」


「ワヌレイも、よくわかってないです。男の人が好きなのか、女の人が好きなのか」

 ワヌレイは杯を両手で包んだまま、少し目を伏せた。

「……そうか」

「でも、お姉さんに優しくされたいなって思ったんです。膝に手を置かれたいです」

 そわそわとした表情。頬が赤くなっている。

「具体的だな」

「いい匂いもしてほしいです」

「ずいぶん積むな」

「あと、優しくされたいです」

「それはまあ……戦場にいりゃ誰でもそうだな」


 優しいお姉さん。

 トルカは自然と、隊の女性陣を思い浮かべる。

 バルトロメア、ジャド、フェリペ。

(どれもワヌレイの期待するお姉さん像とは少し違う気がするな……)

 いや、今思い返してみれば、バルトロメアに手当されたり、ジャドに撫でられたり、フェリペに叱られたりしているとき、少しまんざらでもなかったような。

 とまで考えて、いやいや下衆いな、と首を振った。


「あ、そうだ。今度そういうお店についてきてくれませんか、トルカさん」

「俺がぁ!?」

 勝手にバツが悪くなったところにそんな刺され方をしたので素っ頓狂な声が出た。


「俺を巻き込むな。怖いから保護者同伴じゃないと嫌ですとか言うなよ」

「そうじゃなくて。一度お店の前まで行ったことあるんですよ。そしたら入口のお姉さんが、ワヌレイを見るなり『お母さんとはぐれたの?』って」

「ああ~」

「トルカさんと一緒なら、追い返されないと思うんですよ」

「俺がおまえを連れてそういう店に行くの、絵面が最悪すぎるだろ!」


 なんとかしてやりたいという気持ちはないでもなかったが、トルカはトルカなりに世間体を気にする男でもあった。


「お姉さんに優しくされたい、か……」

 ぐい、と杯を煽る。


「トルカさんはどうなんですか。行くんですか。そういうお店」

「昔はな」

「おお。どんな感じでしたか?」

「覚えてない」

「誤魔化さないでくださいよ。ワヌレイにはいろいろ訊いておいて」

「……若い頃に何度か行った。楽しいと思った時もあるが、楽しくないと思った時もある」

「どうしてですか?」

「金を払えば優しくされる。酒を注がれる。笑ってもらえる。こっちの話を聞いてもらえる。だが、店を出ると終わる」

「それが嫌なんですか?」

「逆だ。向こうは仕事だ。時間が来れば終わる。それは当たり前だし、悪いことじゃない」

 表情に苦みが走る。口に含んだ酒のせいではない。


「だが、こっちがそれを忘れると、みっともない。話を聞いて、優しくしてくれたから、自分を少しは特別に思ってくれたんじゃないか、と考える」

「……」

「そして、それを向こうに求め始めるとよくない。仕事ではなく、本気で、自分だけを見ろ。そういう顔になる」

「トルカさんも、そうなったんですか」

「なりかけた」

「へえ、安心しました」

「俺がみっともなくなることに安心するな」

「えへへ」

「ったく、ひでえ話だ」


 トルカは苦笑いし、ワヌレイも小さく笑っていたが、途中で止まった。


「……リル様も」

「若?」

「向いてないかもしれませんね。そういうお店」


 トルカは少し黙る。

 向いていない、その一語で済ませていいものではない。

 若は、優しくされることが下手なのは、たぶんそうだ。

 だが、そういうことは酒の席で軽々しく話すものではない。

 まして、若のいないところで、若の弱さに触れるような真似はよくない。

 トルカはそう判断した。


「まあ、そうだな」


 だからそう短く答えた。


 なんとなくトルカがこの話題を終わらせたがっていることを察したので、ワヌレイも黙った。

 ──じゃあ、リル様は、どこで優しくされればいいんだろう?

 見下ろした杯は、すでに空になっていた。

 

 その時だった。

 鐘が鳴った。最初は一度。次に、間を置かず、二度、三度。

 酒場の空気が変わった。笑い声が止まり、女給が皿を落としかける。

 誰かが叫んだ。


「火だ!」


 次の鐘が鳴った。警鐘だった。

 遠くから、ざわめきが押し寄せてくる。

 トルカは立ち上がった。椅子が床を擦る。

 ワヌレイも続いた。

 酒の苦さが、急に喉の奥で存在感を放ち出す。

 酒場の扉が開く。外の夜が赤くなっていた。

 まだ火そのものは見えないが、空の端が明るい。

 人が走っている。叫び声。鐘。煙の匂い。

 トルカの顔つきは、夜道を歩いていた時の、あの怖い静けさに戻っていた。


「ワヌレイ」

「はい」

「出るぞ」


 トルカとワヌレイは駆け出した。

 さっきまでの話は、すべて後ろへ置いていかれた。

 濃い酒の苦さも、大人の店も、宙に消えた問いかけも。


 夜のくだらなさは、鐘の音に切り裂かれていた。

 ティンドレットが、燃え始めていた。

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