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#6 刺客、あるいはティンドレット客分滞在中における外世界由来存在マル=シレスの管理不能性確認記録

 ティンドレット北門前の戦いから、数日が経っていた。

 王家の徴発部隊は退けられ、倒れた兵は運ばれ、割れた石畳には新しい土が詰められた。市場には恐る恐る露店が戻り、施療院にはまだ負傷者のうめき声が残っている。

 リル=グレスの一党は、フォルク領主の客分として領主館に置かれていた。


 温かい寝床と食事と薬を与えられ、傷を癒やす兵がいた。領主側の書記や兵に混じり、徴発部隊が残した混乱の後始末に手を貸す兵もいた。奪われた荷。壊れた橋。逃げた荷運び。負傷者への補償。ティンドレットは勝利の余韻よりも、勝利の後に残された仕事で満ちていた。


 夕方過ぎ。


「……来ませんねぇ」

 領主館の広い客間で、ワヌレイは椅子に深く沈み込んでいた。


 卓上には、冷めた肉汁と、硬い洋餅パンと、薄い葡萄酒が置かれている。

 ワヌレイはさっきから、食べる、溜息をつく、扉を見る、また食べる、という動作を繰り返していた。

 

「来ねえな」

 トルカは壁際に立ち、窓の外を見ている。


 別に荷馬車や待人の約束があるわけではない。

 追手である。


「変じゃありませんか。街道でも北門でもあれだけやって、徴発隊も追い払って。普通、来るでしょう。怒った人たちが。いっぱい。道でも間違えたんですかね?」

「なわけねえだろ」

「まあ、来ないなら来ないで、その、ワヌレイとしては非常にありがたいというか、できればこのまま永遠に道を間違えていてほしいというか」

「何なんだろうな。手に負えねぇと判断したか──それとも、確実に始末する策を練ってるか」

「考えたくないですねえ……」


 ワヌレイは葡萄酒を一口飲み、顔をしかめた。


「薄いですね」

「おまえ、濃い酒飲めるのか?」


 トルカは訝しげな視線を向けた。どう見ても酒場で年齢を聞かれる側の顔だが、そこを口うるさく咎める役を引き受けた覚えはない。他に引き受けそうな者もいなかったが。


「飲めます」

「半杯で耳まで赤くなる奴の台詞じゃねえな」

「味がわかることと、酒に強いことは別問題です。ワヌレイは大人なので」

「なら確かめに行くか」

「何をですか。どこでですか」

「大人の酒場にだ」


 ワヌレイは目を瞬かせた。


「えっ、今ですか?」

「今だ」

「お、追手が来るかもしれないのに?」

「視察ってやつだ。ついでに飲む」

「ついでの比重が大きくありませんか」

「だいたいな。いつ来るかわからん追手を気に病み続けて、やつれたところを攻められるのが一番困るんだよ。ワヌレイ、お前せっかく温かい布団で寝れてんのに、怖がりすぎて全然休めてねえだろ」

「うぅ……」

「だから俺は呑む」

「そういえば昨日おととい消えてたのもそれですか、トルカさん。ていうかなんか気がついたら、他の方々の姿が見えませんし」

「好きにしてるんだろう。ジャド、ヨハン、ケナス、ディエゴは酒場に行くって言っていたな」

「若様の武勇を、三倍ぐらい増しで語ってそうですね、ディエゴさん」

「アンドレイとバルトロメアは賭場」

「すごい。一番行っちゃいけなさそうな人たちが揃って行ってる」

「フェリペとサイモンは……わからん」

「あの人たちって“休む”って概念あるんです?」

「ピートとレビは市場に──」

「あ、若様は」

「……道化殿を部屋に呼んでる。二人で話すそうだ」

「……大丈夫なんですかねえ」

「言うべきことは言った。今さら俺たちが気をもむことじゃない」


 ワヌレイは先日の北門で怖い顔になっていた主君のことを思い出していた。上に立つ者の煩悶は、わかってやれそうにない。


「まあ、ともかく……ワヌレイたちが温かい汁やら少し濃い酒やら飲みに行っても責められる筋合いはないってことですね」

「そういうことだ。行くぞ」


 少し不安そうに、主がいるであろう上階を振り向いてから、ワヌレイはトルカと共に領主館を出た。


 *


 リル=グレスは一人でいた。


 領主館の奥に与えられた部屋は、広すぎた。

 寝台は柔らかく、壁には織物が掛けられ、窓からはティンドレットの屋根が見える。暖炉には火が入っていた。


 贅沢な部屋だった。

 だが、リルには落ち着かなかった。

 椅子に座り、外套も剣帯も解かずにいる。膝の上には、鞘に収めた剣を横たえている。

 卓上には、領主が用意した書類が積まれていた。街道の税、徴発部隊に奪われた品、壊れた橋、逃げた兵、行方の知れない荷運び、負傷者への補償。

 そして、リルが持参した帳面が広げられている。


・ミロ村付近の石橋にて、コナー含む十六名の兵と遭遇。

・当該兵はミロ村周辺より徴発された民兵と推定。

・リル=グレス、殺害を禁じる。

・マル=シレス、石橋への術を行使。徴発兵を一時的に橋面へ拘束。

・リル一党、損害なく渡河。

・徴発兵に死者なし。

・ただし、当該措置により徴発兵らに強い恐慌および屈辱を与える。

・当該兵のうち、名確認済みはコナーのみ。その他十五名、名未確認。

・コナー、リル=グレスへ激しい抗議。


・ティンドレット南街道付近にて、王家徴発兵四名と交戦。無力化。

・徴発対象となっていた住民マヤを救助。

・施療院宛ての荷を回収。

・ティンドレット北門にて、王家徴発部隊と交戦。

・フォルク領兵と共闘し、同部隊を撃退。

・リル=グレス、軽傷。

・ワヌレイ、別働隊三名を阻止。

・サイモン、楼上より射撃支援。

・トルカ以下数名、側面より弓兵列を排除。

・バルトロメア、負傷者救護に従事。

・マル=シレス、事前命令に反し術を使用。

・王家兵の行軍動作に干渉し、部隊を一時行動不能化。

・同術により、リル=グレスの死亡を回避。

・リル一党側、死者なし。


(馬鹿馬鹿しい)


 また、マル=シレスだった。

 ティンドレット北門でも、結局あの道化の術が決定的な欠けを埋めた。

 リルが前に立ち、トルカが走り、ワヌレイが泣きながら剣を振り、全員が最善を尽くしても──最後に勝敗の形を作るのはマル=シレスだった。


 便利だった。便利すぎた。

 その便利さに奥歯を噛みしめる。

 自分はマル=シレスを信じていない。

 だが、依存しているのが現状だ。

 信じてもいない相手に、命を預けている。

 国を変えると言いながら、自分ではない何かの力を借りている。

 弱者が踏みにじられる世界を変えるために剣を取ったはずなのに、今の自分は、マル=シレスという巨大な手の陰に立っている。

 そして、その巨大な手がなければ自分は死んでいた。

 二度も。


 扉が小さく鳴った。


「来たか」


 返事なく、マル=シレスが入ってきた。


 いつもの姿だった。

 上半身は侍従めいた黒の衣装。腰から下は道化の継ぎ接ぎ。足首の鈴が控えめに鳴る。白と黒に分かれた髪。左右で色の違う犬耳。


「何の御用で」

「先日の命令違反について、改めて理由を確認したい」

「帳面に記載なさるのですか? リル様が死にそうでしたので」

「俺を助けたつもりか。俺の命令より、俺の命を優先したのか」

「そう整理すると、たいへん忠臣めいて聞こえますね」

「茶化すな」

「何をお怒りで?」

「おまえは、俺の命令を聞く気があるのか」

「ございます」

「嘘だな」

「では、こう言い直しましょう。聞く気はございます。従うかどうかは、状況によります」

「それを命令違反と言う」

「はい」

「わかっていてやったのか」

「はい」

「なら、罰を受ける気はあるか」

「ございます」


 早すぎる返事に眉をひそめる。

 ある程度、何を言われるか知っているかのようにすら感じた。


「言っておくが、俺は本当にやるぞ」

「ええ」

「真面目にやれ」

「ええ、ええ、罰を受ける気はございます。謹慎でしょうか。減俸でしょうか。鞭でしょうか。あるいは、首でも刎ねてみますか」

「……」

「私めとしては、どれも一興でございます」


 胸の奥が冷えていくのを感じる。

 強がりなどではない。そうしないと踏んでいるというわけでもない。


「おまえは」


 リルは低く言った。


「自分が罰されると思っていない」

「いいえ。罰される可能性はあると思っております」

 少し不正確な言い方だった。つまりは。

「罰が、自分に届くと思っていない、だろう」


 道化は笑んだまま沈黙した。


「どうすればおまえに罰が届く?」

 敗北宣言に近かった。

「お好きなように」

「そうやって差し出すな」

「差し出しているつもりは」

 一歩近づいた。

「おまえは、殴られることまで俺のための道具にする気か」

 道化の犬耳がわずかに揺れた。

「便利でございましょう?」


 その言い方に、リルの中で何かが切れた。

 勢いよく立ちあがる。椅子が後ろへ倒れる。床に落ちた剣が鳴る。

 犬耳を持つ道化は、いつものように整った顔で、リルを見ている。

 白い手袋。赤紫の瞳。月明かりのような肌。

 薄く笑っている。


 リルはマル=シレスの胸ぐらをつかみ、拳を振り上げる。

 道化は、避ける素振りもかばう素振りも見せない。

 だが、拳は途中で止まった。


 殴れば、少しは楽になると思った。

 その澄ました顔を歪ませれば。いつもの軽口を一瞬でも止められれば。

 自分の苛立ちが、マル=シレスの頬に赤い痕として残れば。


(だが──殴って、何が変わる)


 この道化が反省するのか?

 術の行使を自重するか?

 自分が彼に救われた事実が消えるのか?

 自分に彼が必要という事実が、変わるのか?

 ただ苛立ちを野蛮な形で叩きつけることに、何の意味がある?


 それに。

 自分は知っている。

 目の前の道化は、確かにあたかも人間のように振る舞っている。

 同じ部屋の床を踏み、同じ扉から出入りし、同じ椅子に座り、同じ杯を持つ。

 しかし本当は()()

 何かはわからないが、古砦で手を取ったときに、それを本能的に理解していた。

 同じ高さで笑っているように見えて、どこか途方もない上からこちらを覗いている。

 ──山に向かって拳を振り上げることに、何の意味がある。

 

 リルの腕から力が抜けた。拳が下がる。

 命令を破られたのに、罰する手段がない。

 罰するべきなのだ。感情の問題ではない。

 

 だが、目の前の相手には、それができない。


 謹慎を命じる?

 ──この道化が部屋に留まると、本気で思っているのか。

 拘束?

 ──何で。縄でか。兵でか。鍵でか。

 処断する?

 ──弩の矢を宙で止める相手を?


 何もできない。何もできないと知っていて拳を振り上げた。

 命令を破られた王位志向者が、何もできずに立っているだけではないと、自分自身に示したかった。


(それでも俺は、次の戦場でまたこいつに命じるのか)

(道を開け。敵を止めろ。俺を助けろ。──と!)


(それの──)

(それの、何が王だ!)


 マル=シレスは、胸ぐらを掴まれたまま、ただリルを見ていた。


「殴っていただいても構いませんのに」

「……」

「私めを罰したという形が、必要なのでしょう?」

 

 誰かが息を激しく荒げている音が聞こえた。

 自分のものだということに、少し遅れて気づいた。

 殴りはしない。ただ、道化の胸ぐらを握る手に力を込めた。

 薄い布が指の中で歪み、マル=シレスの衣装から、かすかに香が立つ。

 甘く、冷たく、花とも薬草ともつかない香り。

 その場にある怒りや血の気配から、それはひどく浮いている。

 こんなときでさえ、この道化は整っていた。


「黙れ」

「はい」

「おまえを殴っても、何も変わらない」

「ご慧眼でございます」

「黙れと言った」


 道化は微笑んだまま口を閉じる。

 しかし沈黙すらも腹立たしかった。


「俺は、兵には規律を求める。命令を破れば罰する。そうでなければ、次に死ぬのは別の誰かだからだ」

「はい」

「だが、おまえには何もできない」

「……リル様」

「慰めるな」

「いいえ、たいへん正確な自己認識でいらっしゃる、と申し上げようかと」

「……………………」


 襟首を掴む腕がわなわなと震えた。


「マル=シレス」

「はい」

「俺は、おまえを使っている。おまえに使われてもいる」

「ええ」

「おまえを遠ざけるべきなのかもしれない。だが、遠ざけて──俺の知らぬところで、誰かに使われるわけにもいかない」


 つまりは、どうすればいいかわからないと、本人の目の前で告白しているに等しかった。

 他に苦悩を打ち明ける相手がいない。

 トルカに吐露しても、ただ追放を進言されて終わるだけ。

 ワヌレイなどに言っても、困らせるだけだろう。


 マル=シレスは、少しだけ目を細めた。


「でしたら、もっと都合よくお使いになればよろしいのでは」

「何だと」

「私めを、でございます」


 道化は、胸ぐらを掴まれたまま、変わらぬ声で続けた。

 白い手袋の指が、ひとつずつ数えるように動く。


「金。権力。復讐。快楽。支配。邪魔者の排除。欲しいものの奪取。退屈しのぎの破壊。私めを使った方々は、たいていそのようなことをお望みでした」


 マル=シレスは微笑んだ。


「実にわかりやすい」


 リルの指に力が入る。


「俺もそうしろと?」

「はい」

 あまりにも素直な返事だった。


「少なくとも、そうなさらない理由が、私めには少々わかりかねます」

「おまえは」

「はい」

「俺に、もっと堕ちろと言っているのか」

「堕ちる、という言い方がすでに美しゅうございますね」


 道化は楽しげに言った。


「私めから見れば、使える道具を使うだけのことです。刃があるなら斬る。火があるなら燃やす。橋があるなら渡る。道化がいるなら、命じる」

「おまえは道具ではない」


 リルは言った。言ってから、自分でその言葉に苛立った。

 マル=シレスが、わずかに笑みを深くする。


「今のは、たいへん不用意なお言葉でした」

「黙れ」

「道具でないなら、何でございましょう。臣下ですか。友ですか。怪物ですか。災害ですか。あるいは、あなた様が王になるまでの足場でございましょうか」


 リルは答えなかった。答えられなかった。


「私めは、便利でございますよ」


 道化は穏やかに言った。


「たいへん便利です。そうあるように使われてきました。皆さま、私めが()()()できるとわかると、すぐに欲しいものをお話しくださる。欲望というものは、たいへん正直です」


 マル=シレスは首を傾げた。


「ああ、中には、()()()()を欲しがる方もおりました」

 なんでもないことのように。

「この顔、この声、この耳。この身体。使い道は、術ばかりではございませんので」


「やめろ」

「なぜでございましょう」


 道化は、本当に不思議そうに言った。


「欲とは、そういうものでしょう」


 リルは背筋が冷えるのを感じた。


 その言葉には真実の重みとでも言うべきものがあった。いつものように、ただ人をからかうためだけに悪趣味な嘘を並べているのではない。この道化は、知っているのだ。人が、欲しいものを前にした時にどこまで下劣になれるかを。力を前にした時に、何を願うかを。美しいものを前にした時に、所有したいと思うことを。

 そして、その中心に自分自身を置くことにも、ほとんど抵抗がない。


 リルは、先日の犬星の話を思い出す。

 似たおとぎ話はいくらでもあった。

 夜道に迷った王が星の精に導かれて隣国を焼いたという歌。犬の悪魔に門を開けられた将の話。欲を囁く客人。第十三の災いの座に座るもの。


 薄々、感づいてはいた。だが今、確信した。

 目の前にいるのは、ただの術師ではない。伝承に語られる、あらゆる時代に現れる本物の怪物なのだ。


「……おまえは」


 リルの声は低かった。


「本当に、何なんだ」


 マル=シレスは、少しだけ首を傾けた。


「道化でございます」

「違う」

「では、悪魔とでも?」


 道化の笑みがわずかに深くなる。


「それは、少々人間の側に寄りすぎた呼び名でございますね」


 胸ぐらを掴む手から力が抜けた。

 離したのではない。離れてしまった。

 それを悟られまいとして、拳を握り直す。


「話を戻しましょうか」


 道化は猫のようにするりと身を離す。


「これほど便利な道化を前に、リル様は妙なところで立ち止まる」

「悪いか」

「いいえ。面白うございます」

「面白いで済ませるな」

「では、困っております」


 意外な言葉に、瞬きを繰り返す。

 いつものような笑みが正面にある。

 その笑みの奥にあるものがなにかは、わからない。


「使いたいのでしょう。勝ちたいのでしょう。死にたくないのでしょう。守りたいものがあるのでしょう。ならば、もっと命じればよろしい。もっと欲しがればよろしい。私めを使い潰すくらいのつもりで、前へ進めばよろしい」

「……」

「それなのに、あなた様は使ったあとで帳面を開く。命じたあとで苦しむ。救われたあとで怒る。私めを道具として扱いながら、道具として扱ったことを嫌悪なさる」


 片目だけを細める。左右非対称の笑み。


「たいへん、手間のかかる方でございます」


 それは、呆れにも、愉悦にも──それ以外の何かにも聞こえた。

 リルは、その何かに名前をつけなかった。

 ひどく不快な響きだった。

 不快なはずだった。


 マル=シレスは、身を翻して扉へと向かう。


「どこへ行く」

「少々、街を見物に」

「勝手に動くな」

「では、許可を」

「却下だ」

「わかりました。すでに出かけていたことにいたしましょう」

「おまえは本当に」


 リルは言葉を切った。

 怒鳴る気にもなれなかった。


「陛下未満の陛下」


 道化は一度リルを振り返った。


「信用できないものを近くに置くのも、王の器量でございます」

「俺はまだ王ではない」

「ええ、ですから、今のうちに少し失敗しておかれるとよろしい」


 鈴が鳴り、扉が閉じる。

 リルはしばらくそこを見つめて、それから短く息を吐く。


 床に落ちていた剣を拾い、椅子に座り直し、膝へ戻す。

 それから帳面をたぐり寄せ、一行加筆した。


 ・マル=シレスへの依存、増大。


 墨が乾くまで、リルはその一行を見ていた。


 *


 領主館を出ると、夜気が冷たかった。


 昼間のティンドレットは、まだ戦いの跡を隠しきれていなかった。だが夜になると、壊れた荷車も、割れた石畳も、壁に残った矢傷も、すべて暗がりの中へ沈み、その代わりに、灯りが浮く。酒場の窓。屋台の炭火。路地奥の赤い小灯。領主館の見張り台に吊るされた火皿。


 そして、そのさらに上に、月があった。

 ワヌレイは外套の襟を引き寄せながら、トルカの横を歩いた。


「夜の街って、もっと楽しいものかと思っていました」

「楽しいだろ」

「怖さが勝っています。まず、トルカさんが怖いです」

「俺かよ」

「さっきから、店の看板より先に裏口を見ています。窓の明かりより先に屋根を見ています。あと、今の角を曲がる前、壁の影を確認しましたよね」

「普通だろ。夜道だぞ」

「嘘です。絶対に、普通の夜道ではない歩き方をしています」

「臆病なんだよ。おまえと同じで」

「ワヌレイは危ないものを見つけたら帰ります。トルカさんは危ないものがどこにあるか先に見つけて、必要ならそこから入れそうな顔をしています」

「おまえ、妙なところで鋭いな」

「ワヌレイは怖いものには敏感です」


 トルカを訝しむような目で見ていたワヌレイは、通りの端に立つ人影に気づいた。


 痩せた老人だった。

 古い外套を着て、帽子を胸に抱き、月を見上げている。

 酔っているのではない。

 老人は片膝をつき、胸に指を当て、何かを小さく唱えた。

 言葉は聞こえない。

 ただ、祈っているのだとわかった。


 月へ。


 祈り終えると、老人は立ち上がり、誰にも声をかけず、細い路地の奥へ消えていった。

 ワヌレイはぽかんと見送った。


「……今の、何ですか」

「さあな」

「さあな、ですか」

「祈りだろ」

「月に?」

「月に」

「なぜ?」

「俺に聞くな。俺は月とそんなに親しくねえ」


 ワヌレイは夜空を見上げた。

 月は白く、薄い雲の向こうに浮いていた。

 どこか、まぶたの奥からこちらを見ている目のようにも見える。


「……怖くなってきました」

「月まで怖がるな」


 などと話していると、向こうの通りから二人が歩いてきた。


「これはこれは、トルカ殿。ワヌレイ殿」


 丁寧に会釈したのは、僧侶のような風貌の男。

 静かな足取り。剃り上げた頭。整った衣。穏やかな顔つき。夜道にいながら、妙に清潔な印象がある。

 アンドレイである。


「……ですわ……」


 もう一人は桃色がかった金髪の女性。隊内の医療を担当しているバルトロメアである。普段は兵士という職にそぐわない独特な気品のある美人だが、今はがっくりとしょげている。


「夜歩きですか、お二人は」

「視察だ」

「ついでに酒です」


 ワヌレイが正直に付け足した。


「それはよい。夜の街には、昼の帳面には載らぬものが多くございます」

 アンドレイは穏やかに言った。

「帳面に載せられたら困りますわ~~……」

 その横で、バルトロメアは両手で顔を覆った。


「賭場帰りか。勝ったのか」

「拙僧は小銭がいくらか」


 ワヌレイはバルトロメアを見た。


「バルトロメアさんは」

「精神の栄養を補給できましたわ。賭場の空気! 賭け札の音! 心臓を直接撫でられるような緊張感!」

「負けたんですね……」

「給金が全身麻酔されましたわ~~~~!!」

「意味わかんねえけど悲惨なのはわかる」


 トルカは笑い、アンドレイは穏やかに袖の中で小銭袋をしまった。


「で、今の祈りは何だ」


 トルカが通りの奥を顎で示した。


「月に祈っていた爺さんがいた」

「ああ」


 アンドレイは夜空を見上げた。


「この辺りでは珍しいですが、北西や湖畔の一部では今も残っている習俗ですな」

「月に祈るんですか」


 ワヌレイが尋ねる。


「はい。月を女神の片目と見なす地域がございます」

「片目」

「女神は地上のすべてをご覧になるため、片目を天に置いた。夜に迷う者、死者を弔う者、罪を隠したい者、戻らぬ家族を待つ者は、その片目へ祈る。そういう古い信仰です」


 ワヌレイはもう一度、月を見上げた。

 白い月が、雲の裏から静かに覗いている。


「……やっぱり見られてますね」

「見られて困ることが?」


 アンドレイが微笑む。


「あります」

「あるんですか」

「ワヌレイは、心の中で何度も逃げ帰りたいと思っています」

「それはとっくに女神もご存じでしょう」


 バルトロメアは月を見上げて、ふらりと手を合わせた。


「女神様……どうか、次の賭けでは、わたくしにほんの少しだけ運を……」

「賭けの祈りは届きません」

「なぜですの!?」

「女神は胴元ではありませぬゆえ……」

「では、せめて今日の負けをなかったことに」

「それは外法アウターロウの領分ですな」

「ではマル様に祈りますわ!」

「祈るな」


 ワヌレイはアンドレイを見た。


「アンドレイさんは祈らないんですか」

「祈りません」

「神殿に行っていたのに?」

「神殿へ行くことと、祈ることは別でございます」

「僧侶崩れの発言として、だいぶ危険では?」

「ご安心を。人前ではもう少し敬虔そうに言います」

「もっと危険です」


 アンドレイは、月に目も向けず、穏やかに言った。


「人のおらぬところで祈りを捧げても、一銭にもなりません故」


 ワヌレイとトルカは言葉を失った。

 バルトロメアだけが、妙に感心した顔をした。


「清々しいですわね……」

「褒められる筋合いはございます」

「褒めてませんわ」

「やっぱりアンドレイさん怖いです」


 二人は別れを告げ、夜道の向こうへ歩いていった。

 ワヌレイとトルカはその背中を見送る。


「この隊ってなんていうか、その、怖い人が多いですよね?」

「その俺への目つきはなんだ」


 ワヌレイは、それから小さく月を見上げた。


「……女神様」

「祈るのか。怖いんじゃなかったのか」

「見られているなら、一応ご挨拶を、と」

「律儀だな」

「ワヌレイは怖いものには礼儀正しくします」

「生存技能か」

「はい」


 ワヌレイはしばらく、月を見上げていた。

 女神の片目。

 夜に迷う者、死者を弔う者、罪を隠したい者、戻らぬ家族を待つ者が祈るもの。

 白い月は、雲の向こうから静かにこちらを見ている。


「若様も、祈ればいいのに」


 ぽつりと、ワヌレイが言った。

 トルカは歩き出しかけていた足を止める。


「若が?」

「色々、悩みが多そうですし。女神様なら、聞いてくれるんじゃないですか」

「聞くだけならな」

「聞いてくれるだけでも、少し楽になりませんか」

「それはまあ、そうかもしれねえ」


 トルカは夜空を見上げた。

 月は白く、遠い。


「若は祈らねえよ。祈る自分も許せないんだろうさ」

「祈る自分も?」

「祈ったら、背負ったものが少し軽くなるかもしれねえだろ」

「はい」

「それが嫌なんだろ」


 ワヌレイは黙った。


「……面倒くさいですね」

「面倒くせえよ」

「王様になる人って、みんなそうなんですか」

「知らねえ。あれほど自分の首を自分で締める奴は、俺は他に知らん」


 ワヌレイは月を見上げた。


「でも、苦しいなら、祈ってもいいと思います」

「俺もそう思う」

「トルカさんも?」

「思うさ」

「なら、言ってあげればいいじゃないですか」

「言って聞くかよ」

「聞きませんね」

「即答だな」

「ワヌレイは若様のことを尊敬していますが、話の通じやすい人だと思ったことはあまりありません」

「それは言ってやるな」


 ワヌレイは少し考えた。


「トルカさんは祈らないんですか」

「俺か」

「はい」


 トルカは少しだけ黙った。


「俺は、祈るほど綺麗な生き方してねえよ」

「ああ、それ、祈った方がいい人の言い方です。アンドレイさんも絶対そう言う」

「言うようになったな……」

「ワヌレイは大人なので」

「はいはい」


 トルカは笑い、歩き出した。


 ワヌレイもその横に並ぶ。

 月は何も言わず、ただ二人の背中を白く照らしていた。


 * * *


 まだ眠らないティンドレットを、マル=シレスは歩いていた。


 戦が終わった直後の街は、よく喋りよく匂う。

 値段を吊り上げるなと怒る声。戸板を直せと急かす声。誰かの名を呼ぶ声。酒場の笑い。施療院のうめき。遠くで水桶を運ぶ掛け声。

 魚を焼く匂い。安い油の匂い。湿った木箱。古い革。人の汗。酒。恐怖。

 マル=シレスは楽しそうに目を細めた。

 そうしたものを聴き、嗅ぎながら、細い路地へ入った。

 通りの喧騒が、背後で少し遠くなる。

 石壁の間を、冷たい風が流れていた。

 頭上には洗濯紐が渡り、乾ききらない布が月明かりの下で揺れている。


 マル=シレスの足首で、鈴が鳴る。

 ちりん。

 上半身は侍従の礼服。下半身は黒と赤と金の派手な布。犬耳は夜風に揺れ、長い尾のような影が石壁を這っていた。


「よい夜でございますねえ」

 道化は誰にともなく言った。

「悪事には少し湿り気がありすぎますが、殺意にはちょうどよい」


 返事はなかった。人の気配だけがある。

 路地の奥に。荷車の影に。閉じた酒場の二階窓に。

 五人。いや、七人。

 足音を殺している。呼吸も浅い。

 金具には布を巻き、革靴の底には油を塗っている。

 訓練された者たちだった。


 道化は月光の下で笑った。

「これはこれは。思ったより、きちんとした舞台で」


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