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#3 渡河の代償、あるいは徴発兵遭遇時における非殺傷的進路確保および外法使用に関する初期記録

 河を渡るだけならできた。

 しかしそのために何か代償を支払う必要があった。


 *


「ですから、そもそも古砦で……追手なんか、残さなければよかったんですよ……」


 泥の中を歩きながら、ワヌレイが何度目かもわからない愚痴をこぼした。


「生きて帰したから、また追ってくるんです。追ってくるから、ワヌレイたちはこんな泥の中を歩いてるんです。……助けたのに。なんで助けた方が、こんな目に遭うんですか」

「黙れよ。傷に響く」

 トルカが辟易して言った。

「響いているのはワヌレイの人生に、です……!」


 実際のところワヌレイの指摘は正しい。あの逃げ込んだ古砦で、道化によって無力化された追跡部隊全員を仕留めておけば、追手は来なくなる──とは言えないにせよ、余計な情報を渡さずに済んだ。少なくとも、遅れることは期待できただろう。

 ──しかし、


「響く余地があるとは、まだ空洞からっぽではないということですね」


 マル=シレスがひょっこりと顔を出して、口を挟んだ。


「響く人生は、叩きがいがあります」

「叩かないでください! ワヌレイは音が出る玩具ではありません! トルカ殿ッ、この人やっぱり危ないですよ!」

「今さらか……?」

「まあ……はい……」


 ワヌレイは顔を引きつらせる。


「この人があの場にいたら、転がってる人たちをひとりひとり始末するどころじゃ、なくなりますよね……」


 マル=シレス以外の全員が心の中でその言葉に頷いた。


 *


 雨の古砦を出て二日。

 リル一党は追手の追跡を逃れるため、街道を避け、林と湿地の境を縫うように泥の中を南へ進んでいた。

 矢は湿り、干し肉は減り、兵たちの靴底は剥がれかけていたが、リルたちは止まれなかった。

 止まり、追いつかれ、捕まれば、出奔は若者の愚行として終わる。

 王になると言った者が、最初の林で泥に沈む。

 それだけは避けなければならなかった。


 無計画に敗走しているわけではない。

 目指す先は、ティンドレットだった。

 三つの街道が交わる古い街で、食料も馬も、人の噂も集まる。追手を撒くにも、補給するにも、散った兵と合流するにも、今のリル一党にはそこへ出るしかない。


 だが、その手前に川があった。

 いくつかある渡河地点のうち、もっとも近いものが、ある古びた石橋だった。


 *


「橋にいたのは、兵士じゃありません」


 斥候からリルのもとに戻り、膝をついたワヌレイの顔は死人のように青かった。


「橋の南詰に柵が置かれてます。数は十六。で、鎧がばらばらで、靴も軍靴じゃありません。槍も、あれは倉から出したやつです。たぶん、村の人です。手に鍬傷がありましたし……」

()()()だな」


 トルカが重々しく言った。

 負傷した脇腹を押さえながら、彼は顔をしかめている。傷がなければ、本来であれば斥候の役割は彼が担っていた。他の兵で、もっとも斥候に向いていて、もっとも元気だったのがワヌレイだった。


「正規兵ではありません。近隣の村から出された者でしょう」

「徴発兵と()()()()ってややこしいですねえ……正反対の意味なのに」


 徴発兵とは、現地住民を強制的に兵士として取り立てたものだ。徴発部隊ではない。


「どこの村だ」


 リルの問いにワヌレイは、しどろもどろに、見えた兵の人相や風貌を口にした。

 それをトルカが拾う。


「地理条件から見ても、おそらく、ミロ村の者でしょう」

「……」


 リルが小さく息を呑む。

 ミロは、グレス領の端に位置する村だ。

 かつて北方領主との小競り合いで焼かれかけ、グレス家が避難民を受け入れたことがある。大した縁ではないが、無縁とは言えなかった。


「仮に突破するとして、損害は出ると思うか」

「こちらが先に仕掛ければ、ほぼありません、……ただ、誰も殺めずに制圧するとなると、難しいでしょう。その場合、損害が出ることを覚悟する必要があります。我ら全員が、士気十分であったなら、ともかく」


 沈黙が降りる。

 リルは地図へ視線を落とした。

 石橋は、この周辺で唯一まともな渡河地点だった。川幅は広くない。だが、雨で水量が増えている。荷を持ったまま渡れば、数人は流される。馬も危うい。

 迂回すれば一日という、時間の重い喪失が出る。

 橋は小さな線でしかないが、その線の上に十六人がいる。

 村から引きずり出され、槍を持たされ、何のためかもわからぬまま、雨の川辺で震えている。障害ではある。斬る理由はある。


「で、でも」


 ワヌレイが、小さく手を上げた。


「ワヌレイたちも死にたくないのでぇ……犠牲になっていただくしか、ないのでは……?」


 トルカをはじめとした白けた視線がワヌレイに一斉に注がれ、彼女は慌てて両手を振った。


「いや、違います。違わないですけど、違います。ワヌレイは血も涙もない兵士ではありません。ただ、血と涙が出るのが自分だと困ると言っているだけで……」

「殺すわけにはいかない」


 リルは短く断じた。


「殺せば通れる。だが、その先で俺たちはどんな正義を名乗る。徴発街道で村が奪われるのを止めると言って家を出た。その最初に、徴発された村人を斬って橋を渡るのか」


 リルの言葉に、トルカは少しだけ安堵したような表情を浮かべた。


「要所にわざわざ徴発兵を置いたのは、若には斬れないと、追跡指揮官が読んでのことかもしれませんね」

「なら、ずいぶんと俺を見ているな、そいつは」

「ひとり、心当たりがあります」

「ディマビオか」


 二人は同時に、同じ名を思い浮かべた。


「ディマビオ=ラウグ。西方徴発監察官。ミロ村の供出にも関わっていた男ですね」

「公務でグレスの館に何度か訪れたこともある。嫌な仕事を、嫌な顔をせずにこなす男だ。王家にしては適切な人選だな。追手を振り切れているなどという楽観はしないほうがいいだろう」

「……追いつかれたくないなら、なおさら時間はかけられませんね」

「で、でも……どうするんですか。突破が無理なら」


 リルはトルカを見た。


「迂回はどうだ」

「一日遅れます。つまり、追手に追いつかれます」

「河底を歩いて渡る」

「増水していますし、負傷者は厳しいでしょうね」

「木を伐って橋を架けるのは」

「時間がかかりすぎます。縄も杭も足りません。雨で岸も緩い」

「筏は」

「やはり、負傷者の存在が問題になります」


 時間をかけられない。徴発兵は殺せない。負傷者を置き去りにできない。

 全員が押し黙った。正しい選択肢がない。

 どれを選んでも、何かを犠牲にする必要がある。


「あ、でも、追いつかれたところで、マル様がいれば、どうにかなるのでは……?」

「それを最初から当てにするなら、俺たちは軍ではない。マル=シレスの後ろで運ばれる荷物だ」

「おや、荷車の手配でもいたしましょうか」


 ちりん、と鈴が鳴った。

 全員が視線を向けると、マル=シレスが、当然のようにそこにいた。

 彼は低い木箱に腰かけ、白い手袋の指で濡れた林檎を磨いていた。どこから持ってきたのか、誰も知らない。


「マル様ぁ」


 トルカが顔をしかめた一方で、膝をついたままだったワヌレイがマル=シレスににじり寄った。


「お願いします。どうか、どうかワヌレイを死なせないでください。若様は大義のために死ねますし、トルカ殿は忠義で死ねますが、ワヌレイは違うんです。ワヌレイは、できれば温かい寝床で死にたいんです」

「たいへん正直でよろしい」


 マル=シレスは微笑んだ。


「く、靴、靴は舐めた方がいいですか」

「やめろ」


 リルとトルカが同時に言った。


「で、ですが、マル様の靴は若様たちと違って綺麗ですし」

「そこじゃない、ワヌレイ……」


 長い息が吐かれる。トルカがあらためて苦々しげに口を開く。


「貴様には聞いていない、道化」

「ええ。ですから今、聞かれる前に答える準備をしておりました」

「準備だけして黙っていろ」

「それは料理を作って食べないようなものです。たいへん非効率でございます」


「マル=シレス。橋を渡れるようにできるか」


 リルは静かに言うと、トルカが鋭く視線を向けた。


「若」

「聞くだけ損はあるまい」

「この者は、聞くだけのつもりで心に入り込みます」


 マル=シレスは嬉しそうに微笑んだ。


「忠臣殿の評価が高くて何よりでございます!」

「ちっ……」

「橋を渡るだけなら、できます」

「敵を殺さずにか」

「できます」

「こちらの兵を失わずにか」

「おそらく」

「おそらく?」

「世界というものは、時々、打ち合わせにない演技をしますので」


 リルは眉を寄せた。


「条件を言う。徴発兵を殺すな。こちらの兵も殺すな」

「できる限り」

「できる限りでは足りない」

「では、承知しました」

「また、橋を壊すな。あとで村人が使う」

「お優しい」

「返事」

「承知しました」


 マル=シレスは片手を胸に当てた。


「若。この者に頼るべきではありません」

 トルカが低く唸るように抗議した。

「なら、代案を出せ」

「迂回しましょう」

「追手に追いつかれたら」

「戦います」

「徴発兵を殺さないために、随伴する兵を死なせるのか」


 トルカは黙った。ワヌレイは所在なげにしている。

 リルの声は冷たくなかった。

 けして責めているわけではない。


「俺とて、こいつを信用しているわけではない。だが、正しい手段だけで状況は変えられん」


 トルカは歯を食いしばった。


「……承知しています」

「なら、使えるものは使う」


 リルはマルへ向き直った。


「道を開けろ。殺すな。橋は残せ」


 マル=シレスは立ち上がった。犬耳が、楽しそうに揺れる。


「たいへん王らしい無茶でございます」

「まだ王ではない」


 夜を待った。

 雨はまた細く降り始めた。


 *


 石橋の両側の欄干はところどころ欠け、苔が石の継ぎ目を覆っている。川は増水し、黒い水が橋脚にぶつかって白く泡立っていた。

 橋の南詰には粗末な柵が置かれていた。

 杭を打ち、荷車を横倒しにし、縄で縛っただけのものだ。戦の守りとしては不十分。だが、疲れた一党を止めるには足りる。


 徴発兵たちは火を焚いていた。


 火は雨に濡れて小さくなり、煙だけが多い。槍を持った若者が三人、橋の上で寒そうに肩を丸めていた。奥には、年嵩の男がいる。彼は何度も槍の柄を握り直し、そのたびに指を痛そうに曲げていた。

 

 そんな石橋の近くの木立に、リルたちは紛れていた。

 トルカが一番奥の彼を指さして、囁く。


「昔、グラン様に連れられてミロ村を巡察した時、見た顔です。以前は髭を生やしていませんでしたが、おそらく間違いありません。粉屋の次男です」

「名は」

「コナー」


 橋の上の十六人と言えば数になるが、粉屋の次男コナーと呼べば個となる。

 リル一党の十二人の兵のうち、ワヌレイが鼻を垂らしているように。


 兵とは呼べそうもない怯えた村人の顔だったが、槍を持っている。敵だ。

 無辜の村人でも敵であれば、戦場では殺すしかない。

 それが、リルが変えたいと願う、この世界の道理だった。

 だから今、道理の外にいる道化へ頼る。

 ひどい皮肉だった。


「しかし」


 少し言いづらそうに、トルカが口を開く。


「追手に追いつかれたら道化に退けさせる。それは駄目で、橋を渡るために道化を使うのはよいのですか」

「同じではない」

 少しの間があってからリルは答えた。

「追手をマル=シレスに退けさせるのは戦いそのものを委ねることになる。この橋では、殺すべきではない者を殺さないために、マル=シレスを使う」


 ──それは、言い方を変えただけではないか。

 トルカはそう思ったが、それ以上の追及はしなかった。かわりに、マル=シレスへと向く。


「古砦でやった手を使うのか? ……敵の鎧や槍を重くして、動けなくしただろう。あれなら殺さずに済む」

「倒れて橋に広がった哀れな徴発兵を“踏みつけ”になさるのは陛下未満の陛下好みではないでしょう」

「真面目に答えろ」

「あれは命を取っていい相手だからできたのでございます」


 マル=シレスは、雨の向こうの橋を眺めたまま答えた。


「今回は命を取らないというご希望です。槍を握ったまま転べば、隣の者を刺すかもしれません。革鎧が重くなれば、胸や首を潰して息が止まるかもしれません。そして橋の上です。倒れた拍子に欄干から落ちる者が出るかもしれません」

「加減すればいい」

「加減したところで、人間は転ぶ時に打ち合わせ通りの姿勢を取ってくださいませんので」

「ではどうする?」

「橋を、戦場でなくします」


 どういうことだと尋ねる前に、マル=シレスは姿を晒し、橋の手前に立った。

 雨が降っているにもかかわらず、彼の肩には雨粒が乗らない。落ちる前に、何かを思い出したように横へ逸れていく。

 道化は白い手袋の指を橋へ向ける。

 徴発兵たちが顔を上げる。橋の向こうから声が響く。


「誰だ!」

「さて」


 コナーらしき男が槍を構えた。手が震えている。

 道化は、まるで舞台の上の役者のように言った。


「古い石橋殿。あなた様は、人を渡すために作られた。村人、荷車、兵、牛、花嫁、棺、税の袋。ずいぶん多くのものを背に乗せてこられたことでしょう」


 リルは眉をひそめた。


「何をしている」

「交渉でございます」

「橋と?」

「はい」


 道化は微笑んだ。


「魔術とは、まず相手を尊重するところから始まります。相手が石であっても。これを()()と呼びます」


 橋の石が、ぎし、とわずかに鳴った。

 木でもないのだから、軋むはずはないというのに。

 道化が続ける。


「橋とは、人を渡すもの。ですが、渡すということは、途中で支えるということでもある。支えるとは、留めることでもある。ほんの少し、役の角度を変えていただきたい」


 石橋の表面が、黒く濡れて光り、石が、水のように艶を帯びた。

 雨のせいではない。

 徴発兵の一人が後ずさる。

 その足が、沈んだ。


「うわっ」


 足首まで、石に沈んだ。

 彼は慌てて足を引き抜こうとした。だが、石畳は泥のように絡み、足を離さない。

 別の兵が駆け寄ろうとして、膝まで沈んだ。


「何だ、これ!」

「お、落ち着け!」


 コナーが叫んだが、彼自身の足元も沈んでいた。

 靴底。足首。脛。膝。

 石橋が、彼らを飲み込んでいく。

 逃げることはかなわないが、完全に沈むことはない。

 無論、そんなことは徴発兵の知るよしもない。


 誰かは槍を手放し、その槍も橋の中に沈む。

 誰かは欄干にしがみついたり、槍を支えにしようとしてみたが、沈みゆく運命に抵抗することはできない。

 泣きわめいたり、仲間の身体を掴んで自分だけ浮き上がろうとしたものもいる。

 誰も死んでこそいないが、戦えもしなかった。

 石に膝から腰まで埋められ、雨の中で、まるで橋の一部にされたように固まっている。


 リルはその、異様な光景に目を瞠らせ、胸の奥を冷やした。

 殺してはいないし、血も流れていない。

 だが……


「行きましょう」


 マル=シレスが言った。


「橋は、たいへん協力的でございます。もっとも、長話は嫌いなようですので、お早めに」


 トルカが道化を睨んだ。


「貴様」

「はい?」

「これは何だ」

「進路確保でございます」

「人を橋に埋めたのか」

「殺してはおりません」

「そういう話ではない」

「では、どういう話でございましょう」


 道化は穏やかに言った。


「殺すな。こちらを失うな。橋を壊すな。道を開けろ。御命令は、すべて満たしております」


 トルカは言葉を失った。


「ちょ、ちょっと待ってください。これ、ワヌレイたちも沈みませんか。ここ渡るんですよね?」


 負傷した工兵見習いの身体を支えていたワヌレイが、トルカとは違った理由で顔を青くしている。


「橋には、どなたを通し、どなたを留めるべきか、少々お話ししてあります」

「よくわかんないんですけど、それ通す側にワヌレイも入ってますか!?」

「入れないほうが面白いなら、外しておきましょうか」

「結構です!!」


 ワヌレイは半ば泣きながら一歩を踏み出すと、靴底の下の石が硬く受け止めた。

 そのはずなのに、すぐ横では徴発兵の腰が石に沈んでいる。

 ワヌレイは悲鳴を噛み殺し、空いている手で印を作った。


「女神様、ご先祖様、マル様、橋様、今だけワヌレイをお見逃しください……」

「祈る相手がたくさんいらっしゃいますね」

「効果がありそうなものには全部祈る主義です!」


 その様子を見て、リルが改めて指示を出す。


「全員、橋を渡れ。徴発兵に刃を向けるな。荷を落とすな」


 兵たちはためらいながら橋へ入った。

 徴発兵たちはリルたちを見上げるしかなかった。

 膝を奪われ、腰を奪われ、立つことも退くこともできない。槍を持った手だけが自由で、しかし槍はもう何の意味も持たない。

 粉屋の次男が、腰まで沈んでいた。


「た、助けてくれ」


 その声にリルは足を止めた。

 トルカが小さく言う。


「若」


 リルが翠の瞳を向ける。

 コナーは、雨に濡れた顔でリルを睨んでいた。


「俺はリル=グレスだ」

「グレスの……」


 コナーの栗色の瞳が揺れた。

 恐怖。

 屈辱。

 怒り。


「グレスの人間が、こんなことをするのかよ」


 リルは言った。


「おまえたちを殺すつもりはない」

「なら、この術を解け!」

「今は解けない」


 コナーが唾を飛ばして叫んだ。


「ふざけるな! 石に埋めて、情けをかけたつもりかよ!」


 リルは答えなかった。

 マル=シレスが横から口を出す。


「半日ほどで吐き出します。石橋殿も、いつまでも人を抱えているほど暇ではありませんので」

「……ということだ。それ以上沈むことはないはずだ。耐えてくれ」


 そう言って、リルが歩き出すと、背中に罵声が飛んだ。

 臆病者。外法使い。野盗。

 グレス家の恥。

 助けると言って人を埋めるのか。

 リルは振り返らなかった。


 ワヌレイは橋を渡り終えると、支えていた負傷兵と共に、へなへなと泥の上にへたり込んだ。


「助かった……」


 そう言ってから、彼女が橋の方を振り返ると、腰まで石に埋まった徴発兵たちが、まだこちらを見ていた。

 ワヌレイは口を閉じた。


 橋を渡り終えたあと、マル=シレスは白い手袋を軽く振った。

 石橋が、遠くで小さく鳴り、沈んでいた徴発兵たちの身体が、少しずつ浮き始めた。

 完全に解放されるまでには、まだ時間がかかるだろうが、死にはしない。

 おそらく。


 リル一党は南の林へ入ったが、しばらく誰も口を利かなかった。

 雨が葉を叩く音だけが続く。

 やがて、トルカがリルの横に並んだ。


「若」

「なんだ」

「頼るべきではない、と申し上げました」

「わかっている」

「いいえ」


 リルは足を止めずに進む。

 トルカは静かに続けた。


「若は今、勝ちました。誰も殺さず、誰も失わず、橋を渡った。だからこそ、まだわかっておられません」


 リルの手が、剣の柄に触れた。

 抜きはしない。自分の手がまだそこにあることを確かめたかった。


「では、何をわかればいい」

「こいつは、命令を破るから危険なのではありません」


 トルカが後ろを歩く道化を見ると、聞こえないふりをしながら犬耳だけを向けているのが見えた。


「命令を守るから危険なのです」


 しばらく進んだあと、マル=シレスが追いついてきた。


「いやはや、忠臣殿のお言葉は鋭うございますね。命令を守るから危険。たいへん良い評でございます。私めの墓碑銘にしたいほどです」

「おまえの墓を建てる者がいればな……」


 トルカが言う。


「その際はぜひ、忠臣殿に碑文を」

「ごめんだね」

「残念」


 リルは足を止めた。

 道化も止まる。


「マル=シレス、今のやり方しかなかったのか」

「ございません」

「本当にか」

「いいえ」

「おまえ」

「ですが、今のやり方が最も確実でした」


 道化は微笑んだ。


「敵を殺さず、味方を失わず、橋を残し、すぐに進む。さらに言えば、大きな音も火もなく。条件が多い時ほど、世界には少々無理を聞いていただかねばなりません」

「無理を聞いたのは徴発兵ではなく橋か」

「徴発兵の皆様にも、少々ご協力いただきました」

「おまえは、人を何だと思っているんだ」


 トルカが剣に手をかけた。リルが止める。マル=シレスは首を傾けた。


「難問でございますね」

「答えろッ、道化」

「役を持つもの、とでも」

「役?」

「兵。村人。忠臣。若君。道化。徴発された者。徴発した者。踏みにじる者。踏まれる者。皆、それぞれ役を着ております」

「……人間そのものは」


 道化は少しだけ黙った。雨が、彼の周囲を避けて落ちる。


「私めには、少々見えづらい」

「なら、見えるようになれ」

「ご命令で? また難しいことを仰る」

「できないなら、去れ」


 マル=シレスは笑った。

 いつものように慇懃で、薄く、腹立たしい笑みだった。


「承知しました。努力いたします」

「努力では足りないと言ったはずだ」

「では承知しました、リル=グレス様」


 背後では、遠い橋の方角から、まだかすかに声が聞こえていた。

 怒号か。泣き声か。救いを求める声か。

 雨と川音に混ざって、すぐにわからなくなる。

 リルはその声を忘れないようにした。


 軽やかな勝利と言えた。

 誰も失わず、殺さずに橋を渡れた。

 荷も兵も時間も残った。


 だが、その軽さの分だけ、何か別の重たいものがリルの内側に沈んでいた。

 ちょうど、石橋の中へ沈んだ徴発兵たちのように。


 抜けるまで、まだ時間がかかりそうだった。



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