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#31 魔王と勇者の休日、あるいは王家領南西部村落における限定焼却措置について

 その日、リル軍は王家領南西部の村を焼いた。

 半分だけ。


 *


 ボルトゥート奪取から一ヶ月。

 リル軍は、ボルトゥートの砦を橋頭堡として南下を進めていた。


 王家軍は大規模な会戦を避けた。負けるとわかっている戦いには出てこない。王都へ至る街道を細く削り、橋を落とし、倉を空にし、徴発済みの荷を別道へ逃がす。村を一つ使い潰して一日を稼ぎ、小さな川の渡しを潰して半日を稼ぐ。その時間で次の倉から穀物が消える。

 勝っていても戦争は楽にならない。


 村に火をつける目的は二つあった。

 一つは、王家軍が補給中継地として使うはずだった納屋、馬屋、荷置き場を潰すこと。もう一つは、煙を上げることだった。


 南西街道に、リル=グレスがいる。

 魔王の角飾りをつけた反王家軍の首魁が、王家領の村を焼いている。

 その知らせが、王家軍の斥候によって本隊へ届けられることも、作戦に含まれていた。


 前日のうちから退去勧告が出されていた。夜明け前にはリル軍の兵が入り、老人と病人を戸板に乗せ、子供を荷車に集め、家畜を南の牧柵へ追った。井戸には灰が入らぬよう兵が立ち、麦倉の半分は封を切らずに残された。残り半分は徴発品として押収され、後日補償の対象となる。


 風向きは朝から三度確認された。火が畑へ移らないよう、先に草を刈った帯が村の外縁に作られていた。乾いた木が鳴り、藁が低く爆ぜた。白い壁土が熱で剥がれ、黒い煙が屋根の隙間から上がる。鶏小屋の前に残っていた餌箱が燃え、子供が泣いた。女が兵の腕を叩き、男が地面に膝をついた。


 村の北側に立つ、リルの黒い外套の襟元には煤がついていた。腰には大剣。頭には、悪竜ヴォルグの角を削って作らせた角飾りがあった。


 竜殺しの戦利品だった。

 救い主の証として作られたもの。竜を討った若き英雄。民害を払った王位志向者。最初人々はそういう形で語りたがった。今、その角は黒く磨かれ、額の上で二つに分かれている。遠目には、魔物の角に見えた。


 村人たちがリルへ向ける目には、恐怖ではない眼差しもあった。憎しみだけでもない。困惑、屈辱、諦め、怒り、そして、まだ死んでいないことへの行き場のない安堵。そういうものが混じっていた。


 老人が一人、兵の制止を振り切って前へ出た。

 杖をついている。右足を引きずっていた。避難名簿にあった三名の老人のうちの一人だ。


「殺さなければ許されるとでも言うのか。これからどこで寝ろというんだ」

「補償はある。仮宿を用意する」

「わしらは家を焼いた連中の世話になれというのか」

「そうだ」


 老人はしばらくリルを見ていた。やがて、唾を吐いた。唾はリルの靴には届かなかった。乾いた土の上に落ちた。

 兵が老人を連れていく。


 軍事上必要だった。村人は退去させた。死者は出していない。補償もする。王家軍に使われれば、この村はもっと悪い形で失われたかもしれない。

 リルは、それをここで口にすることはなかった。


「いやはや。死者なし。補償あり。手順あり。井戸の管理まで行き届いている。実に清潔な放火でございますね、若様」

 マル=シレスは、焼けていく村を眺めながら、いつものように丁寧な声を出した。

「ああ」

 リルは、黙れ、とは言わなかった。朽ちた木のように佇んでいた。

 火に、梁が折れる音がした。炎の中で、古い祭り飾りが一瞬だけ赤く光り、灰になった。


「煙も充分に上がった」


 リルが目配せをすると、マルはすれ違うようにして近づき、腕と腕を重ねる。一瞬の交錯だったが、それで良かった。遠隔地にいる兵への指示はそれで届いた。

 王道化同調(クラウン・クラウン)は、最初こそ気味悪がられた。だが、利便性は嫌悪に勝った。戦場で孤立し、命令から切り離される恐怖を知っている兵ほど、それを受け入れるのは早かった。

 たとえ仕組みがわからなくとも、リル様の命令が届く。それだけで、兵には十分だった。

 ボルトゥート攻略戦において、御輿の上で妖しげに身体を重ねる二人を目撃していた兵もいたが、二人の関係性については誰も触れようとするものはいなかった。触れたいはずもなかった。


 リルは帳面を開いた。

 風が紙をめくろうとする。左手で押さえ、右手で記す。


・焼却開始。

・北風弱。

・三番家屋、予定より早く崩落。西側処理済。

・井戸蓋再確認。異常なし。

・村民退避。死者、現時点でなし。


 書き終えて、リルは顔を上げる。


 黒い角飾りの先に、煙が流れていた。


 *


 ボルトゥートの砦の外壁には足場が組まれ、門の上にはリル軍の旗が掲げられていた。

 中庭には荷が積まれていた。

 麦袋、乾肉、薬草箱、矢束、釘、縄、鍋、補修用の板。書記が台の上で札を書き、フェリペの部下が怒鳴りながら荷の数を確かめている。施療所に転用された旧兵舎からは、煮沸した布の匂いがした。


 リルは中庭を横切った。

 角飾りを見た兵が、ほんの少し目を伏せる。畏怖か、気まずさか、疲労かはわからない。あるいは、そのすべてだったのかもしれない。


 旧厩舎の横を通りかかった時、木剣の落ちる音が聞こえて、リルは足を止めた。


 厩舎の裏手は、今は訓練場として使われている。その中央に、ワヌレイがいた。

 肩の下で衣が平らに折られ、布で固定されている。切断面は服の下に隠れて見えない。足元には、落としたらしい木剣が転がっている。


 ──クヴェルの爆発術により片腕を失ったワヌレイが、寝台から起き上がれるようになるまで二週間がかかった。それからさらに二週間、毎日ここに来ていた。ようやく食器を持ったり、倒れずに歩けるようになってはいたが、戦闘復帰には程遠い。

 バルトロメアは、そもそも退役するべきだと言っていたが、ワヌレイは聞かなかったことにしたらしい。


 ワヌレイは膝をつき、左手を伸ばす。右手で地面を支えることができないため、身体の重心がうまく取れない。拾おうとして、指先が柄を押し、木剣は土の上を少し滑った。


「……っ」


 小さく息を吐いて、ワヌレイはもう一度手を伸ばした。

 今度は柄を掴んだ。

 立ち上がるのにも、時間がかかった。左手に木剣を持ったままでは、地面を押せない。彼女は膝と足だけで身体を起こそうとして、途中で一度、姿勢を崩した。

 転ばずにすんで、立ち上がる。

 小さく息を吐いて、彼女は姿勢を戻した。

 リルは声をかけなかった。そもそも見てはならないと思ったが、目を離せなかった。

 

 ワヌレイが生きていることが嬉しかった。


 そう感じる自分にふざけるなと思う。ワヌレイ隊を死なせ、ワヌレイの右腕を奪ったのは誰だと思っているのか。いや、自分ではない。奪ったのは敵であるクヴェルだ。

 トルカにも言われた。命じたのは若だとしても、ワヌレイは自分の意思で軍に残った。あの言葉は忘れろ。あれはどうしても抑えられなかった逆恨みだ、と。

 それはわかっていたし、そうするつもりだった。

 だが、目の前でワヌレイが木剣を拾おうとするたび、その決意は萎えていく。


 ワヌレイがこちらを見て、目が合った。

 彼女は一瞬、ひどく嫌そうな顔をした。次に、困ったように笑おうとした。結局、どちらにもなりきらなかった。


「見てました?」

「……少し」


 ワヌレイは木剣を下ろした。

 汗をかいていた。黒髪が頬に張りついている。


「痛むか。無理をするな。休んでいろ」

「若様がそれを言うんですか?」


 リルは返す言葉を探したが、なかった。笑うこともできなかった。


 ワヌレイは木剣を壁に立てかけた。左手だけで腰の帯を直そうとして、少し手間取る。右手がないことを、身体がなかなか覚えられないでいる。

 自分の命令で部下と右腕を失った臆病な兵士が、戦線に復帰するべく必死に鍛錬している。それをどういう気持ちで受け止めればいいのかリルにはわからなかった。


「若様、明日、少し付き合ってくれませんか」

「何に」

「歩く練習(リハビリ)です」


 リルは訓練場の外へ目を向けた。中庭では荷の積み替えが続いている。南方からの報告、別働隊の連絡、焼いた村の補償処理、斥候の確認、捕虜の尋問。仕事はいくらでもあった。


「明日は軍議がある。そもそも、わざわざ俺が付き合う理由がない」

「そうですか。……そうですね」


 ワヌレイはうなずいた。

 だが彼女は、立ち去らず、リルから目を逸らさず、黙ってまっすぐに見ていた。責めているわけでも、泣き落とそうというわけでもない。しかし頼みを退けられた兵の顔でもなかった。

 空の右袖が、風に少し揺れた。

 リルは、舌打ちしそうになるのをこらえた。


「……そういう目をするな」

「どういう目ですか」


 ため息をつく。


「何時だ」

「え?」

「歩く練習だ。明日の何時だ」

 

 ワヌレイは、にっこりと微笑んだ。

 ひどく満足そうな顔に、リルは、少しだけ嫌なものを見た気がした。


 リルは、大切な者を使い潰すことは覚えた。

 使った後の者を、どうすればいいのかは、まだ知らなかった。


 *


 翌日の朝、リルは自室の衣装棚の前で止まっていた。


 鎧は論外だった。

 黒い軍装も目立つ。角飾りはもっと悪い。礼服はさらに悪い。剣を外せばいいという問題でもなかった。


「いやはや」


 いつの間にか、扉の横にマル=シレスが立っていた。


「朝から衣装箪笥を相手に睨み合いとは。陛下未満の陛下は仕事が増える一方ですな」

「マル……」

「存じております。片腕の兵士様との逢瀬でございましょう」

「歩く練習に付き合うだけだ」

「ええ。街を歩く練習。たいへん健全でございます」


 マルは軽口を叩きながら箪笥の中を覗き込んで、すぐに顔をしかめた。


「リル様。あなた、この中から街に紛れるための服をお探しになろうと?」

「……何か問題が?」

「私めには首魁、竜殺し、葬儀帰りの軍人、処刑前の貴族、未亡人を不幸にする若領主、の五択に見えます」


 マルは楽しそうに笑い、黒い軍装を退けた。次に礼服を退け、大剣用の帯を退け、銀糸の入った外套を退ける。


「その外套は駄目か」

「駄目でございます。古く上等で、落ちぶれた貴族の匂いがいたします」

「では、これは」

「葬列です」

「これは」

「首を刎ねられる前に着る服です」


 ──あまり物語の生まれない服がよろしいかと。そう言ってマルは、淡い灰色の外套を取り出した。次に、使い込まれた革帯と、短い剣を選ぶ。

 マルがリルの肩に外套をかけ、襟を直す指先は慣れていた。道化のくせに、こういう動きだけは侍従めいていた。


「それにしても、このような役目はこの道化ではなく、仕立て屋の友人が似合いなのですが」


 リルは、糸と針を持った白い少女──オル=ヴェガのことを思い出した。


「あの白い娘か」

「ええ。服を整えることに関しては、私めよりよほど本職でございます。まあ、あの方に任せると、少々直しすぎる恐れはございますが」

 リルはしばらく黙った。

「おまえは──おまえたちは、神と呼ばれる者なのか」

「そう見えますか。リル様には」


 思い浮かべ、さらに少し考える。

 雨に濡れない道化。

 世界を仕立て直す白い娘。

 青い火をまとった処刑人。


「おまえらのような神がいてたまるか」

「まったくでございます」

 マルは、深くうなずいた。


 *


 その頃。


「ジャドさん。髪、整えるの手伝ってくれませんか」


 ジャドは部屋に入ってきたワヌレイに、少しだけ困ったような顔を向けていた。

 机の上には、部隊の当番表と、手入れ中の小刀が置かれていた。紙束の端はそろえられ、油布はきちんと畳まれている。寝台の毛布にも乱れはない。ジャドらしく整った士官室だった。


「そういう役目は、拙者ではなくフェリペ殿やバルトロメア殿が向いていると思うが……」

「やです。ジャドさんがいいです」

「そうか」


 ジャドはそれ以上、理由を聞かなかった。


 椅子を引き、ワヌレイを座らせ、背中を向かせる。右袖は空のまま、肩の下でまだ留められていない。朝の光が、布の端に薄く乗っていた。


「リル殿と街へ出かけるのであったか」

「歩く練習です」

「そうであるか」


 黒い髪にジャドが櫛を通す。最初は少し引っかかって、ワヌレイが小さく肩をすくめた。

 ジャドは髪を梳き終えると、紐を手に取った。

 ワヌレイは膝の上に左手を置いていた。何かを掴むように、指が時々丸まる。以前なら、もう片方の手で髪紐を持つことも、布を押さえることもできた。今はできない。


「いつもより、少しだけ高く結ってもらえますか」

「気合いを入れているな」

「歩く練習なので」

「うむ。歩く練習であるな」


 ジャドは真面目な様子で頷いた。

 その真面目さが、少しだけおかしくて、ワヌレイは笑いそうになって、やめた。

 髪が結われていく。


「近頃、古砦に逃げ込んだ兵士十二人も、一堂に介することが少なくなってきたな」

「……そうですね。少し、寂しいです」

「うむ」


 ヨハンやピートのように、後方勤務へ移った者もいる。血気盛んなレビでさえ、今では無理に前線で使う必要はなくなった。後方へ行ったわけではなくとも、拠点は増えた。それぞれに役割があり、それぞれに人が要る。

 軍は大きくなった。十二人で固まる必然性など、もうどこにもなかった。


 マル=シレスのろくでもない冗談を聞きながら、乏しい毛布を譲り合ってかぶり、薄い粥を啜ったあのころに、戻りたいとは思わない。

 それでもあのときは、全員が近くにいた。


「拙者は、旧王家に家を取り潰された身であるからな。共に語らい、共に笑い、共に泣き。拙者にとって、この軍は、第二の家のようなものだった」


 ジャドは古い武門の娘だった。

 今はリルの配下にいる。だが、元をたどれば、ただの兵ではなかった。リルと完全な対等ではないにしても、膝を折るためだけに生まれた者ではない。振る舞いが古風で、時に堂々としているのは、そのためだった。


「そなたのことは、年の離れた妹のように思っていた」


 ジャドは髪紐を結び終えた。


「だが、もしかすると、子供だったのは拙者の方だったのかもしれんな」

「ジャドさんが?」

「うむ」

「それはないと思います。おっぱい大きいし」

「胸部装甲の厚さで大人度を測るでない」


 ジャドはワヌレイの右袖を手に取り、肩の下で丁寧に畳み始めた。

 布を整え、紐で留める。戦支度に似た手つきだった。


「拙者は、皆が共にいればよいと思っていた。失った家の代わりに、ここが続けばよいと。そなたたちが笑い、リル殿が進み、拙者がその背を守る。それでよいのだと」

「ワヌレイも、それでよかったと思います」

「だが、人は同じ場所に留まるために生きているわけではない。少なくともリル殿にとってはそうだ。そしてきっと、そなたも」


 ジャドの指が、右袖の紐を結ぶ。きつすぎず、ゆるすぎず。

 それからワヌレイの前へ回り、上着の襟を整えた。


「よし」

「変じゃないですか」

「変ではない」

「そうじゃなくて……ええと」


 小さく咳払い。


「ちゃんと、かわいいですか」

「うむ。かわいい」


 ジャドは薄く笑みを浮かべた。

 その笑みは、いつもの武人らしいものではなかった。年上の姉のようで、少しだけ母のようでもあった。


「リル殿にも、きちんと言わせるとよい」

「えっ」

「口にせねば伝わらぬこともある」

「……はい」


 ワヌレイは立ち上がった。

 身体が少し揺れる。ジャドが手を伸ばしかける前に、ワヌレイは左足を踏み直して立った。


「大丈夫です。行ってきます」

「ああ、行ってこい」


 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。

 ジャドはしばらく、その扉を見ていた。


 軍は大きくなり、皆は、それぞれの目指す場所へ移っていく。

 ワヌレイも、きっとそうなのだろう。


 では、リル殿は。

 あの方が変わっていくことも、本当に同じように受け止めてよいのだろうか。

 道を選べているのだろうか。選ばざるを得なかった道を、選んだものとして背負っているだけではなかろうか。


 机の上では、手入れの途中だった小刀が、油布の上に置かれたままだった。


 *


 ワヌレイは砦の門脇で待っていた。

 当然ながら鎧は着ていない。薄い茶色の上着に、動きやすい濃紺の(スカート)。右袖は肩の下で丁寧に畳まれ、紐で留められている。髪はいつもより高い位置で結ばれていた。片手で結んだにしては整いすぎている。誰かに手伝わせたのだろう。

 靴も磨いてあった。


「……歩く練習にしては、準備がいいな」

「歩く練習だから、歩きやすい格好にしただけです」

 ワヌレイは少しだけ頬を膨らませた。


「……似合っている」

「ありがとうございます」


 ワヌレイは少し瞬いて、えへへ、と笑った。

 それから彼女は、リルの格好を上から下まで見た。


「若様も、ええと……誰だかわからない、というほどではないですね」

「変装の意味がないな」

「でも、あんまり怖くないですよ」

「それは褒めているのか……」

「褒めています!」


 ワヌレイは左手で小さな鞄の紐を握り直した。右肩がわずかに動く。ない手で何かを直そうとしたのだと、リルは少し遅れて気づいた。彼女は何事もなかったように鞄を持ち直した。


「行きましょうか」


 砦の門を出る。

 門番がリルを見て、なんとも言えない表情になった。声をかけるべきか、敬礼すべきか、判断に困っている。それから結局門番は中途半端に会釈した。


「……困ってましたね」

「面白がるな」


 ボルトゥート南の街までは、砦から歩いて半刻ほどだった。

 道は整えられていたが、まだ戦の後が残っている。崩れた石垣には仮の杭が打たれ、溝には焼けた木片が沈んでいた。道端には、リル軍の補修班が置いた白布の目印が風に揺れている。


 ワヌレイはゆっくり歩いた。

 以前の歩幅とは違う。右腕がないことで、身体の釣り合いが変わっている。坂道では左肩が少し上がり、下りでは足元を何度も確かめる。疲れているのを隠そうとしているが、隠しきれてはいなかった。


「休むか」

「まだ大丈夫です」


 ボルトゥート南の街は、すでにリル軍によって解放されている。

 王家軍の徴発所は閉ざされ、門前に掲げられていた王家の小旗は外されている。代わりにリル軍の札が貼られていた。税と物資の扱いについて、しばらくは旧台帳を用い、徴発済みのものは再確認する、と書かれている。

 住民たちは、まだリル軍を恐れていた。

 門の内側に立つ兵を見る目には、警戒がある。広場を歩くリル軍の補給兵を見て、話をやめる者もいる。荷台の奥へ子供を隠す女もいた。

 それでも、店は開いていた。

 靴屋の前には修理待ちの靴が並び、鍛冶屋では曲がった鍋を叩いている。焼き菓子の屋台からは、蜂蜜と焦げた麦粉の匂いがした。市場の端では、農夫が痩せた鶏を二羽、籠に入れて売っている。

 徴発に怯えずにすむ日々に、街はまだ慣れていなかった。


 広場の脇で、女が隣人に話しているのが聞こえた。


「本当にもう持っていかれないのかね」

「リル軍の札があるうちは、王家の徴発は通らないって」

「信用できるもんかね」

「息子を連れていかれないだけましだよ」


 別の屋台では、男たちが低い声で話している。


「南西の村が焼かれたって。リル軍らしい」

「何が解放軍だ」

「でも死者はなかったらしいぜ。そういう作戦だって」

「死ななければいいってもんじゃねえよ」


 ワヌレイは、焼き菓子の屋台の前で足を止めた。


「食べませんか、若……じゃなくてルイさん」

「……レナが食べたいなら」


 街中でリル=グレスの名を出すわけにはいかない。ワヌレイという名も知る者は知っている。ルイとレナ、というのは砦を出る前に決めた、それぞれの偽名だった。


「ルイさんが食べたいか聞いてるんです」

「俺はどちらでもいい」

「そういう返事が一番困るんですけど」


 ワヌレイは少し悩んで、蜂蜜を塗った薄い焼き菓子を二枚買った。

 しかし、左手で銅貨を出すのに手間取る。屋台の女が腕の欠けている様子に少し驚いて、手伝おうとした。


「だ、大丈夫です」


 ワヌレイは首を振ったが、差し出そうとした銅貨が一枚、指先から滑った。

 リルが拾うより早く、ワヌレイは膝を曲げた。だが、片手がふさがっている。焼き菓子を落としかける。

 リルは手を差し伸べ、その焼き菓子を受け取る。

 ワヌレイが空いた手で、銅貨を拾う。


「……別に、ルイさんの助けが必要だったわけじゃありませんから。焼き菓子を預けただけです」

「わかっている」

「本当ですからね」


 屋台の女が、そんな二人を見て少し笑った。


「仲がいいんだね。あんた、彼女をしっかり支えてやりなよ」

「……俺か」

「他にいるのかい」


 ワヌレイが居心地悪そうにむにむにと唇を動かして、リルの外套の裾を引っ張った。

 二人はそそくさと屋台を離れた。

 ワヌレイは歩きながら、焼き菓子を少し齧った。蜂蜜が指につき、困った顔をする。右手で拭こうとして、ないことに気づく。少しだけ止まり、左手の指を見た。


「……自分でできます」

「まだ何もしていない」


 リルは手巾(ハンカチ)を出しかけていたところだった。

 ワヌレイは唇で指先の蜂蜜を拭った。その仕草が、妙に子供じみて見えた。


「ルイさんも食べてください」


 促され、リルは焼き菓子を齧った。

 甘かった。少し焦げていた。麦粉が荒く、蜂蜜は薄い。それでも、戦場の乾いた携行食よりはずっとましだった。


「どうですか」

「うむ、甘く、焦げている」

「文句があるなら食べなくていいですよ」

「そういうわけではないが。……すまん」


 むっと頬を膨らませるワヌレイに、リルは素直に謝った。


「こういうものを食べた時になんと感想を言えばいいのか、俺は知らんのだ」

「そうでしょうね、ルイさんは」

「ワ……レナは慣れているのか」

「休みの日とかに、時々」


 ワヌレイはもう一口、焼き菓子を齧った。

 街の広場では、子供たちが壊れた荷車の車輪を転がして遊んでいた。どこかで鍋を叩く音がする。兵を見て怯える犬が吠え、すぐに飼い主に抱えられていた。


「妙な感じだな。偽名で呼び合うのは」

「くすぐったくてちょっとおもしろいですね。砦に戻っても続けますか?」

「それは駄目だ」


 *


 街を出るころには、日が傾き始めていた。

 市場のざわめきは背後へ遠ざかり、門の外には乾いた風が吹いていた。荷車の轍が残る道を少し外れると、ボルトゥートへ戻る尾根道に入る。


「ちょっと遠回りになりますけど、こっちから帰ってもいいですか」

「遠いぞ。歩く練習はもう充分だろう」


 ワヌレイは唇の色が少し薄くなって、左手は鞄の紐を強く握っていた。強がっているのは明らかだった。平地では隠せていたそれが、傾斜に入るとよくわかった。


 尾根道は、はじめ緩やかだった。低い草が風に倒れ、ところどころに白い小さな花が咲いている。戦場だった山道にも、花は咲くらしい。

 しばらく歩くと、道の右手が開け、ボルトゥートの谷が見えた。


 崖と崖の間を、細い川が光っている。橋の残骸はまだ一部が残り、修復用の足場が蜘蛛の巣のようにかかっていた。遠くには、王家軍が崩した斜面の傷跡が見える。爆発で抉られた岩肌は、夕日の中で赤く見えた。

 その上に、ボルトゥート砦がある。


「きれいですね」


 ワヌレイは尾根の端に近づきすぎない位置で立ち止まり、谷を見下ろした。風が吹いて、濃紺の(スカート)が揺れる。右袖を留めた紐も揺れた。


「戦ってた時は全然、こんなふうに感じる余裕はありませんでした」


 ボルトゥート攻略時に見えていたのは、敵の位置や、爆発の兆候や、負傷者の列ばかりだった。

 同じ谷が、今は違うもののように見えた。

 尾根の上を、鳥が一羽飛んでいく。砦の上を越え、北へ流れていく。


 しばらく、二人は尾根の上で谷を見ていた。

 街のざわめきも、砦で工兵が鳴らす槌の音も、ここまでは届かない。風だけがあった。


「出会った日のこと覚えていますか」

「気の強いやつがいるなと思った」

「あはは。今とは全然違いましたよね。怖いもの知らずで……」

「いや、本質は変わっていない。おまえにはゆずれない芯がある」


 風が、ワヌレイの結った黒髪の端を揺らした。


「逆に、おまえから見てあのときの俺はどうだった?」

「えーと」

 谷からリルへと、ワヌレイの視線が移る。

「嫌な子供がいるな、って思いました。口ばっかり偉そうで」

「ほら。そういうところだ」

「……訊いたのはルイさんじゃないですか」


 ワヌレイは唇を尖らせる。まだ、ルイ呼びを続けようとしていた。


「ルイさん、今日のあたし、どうでした?」

「……少し危なっかしいところはあったが、よく歩けていたと思う。そろそろ、介助なしで日常生活にも移れるんじゃないか」

「そうじゃなくて」


 ワヌレイが眉を寄せた。

 いつもより強引な振る舞いに思えた。

 こちらに負い目があることを、向こうは理解しているのだろう。ひどい考えだと思った。だが、言わんとしていることはわかっていた。


「……か」

「か?」

「……かわいかった」


 言わせておいて、ワヌレイの顔が赤くなった。


「……はい」

「なぜおまえが照れる。言わせたのはおまえだろう」

「それは、そうですけど」


 ワヌレイは少しだけ口元を押さえた。左手だけで。


「ルイさんも──」


 そこまで言ってから、彼女は言い直した。


「リルも、…かっこよかったです。いつも、かっこいいですけど……ね」


 リルは自分の頬に血が通うのを感じて、それに嫌気が差した。


「いつも……か」

「え、ええ、いつも……ですけど」


 自分は人殺しで、人殺し風情が人並みの幸せを受け取るべきではない──とまでは思わない。そこまで言えば、また別の自己陶酔になる。

 だが、自分が傷つけた相手から、その甘さを受け取っていいのか。


「リル」


 名を呼ぶ声。

 ワヌレイの指先が、己の手に触れるのを感じて、思わず手を引っ込めそうになった。


「まだ、帰りたくないです」

「…………」


 その言葉に頷くことも、首を横に振ることも出来ないでいる。


 マルも。ワヌレイも。

 傷つけ、使い、壊した。壊れた後も、そばにいてくれた。

 それを安らぎとして受け取ることは、搾取ではないのか。


「まだ、恨んでますよ。リルのこと」


 その内心を読んだかのようにワヌレイは言った。


「でも今日、付き合ってもらって、わかってしまったんです。やっぱり、もっと一緒にいたい。そばにいたい」


 その声は少しずつ乱れていく。


「かっこよくて、気高くて、全部自分で背負い込んで、優しくて、時々抜けてて、時々察しが悪くて、いつも怖い、あなたのそばにいたい」


 涙がにじんでいた。


「ハイカを、ブーカを、ティシータを、クヴェルさんを、殺させたのに」


 声が崩れた。


「あなたが、どうしても、嫌いに、なれない」


 リルは、己だけが、罪を背負っているつもりでいた。

 そうではないことを今、知った。


「ねえ、このまま、どこかに行きませんか」

「どこかに、とは」

「ここじゃないどこかです」


 ワヌレイは、自分の手を握りしめて、こちらを見ている。

 夕日はもう、砦の石壁の上から少しずつ剥がれ始めている。風が冷たくなっていた。


「ルイと、レナとして」


 その名前は、街に置いてきたはずだった。


「それは」

「だって」


 見上げるワヌレイにいつものように気の抜けた笑いはなかった。頬が濡れていた。


「あなただって、辛いですよね。ほんとうは」


 リルは黙った。


「もう、兵士のみんなを死なせたり、村に火をつけたりなんてしたくないって、今でもずっと思ってる」

「……」

「だから、あんな角飾りなんかつけてるんですよね」


 リルの視線が無意識に上を向く。そこには角飾りはない。


「逃げたっていいじゃないですか。誰かにそれを押し付けたっていいじゃないですか。いままで、たった一人で頑張ってきたのに」


 本当はもう耐えられないところまで来ていた。

 それどころか自分は何度も逃げかけていたし、とうの昔に壊れている。

 想像してしまう。

 知らない街で、偽の名を使って、畑でも耕しながら、ただのルイとレナとして暮らす姿を。


「……それは」


 その声が、自分のものではないように聞こえた。


「無理だ。今さら逃げても、その先で幸せになることなんてできない」

「そう答えると思ってました。あなたなら」


 ワヌレイの笑みはどこか大人びていた。


「なら、あたしをまた、使いますか」

「……」

「あたしにまだ使い道があるから、リルはあたしを軍に置いているんですよね」


 勇者ワヌレイ。

 命がけで魔人楽団を葬った者。

 ボルトゥートで右腕を失いながらも生き残った、最初の十二兵のひとり。

 隻腕になった兵士が、軍に残り、リル=グレスの旗の下で戦い続ける姿。それは、象徴になる。王家に奪われた者を鼓舞し、進ませる力がある。

 たとえ兵力にならなかったとしても、それは、使える。


「違う」


 ワヌレイの肩に手を置く。

 違わない。それでもそう言いたかった。


「俺は」


 喉が震える。


「おまえに、そばにいてほしかった」


 それが最低の告白なのだとリルは知っていて、言った。

 ワヌレイはリルの腕を拒まずに身体を寄りかからせた。軽い。小さな体は、片腕を失って余計に軽くなっていた。

 腕の中に、捨て去るべき、執着のひとつがあるのを感じる。


「リル」


 左手がリルの腕を掴む。


「目を、つぶって」


 ワヌレイはリルの腕の中で、背を伸ばした。

 唇に、やわらかいものが触れた。

 リルが目を開けるより早く、ワヌレイは離れていた。


「これで」

 短く息を吸う。

「終わりです」

「……」

「あたしは、リルのそばにいたい」


 左手が、リルの腕から離れる。


「けど、リルはあたしを使う。必要なら、きっと」


 ワヌレイは、自分の空の右袖を見た。


「あたしが使われるのも嫌。でも、それだけじゃない」


 顔を上げる。

 風が吹いた。尾根の草が、ざっと鳴った。


「あたしを使うリルを、もう見たくない」


 *


 その翌日。ワヌレイは、軍籍を返上した。

 ワヌレイがリル=グレスの旗の下で戦うことは、これ以後二度となかった。


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