#7 境界鋲
最初の一撃──細い投げ針は背後から来た。
マル=シレスは避けない。
針は道化の首筋に届く直前で、いつものように、空中にぴたりと止まった。
そして、そこで止まったまま、小さく震えた。
己に塗られた毒──常人なら、首筋に刺さればその時点で声も出せずに膝をつく毒──を、恥じるかのように。
「ふむ。悪くございませんね。山蜥蜴の胆、夜鴉草、あと少々、安物の蒸留酒。調合師は二流ですが、お仕事ぶりは上等です」
次の瞬間、路地全体が動いた。
正面から二人。
背後から一人。
屋根の上から弩兵が二人。
左右の路地から短剣を持った者が二人。
狙いは帳面を埋めるような正確さだった。
喉。
心臓。
膝裏。
手首。
眼球。
「よく練習なさいましたね」
マル=シレスはさも感心したように息を吐いて、何もしなかった。
正確には、受けなかった。
投げ針には毒であることを恥じさせ、弩の矢には軌道を忘れさせ、膝裏へ来た刃には石畳の目地を踏ませた。手首を狙った短剣は、白い手袋の一寸手前で、礼儀を思い出したように止まる。
「王家の差し金で?」
「……」
「あるいは、私め個人へのご用命でしょうか。だとすれば光栄です。道化も、ついに人気商売らしくなってまいりました」
「…………」
「しかし無言とは感心いたしません。闇討ちには闇討ちなりの会話がございます。刺す側は怨嗟を、刺される側は驚きを。そこを怠ると、ただの肉体労働になってしまう」
すべての攻撃が通らない。しかし数が──意味が多い。
毒。刃。矢。鉤。目潰し。足止め。背後からの二撃目。
それぞれが、別々の凶器として、別々の死に方をマル=シレスへ差し出してくる。
「忙しいですね」
気づく。殺意が薄い。手を抜かれているわけではない。だがどこか、どのように対応するか、観ようという問い掛けのような匂いがある。ならばその次に来るものとは?
それに辿り着く前に、石材の影から、灰色の外套をまとった男が出た。
痩せた、燃え尽きた後の炭のような目をした男。
手には剣ではなく、古びた釘のようなものを持っている。
道化の表情が、初めて少しだけ変わった。
「……おや」
その瞬間を、刺客たちは待っていた。
背後からの鉤刃が白い手袋を狙い、屋根上の弩が右目を狙い、正面の短剣が喉を狙う。
道化はそちらを逸らした。逸らしてしまった。
その一瞬のあいだに、男が踏み込む。
疾い。
道化はつい、いつものように釘へ交渉を試みる。
が、止まらない。
凶器としての意味を奪えない。
その得物は、そもそも殺すためのものではなく、留めるための実務的なものだった。
釘が道化の脇腹に吸い込まれる。
刃物ですらない錆びた鉄片が、白い衣装を貫く。
赤い血が滲んだ。
マル=シレス自身も、自分の脇腹を見た。
ゆっくりと。
まるで芝居の途中で、小道具が予定外の動きをしたのを確認する役者のように。
「……ああ」
道化は言った。
声は静かだった。
「これは」
鉄片が、内側で鳴っていた。
世界そのものが歪むような、けたたましい音がした。
マル=シレスの魔術を、いや存在を、縫い止めている。
その音が響いた瞬間、刺客たちの気配が変わった。
もはや用はないとばかりに、音もなく路地の影へ消えていく。
そうして灰色の外套の男と、マル=シレスだけが残される。
「境界鋲。懐かしい」
「化け物」
それを刺した男が、初めて口を開いた。
「はい」
「その姿のまま、死ね」
「これはこれは」
マル=シレスは、心底楽しそうに微笑んだ。
「たいへん趣味がよろしい」
返答の代わりに、男の短剣が道化の背を裂いた。
今度は止まらなかった。
マル=シレスの身体が揺れる。
男はさらに肩を切りつけ、白い手袋ごと手の甲を踏み抜いた。刃も靴も、もう道化を避けない。世界が、彼をこの場の痛みに差し出していた。
道化は崩れ落ち、片膝をつく。
震える手が、突き刺さった釘──境界鋲を抜こうとする。抜けない。
背に、蹴りが叩き込まれる。倒れる。頬が地面に触れる。冷たく、ざらついている。石の隙間には泥があり、泥の中には藁屑と魚の鱗と、誰かが吐いた酒の臭いが混じっていた。
犬耳の道化は、地べたに這いつくばった。
「……ふ」
笑い声が漏れた。
「痛い、ですねえ」
マル=シレスがつぶやくその声には、驚きと興味があった。
恐怖ではない。
「痛い。重い。息がしづらい。これは……なるほど。なるほどなるほど」
灰色の外套の男が、彼の髪を掴んで顔を上げさせた。
白い顔には泥がついて、唇の端から血が垂れている。
それでも、道化は笑っていた。
「何がおかしい」
男が言った。
「いえ」
マル=シレスは、血の混じった息で答えた。
「私、いま、とても惨めですね」
「そうだ」
刺客の顔が歪んだ。
「ええ。地べたに這いつくばり、服は破れ、犬の耳は泥まみれで、白い手袋も台無し。おまけに、あなたに殺されようとしている」
髪を掴む手に力が入る。
「黙れ」
「ですが」
マル=シレスは、赤紫の瞳を細めた。
「これが存外、楽しい」
男は彼の顔を石畳へ叩きつけた。
鈍い音がした。
マル=シレスの額が切れ、血が泥に混じる。
それでも、笑い声は止まらなかった。
「ふ、ふふ……ああ、よろしい。実によろしい。見下ろす側ではなく、見下ろされる側。床の冷たさ。息を吸うたび、泥の臭いがする。手を伸ばしても、空が遠い」
道化はほんの少しだけ這った。
掌を石畳につき、肘で身体を引きずる。
異様な光景だった。
マル=シレスは逃げようとしているのではない。
這うという行為そのものを味わっている。
頬を泥で汚し、傷口を石に擦り、乱れた犬耳を震わせながら、彼は楽しんでいた。
「空洞だ」
刺客が言った。
マル=シレスの動きが止まる。
「貴様は、空洞だ。苦しみも、恥も、死も、全部遊びにする。何も入っていないから、何でも楽しめる」
忌々しげな声。
マル=シレスは、ゆっくりと顔を上げ、泥と血に濡れた顔で、男を見上げる。
泥のついた革底。擦り減った踵。爪先に付着した砂粒。男の靴裏が、顔のすぐ近くにあった。
地面から見上げる人間の影は、思いのほか大きい。
「空洞」
マル=シレスは反芻した。
「ええ。そうでしょうね」
「否定しないのか」
「中身があれば、否定したかもしれません」
男は顔を歪めた。
「ふざけるな」
「ふざけております」
マル=シレスは微笑む。
「ですが、あなたの言葉は正しい。私には芯がない。守るものも、戻る場所も、怒るべき正義も、泣くべき記憶も、焦がれる未来も、ほとんどございません。だから、世界がどのように転がっても面白い」
咳き込む。小さな赤が、石畳に散る。
「王が竜を討つのも面白い。民が王を讃えるのも面白い。正義が力に変わり、力が快楽に変わり、快楽が祈りに変わるのも面白い。私が地べたを這うのも、また面白い」
「狂っている」
「よく言われます」
マル=シレスは嬉しそうに頷いた。
男は境界鋲の頭を踏みつける。
更に深く道化の身体に沈みこんで、その喉から短い息が漏らされる。
「どこで拾ったのです。この玩具を」
「おまえを殺すために、二十年探した」
「二十年」
マル=シレスは感心した。
血に濡れた唇で、ゆっくりとその数字を転がした。
「二十年でございますか」
男は答えない。
「春が二十度。冬も二十度。その間、飯を食い、眠り、歳を取り、誰かと話し、誰かを憎み、あるいは笑うこともできたでしょうに」
道化は心底不思議そうに男を見る。
「その全てを、私めのために?」
その問いは、挑発ではなかった。
少なくともマル=シレス自身の中では。
「貴様のためではない。貴様のために二十年など使っていない」
憤りに声が低くなる。
「では、どなたのために?」
なお丁寧に問うた。
「井戸だ」
男は言った。
「貴様は、井戸を底なしにした」
井戸。記憶を手繰り寄せるように、道化は視線を彷徨わせた。
「覚えていないだろう」
男は言った。
「おまえは覚えていない。砦の名も、そこに井戸があったことも、そこにいた者の顔も。鮮やかな勝利の端で、誰かが死んだことも」
「申し訳ございません。心当たりが多く」
「マル=シレス!」
その瞬間、男の靴がマルの口元を踏みにじった。
歯が折れる音がした。
「生後十七日の赤子」
「?」
「まだ首もすわっていなかった。泣く力も弱かった。私は妻の代わりに、フェオを抱いて、湯を沸かす水を汲みに行った。その日は、井戸がなかった」
照合できた。
二十年前。北西の砦。ある諸侯の依頼。落ちない砦。長引く包囲。
井戸の消失。
兵糧攻めより早く、焼き討ちより綺麗で、突撃より死者が少ない。
そういう判断だった。
そして砦には、戦にまるで関係ないものも暮らしていた。
「わかっているさ」
男は言った。
「砦は落ちた。包囲は短く済んだ。焼き討ちより死者は少なかった。飢えで子供が泣き、病が広がり、兵が突撃して肉になるよりは、よほど綺麗な終わり方だったのだろう。そういう話は、二十年のあいだに何度も聞いた。戦には、民の犠牲はつきものだ、とも言われた。誰も、何も失わずに済んだ側の連中に、だ!」
笑っていた。
男は、犠牲が少なく済んだという言葉を憎んでいた。
少ない方に、自分の娘が入っていたからだ。
マル=シレスを憎んでいた。
そして、物語の端で、誰にも顧みられぬ死が起こることを憎んでいた。
「私の指は、大穴の端にかかった。フェオは、声もなく、落ちていった」
「申し訳ございません」
「何?」
「砦は存じ上げておりましたが、あなたとあなたの息女には興味ございませんでした。いえ、正確には、興味を持つ機会がございませんでした」
「だろうな」
男はマルの腹を蹴った。
「貴様は、フェオを殺したかったわけではないのだろう」
男は言った。
「ええ、害する意図は、ございません、でした」
うまく喉が動かない。声が途切れ途切れになる。
「だから殺す」
「それは、少々、理屈が逆では」
「貴様はフェオを憎んでいなかった。狙ってもいなかった。踏み潰す価値すら見ていなかった。ただ、井戸を消した。そして、そこに落ちたものには興味を持たなかった。だが、面白かったのだろう。井戸が消えた砦は。水場を失った人間どもは。底なしの穴を覗き込む者たちは。面白かったのだろう」
マル=シレスは、ほんの少しだけ沈黙した。
「おそらく」
その一言で、男の顔が歪む。
振り下ろされた踵が、道化の腕を折った。
「では」
マル=シレスは、転がされた泥の中で言った。
その声はかすれ、血が喉に絡んでいる。
「私は、どうすれば償えますか」
男は、一瞬、動きを止めた。
「……何だと?」
「あなた様が仰る通り、私は踏みつけにしたのでしょう。名も知らず、顔も知らず、物語の端で消したのでしょう。ならば」
マルは、ゆっくりと顔を上げた。
泥に濡れた犬耳が、力なく垂れている。
「どうすれば、償えますか、と尋ねているのです」
命乞いか。男は最初そう思った。
この化け物も、ようやく死を恐れたのだと。
地面に這いつくばり、血を流し、境界鋲に縫われ、人間の刃が届く身体になって、ようやく生にしがみついたのだと。
だが、違う。
マル=シレスの目にも声にも恐怖はなかった。
軽侮も、嘲笑も、愉悦も、薄れていた。
そこにあったのは、ただの問いだった。
どうすればよいのか。
それを、本当に訊いている。
「……貴様」
男の声が震えた。
「本気で言っているのか」
「この場にふさわしい程度には、ふざけております」
マルは、弱く微笑んだ。
「ですが、問いは真です」
男は、その瞬間、理解した。
こいつには何も届かないのだと。
奇しくも、罰することができないと悟った、リル=グレスのように。
「償う? 貴様が?」
男は笑った。笑いには聞こえない笑い声で。
「ええ、たとえば」
血の混じった息で、道化は続ける。
「補償をしましょう。望むものは何でも出しましょう。お金ですか。土地ですか。名誉ですか。慰霊碑を立てましょうか。誰もがあなたの娘の名を忘れないように。ああ、即物的なものはお気に召しませんか? 私めが今後、あなた様の命じる数だけ人を救うという形もございます」
あるいはそれは道化なりの誠実さだったのかもしれない。
男の顔から色が抜けていく。
「ただ命を差し出すよりは、この道化めを使われるほうが、少しは釣り合いがとれると思うのですが。難しいでしょうか」
男は道化の髪を掴んだ。泥のついた顔を無理やり上げさせる。
「不可能なんだよ」
奈落の底から響くような声。
「貴様は、償えない。悔いることもできない。泣くこともできない。奪ったものの重さを、自分の腹の中に沈めることもできない」
「……そうかもしれません」
「そうかも、しれません?」
「私は、空洞ですので」
その言葉で、男の中の何かが折れた。
あるいはようやく真っ直ぐになった。
「なら、殺すしかない」
どこか澄んだ声で、男は短剣を抜いた。
「なるほど」
血に濡れた唇が、かすかに笑う。
「それで、あなた様の二十年は、終わりますか?」
男は答えない。
「では、どうぞ」
刃が落ちる、その寸前、路地の奥から黒い影が走った。
剣閃が月明かりを裂き、男の短剣を横から叩く。
鋼が鳴った。
「そこまでだ」
リル=グレスだった。
*
男は乱入者──リルを睨めつける。
「いつからいた」
「井戸の話から」
マル=シレスが、泥の中でわずかに目を動かした。
「それはそれは。陛下未満の陛下、盗み聞きとは少々、品位に欠けますね」
「黙っていろ」
リルは道化を見ない。
見ないように努めた。
見てしまった。
血まみれで、泥に伏したマル=シレスを見てしまった。白いはずの衣装は裂け、血と泥を吸って重くなっている。犬耳は濡れた布のように垂れ、額から流れた血が片目の縁を赤く汚していた。白い手袋の指は震え、脇腹に打ち込まれた鉄片の周囲だけ、肉が世界に縫い止められたように歪んでいる。
痛々しい。
そう思った瞬間、リルは自分とマル=シレスに腹が立った。
痛々しい、だと。
こいつが何をしてきたのか、いま聞いたばかりではないか。
井戸を消し、赤子を落とし、父親の二十年を奪った怪物だ。
殺すべきだ。
合理で言えば、そうなる。
「止める資格があるか、考えていた」
「これはおまえの話ではない」
「そうだ」
リルは答えた。
「その井戸を消させたのは、俺ではない。だが、俺もそいつの力で勝ってきた」
男の目が、さらに暗くなる。
「リル=グレス。知っているぞ。今のマル=シレスの飼い主。同じ穴の狢が、今さら何を止める」
「終わらせるな」
「何を」
「そいつが、死ねば済むと思っている」
男の奥歯が鳴った。
「他にあるとでも言うのか。復讐は無意味だとでも、説教するつもりか」
「違う!」
胸の奥で、何かが腐るようだった。
弱者が踏みにじられない世界を作る。
そのために力を借りた相手が、かつて弱者を踏みにじっていた。
その証人が、目の前にいる。
「まだ、ある」
何も思いついていなかった。あると思いたかっただけだ。
「名前は何だ」
「レネヴェグ。フェオの父親」
「帳面を」
口が勝手に言葉の形を作る。
「帳面を作る。こいつに、こいつが奪った命、踏みにじった弱者のことを、覚えさせる」
己の息が荒い。
「何を奪ったのか。何を踏みつけにしたのか。それを理解させる。理解させて……」
リルは、自分の声が震えているのを聞いた。
「私の娘を、紙面の行にする気か?」
「それは」
「今殺せ」
男──レネヴェグは吐き捨てるように言った。
奇妙な鉄片が、道化の身体に刺さり、彼の不思議な力をかき消している。理屈はわからないが、それだけでマル=シレスは動けない。今なら殺せる。今殺せば、これから先、道化に消される井戸はない。底のない穴へ落ちる赤子もいない。
「それが一番いい。貴様もわかっているはずだ」
「……」
「リル=グレス。グレス家の高潔な次男坊。中央の横暴を許せず立ち上がった義憤の若君。その化け物を傍に置いたのは、危険だからだろう。放てば誰かが使う。なら殺せ。ここで殺せ。今なら殺せる」
リルは答えられなかった。
「できないのか」
レネヴェグは笑った。
「使いたいからか」
「違う」
「違わない。貴様も同じだ。危険だから傍に置く。使えるから殺さない。そう言い換えただけだ」
「違うと言い切れるほど、俺は綺麗ではない」
「なら退け」
「退かない」
「なぜだ」
「自分の都合で、使い倒して、用済みになったら、危険物として処刑する。そんなことは」
「危険物だとわかっているなら、殺せ! 今ここで!」
びく、とリルの身体が強張る。
「なぜ殺せない」
「それは」
言い返せぬまま、泥に転がるマル=シレスに、視線をやってしまう。
道化が何かを言おうとしていた。
「り、ル……様」
リルは息を呑んだ。
声が掠れている。それは人間の苦痛の反応に似ていた。
傷つき、血を失い、喉が潰れ、息が足りず、うまく声を作れない者の声に聞こえた。
だが違う。マル=シレスは、人間のように傷ついているのではない。
あの奇妙な鉄片に縫い止められ、肉体の働きが狂い、声を出す器官がうまく動いていないだけだ。痛みも、血も、呼吸も、彼にとっては人間と同じ意味を持たないはずだった。
そう思いたかった。
それなのに、掠れた声は、ひどく痛々しかった。
そして腹立たしかった。
あれだけ、全能の悪魔のような顔をしていたのに、なぜ今、人間のように苦しむ姿を見せる?
明日も、明後日も。この道化は忌々しくも自分をからかうのだと思っていた。陛下未満の陛下、と呼び。正義の匂いが濃すぎる、と笑い。苦しむ自分の足元に、さらに正確な言葉を置いていくのだと思っていた。
慰めてくれたわけではない。
救ってくれたわけでもない。
ただ、逃げようとするたび、もっと深いところから名をつけてきた。
救いではなく、苦しみの形で隣にいた。
その声が、いま、掠れていた。
「惜しいのだろう。血を流したその化け物が」
「な」
レネヴェグの声が低くなる。
「違う」
「なら殺せ。今ここで。貴様の手で」
「それは」
「貴様は理屈を並べている。帳面。償い。理解。処刑。どれも立派な言葉だ。だが、剣は私へ向いたままだ」
リルの翠の瞳孔が狭まる。
「その化け物を守っている」
「違う」
「血を流した途端、怪物が人の形に見えたか。掠れた声を聞いて、哀れに思ったか。明日もその口で、自分の名を呼んでほしいのか」
唇がわなわなと震える。何も言い返せない。
「リル=グレス。貴様は、化け物に情を移した子供だ」
「……違、う」
鉄槌で頭を殴られたような気持ちになった。
ぐにゃ、と視界が歪むのを感じる。
まっすぐに立っていられない。
俺が。
こいつに。
情を。
そんなことが。
そんなことが、あるわけ、ない。
「…………」
レネヴェグは、リルの顔を見た。
剣を握り、王の言葉を真似、罪と裁きと帳面を口にしている。
立派な、ただの子供。
フェオが生きていれば、この男とそう変わらぬ年頃だったのだろう。
「哀れな」
吐き捨てるように言う。
「何を……ッ」
リルの剣を握る手は、レネヴェグへ向いたままだった。
そして、レネヴェグの短剣は、まだマル=シレスへ。
その均衡を破ったのは、路地の入口から転がり込むように現れた小柄な影だった。
「若様!」
ワヌレイだった。
息を切らし、黒髪のポニーテールを乱している。顔は青ざめていた。
「火です!」
リルは振り向かなかった。
「どこだ」
「南の倉庫通りです! あと、東の酒場裏! 北門近くの馬小屋も煙が出てます! たぶん、同時です! これ、普通の火事じゃありません!」
ワヌレイはそこで、泥の中の道化を見た。
「……へ、マル様?」
情けない声だった。
マル=シレスは、血に濡れた唇を動かした。
「ワヌレイ様。こんばんは。たいへん、よい夜ですね」
「よ、よくないです! 何ですかそれ! 死ぬんですか!? 死なないでくださいよ、そういう死に方する人じゃないでしょう!」
「分類にご配慮いただき、光栄でございます」
レネヴェグは呆然としていた。
「知らない」
短剣がわずかに下がった。
「私は、火の話など聞いていない」
「でしょうね」
泥の中から、マル=シレスは答えた。
「聞かされていたなら、あなた様の殺意に、余計な匂いが混じります。復讐は、純度が高いほど、使いやすい」
「使う……?」
「ええ。私めを殺せれば上々。殺せずとも、しばし術を封じられれば足りる」
マルは血の混じった息を吐いた。
「ディマビオ様は、それを合図に火を放ったのです」
愕然とした様子で、レネヴェグは、煙と火の方角を見た。
そこには、井戸の底ではなく、火の中へ消える者たちがいた。
名も知らぬ誰かの子がいた。
「若様!」
ワヌレイは泣きそうな顔でリルを見た。
「命令をください。みんな、若様の命令を待ってます。火が広がります。人が、まだ中にいます」
リルの剣先が、わずかに揺れた。




