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#2 グレス家について、あるいは弱者救済を目的とする王権奪取思想形成の過程

「ううっ、帰りたい、帰りたい、どうしてこんなことになってしまったんだろう、とワヌレイは思いました……」


 聴くもの全員の士気を下げるような、ひどく情けない声。


「若様に連れられて、ワヌレイは雨の森をさまよっていました。靴の中は水びたしで、手は冷たくて、お腹は空いていて、しかもさっきから誰もワヌレイのことを慰めてくれません……」


「黙って進め」


 リル=グレスが振り返らずに言った。

 叱られた犬の尾のように、女兵士──ワヌレイの後ろで括られた黒髪が揺れた。生きて古砦をリルたちと共に脱出した、十二人の兵のひとりだった。


「ひっ。聴こえてたんですか」

「お前の独り言は大きすぎる」

「はい……ワヌレイ、黙ります」


 ワヌレイは一度黙った。三歩歩いてまた泣いた。

 身の丈5尺にも満たない、ほとんど子供にしか見えない、鎧に着られているような兵士で、実際言うことが子供だった。声を聞きつけて、追手がやってくるかもしれない。他の兵はワヌレイを白い目で見たが、止める余力も叱る気力もなかった。


 リル一党は追撃を警戒して街道を外れ、獣道を抜け、古い杉と低い灌木の間を縫うように進んでいた。足元はぬかるみ、馬は何度も脚を取られた。負傷者を支える兵たちは、声を殺して息を荒げていた。

 夜更けになって、ようやく一行は森の奥に足を止めた。

 周囲を太い木々に囲まれ、外からは火の明かりが見えにくい。地面は湿っていたが、中央に古い倒木があり、その陰に雨を避けられるだけの空間があった。


 破れた軍幕を二枚、枝と槍に引っかけ、上から外套を重ねただけの粗末な雨除けを作り、その下にリル=グレスは座った。

 灯りは小さい。

 油を惜しみ、灯火皿の火は細く絞られている。炎は雨気に押されて低く揺れ、リルの指先と紙の端だけを照らしていた。


 マル=シレスは、倒木に腰かけてそれを見ていた。


 犬耳を持つ美しい道化。

 上半身の服装は侍従のように整った一方で、腰から下は道化の色布を重ねている。雨の夜の森にはあまりにも不似合いな姿だった。衣装は濡れてもいない。森の湿気も、泥も、血の匂いも、彼の周囲ではどこか礼儀をわきまえているように見えた。リルの兵たちは泥と血と雨にまみれているというのに。


「何でございますか、それは」

「帳面だ」

「それは見ればわかります。私めは紙束と薪の区別くらいはつきますので」

「なら訊くな」

「その帳面に、いま何を書いておいでで?」

「今日、街道で失った兵の名だ」


 リルは筆を止めずに続ける。


「徴発街道。オルディアス王家正規兵の徴発隊と交戦。村人の避難を優先。戦線離脱者二十一名。うち死者、推定七名」

「推定、でございますか」

「死体を数える暇はなかった」


 声は、喉の奥で沈んでいた。


「逃げるので精一杯だった。誰がどこで倒れたか、全ては見ていない。最後に声だけを聞けた者も、倒れたところだけ見た者もいる」


 筆先が紙の上を滑る。


・バラン。槍兵。街道上で離散。未帰還


 一行。


・セグ。弓兵。後退中に消息不明


 一行。


・ユナス。荷駄番。村人避難の補助後、未確認


 一行。


 それだけだった。死因も、傷の仔細も、末期の言葉もない。リルが知らないことを帳面に書くことはできなかった。それこそが罪だった。


「……若様が」


 それを見ていたワヌレイが口を開いた。声は震えていた。


「わ、若様が無謀なことをしなければ、みんな死ななかったんです」


 全員《マル=シレス以外》、雨音が、急に遠くなったように感じられた。

 ワヌレイ自身が、一番驚いた顔をしていた。言ってはいけないことを言ってしまった。だが、もう止まらなかった。流れ出した涙と同じだった。


「あたし、言いました。言いましたよね。やめたほうがいいって。いや、言ってないかもしれないですけど、思ってました。すごく思ってました。みんなが大丈夫って言うから大丈夫だって思ったんですもん!」


「ワヌレイ。それ以上はやめろ」


 脇腹を布で縛られ、顔色を悪くして倒木にもたれていたトルカが口を挟む。リルは筆を手にしたまま黙っていた。


「セグだって、バランだって、ユナスだって、きっと死にたくなかったです! 若様が世界を変えるとか、弱い人を助けるとか、そういう立派なことを言って、それに頷いたって……、死ぬときは痛いし、怖いし、帰りたいって、お、思うんですよ」


「そうだろうな」

 短い返事だった。


「若様が、連れてきたんです。若様が、ついていきたいような、人じゃなかったら」

「そうだ。俺の無謀が、力不足が殺したんだ」


 ワヌレイがしゃくりあげる音が響く。


「……そんな、あっさり認めないでくださいよ。怒ってくださいよ、ワヌレイのことを……」

「おまえは悪くない」

「じゃ、じゃあ、若様が悪いんです、ね」

「ああ。そして、今後も同じことをやるだろう。俺は」

「……」


 口を挟まず見守っていたマル=シレスが、細目でワヌレイを見る。


「ワヌレイ様」

「な、なんですか」

「あなた様の言葉は、たいへんよろしい」

「へ?」

「王になろうとする方のそばには、そういう声が必要でございます。美しい理想。勇ましい進軍。しかし戦は華々しいものだけでできているわけではありません。そういうものの影に、帰りたいと泣く一兵卒の姿も、添えられるべきなのです」


「よくわからないですけど、褒められてるんですか?」

「ええ。陛下未満の陛下の元には、あなたのような兵が必要なのです」

「え、やだ。ワヌレイ、抜けますけど」

 トルカが口を挟む。「今抜ければ森で死ぬぞ」 

「抜けませんけど」

「賢明でございます」


 トルカが、痛みに顔をしかめながら息を吐いた。


「若。こいつを罰しますか」

「罰しない」

「でしょうね」


 合理的観点で見れば正規部隊であればとっくに置き去りにされていただろうが、このすべてが乏しい一党から、これ以上は一人も欠けさせるべきではなかった。


「道化の言い草はともかく、ワヌレイ、今の俺にはおまえが必要だ。おまえの言葉も無碍にはしない。帳面に残そう」

「え、後世に残すつもりですか。もっと賢そうに言い直します。いいですか、ええと、若様の戦略的判断には、兵卒目線で若干の疑義が……疑義? 疑義ってこういう時に使うんでしたっけ。ともかく──」


 誰も聴いていなかった。

 マル=シレスは笑って帳面を覗き込んでいる。


「弔文でも報告書でもないものを、わざわざ記すのですね。陛下未満の陛下は」

「忘れないために必要だ」

「人間様は不便でございますね。忘れたくないものほど、こうして外へ預けねばならない」

「おまえは違うのか」

「忘れるほど中身が詰まっておりませんので」

「便利だな」

「空洞は保管に向きませんが、腐敗もしません」


 トルカが、片目を開けた。


「若。こいつ、信用していいんですか」

「よくはない」

「でしょうね」


 マル=シレスはにこりと微笑んだ。


「初対面の方にそこまで正確な評価をいただけるとは、私めもまだ捨てたものではございません」

「捨てた方がよさそうだがな」

「ひどい」

「ひどいのは、その耳と口だ」


 リルは、二人のやり取りに、小さくため息を吐く。

 それから、帳面の端を指で押さえた。

 雨気を吸った紙がわずかに波打っている。


「これは、母の影響だ」


 トルカが黙った。

 マル=シレスだけが、わずかに首を傾げる。


「母君」

「ああ」


 リルは帳面へ視線を落とした。


「母は、負けた者の名を書く人だった」


 *


 リル=グレスは、愛されて育ったわけではない。

 だが、愛されなかったわけでもなかった。


 グレス家は王都からやや離れた西方の丘陵地帯に領地を持つ、古い武門の家だった。

 代々、境界線を守ることを役目としてきた家である。

 弱小貴族ではないが、厚遇されているとは言えなかった。


 北の山岳領主が兵を動かせば、まずグレス家の砦が燃え、西の湖畔都市が関税で揉めれば、グレス家の街道が封鎖され、都の政争が荒れれば、グレス家に兵糧と兵士の供出命令が届いた。


 リルはそこで生まれた。

 幼い頃から、彼にとって家族とは、温かな食卓に集まるものではなかった。

 砦の会議室で地図を囲み、誰を見捨て、誰を助け、どの村を焼かせ、どの村を守るかを決めるものだった。


 それでも、確かに家族だった。父は厳格な人だった。


 名を、グラン=グレスという。


 背が高く、声が低く、笑うことの少ない男だった。

 剣を握れば強く、馬に乗れば速く、しかし戦場から戻るたびに、少しずつ口数が減っていった。


 グランはリルに、剣を教えた。

 剣の振り方だけではない。

 剣を抜く前に何を数えるべきか。

 敵と味方の数。兵站。村人の避難にかかる時間。

 敗北した時に、何を切り捨てるか。


「剣を抜く時には、もう半分は負けている」


 父はよくそう言った。


「真に強き者は、剣を抜く前に勝つ」


 リルは、その言葉を尊敬し、同時に蔑んだ。

 父の言う強さは、いつも諦めを含んでいたからだ。


 守れない村は守らず、助からない兵は助けず、勝てない戦は避ける。

 それは領主として正しかったが、幼いリルには冷たく見えた。

 なぜすべてを守れないのか。なぜ最初に犠牲になるのは、弱き者なのか。弱き者こそが、真っ先に救われるべきではないのか。

 なぜ父ほど強い男でさえ、世界の間違いを甘受しているのか。

 リルにはそれが許せなかった。


 母は、父よりも静かな人だった。

 名を、トリア=グレスという。


 南の小領主の娘で、政略結婚によってグレス家に嫁いできた。

 病弱ではなかったが、どこか昏い影をまとった女性だった。


 彼女はリルに、文字を、歴史を、祈りを教えた。

 そして何より、敗者の名前を覚えることを教えた。


「勝った者の名前は、誰かが必ず残します」


 母は、幼いリルにそう言った。


「だからあなたは、負けた者の名前を覚えていなさい」


 リルは意味がわからなかった。

 母は、戦で焼かれた村の名を帳面につけ、徴発で冬を越せなかった家の数を書き、兵として連れていかれ、戻らなかった若者の名を記していた。


 それは何の役にも立たない記録だった。

 死んだ者は、焼けた村は元には戻らない。

 帳面に名前を記したところで、世界は変わらない。

 けれど母は書き続けた。


「忘れられたときこそ、真に踏みにじられたことを意味するのです」


 その言葉は、リルの中に残った。


 そして、リルには兄がいた。

 名を、エル=グレスという。

 彼が家を継ぐはずだった。


 エルはリルよりも明るく、人に好かれる性質だった。

 剣の腕はリルに劣ったが、兵たちの心を掴むのが上手かった。

 馬番の少年にも、台所の女中にも、同じ調子で話しかける。

 父の厳しさを受け流し、母の憂い顔を笑わせることができた。


 リルは兄を尊敬し、そして少し妬んでいた。

 エルは世界を嫌っていなかった。

 理不尽を見ても、怒りはする。

 だがその怒りで自分を焼き尽くすようなことはなかった。


「全部は変えられないよ、リル」


 兄はよく言った。


「でも、目の前の一人くらいなら助けられる」

「一人助けて何になる」

「その一人にとっては、全部だろ」


 リルはその言葉に反論できなかった。

 できなかったから、苛立った。

 兄は優しかったが、その優しさは頼りないものに見えた。


 一人を、一つの村を、守るだけでは足りない。

 一度の戦を凌ぐだけでは足りない。

 世界そのものを変えなければ、同じことが繰り返される。

 そう信じるリルにとって、兄の優しさは眩しく、そして歯がゆかった。


 その兄は、リルが王を志向する少し前に死んだ。

 グレス家が周辺領主の連合軍に攻められた時のことだった。


 父は砦を守るため、麓の村を一つ見捨てる判断をした。

 兵を割けば砦が落ち、さらに多くが死ぬ。正しい判断だった。

 エルはそれに従わず、わずかな兵を連れ夜のうちに村へ下り、老人と子供だけでも逃がそうとした。


 結果、村人の半分は助かった。

 翌朝、鞍には血が染みたエルの馬だけが砦に帰ってきた。


 その時、リルは泣かなかった。

 父も泣かなかった。

 母だけが、兄の名を帳面に書いた。


・エル=グレス。村人四十三名を逃がす。帰還せず。


 リルはその文字を見て、初めて父を憎み、兄も憎んだ。


 なぜ勝手に死んだ。

 なぜ正しさだけで生き延びられると思った。

 なぜ一人を助ける優しさで満足した。


 そして、何より、なぜ自分ではなく、兄が死んだ。


 それ以降、リルは変わった。


 彼は兄のように一人を助けるのではなく、父のように損害を数えるだけでもなく、もっと大きなものを求めるようになった。


 誰を見捨てるかを決めなくて済む世界。

 そもそも弱い者が、見捨てられない世界。

 そのためには、国を割っている者たちをすべて屈服させるしかない。


 *


「なるほど。苦しまなくなることを防ぐための記録」


 リルは、帳面を見つめた。そこには、完全な記録などない。

 あるのは、曖昧な最後の目撃と、未帰還という事実だけ。

 だが、それで十分に重かった。


「それにしても、陛下未満の陛下は、世界をお嫌いなのですね」

「嫌っているのではない。間違っていると思っている」

「ほう。間違っている」

「弱い者が奪われる。飢える。踏みにじられる。強い者はそれが当然のように笑う。女神も法も、結局は勝った者の後ろに立つ。そんなものが正しいはずがない」


「では、どうなさるおつもりで?」

「俺が勝つ。俺が王になる。俺が法になる。俺が剣を振るう。弱い者を踏みにじって肥え太った連中を、俺が踏みにじる」

「それはそれは」


 マル=シレスは、白い手袋の指で口元を隠した。


「たいへんお優しい」

「笑うな」

「笑っておりますとも。あまりにもお優しいので」

「俺は優しくない」

「ええ、ええ。ご自身ではそう思っておいででしょうね。ですが、リル=グレス様。世界を正したいなどという願いは、優しい者でなければ抱けません。冷たい者は、間違った世界の使い方を覚えるだけでございます」


 リルは眉をひそめた。


「若は優しいですよ。冷たいだけの人なら、兵はここまでついてきません」


 トルカが横から言った。


「ワヌレイは、ついてきたというより、抜けるタイミングを失っただけですけど」

「こいつはともかくとして」

「ともかくとしないでください」

「よい家臣をお持ちですね」

「俺は、買いかぶられるほど立派なものじゃない」

「いいえ。むしろ、安く見積もっております」


 マル=シレスは尖った靴先で、足元の石塊を転がす。


「あなた様は、弱者のために強者を踏むと仰る。結構。実に結構でございます。しかし、踏むことを覚えた足は、いつか踏む感触そのものを覚えてしまう」

「何が言いたい」

「正義のために踏む者と、快楽のために踏む者。外から見れば、足の裏は同じでございます」


 リルはマル=シレスを睨んだ。


「俺がそうなると?」

「さあ。私は予言者ではございません。知っていることを、知らないふりをし、知らないことを知っているふりをするのが得意なだけです」

「なら黙っていろ」

「承知いたしました。三呼吸ほど」


 マル=シレスは、わざとらしく口を閉じた。

 すぐ開いた。


「ですが、ひとつだけ」

「三呼吸も経っていない」

「私は数の数え方に品がないもので」


 鈴が鳴る。

 道化は、雨の中でなお濡れない顔をリルに向けた。


「陛下未満の陛下。もし本当に世界を変えたいのなら、あなた様は誰よりも強くならねばなりません。誰よりも汚れ、誰よりも恐れられ、誰よりも嫌われる覚悟をなさらねばならない」

「そのつもりだ」

「いいえ。まだ足りません」


 マル=シレスの声が、少し低く落ちた。


「あなた様はまだ、ご自分の手を汚せば世界を清められると信じておいでだ」

「違うのか」

「手が汚れるだけでございます」


 森の雨より冷たいその言葉に、リルは沈黙した。

 マル=シレスは続ける。


「それでも進まれるならば、私はお手伝いいたしましょう。あなた様が王になり、正義の名で敵を潰し、民を救い、法を敷き、秩序を作るところまで。ええ、実に美しい物語でございます」

「その言い方では、続きがあるようだな」

「物語には、たいてい続きが。王になった後で、あなた様は知ることになります」


 マル=シレスは微笑んだ。


「弱きものが踏みにじられる世界を憎んでいたあなた様が、誰よりも大きな足を使う立場になったとき、ご自分が何を感じるのかを」


 その時のリルには、マル=シレスの言葉が、単なる皮肉ではなかったことがまだわからなかった。

 だから彼は、ただ拳を握った。


「俺は王になる。この世界を変える」

「はい」

「そのために必要なら、どんな汚れも引き受ける」

「ええ」


 マル=シレスは深く一礼した。


「では、その美しい汚れ仕事に、私めも少々混ぜていただきましょう」


 リルは、マルの白い手を見た。

 細く、美しく、道化じみた手の奥に、何か途方もなく巨大なものが隠れている。

 この手を取って、自分は王に近づいた。

 同時に、何か取り返しのつかないものにも近づいた。

 リルはそれを理解して、それでも、手を取った。

 正しい世界を作り、間違った世界を踏みにじるために。


「……ま、乗りかかった泥船ですからね。沈むかもしれませんが、少なくとも退屈はしません」

 トルカが小さく呟いた。


「えっ? 沈むんですか? ワヌレイ、泳げないんですけど! 沈むなら先に言ってくださいね!」

 ワヌレイはあまり意味がわかっていなかった。


「素晴らしい船出でございますね」

 マル=シレスが笑った。


 雨は、まだ森を濡らしていた。


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