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#4 三つ辻に集うもの、あるいはフォルク領ティンドレット入城および領主折衝記録

 髭を蓄えた男が、従えた副官らしき男とともに、丘の道を歩いていた。古砦に続く道だった。

 年は五十をいくつか越えている。背は高くないが、肩と首が厚い。若い頃は前線にいたのだろう。腹は少し重くなっていたが、歩き方にはまだ兵の癖が残っていた。黒髪には白いものが混じり、短く刈られている。顎から口元へ続く髭は手入れされていた。身につけているのは、胸に薄い鉄板を仕込んだ昏い革外套。腰には剣。胸元には、オルディアス王家の印章を吊った鎖。


「各地方の状況はどうだ」

「悪化しています。徴発街道沿いで徴発札を焼く村が出ました。西の丘陵では、地方領主の兵が王家の荷馬車を止めています。南では、神殿が徴発隊の立ち入りを拒んだと」

「反乱か」

「まだ、そう呼ぶほどでは」

「呼び名の問題ではない。村が札を焼き、領主が道を塞ぎ、神殿が門を閉じる。別々に起きているうちは騒動だ。ひとつの名の下に集まれば、反乱になる」

「それが、リル=グレスですか。ディマビオ様は、奴が本当に地方を束ねられるとお考えで?」

「リル一人では、ただの若造にすぎん」


 髭を蓄えた男──ディマビオは言った。


「だが、若造の名に村と領主と神殿が集まれば、王家はそれを反乱と呼ぶしかなくなる」


 本気で反乱を食い止めたい、という熱意があるわけではない。

 しかしオルディアス王家は、傾きかけているとは言え、巨木は巨木だった。

 その影にはまだ兵が集まり、その名で門は開き、その印で人は縛れる。

 本格的に倒れるまでは、徴発監察官という地位で、吸える蜜を吸うと決めていた。


 崩れた門をくぐる。

 まだ雨の匂いが残っている古砦には、追撃隊とリル一党の痕跡を調べる兵士たちが散っていた。折れた矢を拾う者、泥の足跡を縄で囲う者、倒れた兵の位置を杭で示す者がいる。

 ディマビオは膝をつき、泥の表面を指でなぞった。


「ここで倒れたのか」


 傍らの兵が答える。


「はい。追撃隊の証言では、全員がほぼ同時に転倒したと」

「雨で足を滑らせた──にしては、不自然だな」


 ディマビオは、泥に残った深い窪みを見た。

 人間や馬の体重が作った窪みではない。

 鎧を着た兵が倒れた跡にしても、沈み方が深すぎる。


 雨。

 泥。

 折れた矢。

 倒れた兵。

 異様に重くなった装備。


 魔術。この国では、そうした不可思議な現象はそれで説明はつく。

 そして、それで終わらせるには官吏として過ごした年月は長すぎた。


「奇妙だ」

「何がです」

「鎧を重くするだけなら、約定術の範囲だ。鉄に重さを思い出させる。革に水を吸わせる。槍に地面へ沈む理由を与える。問題は数だ」


 ディマビオは泥の中庭を見渡した。


「ここに倒れた兵は二十を超える。それらすべての鎧や兜、槍に、一瞬で別々の約束を結ばせたことになる」

「……なら、“道化”は実は大勢の魔術師だったとか?」


 ディマビオはこうべを横に振る。

「術は繊細なものだ。同じ対象を複数の術者が同時に狙えば、約定がぶつかる。ある者の鎧を重くする者、ある者の槍を沈める者。分担したところで、互いの術が干渉する」

「では、道化はとんでもない凄腕だった、ということですか……」

「そう考えるのが、最も現実的だ」


 ディマビオは、そこで言葉を切った。

 最も現実的という語は、必ずしも正しいことを意味しない。

 そんな“凄腕の魔術師”が、唐突に降って現れるものか?


「……あるいは」


 その先を口にする前に、慌てた様子の伝令が報告に駆けつけた。


「指揮官! リル一行の目撃報告が入りました!」


 ディマビオは立ち上がった。


「ミロ村付近か」

「……はい。石橋です」

「徴発兵と接触したか」

「石が泥のようになり、徴発兵を呑み、しかしリル一行は通した、と。命を落とした者こそいませんでしたが、徴発兵は武器を構えることもできぬまま首まで沈み、全員が錯乱状態に陥っていました」


 副官は顔をしかめた。


「誇張では」

「誇張だろう」


 ディマビオは言った。だが、誇張の芯に同じものがある。

 正体不明の術も、二つ重なれば傾向が見えてくる。

 魔術師は世界に命じるのではない。交渉する。頼み、騙し、縁を結び、一時的な約束を取りつける。

 約定術──俗には魔術。

 だが、その道化は、約束を取りつけているのではない。

 すでに従っているものへ、語りかけている。


「……報告書には、魔術師と書け」

「はっ」

「そして問い合わせを出せ」

「どちらへ」

「神殿へ」


 意味がわからないまま、副官は従った。

 その意味のわからない手配が、幾度も功を奏したのを見てきたからだ。


 *


 森を歩き、さらに一夜を過ごし、夜明けに森を抜ける。

 リル、マル=シレス、トルカ、ワヌレイ、そして十名の兵はようやく街道へと出る。


「若。目的地はティンドレットで間違いありませんね」

「うむ」

「フォルク卿を頼る、ということですね」


 王国西方、三本の街道が交わる場所に、ティンドレットの街はあった。フォルク卿は、その領主である。


「街、ですよね」

「ああ」

「街ということは、屋根がありますよね」

「あるだろうな」


 ティンドレットの名が出てから、ワヌレイは少しだけ元気になっていた。


「屋根があるということは、床がありますよね。床があるということは、布団がありますよね。布団があるということは、今夜ワヌレイは、人間として眠れるということですよね。あ! 温かい汁もありますよね。豆とか、干し肉とか、ちょっと塩のきいたやつ。できれば芋も。贅沢は言いません。それさえあればワヌレイはフォルク卿に一生感謝します」

「安い一生だな」

「温かい汁は高いんです!」

「まあ、街に入れれば、何かしら口にはできるでしょう」

「トルカ殿もこう言ってます」

「叶うとよろしいですねえ」

「えへへ、マル様もそう思いますよね」


 無邪気に、にへらと笑ってから、何かに気づいてワヌレイは表情から色を失った。


「マル様がそう言うってことはそうならないってことですね!?」


「私はただ、心より祈っただけでございます」

「やめてください! 祈らないでください!」


 ひとしきり騒いでから、ワヌレイはリルの表情を伺いながら、恐る恐る問いかけた。


「あの、フォルク卿って、味方をしてくれるんですよね?」

「そうとは限らん」

「ううっ」

「フォルク家は、グレス家と古くから街道警備で付き合いがある。王都へ麦を送るにも、グレス領へ兵を通すにも、ティンドレットは避けられなかった。父上に連れられて、一度だけ館へ行ったことがある」

「ほへえ」

「フォルク卿は俺の顔を知っている。少なくとも、門前で即座に王家へ売る男ではない」

「即座に。え、じゃあ、時間を置いたら売るんですか」

「売るかもしれない」

「わ、ワヌレイは行きたくないです。まとめ売りされるのはごめんです!」

「ワヌレイ様。売られるのは値打ちがあるものだけでございますよ」

「それ、安心させてます? おどかしてます?」

「しかしフォルク卿も、悩まれるでしょうねえ」


 道化は街道の先を眺めた。


「王家には膝をついている。徴発隊には腹を立てている。グレス家には古い縁がある。そこへ、グレス家を出奔し王家に背いた若君が泥まみれで転がり込んでくる。いやはや、領主冥利に尽きる迷惑でございます」


 リルが頷いた。黙れ、とは言わなかった。


「匿うだけなら、まだ言い訳は立つ。旧知の子弟とその部下たちを一夜泊めた。怪我人を見捨てなかった。そう言える」

「み、味方すれば?」

「反逆領主だな」


 ワヌレイは黙った。


「フォルク卿に、最初から旗を掲げろとは言わない。まずは門を開けさせる。補給を得る。追手をやり過ごす」

「それで済みますか」

「済ませたい」

「若」

「わかっている」


 道化が、わざとらしく感心したように手を叩いた。


「おお。陛下未満の陛下が、たいへん慎重でいらっしゃる」

「黙っていろ、マル=シレス」

「はい。では、慎重ついでに申し上げますが」


 マル=シレスは、街道の先へ目を細めた。


「ティンドレットが、まだ誰かを匿えるほど穏やかであればよろしいですね」


 その言葉に、誰も返さなかった。

 街道の向こうに、細い煙が立ち上っているのが見えた。


 *


 街へ近づくにつれ、道端に捨てられた荷車が増えた。車輪を外され、幌を裂かれ、中身を奪われた残骸が、泥の中に傾いている。踏み荒らされた麦袋からは、雨を吸って膨れた麦がこぼれていた。


「……徴発隊の跡です」


 街道の脇には、徴発済みを示す王家の札が何枚も打ち捨てられていた。

 札にはオルディアス王家の紋章が焼きつけられている。だが、その下に記された徴発量は異常だった。


・一家族から麦三袋

・馬一頭

・男手一人


 それだけならまだ、戦時の徴発として書面上は通る。

 しかし、次の札にはこうあった。


・不足分、代納銀貨二十枚。なお不足認定は徴発隊の判断による。


「不足分、か」

「まことに便利な言葉でございますね。不足。麦が足りぬと言えば銀を取り、馬が痩せていると言えば銀を取り、男手が老いていると言えばまた銀を取れる」

「制度の顔をした強盗ですな」

「うわあ……すごいですね。足りないって言えば、何でも取れるんだ」

「ワヌレイ様が、リル様から慈悲の心を貪っているのと同じでございますね」


 その時だった。前方の曲がり道の先から、女の悲鳴が聞こえた。


「三人。いや、四人です。鎧の音。王家兵」

「行くぞ、ワヌレイ」

「へ。なんであたし」

「俺以外でおまえが今、この中で一番動ける」

「そんな消去法的な理由で! 嫌です!」

「来い」

「わかりました! でも嫌です!」

「慈悲の徴発に失敗しておりますね」


 リルとワヌレイが街道の曲がり角を抜けると、そこには小さな荷馬車があった。


 馬はすでに外されている。荷台の上には、布袋に詰められた乾燥豆と、壺に入った塩漬け肉がいくつか残っていたが、その大半は道に投げ出され、兵士たちが勝手に検めている。

 荷馬車のそばで、一人の娘が腕を掴まれていた。

 年の頃は十六、七だろうか。質素な服を着ている。髪は乱れ、片方の袖が裂けていた。兵士の一人がその腕を捻り上げ、もう一人が娘の顎を指で持ち上げている。


「ですから、言っているじゃありませんか。これは街へ納める荷です」

「街へ納める? なら王家へ納めるのと同じだ」

「違います。これはティンドレットの施療院に――」


 娘が言い終える前に、兵士が頬を叩く。

 乾いた音がした。


「口答えするな。王命だ。

 それとも不足分を、慰みものになることで支払うか? ん?」


 リルの表情がわずかに変わった。

 怒りというより、温度が消えたような顔。

 兵士の一人が、こちらに気づく。


「なんだ、お前ら。通行証はあるのか」

「その娘を離せ」


 兵士たちは一瞬ぽかんとしたあと、笑った。

 無理からぬ話だった。二人とも薄汚れたみすぼらしい外套を纏っていて、リルは顔つきに幼さを残し、ワヌレイに至っては子供そのものだった。


「聞いたか。離せだと」

「この辺の若造は、まだ徴発隊を知らんらしい」


 娘の腕を掴んでいた兵士が、わざと強く捻った。娘が呻く。


「道も、荷も、人も、王家のものだ。邪魔をするなら、お前も徴発するぞ」

「やってみろ」


 リルは、腰の剣には手もかけないまま歩いた。

「怪我をするぞ」


 兵士の一人が苛立った表情で腰の剣を抜き、リルの胸元へ切っ先を向ける。

「ガキが。止まれ!」


 その剣が振られた次の瞬間、リルの手が兵士の手首を掴んでいた。

 骨の鳴る音がした。

 兵士の剣が落ちる。リルはそのまま兵士の肘を蹴り抜き、反転した身体を道の土へ叩きつけた。


 一人目が沈むまで、ほんの数秒だった。


「な――」

「ワヌレイ!」

「は、はいっ」


 二人目が腰の剣へ手を伸ばした瞬間、ワヌレイの投じた短剣がその手首を荷馬車の木枠へ縫い止めた。悲鳴。ワヌレイが抜剣し、怯んだ兵をすかさず斬った。兵は血を流して倒れる。


「う、動くな! この女を――」

「やめてください」


 低い声。

 ワヌレイが小柄な体躯を低く踏み込ませ、娘を人質にしようとした三人目の懐に入る。

 兵士の腕が裂け、太腿が深く斬られる。体勢が崩れたところに肘を打った。曲がってはいけない方向へ腕が曲がった。


「トルカ!」

「承知です」


 逃げようとした四人目は、退路で待ち伏せしていたトルカと数人の兵が取り押さえた。倒れ伏していた一人目が、呻きながら顔を上げる。ようやく、リルの顔をまともに見た。


「貴様……リル=グレス。反逆者……」


 そこで彼は黙った。リルの踵が後頭部に叩きつけられたからだった。


 リルとワヌレイが先行していた間、残りの一党もただ見ていたわけではない。

 トルカの合図で、後ろに控えていた兵たちが動いた。

 赤髪の兵が、倒れた徴発兵の襟首を掴み、荷馬車の脇へ引きずった。乱暴だったが、手際は早い。工兵見習いは娘の落とした荷を拾い、破れた袋の口を結び直している。戦場には似合わない丁寧な手つきだった。弓を携えた射手は、新手の存在を警戒するように立つ。


「ほほ、私めの出番はございませんでしたね」

 マル=シレスだけが、荷車の縁に腰掛け、退屈そうに犬耳を揺らしていた。


 リルは娘に近づいた。


「立てるか」


 娘は頬を押さえ、震えながら頷いた。


「あ、あなたたちは……?」

「補給に来た」

「補給……?」

「ティンドレットへ入りたい。フォルク卿に取り次げる者はいるか」


 娘は目を見開いた。

 狼藉を働いた兵士たちは、すでに地面に転がっている。王家の紋章をつけた男たちが、あまりにも簡単に倒されていた。


「……父が、南門の倉番をしています。領主様の館へ出入りしています。わたしが話します」


 *


 娘の荷車は、どうにか動いた。


 先頭をトルカが歩き、射手は少し後ろから曲がり角と林を見ている。

 赤髪の力自慢は馬具を引き、文句ひとつ言わず荷車を押した。

 医療鞄を提げた女兵は気遣うようにマヤの隣に立ち、歩幅を合わせている。

 目つきの悪い兵だけが、拾った徴発札をまだ眺めていた。そこに書かれた不正の額を、頭の中で数えているらしかった。


 娘はマヤと名乗った。

 リル、マル=シレス、トルカ、ワヌレイ、そして残りの兵は、彼女に連れられ、南門へと向かっていた。


「あー、怖かったぁ……」

「どこも王家兵の横暴がひどくなっているというのは、本当のようですね」

「すぐに俺だと気づかなかった。追撃部隊と連携が取れているわけではないようだ」

「とはいえ、反逆の報は知れ渡っているようです」

「うう、ワヌレイの人相書きは出回ってませんよね……?」

「一人だけ抜けるつもりの御方がいらっしゃいますね」

「今の戦いで出回る理由はできたな」


 マヤが一行を振り返る。


「皆さんは、……王家と戦っているのですか?」

「そういうことになる」

「フォルク卿は、徴発隊の横暴を許しているんですか」

「いえ。連日、小競り合いとなっています。きっと今も……」


 煙が上がっているほうを向いた。


「きっと今も、街の外で争っています。でも……領主様の兵は少なくて」


 マヤの声が小さくなる。


「わたしは、王家に逆らうことが正しいのかはわかりません。でも、あの人たちが正しいとは思えません。王命だと言って、荷を奪って、女を殴って、怪我人の食べ物まで持っていくのが正しいなんて……」


 彼女は唇を噛んだ。


「街の人たちは、フォルク卿が守ってくれると思っています。でも、武器も、食べ物も、怪我人を寝かせる布も、もう足りなくて」

「だから施療院の荷か」


 マル=シレスは荷台の上、優雅に脚を組み替えた。


「三つ辻とは言いえて妙でございますね。王家の暴力、地方の抵抗、そしてどこからともなく湧いた厄介者。三本の道が、見事に交わっております」

「厄介者とは、俺のことか」

「私めも含めて、でございます。リル様だけに厄介の名誉を独占させるわけにはまいりません」


 *


 ティンドレットは石壁に囲まれた小都市だった。王都ほどの規模はないが、街道の要衝としては十分に豊かだ。南門に近づくと、門の上から弓が向けられた。


「止まれ! 何者だ!」

「わたしです! マヤです! 徴発隊に襲われて、この方たちに助けられました!」


 門上がざわつく。やがて年配の男が顔を出した。日に焼けた顔に、疲労の色が濃い。


「マヤ!」

「お父さん!」


 男の表情が一瞬崩れたが、すぐに彼は門上の兵へ怒鳴った。


「弓を下ろすな! 門は細く開けろ! 中へ入れるのは娘と荷車だけだ!」

「お父さん、この方たちは――」

「助けた者が、次に何をするかまではわからん」


 門が、人ひとりと荷車一台が通れるほどだけ開いた。

 マヤは荷台から飛び降り、父の胸へ駆け込んだ。


「馬鹿者。南門を出るなと言っただろう」

「施療院の荷が足りないって言ったのは、お父さんでしょう」

「怪我は」

「頬だけ。荷は少し取られました。でも、この人たちが取り返してくれました」


 父親は、そこで初めてリルたちを見た。

 黒髪の若者。

 顔にまだ少年の影を残しているが、立ち姿は将のものだった。

 その横には、半泣きの小柄な者と、長身の兵、そして犬耳の道化。


「……グレスの若君か」


 門の内側の空気が変わった。


「フォルク卿に取り次いでほしい」


 リルが短く告げると、父親は少しだけ迷うそぶりを見せた。

 グレスの次男。反逆者。ティンドレットを苛む徴発隊たち。

 そして、娘を救った者たち。


「……開けろ。この方々を領主様へ。急げ。北門がもたん」


 *


 中へ入ると、街は混乱していた。

 広場には避難してきた農民が座り込み、子供が泣いている。家々の扉は閉ざされ、井戸の周りには水を求める者たちが列を作っていた。あちこちに傷を負った兵が寝かされ、布切れを包帯代わりに巻かれている。


「ほとんど、街が戦場と化してますね……」

「……あ、温かい汁の気配がしません」

「お布団の気配も薄そうでございます」


 北門の方角から響いてくる怒号と金属音に、リルは足を止めた。


「状況は」


 マヤの父が、南門の内側から北を見た。戦働きの者ではないが、街の荷と門の出入りを預かる者らしく、疲れた顔のまま答えた。


「徴発隊は北門にいます。朝から門を開けろと。領主様の兵が押し返していますが……」

「倍で済めばいい方ですね。門外の道に予備がいるはずです」

 トルカが低く言った。

「装備は」

「王家兵の方が上です。槍の長さが揃っている。革鎧も新しい。こちらの領兵は寄せ集めでしょう」


「じゃあ、もう負けかけてるじゃないですか。今度こそお布団で寝られると思ったのに」

 ワヌレイが、北門の方を見て顔を青くしていた。近頃は青くないほうが珍しい。


「時間の問題ではある。フォルク卿に会おう」


 *


 領主であるフォルク卿は、北門の楼上で兵を指揮していた。

 年の頃は四十を少し越えたあたり。広い肩を持つ男だったが、今はその肩に疲労が重く乗っていた。

 彼はリルを見ると、一瞬だけ目を細めた。


「グレスの若君」

「今は、そう呼ばれる立場にない」

「では、何と」

「反逆者でいい。王家の兵はそう呼んだ」


 フォルク卿は、北門の外に押し寄せる徴発隊を見た。

 それから、少し芝居がかった所作で額を押さえた。


「はは、反逆者を門に入れてしまったか。私は今日から反逆領主だな」

「その心配なら、もう遅い」

「まったくその通り」


 徴発隊の怒号が、石壁を震わせた。


「奴らはもう、ティンドレットを反乱分子の街として見ている。君の首を渡したところで、門は開けろと、蔵を出せと、兵を差し出せと言うだろう。最後には、反逆者を匿った疑いがあると書面に残す。王命とはずいぶん便利になったものだな」

「昔から便利だった。今は腐っているだけだ」

「グレス家の者らしい言い方だ」


 フォルク卿の注視する北門の外では、王家の旗が泥と煙の向こうで揺れていた。


「それで、リル=グレス。君は私に何を求める」

「フォルク卿。俺の味方をしろ」

「匿え、ではなく?」

「それでは足りない」

「言うようになったな」


 フォルク卿は疲れた顔で笑んだ。


「君は何が出せる?」

「勝利だ」


 それは今のティンドレットに最も足りないものだった。



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