EX-6 稀代の大天才騒音家レドロネットについて
(みんな、何に拍手しているんだ?)
洋琴の前に座る十歳のレドロネット=ロワは、集まった来賓たちの賛辞を浴びて、あくびをしないように必死だった。
父は客に向かって微笑み、母は少しだけ誇らしげな顔をした。レドロネットはそのたび、ますます退屈になった。
──末恐ろしい。あの年でもう譜面を読めるのか。まるで大人の楽師のようだ。
大人たちはみんな、代わり映えのない反応をした。
意味がわからない。譜面があるなら、そこに記された音を順番に鳴らせばいいだけだ。強く鳴らせとあるなら強く、弱く鳴らせとあるなら弱く。それの何が難しいというのか?
そんなことをわざわざ口にするのは、とっくにやめていた。
年頃特有の謙遜だとか、逆に反骨心だとか、そんなありきたりな言葉で片付けられてしまうだけのことを知っている。
楽器を弾くのは面白い。指を動かせば、音が鳴り、音が重なれば、形になる。そこまでは嫌いではなかった。
けれど、大人たちが見ているのは、いつも別のものだった。年齢だとか、家柄だとか、行儀だとか。それはすべてレドロネットが最初から与えられていたもので、自分で掴み取ったものではなかった。
絵とか、陶芸とか、演劇とか、何か別のものに挑戦してみるべきなのかも知れない。そこでも、同じ思いをするだけかもしれないけど。
*
ある日の午後、屋敷に珍しい客が来ることになった。母は朝から落ち着かない様子で、父もいつもより服に気を使っていた。
レドロネットも、いつものように清潔な白い襟の襯衣に、深い紺の上着、膝丈の洋袴を着せられている。
魔人の音楽家、らしい。
広間の扉が開いて、静かに入ってきたのは、奇妙な鳥の魔人だった。
レドロネットは、窓際の椅子に座って、それを見た。
肩や腕に羽毛の名残があり、首の角度は少し傾いている。片足に重心を置く姿勢は、行儀が悪いようにも見えた。だが、不思議と乱れてはいなかった。むしろ、そうでなければ立てないように見えた。
──クヴェル=ラヴェル殿は、本当にお気の毒な方でね。
──けれど、その不幸が音に深みを与えているのでしょう。
──魔人でありながら、あれほど繊細な音を奏でるとは。
──いえ、魔人だからこそ、でしょう。
客たちの小声のささやきを、レドロネットの耳は拾っていた。まだ奏でられてもいないのに、すでに聴いたように語るのだな、と醒めた気持ちになった。
魔人はその来歴と外見から、忌避される存在だ。
世捨て人として暮らす者。皮剥ぎ職人や刑吏や墓掘りといった誰も就きたがらない職を充てがわれる者。奇妙な身体を晒し者にして日銭を稼ぐ者。多くはそのどれかだと教えられた。
芸術を志す魔人など、少なくともレドロネットは他に知らない。来賓も同じだろう。
楽器が操れる、少し珍しい魔人。
公演場所が見世物小屋ではなく、貴族の邸宅になっただけではないか。
レドロネットはそのぐらいに想像していた。
「ラヴェル殿。本日はお越しいただき、光栄です」
「契約の日程通りです」
母の挨拶に、クヴェルは短く答えた。このやり取りに、客人の何人かがかすかに笑った。やはり魔人は変わっていて面白い、そんな様子だった。
クヴェルは気にした風もなく、演奏用に空けられた場所へ進み、使用人から大提琴を受け取った。それから椅子の高さを確かめ、床を蹄で軽く叩く。それから、壁と天井を順に見た。
「そこの空いている椅子を二つ、右へ。その花瓶も」
そう指示を飛ばし、使用人を戸惑わせた。父が合図すると、そのようになる。
「邪魔なのですか?」
「はい。音に干渉します」
「繊細なお耳なのですね。素晴らしいですわ」
「いいえ。邪魔なだけです」
魔人は笑わなかった。その顔は、無作法に見えるほど動かなかった。周囲の大人たちはそれを咎めない。やはり、魔人だからだろうか。
やがてクヴェルが椅子に腰掛け、大提琴を弾き始める。
最初の音は、とても小さかった。悲しくも、優しくもなかった。ただ冷たかった。
同じ形の音が、少しずつ位置を変えながら繰り返される。規則正しい。だが、完全に同じではない。三拍目だけ、わずかに床が先に震えた。次の反復では、窓枠が遅れて鳴った。さらに次は、遠くの廊下の足音が、まるで最初から曲の中に組み込まれていたように重なった。
少なくともレドロネットには、そう感じられた。
背筋が寒くなっていた。
(これは、なんだ)
曲は盛り上がらない。
泣かせようとも、慰めようともしない。
聴く者を心地よくさせるための定跡を、ことごとく避けていく。
だと言うのにどうしてここまで心を揺さぶる?
どんな譜面を演奏すればこうなるのだ。
いや、きっと紙で用意された譜面なんてものはない。
稲妻が走るように理解する。
椅子。床。壁。窓。来賓の咳払い。衣擦れ。揺れる燭台の火。
クヴェルはそれらをすべて音として聴いて、演奏しているのだ。
そして、それは現実をそのまま写したものではなかった。
床の震えは低い弦の奥へ沈み、窓枠の軋みは銀の線のように細く伸び、衣擦れはほとんど聞こえない装飾音になって、曲の縁にだけ残る。
世界の無秩序が、クヴェルの手を通ることで、冷たく、澄んだ、美しい形を得ていた。
世界は、もともとこんなにも美しく鳴っていたのだろうか。
それとも、この魔人に聴かれた瞬間だけ、世界は宝石のように煌めくのだろうか。
レドロネットは、思わず自分の両手のひらを見つめていた。震えていた。
そして、自分が自惚れていたことにようやく気づいた。
大人たちが驚くほど早く譜面を読み、正確に指を動かせること。
神童という評価を馬鹿にしながらも、それは知らず知らずのうちに、自負として育っていた。
けれどもそれは単に優れた奏者というだけに過ぎない。
クヴェルは違う。
百年後の楽師は名を覚え、譜面を分解し、真似ようとして失敗するだろう。
聴いた者の、その後の音楽観を変えられてしまうものだ。
何十年研鑽を積もうが、あの領域には決してたどり着けない。
盲目の者が、光ある者の視界を知ることなど絶対に叶わないのと、同じだ。
胸と肚の底が熱くなるのを感じる。
悔しかった。そして、嬉しかった。
間違いなく、本物の稀代の天才だ。
こんなものが、この世界にあるのか。
こんなふうに世界を聴いている者がいるのか。
気がつけば、演奏は終わっていた。誰もすぐには拍手しなかった。しばらくして、母が小さく手を叩く。すると、客人たちも我に返ったように拍手を始めた。
──素晴らしい。
──やはり、どこか人の音楽とは違いますな。
──あの冷たさが、かえって胸に迫ります。
──飛べぬ鳥が、音で空を求めているようでした。
──魔人の孤独とは、ああいう響きになるのですね。
(────はぁ?)
口々に言う感想に、レドロネットは音が鳴るぐらいに強く、椅子の肘掛けを握りしめていた。
違う。ふざけるな。
おまえらには耳がついていないのか。
揃いも揃って何を聴いていたんだ?
クヴェルの羽毛か? 蹄か? 奇妙な姿勢か? 魔人という呼び名か? 哀れな来歴か?
いま、ここにあったものを、誰も見ていない。
誰も聴いていない。
クヴェルは立ち上がり、短く礼をした。表情は変わらない。褒め言葉にも、憐れみにも、慣れているようだった。
父が、ともに茶をどうかと卓へ誘ったが、クヴェルは首を横に振った。
「音が多い、少し休みます」
そう告げて、広間から去っていく。
その背中を、レドロネットは追っていた。
*
庭へ出るころには、結ばれていた飾り紐が少し曲がっていた。
白い靴下の先に、湿った土が跳ねる。磨かれていた革靴が、石畳の水を踏んだ。母が見れば眉をひそめ、使用人にすぐに布を持ってこさせただろう。
広間の拍手と笑い声は、窓硝子を挟むと遠い別の国の音のようだった。
クヴェルは噴水のそばに立っていた。
首を少し傾け、片足に重心を置いている。風で羽毛が微かに動いた。
奇妙な立ち姿だと最初は思ったが、今のレドロネットはそれを理解できるつもりになっていた。世界という騒音に対してまっすぐ立とうとすると、ああなってしまうのだと。
「さっきの、違いますよね?」
前に立つレドロネットに、クヴェルが、さほど興味なさそうに視線を向けた。
「別に悲しい曲でも、あなたの孤独を表した曲でもなかった」
「ええ、そうです」
あまりに簡単に認められて、レドロネットは言葉に詰まった。
「なら、どうして……」
「どうして、とは」
「どうして、黙っているんですか。訂正しないんですか」
クヴェルはすぐには答えなかった。
「みんな、何も聴いていなかった。あなたの音楽になど何の興味もなかった。魔人だからとか、かわいそうだとか、そんなことばかり言っていた」
「聴く者がどう感じるかは自由です。私にそれを支配する権利はない」
「違う……」
「いいえ、違いません」
「違う!」
声が跳ねた。庭の樹に止まっていた鳥が、驚いたように枝を揺らして飛び去った。
ふざけるなふざけるな。
ふ・ざ・け・る・な。
「あなたは天才だ」
レドロネットは短く言い切った。
「本物の天才だ。ボクなんかとは違う。譜面の通りに指を動かしているだけの子供とは違う。なのに誰もあなたのことに気づいていない。誰もあなたを正しく評価していない! 奇妙な珍獣扱いで終わらせてわかった気になっている! それであなたはいいのか!」
「私の活動には、それで支障はありません」
「いいのか、って聞いてるんだよ!」
喉が奇妙な音を奏でる。涙を流したいわけではなかった。そうすれば子供の泣き言として解釈されるだけだ。それだけは嫌だったのに、止まらなかった。自分でもこれが理不尽な癇癪だと、わかっていた。
クヴェルは何も言わない。目の前の子供が泣きじゃくる様も、世界が奏でる音楽の一つでしかないと言うように、ただ耳を傾けていた。
「ボクは嫌だ! おまえが認められないなんてボクは絶対に許さない。そんなの嘘だって言え。悔しいって言え。怒ってるって言え。おまえの音楽を魔人だからなんて説明で片付けられて、それでいいわけないだろ」
やはりクヴェルは何も返さない。同意も否定もたしなめもなかった。
その代わりに、懐から小さな笛を取り出して、唇に添えて、吹いた。
まず、澄んだ音が鳴った。
次の音は、噴水の水滴と重なった。
三つ目は、レドロネットのしゃくり上げる息に似ていた。
レドロネットの怒りと悲しみが、妙なる音楽へ変えられて、庭に置かれていた。その短い反復は、慰めですらなかった。ただ、どうしようもなく美しかった。
ロワ家の子息、天才奏者の卵、どちらでもない、ただの怒れる子供であるレドロネットが、目の前の魔人に解釈されていた。
醜いものは醜いまま、幼いものは幼いまま、冷たい光を当てられて、美しく鳴っていた。
(あ……)
ずっと自分の中にあった、埋まらない欠損。それがかすかに満たされていくのを、レドロネットは感じた。
足元がふらつき、寄りかかるような姿勢になる。クヴェルは奇妙な姿勢のまま、傾く方向に腕を置いた。抜けた羽が一枚、レドロネットの背中に落ちる。
「クヴェル=ラヴェル。絶対におまえを世界に認めさせる。おまえという本物の天才を、知らしめる。気づかせる。魔人という枠組みでしかおまえを見られない馬鹿どもに、耳を塞げなくさせてやる」
吐き出すように言う。けっして純粋な願いではなかった。
それもそのはず、人間の心というのは、常に騒音にまみれているのだから。
「もうおまえを無視させない。どんな手を使ってでも」
クヴェル=ラヴェルが永遠に沈黙する、ちょうど十年前の出来事だった。




