#8 未満の王、あるいはティンドレット市街火災における指揮分断およびリル=グレス敗北記録
「境界鋲、刺入確認!」
伝令がそう告げた時、副官は、一瞬意味を取り損ねた。
刺入確認。
ただの事務的な一語が、物語の頁を破って伝承を現実へ落とした。
犬星はいて、鋲が刺さった。
ディマビオは賭けに勝った。
神話的存在の無力化など、それだけで一生分の勝利だった。
だが、ディマビオはそこで終わらせない。
「南倉庫通り、火勢が上がっています」
しばらく後、次の伝令が駆け込んだ。
「東の酒場裏も、煙が出ました。北門側の馬小屋では、馬が騒ぎ始めています」
「火の回りが、少し早いですね……」
「構わん。制御を失う前に人を動かせればよいのだ。東の酒場裏、北門側の馬小屋も予定通り。帳外吏は第二配置へ。リル=グレスは西へ誘導だ」
副官は、背筋が冷えるのを感じた。
そもそも、たった三本の報告書から、寝物語のごとき犬星が実在することに賭けることが、気が狂っている。そんなもののために、帳外吏を動かした。
帳外吏。それは王家の暗部。帳面に名前の載らない者どもで構成された暗殺者集団。使うだけで政治的リスクの生じる連中だ。十名あまりの反逆者集団の掃討に仕向けるようなものではない。本来なら。
犬星が縫い止められても作戦は終わらない。民間人を多数巻き添えにして、火をつける。
狂った賭けに一度勝ち、その勝利を当然のように次の賭け金にしている。
理解ができない。
「帳外吏の第二配置は」
「済んでいます」
「西の施療小屋は」
「逃げ遅れた者がいる、という報せを流しました」
「よろしい」
ディマビオは、火の方角を見もせずに頷いた。
「リル=グレスはそれを無視できん。そういう男だ」
「……本当に、そこまで」
言いかけて副官は口を閉じた。ディマビオがこちらを見ている。
「勝ったところで降りる賭博師は、財産を増やせん。
犬星は地に落ちた。次はグレス家の小僧を折れば終わりだ」
*
真っ白な部屋に、寝転がっている。
床も、壁も、天井も白い。
窓の外まで白く、どこから光が差しているのかもわからない。
どこかで小鳥の歌う声がする。
その白の中で少女がひとり、安楽椅子に腰かけていた。
真っ白な少女だった。
髪も、指も、袖も、膝の上の糸も白い。
彼女は扉の外まで続く、長い長い糸を編んでいる。
その少女に、見下ろされていて──
そこで、自分が夢を見ていることに気づいた。
「まあ、マル。痛むの?」
親しげで、愛おしむ声だった。
「古い子ね」
白い指が、道化の脇腹に突き刺さる鋲へ伸びる。
清冽な部屋には場違いな錆びた鉄にも、流れる血にも、怯むことなく。
マル=シレスは、その手を止めた。
「いけません。筋書きが変わってしまいます」
「けど、それは、わたしの」
「だからこそ、でございます」
少女は、少しだけ悲しそうに目を伏せた。
「それに、たまには痛みを嗜んでおきませんと」
「そう……」
「私めの出番は、まだ向こうに残っておりますので。お茶は、また今度に」
少女はただ、糸を編む手を休めたまま、道化を見ていた。
この清らかな部屋は、道化の踊る舞台ではなかった。
*
煙の向こうで誰かが「悪竜ヴォルグだ、竜の炎が街を襲ったんだ」と叫んだ。
別の誰かが「違う、火元は地上だ」と怒鳴り返す。
火の匂いが、路地の奥から流れてきた。
最初は焦げた油の匂いだった。次に、古い木材。濡れた藁。馬の毛。人の怒号。どこかで鐘が鳴っている。フォルク卿が鳴らさせたのだろう、警鐘の音が石壁にぶつかり、細い路地の中で何度も折れた。
リル=グレスは、剣を下ろさなかった。
足元にはマル=シレスの血が広がる。
境界鋲に縫い止められ、地べたを這い、なお笑っていた道化の血。
その少し先にレネヴェグが立っている。
灰色の外套。痩せた頬。燃え尽きた炭のような目。
彼はまだ、マル=シレスを見ている。
殺したい。
その感情だけは、火の匂いにも、兵の足音にも、リルの剣の前にも薄まっていなかった。
そしてワヌレイがいて、視線を彷徨わせてながらリルの命令を待っている。
マル=シレスを助けたいが割って入れない──顔にそう書いてあった。
「レネヴェグ」
まず口火を切ったのはリルだった。
「火が出ている。南倉庫通り、東の酒場裏、北門側」
「それが」
「おまえたちは、路地を使ってマル=シレスを襲った。屋根や裏口、抜け道、調べていなければできない動きだ」
「それがどうした」
「なら、火の回る前に人を逃がせる道も知っているはずだ」
レネヴェグの目が、ようやくリルへ向く。
「……私に何をさせるつもりだ」
「救え。逃げ遅れた者を」
レネヴェグの顔が歪んだ。
「命令か。私に?」
「そうだ」
「火消しをしろと。この化け物を置いて?」
「人を救え」
遠くで何かが崩れた。
木組みの壁か、屋根の一部か。悲鳴が続いた。
「……私の復讐を……」
レネヴェグの指が、何かを掴みそこねたように震えた。
「それは後だ」
「後?」
乾いた笑い。
「二十年かけてここまで来た。後とはいつだ。もう二十年後か?」
「今、火の中にいる者たちには、その二十年は関係ない。復讐のために火の中の民を見殺しにするのか」
「……」
「殺すために覚えた道だろう」
リルは言った。
「今は、生かすために使え。火の中に誰かのフェオを作るな!」
レネヴェグは、しばらくリルを見ていた。
古びてなお折れない殺意と憎悪は、瞳から消えない。
しかしその奥で、別のものがわずかに動いた。
「貴様は」
レネヴェグが言った。
「本当に、腹立たしい」
「ああ、よく言われる」
「飼犬に似たらしいな」
「……それは撤回しろ」
「光栄でございますね、リル様」
マル=シレスが、壁際でかすかに笑った。
「おまえも黙れ」
「はい。できる限り」
「これで復讐が終わったと思うな。マル=シレス」
レネヴェグは灰色の外套を翻した。
「ええ。幕間でございますね」
マル=シレスは、血に濡れた唇で微笑んだ。
レネヴェグは顔を背け、火の方へ走った。
ワヌレイがそれを見届けて、ようやくマル=シレスのもとに近づいてひざまずき、道化の脇腹を見た。
白い衣装の裂け目。血に濡れた布。そこに、古びた釘のようなものが刺さっている。どう見ても身体に刺さっていてよいものではない。
「ぬ、抜きますよ!? ワヌレイ抜きますよ!?」
「触るな」
「なりません」
リルとマル=シレスが同時に止めた。
だが、ワヌレイの指先はすでに鋲へかすっていた。
きゃん、と音が鳴った。
金属音でも、犬を踏んだような音でも、鐘を叩いたような音でもない。
世界の布地の裏側を、爪で引っ掻いたような音だった。
「ひゃあっ!?」
ワヌレイが飛び退く。
リルが剣を構え直した。
トルカが顔をしかめる。
火の方へ走りかけていたレネヴェグが、一度だけ振り返った。
「……鳴らすな」
苛立ったように低く言って、今度こそ去った。
「すみません! 今のワヌレイです! ワヌレイが鳴らしました!」
あわあわと両手を揺らしている。
「申告は結構でございますが、できれば次から鳴らさないでいただけると。境界鋲は少々、耳障りな声を持っておりますので」
「だって刺さってるんですよ! 刺さってるものは抜くんじゃないんですか!」
「ワヌレイ様。お気持ちは、たいへんありがたく」
マル=シレスが、血の混じった息で笑った。
「しかし、それはただの釘ではございません。境界鋲と呼びます。それは、私めをこの世界へ縫い止めております。ただ肉に刺さっているだけではありません」
「えっ、何言ってるか全然わかんないです。ワヌレイにもわかるように言ってください」
「……うかつに触れれば、血が出るだけでは済みません。私めが壊れるかもしれない。ここから消えるかもしれない。あるいは──この一帯が滅茶苦茶になるかもしれません」
「えええ」
冗談ではないと悟り、ワヌレイの顔が青くなる。
「じゃあどうすれば」
「まずは抜かないことです。少なくとも、焦って触れるものではございませんね」
「そ、そんなの……」
「ええ。先延ばしです」
その言葉は、ワヌレイでなくリルへ向けられていた。
ワヌレイもリルを見る。
「リル様は、私めを助けるべきか、裁くべきか、まだお決めになれない。ですので、今は抜かない。実に王らしい保留でございます」
「リル様」
「俺は、今ここでそれを抜く許可は出さない」
「……はい」
「だが、こいつを死なせるつもりはない」
「リル様!」
ワヌレイの顔が、少し上がる。
ワヌレイはマル=シレスの過去を知らない。
彼女にとって、マル=シレスは、恐ろしくはあれど、二度も自分や主君を救ってくれた恩人だった。
「若!」
トルカの声。
路地の入口に足音が集まった。
トルカ。フェリペ。ピート。アンドレイ。ジャド。
全員ではない。だが、ばらけた仲間たちが、煙と怒号の中から一人ずつ現れる。
「何があったかは、あとで聞きます」
倒れ伏す道化を横目に、トルカが駆け寄る。
「火は、三つじゃ済みません。小火も混じってる。連中、街を燃やしたいってより、人を割りたいんでしょう」
「分断か」
「こっちが無視できないものを置いて足を止めさせる。ミロの石橋と同じです」
リルは短く頷いた。
わかっている。火そのものが本命ではない。
火は人を、兵を、リル=グレスを動かす。
リルはマル=シレスを見下ろす。
ここで処断することはできない、しかし助けていいものか。
だからといってこのまま路地に捨てることもできない。
結局、先送りだった。
リルはそれを自覚しながら、命じた。
「マル=シレスを運べ。石造りで、火の届かない場所へ。鋲は抜くな」
「若」
トルカが眉をひそめる。
リルは続けた。
「傷を布で押さえろ。見張りをつける」
「見張りは私が」
フェリペが一歩前に出る。
隊の帳簿管理を任されている女兵士だった。
年はリルより少し上に見える。薄い顔立ちに丸い眼鏡をかけ、鎧の上から羽織った外套の留め具まで、左右きちんと揃えている。意思の強そうな瞳だった。
「命令と情を混同しない兵が、見張りに相応しいでしょう?」
「おや、皮肉ですか」
笑う道化のそばにフェリペは膝をつく。
工兵見習いであるピートが担架代わりの戸板を探し、アンドレイが布を裂く。
「リル様」
その時、路地の入口に、レビが現れた。片手に抜き身の短剣が握られている。
ワヌレイなどとさほど変わらない、少年の小柄な身体が煙に濡れている。
息は乱れていない。
焦げ茶の瞳は爛々と燃えている。
「西」
レビは言った。
「施療小屋。逃げ遅れがいる。負傷者と子供。火が回り始めてる」
「どこで聞いた」
「火をつけてた男が喋った」
手にした短剣の先から血が一滴落ちた。
「わかった。俺が西に行こう」
リルは即答し、それからワヌレイを向く。
「ワヌレイも俺と来い。護衛だ」
「嫌です」
「なら残れ」
「え、それも嫌です」
「なら来い」
「嫌です。わかりました」
ワヌレイは本当に嫌そうな顔をしていた。
「トルカ、元気な民を集めろ。水場と広場に回せ。ジャド、北門へ。馬を逃がせ。暴れたら人が死ぬ。アンドレイ、負傷者を選別しろ」
リルはレビを見る。
「レビ。火付け役を探せ」
「殺していい?」
「殺す前に喋らせろ」
「……順番が面倒」
「守れ」
「はい」
「ピートはマル=シレスを石蔵へ。フェリペは付き添い。鋲は抜くな」
リルは人員を指で切るように分けていった。兵士たちが、それぞれ持ち場へと動く。
「陛下未満の陛下。西へ行かれるのでしょう」
マル=シレスは、兵たちの手で戸板へ移されながら、薄く目を開く。
「そうだ」
「それは、罠でございますよ」
「黙れ」
「おや」
「おまえの言うことはもう聞かん」
マルは、ほんの少しだけ笑った。
「ええ。そうでしょうね」
その声が少しだけ低い。
リルは答えず、ワヌレイとともに走り去る。
*
フェリペは、マル=シレスを恐ろしい者だとは思っていなかった。
脅威ではある。記録すべき異物であり、管理すべき危険物であり、できれば一人で近づきたくない相手ではある。
だが、恐ろしいとは少し違う。
強大すぎるものは、下にいる者から見れば理解できない。蟻から見れば、人間は災厄だ。だが人間は、蟻に対して常に悪意を持っているわけではない。
マル=シレスも、そういうものなのだと考えていた。
だから、自分は恐れていない。
そう分類していた。
『道化を恐れなかった女』。
将来自分が回想録を書くなら題名はこれだな、と思った。
悪くない。売れそうだ。一人満足する。
そしてその認識が誤りだったとすぐに知ることになる。
石蔵の中は、外よりも暗かった。
厚い石壁が火の音を鈍らせている。外では怒号も鐘も悲鳴も鳴っているはずなのに、ここではそれらが水底から聞こえるように遠い。
フェリペは戸板を下ろさせ、マル=シレスを石床の上に寝かせた。敷物を探す時間も惜しい。ピートが戸惑いながら上着を脱ごうとしたが、フェリペは首を振った。
「そのままで。動かす回数を増やさないでください」
「でも」
「外へ。戸を閉めてください」
ピートは不安そうに道化を見た。何か言いたげだったが、結局、扉の外へ出て、自分の仕事へと向かった。人手が足りなかった。
重い扉が閉まる。
フェリペは内側から閂を落とした。
残ったのは、フェリペとマル=シレスだけだった。
膝をつき、布を畳んで傷口の周囲を押さえる。境界鋲には触れない。触れないように、慎重に血だけを受ける。
道化は仰向けに横たわっている。白い衣装は裂け、泥と血で汚れていた。犬耳の片方には土がつき、額の傷から流れた血が髪に絡んでいる。
優雅だった姿はまったく、見る影もない。
だが、その口元だけは、まだ舞台の上にいた。
「痛みは」
「ございます」
「出血は」
「増えております」
「意識は」
「あります」
「こちらの問いにだけ答えてください」
「善処いたします」
「善処ではなく、実行してください」
マル=シレスは小さく笑って、すぐに咳き込む。血が喉に絡んだ。
フェリペは眉を動かしたが、声は乱さなかった。
道化は一度口を閉じる。
石蔵の中に、外の鐘の音が遠く響いた。
火の音。人の声。扉の向こうを走る足音。
そのすべてを聞きながら、マルは考えていた。
おかしい。
何故、自分は生きているのか。
そして、思い至る。
気づく。
ここからどうにか出なければならない。
術なしで。
フェリペを見る。
「……フェリペ様」
「喋らないでください、と言いました」
「リル様は負けます」
妙な確信を感じる声に、フェリペは眼鏡の奥で瞠目した。
「喋ってください。根拠を」
「素早い方針転換、たいへん結構でございます」
──この者は、聞くだけのつもりで心に入り込みます。
そんなトルカの教訓は、残念ながらあまり顧みられない。
*
西の空が、煙に夕陽が混じって赤く滲んでいた。
リル=グレスは、細い路地を抜け、施療小屋へ続く通りへ出た。
背後で、ワヌレイが短く息を吐く。
「リル様」
「いるか」
「……人の声は、します」
ワヌレイは剣を握り直した。
小柄な身体に鎧が重そうに乗っている。いつもなら、その重さに文句の一つもこぼすところだった。
施療小屋は、通りの先にあった。白い壁。低い屋根。薬草を干すための棚。その周囲に、火はまだ回っていない。
おかしい。
火が近く、逃げ遅れがいるという話だった。
負傷者と子供が閉じ込められている、と。
だが、通りは静かすぎた。
そのかわりに気配がある。
人が潜み、こちらを待っている気配が。
「り、リル様、これ」
「罠だ」
「ですよねえ……」
道化の言った通りだった。
それを認めること自体が、舌に苦かった。
「下がるな」
「下がりたいです……」
ワヌレイが半泣きの声で答えたその時、施療小屋の影から、男が出てきた。
背は高くない。肩と首が厚い。短く刈った黒髪には白いものが混じり、顎から口元へ続く髭はきちんと整えられている。胸に薄い鉄板を仕込んだ昏い革外套。腰には剣。胸元には、オルディアス王家の印章を吊った鎖。
ディマビオだった。
「来たか」
男の声に、驚きはなかった。
リルは剣を抜いた。
「ディマビオ。火をつけたのはおまえか」
「ああ。私が命じた」
ディマビオは、通りの奥を一瞥した。
焦げた匂いが風に乗ってくる。
「街は燃えやすく、人は動きやすい。ミロの石橋。ティンドレット北門。徴発兵。逃げ遅れ。負傷者。子供。貴様はいつも、無視できないものの前で止まる。くだらんな。それで人を救った気になっている」
ワヌレイが歯を食いしばる音がした。
「くだらなく……」
「何か言ったか?」
「くだらなく、ないです」
「似合いの配下だな」
冷たい眼差しがワヌレイを見下ろした。
「おまえの狙いは俺か、ディマビオ」
リルのその声に、ディマビオが片手を上げる。
施療小屋の裏から、王家兵が二人出てきた。その間に小さな影。
「!」
マヤ。
以前、ティンドレット南街道で王家兵に脅されていた少女。施療院へ運ぶ荷を奪われかけていた、あの子だった。
今は両腕を後ろで縛られ、喉元に短剣を当てられている。
マヤはリルを見た。
喉は引きつり声は出ない。
ワヌレイが小さく息を呑んだ。
「笑えるな。善行を積むほどに弱みが増える」
蔑むような冷たい声。
動けない。
マヤは、特別な存在ではない。
家族でも仲間でも配下でもない。
ティンドレットの民のひとりに過ぎない。
名を知っているだけの、助けたことがあるだけの少女だ。
「刃を離せ」
「では、剣を捨てろ」
「捨てれば、火は止まるのか」
「約定術師ではないのでね。火に聞くがいい」
「施療小屋の者は」
「いるかもしれん」
「嘘か」
「確かめに来たのは貴様だ」
リルは奥歯を噛んだ。
マヤを助けるための札はここにない。自分が、剣を捨てるしかない。
剣を捨てれば、自分は捕らえられる。
自分が捕らえられれば、火を止める者はいなくなり、指揮系統は失われ、全てはご破産になる。
だが、目の前で少女が殺される。
──目の前の一人くらいなら助けられる。
──その一人にとっては、全部だろ。
こんなときに、兄の言葉が頭の中に響いた。
「リル様」
ワヌレイの声がわかりやすく震えていた。
「どう、しますか」
リルは答えられない。
「遅い」
王家兵の短剣が、マヤの喉に少し沈み、細く血の筋が流れる。
「!」
「動くな!」
ワヌレイが半歩踏み出し、リルが止めた。
前を見る。
ディマビオを。
マヤを。
燃える街を。
自分が助けられないものを。
そして、剣を握り直した。
「……ワヌレイ」
「はい」
「俺が前へ出る」
「はい」
「おまえは、遅れるな」
「はい……?」
ワヌレイが理解するより早く、リルは走った。
マヤではなく、ディマビオへ。
見捨てた。
マヤを。
ワヌレイが息を呑む。
ディマビオは眉一つ動かさない。
「やはり」
通りの左右の屋根から、影が落ちた。
灰色の布で金具を殺し、靴音を消し、顔を隠した者たち。
マル=シレスを襲った、あの手際の匂いがした。
帳外吏。
「──あ」
気づくべきだった。
ディマビオのような男が姿を晒したのが、そもそもおかしいことに。
自分を囮にすることで、こちらの動きを単調にさせたのだ。
読みやすくするために。
一人がリルの膝を狙う。
一人が手首を狙う。
一人が背後へ回る。
剣を凪ぐ。間に合わない。
刃が、リルの脇へ入る。
その前に、ワヌレイが飛び込んだ。
「嫌です!」
何への返事だったのか、彼女自身にもわからなかった。
リルを死なせること、
マヤを見捨てたこと、
罠へ飛び込んだこと、
自分が死ぬこと。
全部だった。
どの命が最も優先されるのかなど、愚かなワヌレイにはわからない。
ただ、そうするべきだと勝手に身体が動いて、リルと刃の間に入る。
帳外吏の短剣が、鎧の隙間を正確に突いた。
小さく短い声。
肉が破れる音と息が詰まる音。
ワヌレイの喉から、変な声が漏れる。
「……あ」
彼女の身体が傾いた。
「ワヌレイ!」
リルは、ワヌレイを抱き起こしていた。
抱くべきではなかった。
剣を持つ手が塞がる。
視界が落ちる。
血で柄が滑り、乾いた音を立てて剣が落ちる。
手が伸びる。
倒れたワヌレイへ。
自分の名を呼んだ兵へ。
温かい血が、腕に広がり染みていく。
ワヌレイは目を瞬く。
何が起きたのか、まだわかっていない顔だった。
「り、る、さま」
「喋るな」
「すみ、ません」
「喋るなッ!」
「……いやです、あたし」
血が口端から溢れて落ちる。
「動くな、リル=グレス」
ディマビオの声がした。
帳外吏の冷たい刃が、リルの喉元に置かれている。
ワヌレイは石畳に倒れ、血を広げていた。
「なるほど。そこで止まるか」
低い声だった。
勝ち誇るには静かすぎ、裁くには俗っぽい。
「娘一人では止まらなかった。だが、足元の兵なら止まる」
「……おまえ」
「責めてはいない。近い命ほど重い。人間なら当然だ。だが、王を目指すには不適だな」
ディマビオは顎髭を撫でた。
「そして、判断を誤った」
「何、を」
「貴様は選んだつもりで、選ばされたにすぎん。その時点で勝ちは消えたのだ。引けばよかった。娘を捨てるなら。兵を集め、火を見て、道を探し、私を後で殺せばよかった」
「……」
「だが貴様は来た。捨てた娘の代金を、すぐ私の首で払おうとした」
血まみれのワヌレイを見下ろす。
歯噛みする。反論できない。
そうだ。引くべきだった。
本当にマヤを捨てるなら、徹底して冷徹に振る舞うべきだった。
捨てた一人を勝利に変えるために、冷たく、遅く、正確に動くべきだった。
だが、走り、その代償を支払った。
耐えられなかった。
罪が罪のまま結果をもたらさず居座り続ける時間に。
「若いな。貴殿は犬星の価値を知らん。命令を破られ、救われ、怒り、なお使う。まるで、拾った刃を握って血を流す子供だ」
ディマビオの声は、叱責に近かった。
父が未熟な息子へ言うような、古兵が新兵へ言うような、官吏が無能な管理者へ告げるような声だった。
「犬星は、情を向ける相手ではない。管理するものだ。縛る。封じる。使う。必要なら壊す。そうできぬ者が持てば、国が焼ける」
「おまえが焼いているんだろうが」
「ああ、そうだ。私は焼いたものの使い道を知っている」
ディマビオは、平然と認めた。
「リル=グレス。貴様は人を惹きつける。村も、兵も、領主も、神殿も、いずれ貴様に集うかもしれん。そこは認める」
「……」
「だが、人を率いる才と、犬星を扱う才は別だ」
ディマビオは、落ちた剣を見た。
「犬星は兵ではない。民でもない。臣下でもない。貴様の言葉に従っているのでもない。貴様の甘さの上に居座っているだけだ」
「何が言いたい」
「回収する。私が」
リルの眉間に、深い皺が刻まれた。
「犬星は、貴様のものではない」
ディマビオは言った。
「連れて歩き、命じ、怒り、救われているだけだ。所有とは呼ばん」
「なら、おまえのものだとでも言うのか」
「少なくとも、貴様よりは上手く扱う」
敬意も熱もない、ただ、数字を数えるような声。
リルはディマビオを睨みつける。
「犬星が何であれ、使い道はある。殺せるなら殺す。縫い止められるなら縫い止める。売れるなら売る。従わせられるなら従わせる。国を動かせるなら、国を動かす」
「道具だとでも」
「違うのか」
ディマビオは即座に返した。
「道具ではないと思っているのか。なら、なぜ戦場に連れている」
思い浮かぶ反論はいずれもワヌレイの血の熱に触れた途端に、形を失った。
「貴様は責任感と罪悪感の中で抱えて腐らせる。私は違う。価値を測り、勝ちに換える」
反論できない。
今、マル=シレスがいれば、と思ってしまった。
ワヌレイが深手を負うことはなかった。
暗殺者たちだって簡単に退けられただろう。
現実は、処刑することも、鋲を抜くこともなく、中途半端に判断を先送りにしただけ。
さっき落とした剣が、石畳の上で鈍く光っていた。
すぐそこにある。
だが拾えない。
ワヌレイは足元で血を流している。
マヤはまだ刃を喉に当てられている。
帳外吏の弩は、リルの胸と喉と膝をそれぞれ別の角度から捉えていた。
ディマビオは、落ちた剣を見た。
それから、リルを見た。
「せめてもの慈悲だ、リル=グレス。
未満の王として果てるか、少年として死ぬか。選ばせてやる」
リルの指が、血に濡れた石畳の上で震えた。
「兵を捨てて剣を拾え。拾えば、反逆者リル=グレスとして殺してやる。貴様の名は反乱の首魁として王家の帳面に残る」
ディマビオの視線が、ワヌレイへ落ちる。
腕の中で、少しずつ温もりを失っていく。
水を失った苗のように。
「さもなくば、そのまま兵を抱き続けろ。それならば、ただの若造として殺してやる。王になり損ねた少年が、仲間の血に膝を濡らして死んだ。それだけだ」
火が鳴った。
「選べ」
まだ。
まだ、なにかここから取れる手があるはずだ。
己を奮い立たせようとした。
己の傷は浅い。ワヌレイはまだ息をしている。マヤも、まだ殺されてはいない。
なら、終わってはいない。
終わっていないはずだった。
だが、心の奥底で認めてしまっていた。
古砦の時と同じだった。
周囲がゆっくりと暗く沈んでいく。音が遠のく。指先が冷えていく。
自分の身体が、思考に先んじて敗北を理解している。
負けだ。
戦略で負けた。
火で救うべきものを散らされ、兵を割られた。
戦術で負けた。
人質を無視するところまで読まれ、その先に刃を置かれた。
思想で負けた。
小より大を取ると決めた自分が、仲間の冷えゆく身体を前に我を失っている。
完全敗北だった。
剣は拾わない。
ワヌレイ。
俺のせいだ。
俺が弱かったせいだ。
許せとは言わない。
(でも……おまえは俺を、裁いてはくれないだろうな)
「死ね」
宣告が下る。
その時。
遠くで、金属音が鳴った。
甲高い音。鐘でも、剣戟でもない。
もっと異質な、世界の縫い目を爪で引っかいたような音。
帳外吏の一人が、初めて顔を上げた。
ディマビオもそちらを向く。
路地の向こう。
煙の中に、二つの影があった。
淡い茶色の髪をきっちり束ねた女兵士が、丸い眼鏡の奥で、顔色を青くしながらも、もう一人の──血に濡れた犬耳の道化を支えていた。
マル=シレスが、フェリペに肩を借り、片足を引きずりながら立っていた。
脇腹の境界鋲に、白い手袋の指をかけて。
「ディマビオ様」
鋲に貫かれ、今は不能の道化が笑った。
「勝負を、汚しに参りました」




