#5 犬星の道化、あるいは北門防衛戦におけるリル=グレス一党の戦力提示
リルはフォルク卿の横から、北門の外を見下ろした。
怒号と金属音が、石壁を震わせている。
マル=シレス、トルカ、ワヌレイ、そして他の比較的意気軒昂な兵数名も、楼上の狭い通路に控えていた。
眼下では、徴発隊の隊長らしき男が、歯茎を剥いて馬上から怒鳴っていた。その凶相に、ワヌレイはかつて自分の村を襲った残忍な狼を思い出して震えた。
「げひゃっ! 俺様は王家正規軍士官、徴発隊長ヘルブラム!
門を開けなァ! 王命に逆らう者は反逆人とみなすッ!」
領兵は三十ほど。徴発隊はその倍以上。
それでも街の門を背にする領兵は退けなかった。
領兵の指揮官は、額から血を流しながら叫び返した。
「王命の名で女を奪い、蔵を焼き、子供まで連れていくのが王家か!」
「必要な徴発だ! 軍は大喰らいなんだよッ!」
「ならば、なぜ徴発札より多く奪う!」
「黙りやがれ、辺境の犬コロが!」
徴発隊が押し込む。領兵の盾列が崩れた。一人が槍で腹を突かれ、後ろへ倒れる。もう一人が助けようとして、肩を斬られた。
「犬呼ばわりとは、親近感が湧きますね」
面白がるマル=シレスを無視して、リルは、楼上の階段へ向かう。
ここから見ているだけでは、フォルク卿に出せるものがない。
「……しかし、あれで正規士官ですか」
トルカが唸った。
「王家の軍も、ずいぶん選抜基準が柔軟でございますね」
マル=シレスは愉快そうにしている。
「さ、さすがにワヌレイのほうがマシだと思います。マシですよね……?」
うげえ、という顔のワヌレイ。
「下品な者に王命を持たせると、便利なんだろう。自分で汚れずに済む」
リルの声は冷たい。
「いかがしましょう? 私めが少々交渉すれば、あちらの隊列など――」
道化が軽く手を挙げた。
「まだいい」
リルは遮った。
「お前は切り札だ」
「おや。大切にしていただけるとは光栄至極」
「温存するだけだ」
「なおさら光栄でございます」
「動くなよ。命令だ」
「承知いたしました。動くな、でございますね」
「術も使うな」
「……たいへん慎重でいらっしゃる」
「時が来るまで何もするな。命令だ」
「はい。では、動かず、使わず、眺めております」
まだとは言いながらも、この戦いで、マル=シレスを使うつもりはなかった。
石橋の一件で、道化の術は、使えば使うほどに毒の杯になると理解していたからだ。
古砦でも、石橋でも、手段を選ぶ贅沢は許されなかった。
今はそうではない。
マヤは、マル=シレスの術を借りずに助けた。
四人の王家兵を退け、荷を取り戻し、南門まで辿り着いた。
自分たちは決して、敗走するだけの弱兵ではない。
リルの兵はリルの命で動き、リルの勝利はリルの兵で掴む。
少なくとも、この北門ではそうでなければならなかった。
「若様」
ワヌレイがおずおずと挙手する。
「ワヌレイは徴発隊が街の皆さまにちょっかいを出さぬよう守護の任務につきたいのですが」
「それは領兵がやっている。お前は俺と来い」
「ワヌレイのことも温存してくださっていいんですよ!?」
トルカと半べそになったワヌレイ、兵たちが続いて、階段を降りる。
マル=シレスは命令通りに楼上に残り、石壁の縁に片肘をついたまま、眼下の戦場を眺めていた。
「勝てるか」
「数では不利です。ですが、徴発隊はこちらを舐めてます。陣形も浅い」
「右から回れ。弓を潰せ。逃げ道は残していい。だが隊長は逃がすな」
「御意」
「他に動けそうなのは」
「ディエゴ、ヨハン、ジャド。サイモンは楼上に、バルトロメアは負傷者の救護に向かわせました」
「サイモンには射線を作らせろ。残りはお前と組め」
「いつも通りですね」
「ああ」
「わ、ワヌレイは?」
ワヌレイは自分を指さす。
「後ろにつけ。俺の横には出るな」
「わかりました出ません」
リルは背の大剣を抜いた。
刃が光を拾う。
北門前の戦場に、リルが踏み込んだ。ワヌレイが追随し、背中を守る。
最初に気づいたのは領兵だった。
「誰だ!」
リルは答えず、領兵の横を抜けた。
徴発隊の槍が向く。
「なんだ、貴様――」
リルの大剣が振られた。
槍の穂先が三本まとめて砕けた。勢いのまま、前列の兵の盾が割れる。腕ごと持っていかれた男が悲鳴を上げ、後ろへ倒れ込む。
徴発隊の隊列が乱れたのを見逃さず、さらに踏み込む。
大剣が振るわれるたびに盾が割れ、槍が折れ、人が飛んだ。綺麗な剣術ではない。相手の構えごと叩き潰し、恐怖で後ろの兵まで押し込んでいく。
リルが正面を割った瞬間、北門楼上に陣取ったリル一党の射手の矢が落ちた。
弓を構え直そうとした王家兵の肩を射抜く。次の矢は、伝令へ走ろうとした兵の足を縫った。
(ああああ、なんでワヌレイはこんなところにいるんだろう……)
ワヌレイは討ち漏らしからリルの背を守っていた──王になろうとしている男にしては若く細い背を。
命令を出して後ろに下がる男ではなかった。兵に死ねと命じる前に、自分が一番深く踏み込む男だった。その背中を見せられたから、一党の者たちはついてきた。それは、驚くべきことに自分も例外ではなかった。そんなことを繰り返せば、いつか死ぬというのに。リルも。自分も。
泥の中で、盾を割られた兵が顔を上げた。
「黒髪、大剣……こいつ、リル=グレスだ!」
その名が、徴発隊の中を走った。
凶相の隊長が馬上で目を見開き、それから口が裂けるような笑いを浮かべる。
「げひゃひゃひゃっ。
そうかよ。反逆者本人か。そっちから出てきてくれるとはなあ」
隊長が腕を上げ、指示を送る。「殺せ!」
指示を受けた王家兵たちが、リルとワヌレイを囲む。
そこに右手の林から、トルカを初めとしたリルの兵が飛び出した。
馬蹄が泥を跳ねる。
トルカの短槍が弓兵の一人を突き落とす。
力自慢の男が、赤い髪を泥に濡らしながら前へ出る。盾を構えた兵へ真正面からぶつかり、列ごと押し崩した。女兵が槍の柄を斬って道を開く。矢をつがえる暇もない。徴発隊兵たちは悲鳴を上げて散った。
領兵たちが、その瞬間に息を吹き返した。
「お、押せ! 今だ、押し返せ!」
血まみれの指揮官が叫ぶ。
領兵たちは盾を掲げ、崩れた徴発隊の前列へぶつかった。
徴発隊は数でも装備でも勝っていたが、戦場の空気を失った。
王家の兵が、次々に倒されていく。振り下ろした刃が鎧を割り、肩から胸へ深く入る。足を払われた兵の喉元へ、領兵の槍が突き込まれる。
「くっ……! ざッけんなよ!」
劣勢と見た徴発隊長が馬首を返す。だが、逃げたのではなかった。
隊長は馬上から槍を掲げ、北門の脇へ合図を送った。崩れた荷車の陰に伏せていた兵が、泥を蹴って走り出す。
数は多くない。七、八人ほど。
しかし、向かう先はリルでも、トルカでも、ワヌレイでも、領兵でもない。
門の内側へ続く、わずかに空いた道。
そこへ、徴発部隊の別働隊が崩れた荷車の陰を縫って走った。
正面の門を破るのではない。
門脇の、荷運び用の細い通路を抜けようとしていた。
「右! 門の脇です!」
最初に叫んだのは、ワヌレイだった。
そこには戦の趨勢を見守っていた、負傷者や街の者、逃げ遅れた子供がいた。
門内にも領兵は残っていたが、彼らは負傷者と避難民を奥へ下げるので手一杯だった。
「抜けます! そっち、駄目です!」
リルは振り返った。
トルカたちは弓兵を潰した直後で、右手の斜面にいる。領兵たちは正面を押し返している。誰も、門脇へ流れた兵へすぐには届かない。
リルは舌打ちした。判断を迫られている。
隊長を追うべきか、街を守るべきか。
浸透を許しても勝敗そのものは変わらないが、門内の誰かが死ぬ。
それを切り捨てられるなら、リルは父のもとを出ていなかった。
リルは隊長から目を切り、門脇へ走った。
「ワヌレイ!」
「わかりました嫌です!」
叫びながらワヌレイも走った。
最初の兵が、門内へ足をかける。
「無理です無理です無理です」
ワヌレイの投げた短剣が、兵士の手元を弾いた。槍の穂先が逸れる。
その隙に、ワヌレイは低く踏み込み、剣の腹で膝を打った。兵士が泥に倒れる。
その背後から現れた二人目が槍を突き出した。
「次は死ぬ絶対死ぬ次は死ぬ」
ワヌレイは悲鳴を上げながら身を沈め槍をかわす。柄頭で相手の肘を打つ。槍が落ちる。
三人目は、ワヌレイを避けて門内へ走ろうとした。
「待って待って待ってワヌレイを無視しないで!」
ワヌレイは足を払い、兵士を転ばせる。起き上がろうとした兵の背へ、剣を振り下ろした。
「よくやった」
「もう嫌です!」
ワヌレイは別働隊のうち三人を止めたが、残る兵が、門脇へ殺到する。
リルはそこへ割って入った。
大剣を横に振り、二人まとめて押し返す。三人目の槍を弾き、四人目の盾を割る。
(まずい)
だが、門脇は狭かった。
正面の戦場と違い、大剣を振る余地がない。背後には街がある。避ければ兵が抜ける。退けば負傷者の列へ届く。
リルは退けなかった。
槍が来る。
一本目を弾く。
二本目を踏み込んで潰す。
三本目が肩をかすめた。
「!」
その時、馬蹄が鳴った。徴発隊長が迫っていた。
「ひひっ、終わりだなァ、グレス家の坊っちゃん!」
「この機会を伺っていたのか」
隊長は馬首を返し、横合いから突っ込んでくる。
リルは大剣を戻そうとした。間に合わない。
馬上から突き下ろされる槍の穂先が、リルへ降る。
「死ねッ、反逆者、……死ね!」
泥に膝をついたリルへ、王家の影そのもののように。
トルカ、ワヌレイ。それを見ていた一党の兵の顔から、血の気が失せる。
誰も止められない。
誰も割って入れない。
ちりん。
その時、鈴が鳴る音がした。
「いけませんねえ」
その声は、戦場に似合わないほど穏やかだった。
北門の楼上。
先ほどリルたちが降りた石壁の縁に、マル=シレスはいた。
白と黒の髪が風に揺れ、犬の耳が、戦場を見下ろすように立っている。
「主役を殺すには、まだ幕が浅うございます」
「あァ……!?」
マル=シレスは、楼上で軽く手首を返した。
王家兵たちの口が、勝手に開いた。
「進め」
隊長が言ったはずの号令だった。
だが、その声は隊長の口からだけではなく、兵士全員の口から出た。
「進め」
「進め」
「進め」
「進め」
兵士たちは進もうとしていた。
しかし踏み出した足は、次の瞬間には踏み出す前の位置へ戻っていた。
槍の穂先は前へ出たはずなのに、同じ間合いで揺れている。
鎧の金具が、同じ音を繰り返す。
前へ。
戻る。
前へ。
戻る。
馬ですらも、蹄で泥を蹴っていた。前脚を上げ、踏み込み、土を跳ね上げる。
しかし馬体は一寸も進まず、その場で、突撃の姿だけを何度も演じ直している。
誰も動けず、けれど止まることもできないまま、全員が同じ言葉を繰り返していた。
できの悪い演劇のように。
門の内側で見守っていた者たちが息を呑む。
子供は泣き出し、老いた神官は胸元の女神像を握りしめる。
マルは微笑んだ。
「ご立派でございます。王命とは、こうして皆さまの口を揃えるものなのでしょう?」
徴発隊長の顔が歪む。
「てめェ……何をした、化け物!」
「何を、とは失敬な」
道化は一礼した。
「少々、皆さまの行軍に拍子をつけただけでございます。ほら、見事な足並み。前へ進んでいるつもりで、どこへも行けない。実に兵隊らしい」
門内の誰かが楼上を見上げた。
この悪夢を作り上げた者を。
「道化だ」
別の誰かが、震える声で続けた。
「犬星の道化だ」
リルは、その異様さを理解する前に利用した。
膝を立て、大剣を握り直し、目の前で足踏みを続ける馬へ向かった。
かろうじて身体の自由を取り戻した徴発隊長が槍を振り下ろす。その穂先を大剣で受け、力任せに弾き上げた。隊長の身体が馬上で浮く。馬の首ではなく、徴発隊長の脚を狙った。
刃の背で、膝を砕く。
「がッ……あ!」
徴発隊長が落馬した。
泥の中で呻く徴発隊長の喉元へ、リルが剣先を突きつける。
周囲の槍兵たちは、信じられないといった様子で立ち尽くしていた。
リルは徴発隊長の喉元へ剣先を突きつけたまま、息を吐いた。
戦況が落ち着いたところで、マル=シレスが楼上から降りてくる。
戦場の泥へ踏み込むには似合わないほど、足取りは軽かった。
血の匂いも、折れた槍も、倒れた兵も、道化にとっては舞台装置の一部でしかないようだった。
「はい。これにて、道化の出番は終わりでございます」
リルは笑う道化を見た。
「手を出すなと言った」
道化の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「言われましたね」
「なら、なぜ使った」
「時が来たからでございます」
「来ていない」
「あなた様の首が泥に落ちる直前でございました。
私めとしては、あれ以上に明確な“時”を存じません」
「命令を曲解するな」
語気が荒げられる。
その目に、感謝はなく、怒りがあった。
「曲解とは心外でございます。私はただ、あなた様の首が泥に転がるよりは、多少の叱責を受ける方が愉快であると判断しただけで」
「俺が命じた。お前は手を出すなと」
「そして私は破りました」
マル=シレスはあっさりと言った。
戦場の端で、血と泥の匂いの中、切り札が舞台上の役者のように優雅に一礼する。
「お詫び申し上げます。先日、“命令を守るから危険”などと言われたもので、此度は命令違反を選んだ次第でございます」
リルの手が、大剣の柄を握り直した。
周囲の兵たちが息を呑む。
徴発隊長でさえ、喉元に剣を突きつけられたまま、二人のやり取りを見ていた。
その時、トルカが一歩前に出た。
「若」
リルは視線だけを向ける。
「なんだ」
「まずは、俺から礼を」
トルカは道化へ向き直り、あろうことか、深く頭を下げた。
「マル=シレス。助かった。あのままでは、俺たちは主を失っていた」
犬耳が、片方だけぴくりと動いた。
「おや。これはこれは。礼を言われるとは思いませんでした」
愉快そうに目を細める。
「しかも、ほかでもないトルカ様から! これは明日あたり、太陽が西から昇るやもしれませんね」
「命令違反では、ある」
茶化しを無視して、トルカは静かに言った。
「だが、命令違反によって救われた命もある。少なくとも俺は、今ここでそれをなかったことにはできない」
「そ、そうですよ!」
ワヌレイが、妙に明るい声を出して加勢した。
「助かったんですからいいじゃないですか! リル様もマル様にお礼を言いましょうよ! 命は大事ですし! 命令より命ですよね! ……」
言葉の途中でリルが妙にゆっくりとワヌレイを向いた。
「すみませんワヌレイは今何も考えていませんでした」
「普段は考えているとでも言わんばかりですね、ワヌレイ様」
「……トルカ」
「処罰は後でよろしいかと」
トルカは嘆息する。
「今は戦場です。負傷者の収容、逃げた兵の追跡、街との交渉。やるべきことが残っています」
「俺に命令違反を見逃せというのか」
「後回しにするのです」
その場に、奇妙な沈黙が落ちた。
マル=シレスが、実に愉快そうに目を細める。
「いやはや。実務の鬼が、道化に礼を。これは後世の絵師に描かせねばなりません」
「……あんたは黙っていてください」
「はい。命令とあらば」
そしてようやく、リルは徴発隊長を見下ろす。
「なあ」
徴発隊長は笑った。
「若様、王様になりたいんだって?」
「俺は」
「誰かが必ず徴発をする役目を引き受ける。そいつはまあ、悪党なのかもな」
戦っていたときとは異なる、不気味なほど静かな声。
「だが、その悪党に命令書を渡すのは、王だ」
近くで顔を見れば徴発隊長──ヘルブラムは、リルとさほど歳が離れていなかった。
*
北の街道には、逃げていく徴発部隊の背中が見える。
街の中では、助かった者たちが泣き、怪我人が運ばれ、王家の紋章が泥に沈んでいる。
勝った。
だが、それは小さな勝利だった。
リルとその配下は、門をくぐり、ティンドレットの広場へと戻った。
凱旋、と言えるほどの晴れがましいものではなかった。
すでに、その名は街の者たちに囁かれていた。
グレス家の若い男。
王家の徴発に逆らった者。
わずかな兵を連れて動いているらしい危険人物。
そして、妙な道化をそばに置いている、得体の知れない反逆者。
街の者たちは、恐れるようにリルを見た。だが同時に、その視線には別のものも混じっていた。
「道化だ」
誰かが言った。
その声に、広場の空気が少し変わった。
犬の耳。白と黒の髪。鈴。泥に沈まぬ立ち姿。
「国が荒れる時、鈴を鳴らす道化が来る……」
「今、何と言った」
老いた神官が、かすれた声で古い歌の一節を口にした。
リルが問うと、神官ははっとして口を閉じた。
「古い歌です。子供を脅かすためのものです」
「続きは」
神官は、マル=シレスを見た。
「王の耳へ勝利を囁き、大地を三つに割る。鈴を鳴らす犬の星。その光を見た国は、さらに乱れる」
マル=シレスは、心外そうに胸へ手を当てた。
「誤解でございます。私めは大地を割ったことなどございません。少々、道を曲げたことはございますが」
「犬星とは何だ」
リルが訊いた。
「存じません。ただ、神殿の古い注では、犬の耳を持つ道化と。王を勝たせ、国を乱すもの、と。救いか。災いか、歌は、そこを曖昧にしております」
神官の返答に、マルが微笑んだ。
「たいへん正確な歌でございますね」
リルはマルを見た。
「なぜ教えなかった」
「道化が出てくる歌など、どこの国にもございます」
「……」
リルは街へ向き直った。
門の内側では、負傷者が運ばれ、奪われた荷が戻され始めていた。泣いている者がいた。笑っている者もいた。王家の紋章を踏みつける者もいた。
だが、誰もまだ勝利を信じきってはいなかった。
リルにもわかっていた。
これは解決ではない。
始まりだった。
*
報告がディマビオのもとへ届いたのは、夜半だった。
ティンドレット北方、旧宿場跡に張られた王家追捕隊の天幕である。
昼には徴発街道を行き交う荷駄が休む場所も、今は王家の旗と篝火に囲まれ、負傷兵と伝令の出入りする野営地になっていた。
徴発監察官は、便利な肩書きだった。
敗れた兵を数え、逃げた反逆者を追い、徴発隊の尻拭いに野営地を張れば、それもまた監察ということになる。
(将校を辞めたつもりで、ずいぶん立派な将校仕事に戻ってきたものだ)
ディマビオは、そう自嘲しながら報告書を開いた。
三つ辻の街ティンドレット。
王家徴発隊の敗走。
領主フォルクは門を閉ざし、リル=グレス一党が街へ入った。
その傍らに、犬耳の道化がいた。
「また、道化か」
副官が言った。
「民衆の噂に過ぎません。戦場にはよくあることでしょう。徴発隊が敗れた理由を、奇妙な迷信に押しつけているのでは」
「ならば、なぜ古砦や石橋でも同じものが目撃されている」
「……」
ディマビオは、手元の資料を広げた。
神殿から届いた、古い祭歌の写しだった。
余白には、神殿書記の細い字で注が添えられている。
国が荒れる時、道化が来る。
王の耳へ勝利を囁き、大地を三つに割る。
鈴を鳴らす犬の星。
その光を見た国は、さらに乱れる。
「古い歌だ。ティンドレットの迷信深い者たちにも伝わっている」
ディマビオは言った。
「子供を脅かすための?」
「そう教えられている」
「違うのですか」
「わからん」
ディマビオは椅子に深く腰を下ろした。
「……私は迷信家ではない。古い歌や神殿の脅し文句で軍を動かしたりはしない」
だが、現場には痕跡が、兵の証言が、鎧の重さの跡があった。
そして今、別の街で同じ道化が目撃されている。
「犬星」
ディマビオは、ほとんど息だけで呟いた。
その名を口にした瞬間、自分でも馬鹿げていると思った。
だが、指先が冷えて、瞳の奥が熱くなっていた。
「まさか」
副官が言う。
ディマビオは答えなかった。
まさか。
──そうであってほしくない時に、人はその言葉を使う。
その時、天幕の外が騒がしくなった。
「何事だ」
兵が入ってきた。
「申し訳ありません。妙な男が、閣下に会わせろと」
「夜半にか」
「はい。リル=グレスではなく、道化の方を追っていると」
ディマビオは顔を上げた。
「通せ」
しばらくして、一人の男が入ってきた。
その男は、灰色の外套をまとっていた。
背は高くない。肩も広くない。痩せていた。しかし飢えた者の痩せ方ではない。眠ること、食うこと、寒さを避けること。そうした人間に許された小さな手入れを、ひとつずつ捨ててきた者の痩せ方。
髪には白いものが混じり、頬には古い傷が走っている。目は暗かった。燃えてはいない。燃え尽きた後の炭のように、黒く、静かだった。
男は膝をつかなかった。
「あなたは、リル=グレスを追っている」
「そうだ」
「私は、マル=シレスを追っている」
抑揚のない声が響いて、天幕の中が静かになった。
ディマビオは、男を見た。
「その名をどこで聞いた」
「二十年前」
「何を売りに来た」
「道化の死を」
男は外套の内側から、細長い箱を取り出した。
「私を使え」
古い木箱だった。
片手で抱えられるほどの、黒い木箱である。飾りはない。宝石も、銀の縁取りも、王家の威光を示すような意匠もない。
ただ、古い封紙だけが幾重にも貼られていた。
「私はマル=シレスを殺す。リル=グレスは、あなたが好きにすればいい」




