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#1 王位志向者リル=グレスと外世界由来存在マル=シレスとの初回接触記録

 リル=グレスが、まだ王ではなかった頃。

 彼は雨の中にいた。


 古い砦があった。

 今は役目を失った、かつてグレス家が境界を守るために築いた小砦だった。

 リルたちは、そこへ逃げ込んだ。


 彼の兵は少なかった。剣も矢も足りず、馬は痩せて、旗だけが立派だった。黒地に銀の獣を描いたその旗は、泥と雨で重く垂れている。


 最初のうちは、リル一党が勝っているように見えた。


 抵抗しない貧しい村から奪うことばかり慣れていた徴発隊は油断していた。

 まさか、地方武門の次男坊が仮にも正規部隊に対し、本当に剣を抜くとは思っていなかったのだ。


 だが、数が、場所が悪かった。

 丘の上に並んだ弩兵に有利を覆され、道は荷車で塞がれ位置取りは自由にならない。

 リルの兵は街道の上でひとり、またひとりと倒れていった。

 村人たちを逃がすことで、精一杯だった。


 今、彼の周りに立っているのは十二人だけだった。

 いや、十一人。

 背後で一人が膝をついた。

 脇腹に矢が刺さっている。


「置いていってください、若」

「黙れ」


 リルはその男──トルカの腕を掴んだ。グレス家当主に仕えた忠実な家臣でありながら、その息子の出奔に随伴した酔狂な男である。


「逃げ延びれば、続きがあります」

「俺はもう見捨てたくない」


 街道で倒れた兵を、リルは置いてきた。

 置いていくしかないと言ったのはトルカだった。


 リルは彼を肩に担ぎ、砦の奥へ逃げ込もうとした。

 だがすでに、崩れた門の外に松明が見えた。丘を登ってくる。雨の中で炎が揺れている。

 追撃部隊だ。リルたちを討ち取り、反逆の芽をここで摘むための兵。

 隊長の外套の留め具にはオルディアス王家の徴発印があった。

 野盗ではなく、王の名で奪い、王の名で追ってきた兵。


「リル=グレス!」


 声が響いた。


「武器を捨てろ。おまえの命だけは助ける」


 リルは笑った。


「助けてどうする。おまえの主人の帳簿に俺の名前でも載せるのか」

「グレス家の小僧。もう終わりだ」

「終わるのは、俺がそう決めた時だ」

「その威勢だけで王命に逆らえると思うな」

「知っている」


 リルは一歩踏み出した。


「だから俺は剣を持っている」


 堂々と立ちながら、ああ、俺はここで死ぬのだ、という確信が胸の中に深く沈む。

 何も為せぬままここで泥のように死ぬ。

 自己満足の中で。兄のように。


 その時だった。ちりん、と鈴が鳴った。

 雨音の中で、その音だけが妙にはっきり響いた。


 敵兵も、リルの兵も、全員が同時に振り向いた。

 砦の中庭に、男とも女ともつかない美しい人物が立っていた。

 場違いな衣装だった。


 上半身は侍従のように整っている。黒い燕尾服、銀糸の刺繍。鎖飾り、白い手袋。腰から下は、継ぎ接ぎの色布を重ねた道化の衣装で、足首には小さな鈴がついていた。

 そして白と黒の髪の毛に分かれた頭には、犬のような三角の耳。

 雨に濡れているはずなのに、彼の髪も衣装も、少しも湿っていなかった。


「いやはや」


 その人物は、砦の惨状を見回してから、深々と一礼した。


「これはこれは。たいへん風情のある古砦でございますね。崩れた壁、濡れた旗、血と泥と若い野心。おまけに敗北の匂いまでついている。実に贅沢でございます」


 敵兵の隊長が槍を向けた。


「何者だ」

「通りすがりの道化にございます」

「ふざけるな」

「それが仕事でして」


 道化はにこりと笑った。


 リルは剣を構えたまま、その人物を見ていた。

 犬耳が生えていることを除けば、普通の人間のように見える。

 だが、何かがおかしい。

 雨粒が彼の身体を避けていた。

 彼の周囲だけ、雨粒が落ちる速度を忘れているように見えた。


 そして影。


 松明の光に照らされている影が、砦の中庭に収まっていなかった。

 壁を越え、折れた物見塔を這い上がり、さらに夜の向こうへ、見えないところまで伸びている。


「殺せ」


 隊長が命じ、弩兵が構える。

 矢が放たれた。

 道化は避けなかった。


「そこまで急いで届く必要はございませんよ」


 矢は彼の胸元に向かい、──白い手袋の前で止まった。

 進むことを忘れたように、雨の中で震えていた。

 道化はその矢をつまみ上げる。


「粗末な矢ですね」


 彼は残念そうに言った。


「鏃の研ぎが甘い。羽根の揃えも雑。徴発隊の追撃兵は、奪うための道具は上等でも、殺すための道具は案外ぞんざいでいらっしゃる」


 隊長の顔が歪んだ。


「う、撃て」


 残りの弩兵たちが、一斉に引き金を落とした。

 結果は同じだった。

 道化は、そのうちの一本を指でつまみ、折った。

 ぱきりと鳴る音は小さかったが、敵兵たちは一斉に後ずさった。

 リルは目を瞠る。


「おまえ、魔術師か」

「おや。おわかりになりますか」


 道化は初めて、リルをまともに見た。

 赤紫がかった瞳。

 底の見えない、妙に澄んだ目だった。


 背後でトルカが低く呻いた。

 矢傷から流れた血が、雨水に薄まり、石の目地を赤くしている。

 それでもリルは、すぐには振り返れなかった。

 目の前の道化から目を離す方が危険だと、本能が告げていた。


「あなた様がリル=グレス殿で?」

「そうだ」

「王になりたい方」

「違う。あいつらを止めたいだけだ」

「ええ。では、国を取るしかございません」

「村を守れればそれでいい」

「王に逆らう者は、たいてい最初はそう申します」

「俺は王になりたいわけじゃない」

「では、王命を止めるだけで満足なさる?」


 リルは答えなかった。

 道化は恭しく頭を下げた。


「では、十二人の兵と折れかけの剣と、濡れた旗をお持ちの未来の王よ。ひとつ、ご提案がございます」

「今か」

「負け戦の底で拾う札ほど、化けるものでございます」


 笑う。


「私を雇いなさいませ」


 敵兵の隊長が怒鳴った。


「無視するな!」


 槍兵たちが突っ込んだ。

 崩れた門を越え、鉄と革と足音が中庭へなだれ込む。

 道化はリルを見たまま、指を一本立てた。


「マル=シレス」

「何?」

「私の名でございます。以後、お見知りおきを」


 その指が、軽く振られた。

 それだけで、敵兵たちは転んだ。

 槍を構えたまま、雨の石畳に顔から倒れた。

 前列も、後列も、弩兵も、隊長も、まるで足元の地面だけが突然抜けたかのように、全員が同時に崩れた。

 彼らは起き上がろうとしたが、彼らの鎧は、異様に重くなっていた。

 鎧が背中に貼りつき、兜が首を押し潰し、槍は石柱のように地面へ沈んでいる。敵兵たちは呻き、指先を震わせるだけだった。雨水の中で、呼吸が苦しくなる。


「何をした」


 リルが問う。


「少々、彼らの装備に礼儀を教えました」

「それだけか」

「それだけで十分でございましょう?」


 マル=シレスは、倒れた隊長の前にしゃがんだ。

 そして、子供に話しかけるような声で言った。


「さて。あなた方は今から、未来の王がこの古砦を出ていくのを見送ります。声を上げる必要はございません。追う必要もございません。できないことを無理にしようとすると、身体に悪うございますから」


 隊長は歯を食いしばった。


「化け物め」

「よく言われます」


 マル=シレスは微笑んだ。

 リルは剣を下ろさなかった。


「なぜ助けた」

「助けたのではございません。見物に来たのです」

「見物?」

「はい。陛下がどこで潰えるのか、あるいはどこから這い上がるのか。それを拝見したく」

「陛下と呼ぶな。まだ王ではない」

「おや、失礼。では、まだ王ではない陛下」

「ふざけているのか」

「もちろん」


 へたりこんでいた兵──トルカが、恐る恐る言った。


「若……この者は」

「黙っていろ」


 リルはマル=シレスから目を離さなかった。


 助かった。それは事実だ。だが、恩人だとは思えなかった。

 目の前の道化は、獣の檻の前で、珍しい生き物の動きを眺めている者の顔をしていた。


 それでもリルにはわかった。

 この道化は使える。

 使うには危険すぎるが、遠ざけるには、もっと危険すぎた。


 先程の“提案”。

 雇え、と言ったか。


「マル=シレス」

「はい」

「おまえは何を望む」

「実に王らしい問いですね。礼より先に報酬の話とは」

「礼は後で言う。必要ならな」

「不要でございます」

「なら、何が欲しい」


 マル=シレスは立ち上がった。

 雨の中で、鈴が鳴る。


「物は要りません。爵位も、土地も、金も、男も、女も、神殿の特権も、商人の帳簿も、私にはさほど」


「では、なぜ俺に近づく」

「面白そうだからでございます」

「それだけか」

「大抵のことは、それだけで足ります」


 リルは、そこで初めて少し笑った。


「狂人だな」

「ありがとうございます」

「褒めていない」

「存じております」


 二人はしばらく見つめ合った。

 古砦には、雨音と、倒れた兵たちの呻きだけがある。

 マル=シレスは自分の胸に手を当て、芝居がかった仕草で一礼した。


「リル=グレス様。私はあなたに力を貸しましょう。剣では破れぬ門を開き、兵では届かぬ塔に手をかけ、敵が信じる地面そのものを裏切らせて差し上げます」

「代償は」

「いずれ」

「今言え」

「いずれ申し上げる方が、きっと楽しい」

「俺が拒むと思わないのか」

「拒めるうちは、拒めばよろしいのです」


 マル=シレスの声が少しだけ低くなった。


「王とは、選べるうちは選ぶ生き物です。選べなくなってからが、本番でございます」


 その言葉の不吉さに、わずかに惹かれた。


 敗走の夜。雨と血と泥の底。十二人の兵。折れた剣。濡れた旗。

 その場で差し出された魔術師の手は、罠にしか見えなかった。

 だからこそ、取る価値があった。


「いいだろう」


 リルは言った。

 力を貸せ、と言おうとした。略奪を止めるために。

 ──王命を止めるだけで満足なさる?

 道化の言葉が反響する。

 王命。末端の暴走。いずれにしても、今の王がこれを止めていないのは確かだった。

 ならば、答えは出ている。


「俺を王にしろ、マル=シレス」

「はい」


 道化は微笑んだ。


「ただし、ひとつ訂正を」

「何だ」

「私は、あなたを王にはいたしません。あなたが王になるのです。私はその過程で、少々、世界の継ぎ目をほつれさせるだけでございます」

「面倒な言い方をする」

「真実とは、だいたい面倒な形をしておりますので」


 マル=シレスは手を差し出し、リルはそれを握った。

 違和感があった。

 肌越しに感じる骨格も、掌の厚みも、指の長さも、自分たちと変わらないが、温度が違った。

 手を握ったはずなのに、リルは一瞬、巨大な壁に触れたような感覚を覚えた。

 指先ではなく、掌全体ではなく、身体ごと。

 何か、途方もなく大きなものの表面に、ほんの一点だけで接しているような感覚。


 リルは眉をひそめた。

 マル=シレスの犬耳が、ぴくりと動いた。

 彼は笑った。愉快そうに。

 まるで、すでに結末を知っている観客のように。


「誰しも、場に応じた装いをするものです。宮廷では礼服を、戦場では鎧を、寝室では薄衣を」


 リルは手を離さなかった。

 マル=シレスは、リルの手を握り返した。


 その力は弱い。

 少なくとも、そう感じる程度に調整されていた。

 だがリルの本能は、そうではないと告げていた。


 この手は、自分を握り潰せる。


「いつか見せる気か。装っていないものを」

「ええ」

「その時、俺はどうなる」

「さあ」


 マル=シレスは、楽しげに目を細めた。


「膝をつくかもしれません。笑うかもしれません。泣くかもしれません。あるいは、ご自分の国を見下ろす目が、少し変わるかもしれません」

「国を?」

「ええ。国を」


 マル=シレスは、倒れた敵兵たちを踏まないように、軽やかに歩き出した。


「まずはこの古砦を出ましょう。未来の王には、まだ死んでいただくわけにはまいりません」


 リルは傷ついた兵を担ぎ直した。

 マル=シレスが先を歩く。

 その背中は細く、優雅で、同じ人間の大きさに見える。

 だが、雨の中で揺れる彼の影だけは、遥か遠くまで伸びている。


 リルはその影を見て、奇妙な確信を抱いた。

 この道化は、味方ではない。忠臣でもない。

 神でも悪魔でもない。

 もっと厄介なものだ。

 世界の外側から、こちらを覗き込んでいる観客。

 しかも、その観客は今、自分と同じような姿をして、中庭を歩いている。

 リルは笑った。

 雨で濡れた顔に、血が混じる。


「マル=シレス」

「はい、陛下」

「その呼び方は、まだ早い」

「ですが、お似合いでございます」

「俺が王になったら、おまえを何と呼べばいい」


 道化は振り返った。


 白黒の髪。

 白い顔。

 赤紫の瞳。

 犬耳。

 侍従と道化の混ざった、胡散臭く美しい姿。


「道化で結構です」

「魔術師ではなく?」

「魔術師は、力を見せびらかしたがる肩書きです。道化は、真実を冗談にして差し出せる肩書きでございます」

「なら、俺はその冗談を使って王になる」


「たいへん結構」


 マル=シレスは恭しく一礼した。


「では、これより陛下の天下取りに、卑しき犬耳の道化が一匹、加わりましょう」


 その夜を境に、戦況は変わった。


 門は、内側から勝手に開いた。

 敵の兵糧は、倉庫ごと一夜で腐った。

 砦の見張りは、夜明けまで昨日を見張っていた。

 密書は宛先を間違え、矢は風向きを忘れ、裏切り者は寝言で陰謀を喋った。

 そして、マル=シレスはリルを十倍の巨人にした。


 兵たちは、それを奇跡と呼んだ。

 敵は、それを悪夢と呼んだ。

 リルは、それを必要な禁じ手だと思った。


 その時の彼はまだ知らなかった。

 十倍の巨体など、マル=シレスにとっては子供の手品にも満たないことを。

 もし彼がその気になれば、リルの戦場も、城門も、兵も、旗も、すべてが道化の靴先の前で小道具に変わるのだということを。


 リルはまだ知らなかった。

 けれど、最初の握手の時に感じた、あの巨大な壁のような感触だけは、いつまでも忘れなかった。

 同じ大きさの手を握っているはずなのに。

 その向こうに、途方もなく大きな掌が隠れている。

 その感覚は、後に彼が外世界で真実を知った時、ようやく意味を持つことになる。

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