#29 拍動錯乱(三)
ワヌレイはその場にへたり込み、剣を握ったまま肩で息をしていた。
顔は涙で濡れている。膝も肘も擦りむいていた。
敵将の首級を挙げた兵の顔ではない。
「助かりはしたが、命令違反だぞ、ワヌレイ」
「それはすみません」
叱声を飛ばすリルにワヌレイは即座に頭を下げた。
「いや、でも、なんだったんですかさっきの」
そして涙目のまま、すぐに顔を上げる。
「頭の中に急に若様が出てきたみたいで怖かったんですけど。いや、頭の中じゃなくて。なんというか、すぐ近くにいるのに、いないっていうか。声じゃないのに、今だって分かるっていうか。怖いんですけど……これ本当に若様の命令なんですか?」
「……それは間違いないが」
リルは説明に困って、口を噤んだ。
自分でも、すべてを理解しているわけではない。
あの瞬間、自分はワヌレイの存在を感じた。視えた、ともまた違う。身体の端にある痛みのように。動けない自分たちのかわりに、ワヌレイをレドロネットのもとに導き、不意打ちさせた。それを、どう言い表わせばいいものか。
「……短く説明すると俺とマルが力を合わせることで、俺の指示が、マルの外法を通じて届くようになった」
「な、なるほどぉ? それは便利かも……」
「王権的中心性を媒介とする、外法同調現象にございます」
「うわあやっぱりなんか怖い! なんなんですかそれ」
「俺もよくわかっておらんのだ。少なくとも俺の認識ではさっき言ったとおりだ」
「今のリル様の説明で、おおむね間違ってはおりません」
マルはリルへと向き直る。
「あなた様は己を兵たちの中心と置き、兵たちもそう認識している。そのうえで私めと身体を重ねた。すると、あなた様と私めの境界が薄れる。術師同調に近い現象が起こる」
「近い?」
「ええ。正規の術師同調ではございません。もっと雑で、不敬で、危ういものにございます」
「……続けろ」
「私めの手品が、あなた様の王権的中心性によるものだと、世界に誤読されるのです。全力でごっこ遊びを始めると、世界がそれに付き合ってしまうのでございます」
ふざけた言い方だが、約定術もそもそもを言えばそのような技術であった。何かをそう見做すと、一時的にそう解釈される。それの規模を広げるとこうなる、ということか。
「おまえ一人ではできんことなのか」
「私めはただの胡散臭い道化にございます。ですが、陛下未満の陛下の道化です。ゆえに、あなた様と私めが二人揃って、初めて成立する芸当なのです」
「て、ていうか、そんな便利なことができるならもっと早くやってほしかったんですけど」
「俺もさっき初めて知った」
「もっと積極的に抱きついておくべきでしたね」
「マル!」
「とは言いましたが、リル様が人間から遠ざかってないと不可能なので、いずれにせよ昨日までは無理だったかと」
遠くで、笛が鳴って、全員が一瞬黙った。
「また来るんですか。爆発」
「レドロネットの背後の術師はまだ健在だ」
リルは小剣を握り直した。
「生き残りを掃討するぞ。ワヌレイ、手伝え」
「今からですか!? 帰りたいんですけど……」
「なら何のために来たんだ、おまえは」
ワヌレイは泣きそうな顔で立ち上がった。
その横で、マルが静かにリルへ近づく。
リルは当然のように、道化の腕を取り、腕同士を絡めさせる。
「えええ」
ワヌレイが、目を丸くした。
「……何だ」
「なんか。なんかやらしくないですか。そういう関係だったんですか。薄々そうじゃないかと思ってましたけど。さっき抱きつくとか身体を重ねるとか言ってたのもそういう」
「そうではない」
「ほんとですか? あの、正直に言ってくれたらワヌレイ、応援しますから」
「何をだ……」
リルは目をそらしていた。
「ええ、ええ。接触が王道化同調には必要なのでございます」
「その名前、採用するのか……」
「せっかく芸術家様に、命がけで命名していただいたのですから」
腕を絡めたまま、首を振る。
「行くぞ、生きて帰るために」
三人は、月光の岩棚を駆け出した。
*
また笛が鳴った。
兵たちが身を伏せる。少し遅れて、岩場の外縁が白く光り、膨らみ、爆ぜる。
だが、遠い。
砕けた石がぱらぱらと降ってくる。
先ほどまでのように、足元を抉る爆破ではなかった。
「……ずれたか」
「安心するな。次が来る」
ジャドが顔を上げる。トルカは油断せず、崖側を睨む。
だが、次の爆破も外れた。
岩壁の上の方が光り、欠けた石が夜空へ散っただけだった。
「……わざと、外したか?」
「そんなことをする理由がありませんよ、ジャド」
「フェリペ。つまり、リル殿が……」
そして、次の爆破はさらに遠く外れ、間隔が伸び、しまいには止んだ。
兵たちが顔を見合わせる中、三つの影がリル軍の本隊へと戻ってきた。
傷だらけになったリル=グレス。マル=シレス。そしてワヌレイ。
トルカやジャドが一瞬弛緩した表情になりかけて、すぐに険しくする。
ワヌレイ隊の兵は素直に喜んで駆け寄った。
「ワヌレイ! なぜ勝手に消えた!」
「すみませんジャドさん! でも若様が!」
「うわーっ! ワヌレイ隊長~! せめて自分たちも連れて行ってくださいよ!」
「ああっティシータ! すみませんすみません」
「若、無事ですか」
「トルカ。ああ、生きてる」
「いろいろ言いたいことはありますが。爆破が止んだのは……」
「ああ、周辺の爆発術師は全滅させた」
そう告げるリルに、周囲の兵は湧く。
「よし! 隊列を組み直せ! 負傷者を中央へ! 歩ける者は武器を持て! 若が戻ったぞ!」
トルカが勇んだ様子で号令をする。再び兵たちに士気が戻り始めていた。
「……その」
一方で、リル当人は苦々しい表情をしていた。
「再び進軍を開始する前に、ひとつやってもらわなければならないことがある」
*
「前線術師の演奏、完全に停止。レドロネット副官の反応も途絶」
「レドロネットが、やられた……?」
笛手ディーヌは呟いた。
殺しても死なぬような者だとばかり思い込んでいた。
今も、息を潜めてどこかに隠れているだけなのではないか。
そう考えてから自分で否定する。そんな殊勝なことができる奴ではない。
どれだけ待っても、あのけたたましい声や音が術師同調に割り込んでくることはなかった。
「第三楽式へ移行する。ここからは、副旋律を廃した演奏に入る」
眉ひとつ動かさないクヴェル=ラヴェルに、笛手ディーヌは、戦慄した。
クヴェル自身も重用していたはずの、無視しがたい存在である副官の死が、たったそれだけの言葉で処理されたことに。
すぐに、ディーヌは自分を恥じる。
それでこそ、敬愛する術監ではないか、と。
レドロネットがいなくなった今、余分な熱は消えた。
冷酷にして正確。必要なら壊し、不要なら壊さない。死を数え、次の小節へ進む。
真にクヴェルが理想とする音が鳴るはずだった。
冷たく、澄んで、必要なものだけを壊す音が。
だがディーヌには、その冷たさが、殉死の音に聞こえた。
この砦を枕に、自分たちは討ち死にする。
どうしてか、そんな予感を振り払えないでいた。
*
「……絵面がひどすぎる」
リルは揺れながら呻いた。
当然ながら、抱き合う者など、まともに移動できず、戦場では邪魔者である。レドロネットとの戦いでは誤魔化しながらやっていたが、あれを恒常的にやるわけにはいかない。
周囲で、ひそめられた声が飛び交っているのが嫌でも聞こえる。
──おい、あれ。
──しっ、静かに。
──戦場であんなこと、ふざけてるのか。
──いや、他ならぬリル様の指示されたことだ。意味はわからんが、酔狂ではないはずだ。
──あのお方は、ずっと我々と同じ前線で剣を執って戦ってこられたのだからな。
そういうわけで、リル=グレスとマル=シレスは、御輿に乗せられて、兵に担がれ、運ばれていた。
もちろんそんなものがあらかじめ用意されているわけもないので、先ほど工兵たちに作らせたものである。神輿というにはいささか粗末な、槍を骨にし、盾と橋板を床にし、外套と荷布を巻きつけた即席の台。飾りなどない。あるのは土と血と焦げ跡だけだ。
これを思いついてしまった時は叫びだしたくなったし、当然周りの兵からも正気を疑われた。
反発もあった。
ワヌレイの証言と、今まで築いてきた信用が、理解されずとも納得を得ることを成功させた。
成功させてしまった。
狭い御輿の上で、指揮官と道化が、身体を絡ませ合っている。
どこに出しても恥ずかしい、いかがわしい有様であった。
「これは本当に術師同調なのか。何か騙されていないか、俺は。マルやユーレンスがやったものとも、クヴェルとレドロネットが見せたものとも違うぞ」
「以前、テオ様に伺った話によれば。術師ごとに札や杖や呪文を使い分けるのと同じようなものかと」
マルは腕の中で、たいへん穏やかに答えた。
「これが札や杖の同類だと言うのか」
「あなた様は術師ではございませんので、このような原始的な形が合っているのでしょう」
「原始的……」
「はい。たいへん原始的にございます。触れ、抱き、中心を合わせる。群れを身体として感じる。王権というものは、だいたい原始的な暴力を礼装で包んだものにございますから」
「……とは言うがな。抱き合った程度でこんなことができるなら、世の術師は皆抱擁していないとおかしいではないか」
「私とリル様だからこそできるのですよ」
マルの声は、少しだけ神妙さを帯びた。
「私はもとより、あなたはこの軍で、少々本質というべきものに近づきすぎている」
「本質?」
「ええ。王です」
「……」
「王とは、玉座に座る者ではございません。少なくとも、今この山では。兵があなたを中心として見ている。旗にあなたの印が刻まれ、負傷者はあなたの帰還を待ち、敵があなたを壊すべき支点として読み、味方があなたの声で軍に戻る。これだけ揃えば、世界はあなたをただのリル=グレスとして扱うのを面倒がります」
リルは何も言い返せなかった。本来形になるはずのない責任が、形になって肩にのしかかっている。
「おまえは、どうなのだ」
「私めでございますか」
「おまえは、マル=シレスだろう」
「ええ。あなた様の忠実なる持ち物、空洞の道化にございます」
「……マル=シレス」
再度、名を呼ぶ。
──俺は王の名を負う。王でなければできないことがある。
そのために“リル=グレス”を喪う覚悟はある。だが。
「道化とは、何だ」
「すべてを冗談に変える者にございます」
リルの腕の中で、顔を伏せ、くつくつと、咳き込むような笑い声を立てて、さらに訂正した。
「すべてを冗談に変えねば、生きられなかった者」
マル=シレスは微笑んでいた。怒鳴りつけたくなるほどに完璧な笑顔だった。その代わりに、深く強く抱きしめた。
──それがおまえの本質なのか、マル=シレス。
王として見られ、王として命じ、王として恐れられ、いつの間にか自分が王に近づいていたように。
おまえも、道化として扱われ、道化として笑い、己を道化と定め続けるうちに、そこへ近づきすぎたのか。
「リル様。私めを、哀れに思いますか」
「わからない」
抱きしめて、深く呼吸しながら、今も軍を操作している。
抱擁すら、戦略的必要性に回収されていた。
「俺はただ、寂しいだけなのかもしれない」
兵たちの肩が揺れ、御輿が進む。
夜の進軍は、王を担ぐ形になる。
最悪だった。
自分は泥にまみれて戦ってきた。
兵と同じ地面を歩き、同じ爆風を浴び、同じ血の匂いを嗅いできた。
それでも今、自分だけが担がれている。
犬耳の道化を抱きながら。
兵たちの上で。
王として。
「……俺も、この光景を冗談にしたい」
「王には許されないことにございます」
「それが王道だとでも言うのか。最悪だな」
「ですから、それは道化に任せればよろしい」
──ああ。だから、王には、道化が必要なのか。
*
「納得がいかねえ」
トルカは、行軍しながら、ジャドとともにしんがりを守っていた。
本来なら、リルの意図を汲み、それを翻訳して末端の兵に指示を送るのが彼の役割だった。
だが、王道化同調下にある今、それはほとんど意味をなしていない。
「道化野郎に、担がれてるんじゃねえのか」
「声を潜めろ。トルカ殿だって納得したであろう」
トルカはため息をついて天を仰ぐ。
「けどな」
トルカは、リル=グレスの言っていることを全面的に正しいと思ったことは一度もない。
弱者が虐げられず、正しいものが報われる世界を作る。
俺が手を汚す。俺が責任を取る。死んでいった者たちの名前を覚える。
すべて絵空事だ。
それでも、本来の主であるグラン=グレスに背いてまで従ってきたのは、リルのそばに誰かがいてやる必要があったからだった。
そして、その絵空事を本当にできるのではないかと心のどこかで思っていたからだった。その正しさに、心を打たれていたからだ。
それはトルカの下した決定のはずだった。
「もし、納得させられてたんだとしたら、どうする」
あの時も、もし、王権という術式の中にいたのなら。
リル=グレスと相対した時、あの少年の声を聞いた時、剣を捨てず、泥の中で立っている姿を見た時。
その時、本当の自分の意思は、どこまで自分のものだったのか。
「それを疑い始めたら、何も残らぬぞ。忠義も、友も、すべて術であったことになる」
「だから納得がいかねえんだよ」
トルカは吐き捨てた。
「俺たちが自分で選んだつもりでいた忠義まで、王権だの術式だのの材料だったってんなら、俺たちは、いつから俺たちだったんだよ」
苦々しい表情で前を向き直すと、トルカは違和感を憶えた。
王道化同調の影響下にある兵は、今、どこかしら同じ拍子を持っている。
歩幅も、呼吸も、視線の動きも、完全に揃っているわけではない。だが、軍として進むための芯が通っている。
その中で、一人だけ、妙におぼつかない歩き方をしている者がいた。
ワヌレイだった。
しかも、周囲にいるブーカ、ハイカ、ティシータの方が、よほど自然に歩けている。
「おい。何やってる」
「えっ。ワヌレイですか?」
振り返ったワヌレイは顔色が悪い。いつも通りだった。
「なんか、急にうまくいかなくなっちゃったんですけど……王道化同調ってやつ、本当に効いてます? あの時みたいに、若様と直接つながってる感じがしないんですけど……」
「そんなことは……」
トルカは言いかけて、眉をひそめた。
周囲の兵は動けている。命令は届いている。隊列も崩れていない。
だが、ワヌレイだけが遅れていた。
「いや、まさか」
「まさかって何ですか。怖い言い方しないでください」
「おまえ、兵士として他と違いすぎるのが問題なんじゃないか」
「えっ? 罵倒されてます?」
「兵士全体に照準を合わせると、未だに帰りたいって気持ちばっかりのおまえには、うまく照準が合わなくなる、とか」
「そ、そんなことってあります……!?」
「知らん。俺だって今、言ってて嫌になってる」
ため息を吐く。
ただ、安堵していた。ひとりだけ、リルの拍動に乗り切れていない者がいることに。
ワヌレイの青い顔を見ていると、さっきまでの懊悩は、少しだけ馬鹿馬鹿しくなる。今はこれが必要なのかも知れない。
*
山肌へ食い込むように築かれた、黒い石の砦が見えた。
軍楽の中枢。山を鳴らす者の喉元。
王家軍楽術監クヴェル=ラヴェルの駐屯地。
そこへ近づくにつれ、爆発は再び激しくなった。
クヴェルの冷たい演奏が、戦場を支配しはじめる。
「報告ッ! 前列左翼の岩棚が砕けました!」
「……三人落ちました!」
悲鳴が上がるが、列は止まらない。
──左を畳め。二列目、前へ。旗は右へ寄せろ。
指示が、言葉になる前に伝わり、兵たちがそれに従って動く。
落ちた兵へ手を伸ばそうとした者が、伸ばす前に踏みとどまる。
リル軍として、今この瞬間に取るべき形を、身体が選んだ。
手足の末端が傷ついてもそれで止まることがないのと、似ていた。
王道化同調は、兵の心を奪っているわけではなかった。
兵たちは、それぞれの足で走っている。
それぞれの恐怖で息を荒げ、それぞれの判断で隣の兵を助け、あるいは見捨てている。それがわかるのに、リルには、肩が沈み、指が伸び、骨が軋み、血が巡るように感じられた。隊列は筋肉。伝令は神経。命令は心臓。
違う。
それはトルカであり、ジャドでありワヌレイであり、負傷兵であり、射手であり、盾持ちである。
また爆発が起こり、遠くで荷を運んでいた兵が一人、足を踏み外す。
それに手を伸ばせば二人落ちる、という判断が、声になる前に届いた。
落ちた兵は、月光の下で小さくなっていく。
──いや、兵は、最初から小さかった。
王道化同調を使う、リル=グレスの前では。
兵たちの肩に担がれながら、リルはマルを抱いていた。
白い手袋が、爆風の名づけを一拍だけ押さえ、飛礫を逸らし、崩落を遅らせる。
そのすべてが、自分の手の中にあるように感じた。
砦と山道と兵と生と死が、すべて見える。
何もかもが、思い通りに動いているように感じた。
自分の一言で、十人が死に、百人が進む。
クヴェル=ラヴェルが、ボルトゥート山地全体を楽器にしたように。
リル=グレスとマル=シレスは、軍団全体をその肉体にした。
「く……」
全能感が、腹の底から湧き上がった。
「は、ハハハハハハッ!」
笑ってはいけないと思ったときにはもう遅かった。
人が落ちて、血が流れているのに。
これほど胡乱な絵面で、兵の肩に担がれ、道化を抱いて、爆炎の中を進んでいるのに。
リルは、笑っていた。
周囲の兵はそれに一瞬びくりと身を震わせたが、行進の足を止めることはない。
「進め!」
リルの声は明るかった。自分でもぞっとするほどに。
「若様、左腕が落ちます」
「マル、人を腕と呼ぶな」
「では、左翼部隊が崖下へ──などと、表現を変えれば死者は減りますか?」
小さく舌打ち。
「左を捨てろ。中央を押し上げる。右の旗を囮にしろ。崖側へ二歩。いや、一歩でいい。そこはまだ道だ」
兵たちの動きに迷いがないことが、たまらなく面白かった。
自分がそう言えば、そう認識すれば、軍がそうなる。
爆発が起こる、砕ける前に畳め。三人が落ちても全体を進ませろ。
世界が正しい方向に動いているという実感がこれ以上ない形であった。
世界が、俺たちの、ごっこ遊びに付き合ってくれている。
このごっこ遊びは、どこまで広がる?
俺の手は、どこまで伸びる?
「リル様」
マルの声が、近い。
「今のあなた様は、たいへん王らしゅうございます」
「ふざけた話だ」
「はい。ふざけております」
ヘルブラムを思う。レドロネットを思う。
彼らの狂った振る舞いは、それこそが、彼ら自身を正気に繋ぎ止める手段でしかなかったのではないかと、ふいに理解する。
遠くで鳴る魔人楽団の鼓の音は、冷たく、正確で、リルの笑いへの返事のように響いていた。
「──進め」
御輿が前へ出る。
王を担ぎ、道化を抱かせ、兵の死を踏み越えて。
*
「止まらない……」
観測手の声はうめきに近かった。
「リル=グレス軍、進軍が止まりません。爆破は通っています、通っているはずなのに……」
魔人楽団の面々の顔色が一様に蒼白になる。
爆破が無効化されているわけではない。岩は砕け、橋は落ち、兵も、確かに死んでいる。だが、演奏の反響に、いままではあった怯みや怯えという反応が見られない。
恐怖で音律が乱れる瞬間がない。
爆破に対して、進軍そのものが最適化されている。
そんなことがありえるのか、と言いたかったが、事実そうなっている。
「外法を使っているのなら、犬星を狙い撃ちにできるはずだ」
「駄目です。全員が均等に外法に覆われていて出どころが辿れません。まるで全員がマル=シレスになったかのようです」
「そんな馬鹿な……!」
「このままでは、遠からず到達されます。ここは撤退も選択肢かと……!」
「ありえん。ここを取られれば、王都に詰めろがかかる。手前の隘路で迎え撃つ」
「……クヴェル術監!」
「総員、【赤譜】の準備に入れ」
部隊の空気が凍りつく。
「それは……!」
「貴様ら、敗走し、王家軍にい続けられると思うなよ」
誰もそれに答えられなかった。
「ここで殉死するつもりはない」
クヴェルの声はいつもと変わりない。
「勝って生き残るために大切なものを捨てろ」
ディーヌは、それが普段は言わない、クヴェルなりの檄であることに気づいた。
それだけ、自分たちは追い詰められているということでもあった。
「……わかりました」
だが、もう、怯えはない。
クヴェル=ラヴェル。
この方がいるなら、なんとかしてくれる。絶対に。
それは盲信と呼ばれるべきものだったのかもしれないが、ディーヌは信頼と呼ぶことにした。
*
リル軍は、クヴェル=ラヴェルの砦へ近づいていった。
砦の前には、山肌を削って作られた細い隘路があった。片側は黒い岩壁で、もう片側は、月光も届かない谷。
その隘路の左右には、一定の間隔で細い旗が立っていた。
だが、一本ごとに王印の銅板が打たれ、根元には石灰で円が描かれている。
円の外側には、古い王の名と、神殿祝詞の断片。
オルディアス王家の、オディウム=オルディアスの支配の内側であると、示すものだった。
その先に、クヴェル=ラヴェルが立っていた。
いつかのように、奇妙に傾いた立ち方をしていた。
なぜそんな立ち方をしているのか、今のリルには理解できるような気がしていた。
配下は乏しい。笛手。太鼓手。弦手。そして観測手。
道は平坦ではなく、険しく隆起している。クヴェルの元にまっすぐたどり着くには、時間がかかる。
「矢を放て!」
リルの指示に、サイモン以下弓兵の矢が一斉に放たれる。狙いは正確だった。距離も、風も、計算に入っていた。
だが、矢が空を裂く途中、弓弦の震えるかすかな余韻に合わせて、クヴェルの指が一度だけ跳ねた。
矢が、空中で白く弾ける。
軸木が裂け、羽根が散り、鏃だけが勢いを失って岩場へ落ちた。
二射目は、初弾よりも速く砕かれた。
長さ、重さ、羽根、弓鳴り、それらがすべて同じ規格の矢だった。
だからクヴェルたちにとっては、一斉に砕きやすい。
「なら!」
トルカが盾持ちを率いて突貫する。地を這うような速度で、岩陰から岩陰へ。足音を殺し、呼吸を合わせ、間合いを削っていく。
クヴェルは、動かなかった。
首を、わずかに傾けただけだった。
次の瞬間、盾の連なりが、まるで一枚の膜のように内側から爆ぜた。盾の破片を身体に受け、先頭の三人が同時に膝を折る。
「盾には爆破避けの結界術をかけていたはずだ……」
「同調による出力で突破されましたね。矛盾する約定は出力差でどちらが勝るか決まる」
御輿の横に立つテオの解説に、リルは舌打ちする。
「まだだ」
側面へ回り込んだジャドの部隊が、岩の陰から飛び出す。奇襲の一手だったはずだ。しかし、彼女らの足がまだ地を踏む前に、笛が短く鳴った。岩肌そのものが崩れ、進路を塞ぐ。
それでも、足場崩しをくぐり抜けた数名の兵が、クヴェル隊へと迫る。剣や槍の射程。白兵戦能力を有さないクヴェルたちにとっては必殺の間合いのはずだった。たとえ装備を多少爆破されても、もはや止まりはしない。
だが、その時、魔人楽団の旋律の色が変わる。
「あ……」
それが何を意味するのかを直感的に理解して、控えていたワヌレイの顔色が変わる。
今までの音は、橋の支索や岩場、兵士の装備、そういった物の外側を鳴らしていた。だが、今は、兵士の胸の内側を──直接鳴らしていた。
心臓の鼓動に、同期するように。
先頭の兵が、足を止めた。手が、自分の胸へ向かう。
「な、に」
白い光が、鎧の隙間から漏れる。
次の瞬間、肉薄していた数人の兵が内側から弾けた。
周囲に、真紅の雨が降り、岩場と、クヴェルの羽毛を濡らした。
体内の水分、骨の響き、脈拍、肺の圧。
人間という器そのものを、爆発の楽器にした。
肉と鎧と血が、隘路の壁へ散る。
「あ、……あああああああっ!!」
誰かの悲鳴。
「せ、戦場誓則違反……」
ユーレンスが手を震わせていた。
「畜生、やりやがった……!」
トルカが、地面を蹴りつける。
目の前で、兵たちを、生きたまま爆弾に変えられたのだ。
──一人の人体を爆ぜさせる音を探す間に、百の壁を壊せる。
あの時のその言葉は、決して嘘ではなかったのだろう。
「退け。リル=グレス」
遠くから、クヴェル=ラヴェルのよく通る声が弦の音に乗って響いた。
「この手勢でも、貴様らを全滅させるには足りる。私に赤譜を使わせた今、貴様らに勝ち目はない」
赤譜──人体爆破の術は、向こうにそう呼ばれているらしい。
「状況が変わった、ということでしょうね」
あまりの光景に袖を強く握りしめながら、テオは言った。
「以前、クヴェルは人体爆破を非効率だと言いました。一人の身体を鳴らす間に、百の壁を壊せると」
「……では、なぜ今やった」
「我々が、壁や地面を壊されることに慣れたからです。王道化同調という対抗策も用意された。今まで通りの爆破は、向こうにとって、すでに読まれた手ということです」
テオの声は震えていた。
「ここまで接近された今ならば、難度が上がっても、兵そのものを直接破壊した方が有効になる」
リルが一時撤退の指示を出すと、接近していたトルカ隊とジャド隊の兵が本隊へと引き返す。
全員の顔色が悪い。
弓矢では倒せない。
だが、接近すれば直接爆破され、回避できない死に晒される。
「マル。なんとかならないか」
「任されました。と、言いたいところですが」
マルの視線が、周囲に立てられた旗を舐める。
「この一帯のものは、強く、オルディアス王家のものであると約束されています。これらのものに、私めが説得するのは、少々難しい。できないわけではありませんが、時間がかかります」
「……王権神授の約定ですね」
ユーレンスが説明を引き継いだ。
「ここでは、クヴェル隊も、砦も土地も、オディウム王のものであると定義が敷かれています。約定術でも外法でも干渉が難しくなっています。王家にとって重要な拠点だということでしょう」
「王権を術式として用いているのは、こちらだけではない、ということか」
「ええ。むしろ、オルディアス王家こそが本家と言うべきでしょう」
マルが白手袋の指を、くい、と曲げた。
クヴェルの足元の岩が、ほんのわずかに沈む。
岩肌に亀裂が走りかけた。
だが、その瞬間、隘路の左右に立つ細い旗が一斉に揺れた。
旗竿の根元に打たれた王印の銅板が、低く鳴る。
石灰で描かれた円が白く浮かび、古い王の名を表す文字が、岩肌の上を這うように滲み出した。
沈みかけていた岩が、元の形へ戻る。
王家軍防衛線。王命により保持される通行路。クヴェル=ラヴェル隊の足場。
そんな見えない札が、岩の上に何枚も貼り直されていく。
「と、まあ、このように足場に人生を見つめ直していただこうとすると、王家の書類が先に来てしまいます」
「書類?」
「この岩は岩ではない。王命により保持される防衛線の支点である。したがって勝手に崩れてはならない。おお、たいへん立派なご身分にございます」
「壊せないのか」
「壊せますが、一枚ずつ札を剥がし、旗を折る必要がございます」
言っている間にも、頭上の岩棚が白く光り、弾ける。
大小の岩が、リル軍へ降り注ぐ。
マル=シレスが白手袋の指を払うと、岩のいくつかが軌道を逸らし、谷底へ落ちていった。
すべては逸らせない。
盾が砕ける音と、兵の悲鳴が混じる。
「そしてそのような悠長さを、向こうは許してくれなさそうでございます」
数百名のリルの兵が、わずか数名の魔人楽団に圧倒されて、釘付けにされていた。
王道化同調による軍の最適化も、ここでは決定打にならない。
戦場を身体にしたところで、その身体の内側を爆ぜさせられるのなら意味がない。
「止まってはいられない」
それでも、リルは兵を送った。
クヴェル=ラヴェルまで、届かせなければならない。
数人の兵が岩陰を縫うように走る。
爆破が起きる前に身体は伏せられ、足場が裂ける前に横へ跳び、落石の軌道は、盾で受けずにかわされる。
王道化同調が、兵の身体を動かしていた。
リルの指示が、マルの外法を通じて、兵の足に、肩に、呼吸に届いている。
ひとりひとりは凡庸な兵でも、軍としてならクヴェルの爆破をくぐり抜けられる。
届く、そう思った瞬間、笛の音が変わった。
先頭の兵が、胸を押さえた。
二人目が膝をつく。
三人目が、何かを吐こうとして口を開いた。
白い光が、鎧の内側から漏れる。
次の瞬間、肉薄していた兵たちが、まとめて弾けた。
「駄目、か……」
ただ兵を死なせるだけの突撃をさせたことに、リルは拳を握りしめてわなわなと震わせる。
「こんなに簡単に人間を爆弾に変えられるものなのか。しかもまとめて数人」
「条件が揃っているのです」
テオは、血の雨に濡れた岩場を見た。
「王道化同調で、兵の動きが揃いすぎている。歩幅や呼吸、踏み込み、それに恐怖を押し殺す間合い。軍として最適化された分、拍が読まれやすくなっている」
「だが、同調を切るわけにはいかん」
リルはかぶりを振る。
「同調を切れば、今度は途中の岩場の爆破をくぐり抜けられない。接近するためには王道化同調が必要だ」
「ですが、接近した後は、その同調そのものが、赤譜の照準になります」
一度本隊に戻っていたトルカは、二人のやりとりを近くで聞いていた。
そして、思い出していた。
王道化同調の下にありながら、ひとりだけ拍に乗り切れていなかった兵がいることを。
彼女は、軍として進むための芯から、わずかに外れていた。
思いついてから、それは本当にひどい理屈だと思った。
トルカは、自身の死が作戦に必要であれば、いつでも身を捧げるつもりだった。
それはあの雨の古砦の時から、ずっと変わらない。
だが、他の兵に──それも、ずっと帰りたい、布団でぬくぬくしたいだけだと言っている兵に、押し付けていいはずがない。
「若」
トルカは、リルへ向き直った。
口にしたいはずもなかった。
口にすれば作戦になり、作戦になればそれは実行される。
それでも、言わなければならなかった。
戦場では、すべてが価値に換算される。美学も、愛着も、矜持も、倫理も。
そして、恐怖さえも。




