#28 拍動錯乱(二)
一人目は、岩壁の上に立っていた。
「ひとつ」
彼が接近するリルに気づいた時にはもう遅かった。
小剣が喉を裂く。
人間の喉では出せないほど細い音を、頬の裂け目から吐いていた。
顔の片側には鳥の羽毛のようなものが生え、耳の後ろからは小さな膜が張っている。骨格や姿勢も通常の人間からは少しずれていた。
クヴェル=ラヴェルに似た特徴を持つ、魔人。
「次」
マルが小石を崖へ放り、それが落ちる前に一拍だけ留まらせる。
すると、どこかで金属糸が鳴る。
「左奥、下」
走る。
身を低くし、足元を信じすぎず、石の角を踏む。
次は弦手だった。
彼は、裂けた岩棚の奥に、四本の金属糸を張り、指の爪でそれを弾いていた。
弦手が己を狙う者の接近に気づき、沈黙のまま糸を弾く。
リルの足元が沈む。
「まだ足場でございます」
マルの声が後ろから届く。
リルは沈む前の足場を蹴り、弦手の胸に飛び込み、小剣を突き立てた。
「ふたつ」
手応えを確かめる前に、血に染まった剣を引き抜く。死体が転がる。
腕が異様に長く、肘が一つ多く、金属めいた爪を持つ、異形の魔人だった。
その屍を前にして、リルは少しだけ想像を巡らせた。
魔人として、どのように生きてきたのか。
どのような気持ちで、クヴェル麾下でその才を振るったのか。
「今のあなた様のお姿は、アル=デリアに似ておられる」
「あいつに?」
「ええ。葬送人のようにためらいなく、厳かに命を奪う」
「それが合っているかはわからんが、人斬りに向いてないのは確かだな」
笑うべきなのかもしれない。ヘルブラムのように。あるいはジャドやトルカやケナスやディエゴのように。
*
『クヴェルッ……前線術師たちがやられました! 外法反応! マル=シレスが突出している!』
術師同調を通して砦に響くレドロネットの報告からは、いつもの芝居がかった響きが、少しだけ剥がれていた。
『どうするのですッ! クヴェル=ラヴェル!』
「囮だ。我々がやったのと同じことをやり返されている。外法でこちらを釣り出している」
『それはわかります。同時にリル=グレス軍本隊も動き出しました。ですが、無視もできません!』
「なら、両方やれ。奴を迷わせろ」
『なッ!? 簡単に言う……! 無茶無謀無理難題ッ! 本隊の爆破だけでもどれだけ神経を使っていると思っているんですクソ鳥ッ! できると思っているんですかそんなことが!』
「できないのか?」
『……ッ! いいでしょうっ! 驚天動地の五里霧中、我田引水自画自賛! この稀代の天才レドロネット、クヴェルの無茶振りを芸術に変えてみせようッ! 』
そこで通信が終わる。
「……レドロネットの扱いが上手ですね。クヴェル術監」
「なんのことだ」
呆れたような感心したような笛手ディーヌの言葉に、クヴェルは首をかしげていた。
*
「!」
マルが身を翻す。閃光。轟音。
さきほどまで道化が足を置いていた岩が、白く弾けていた。
「勝利の余韻に浸る暇もないな。当然だが」
「はい。私め、たいへん人気者にございます」
「笑っている場合か」
「あなた様も笑っておられます」
指摘されて、口角が上がっていることに気づいた。
二人とも、息が乱れている。
「今度はあちらですね」
「釣り出すために、術を使う手間が省け──」
言葉の途中で太鼓の音が空気を震わせた。
マルを囲うようにして周囲の岩が鳴動する。右、左、背後、広く正確に。
道化の足が一瞬止まった。
「マル!」
リルのほうが、先に身体を動かしていた。弾かれるように地面を蹴って、飛び込む。
爆発。
熱が背中を打つ。
飛来する石片が背中や脚にぶつかり、閃光が二人を照らす。
マルを抱えたまま、岩陰へ倒れ込んでいた。
「無事、か……」
「……リル、様」
声が返る。間に合った。
兄、エル=グレスなら、こうするのだろうな、と思った。
道化なら爆発の射程に捉えられようがなんとかするだろうとか、そういう賢しいことは考えていられなかった。
リル=グレスの、もっとも古いところにある反射。
手が届くなら伸ばせ、救えるなら救え、兄ならそう言ったはず。
弱者救済思想。
それはそもそもは、兄のような素朴な正義から始まった。そして、兄のような正義では手からこぼれ落ちるものが多すぎると限界を悟って、いつのまにか、リルが忘れていたものだった。
それを今、思い出していた。すぐ目の前に、マルの姿がある。
誰かを救えたという実感が、身体に満ちていく。
そこで、リルはようやく気づいた。
自分は、胸の中に道化を抱きしめて転がっているということに。
腕の中に熱がある。近すぎる距離だった。
遠くでは、笛と太鼓の音が鳴っている。
「す、すまん」
「……いえ、もう少し、このままで」
リルの顔がかっと熱くなる。
「ふざけ──」
マルの腕が、リルの背中に回り、抱きしめ返される。
次の瞬間、新たな爆発が起こった。
遠くはない。だが、大きく狙いを外している。
飛ばされてきた石ころが、二人の近くを転がった。
「あちら様は、こちらの心拍を聴き損ねております」
「……」
あちらの観測手段を、正確に把握しているわけではない。
だが、二人身体を重ねることで、心臓の拍動を、把握できなくなったとしたら。
「ですから、今少し、このままで」
「…………」
向こうはこちらを見失っている。
そして必死だ。死にたくないのだろう。なりふり構わない爆破が短い間隔で続いている。この岩陰にはまだ音が届いていない。今ここを出ればやられる。選択肢はない。
だから仕方ない。
布越しに柔らかいような硬いような感触が、伝わっている。
己の息が荒くなっている。これは緊張と恐怖のせいだ。そう思おうとした。
──脳の異常ですよ。
場違いに、テオの醒めた声が脳裏に反響した。
夜空を、
爆発による閃光が彩っており、
楽器の音色が響いていて、
親密な距離でいる。
──待て。
俺は今、何を考えている。
命を狙われているんだぞ、俺達は。
そこまで考えたところで、遠くで爆発音がした。
リルがやってきた方角──すなわち、リル軍本隊。
そこへの攻撃が、再開されていた。
「……」
囮にかまけて、本陣への攻撃の手を止めるほど簡単ではない、ということか。
あるいは、こちらの性格を読んで、術師排除を止めることを期待しているのか。
遠くに響く爆発音。閃光。
それを、二人で見ていた。
あの光の下で、命が消えている。
俺のせいで──俺のために。
わかっている。全部言い訳だ。
作戦のため敵術師を殺すために、マルと二人で決死の囮役を買って出たのは。
自分の命令で死ぬ兵に背を向けて、道化を連れて逃避しただけにすぎないのだ。
汚れた旧巡礼宿から修道院に逃げたように。
それを救ったなどと自分は呼んだ。
また遠くで光る。
人の命を奪う輝きだというのに、だからこそ、美しい。
爆発の光の眩さに照らされる道化の顔が、いつもよりも綺麗に見える。
腕の中に熱があるのを感じる。
血と石粉と焦げた土の臭いの中で、場違いに、甘い匂いがした。白粉か、香油か、それとも道化の衣装に染みついた何かなのか。少なくとも、決して、安心していい匂いではない。
細い身体のどこが骨で、どこが肉で、どこからが衣装なのか、分からない。
それなのに、触れているところだけが妙にはっきりと伝わる。自分の身体が、相手の身体に沈み込んでいる。
白手袋が自分の服を掴んでいるのは見える。犬耳が、呼吸に合わせて小さく震えているのがわかる。
守らなければならないという使命感と、このままでいたいという気持ちが混ざり合う。
痛くなるぐらいに奥歯を噛みしめる。
「リル様」
「…………何だ」
「お体が、反応しております」
叫びそうになっていた。
「……おまえだって」
光に照らされたマル=シレスの相貌は、まるで湯に浸かった後のように、朱を孕んでいた。
最悪だった。
恐怖。爆発による身体の錯乱だ。死を目前にした生の誤読。言い訳はいくらでも浮かぶ。そして実際それらは完全に嘘ではなかった。
リルは歯を食いしばる。
熱く、薄い身体。布越しに骨と肉の感触。呼吸が近い。こちらの心拍と、マルの足首の鈴の揺れが、同じもののように聞こえる。
「違うんだ」
感覚がずれる。
細い身体を腕の中に収めているはずなのに、同時に、巨大な指先へしがみついているような感覚があった。
こちらの腕はマルの背に回っている。
だが、どこかで、己の全身が、白い手袋の指先へかろうじて乗っている。
あの雨の古砦で、初めてマル=シレスと出会った時の感覚が蘇る。
あのときも、握手をしているはずなのに、壁に触れているように感じた。何か巨大なものの表面に触れさせられているようだった。
「これは、違うんだ」
「……リル様」
マルが囁く声もまた、近すぎるのに遠かった。
耳元で鳴っているのに、空の上から降ってくるようでもあった。
認識があやふやになる。混ざり合う。融け合う。境界が揺らぐ。
「なんだ、これは──」
熱の向こうに、死者がいた。
── 砂礫 岩盤 山腹 ──
── 亀裂 凍水 冬脈 ──
── 巡礼 靴底 踏圧 ──
兵士たちが踊っている 影絵のように 谷の上で
── 支索 銅線 祈札 ──
── 足場 隊列 前進 ──
── 笛音 太鼓 反響 ──
落ちる 滑る 裂かれる
── 命令 前進 墜落 ──
── 視線 谷底 黒点 ──
── 王 軍 身体 ──
殺されている 殺している 進んでいる
── 血 拍動 鈴音 ──
── 掌 道化 熱 ──
── 小さい 遠い 軽い ──
人 の 命 は 小 さ い 小 さ い
── 怖い 甘い 熱い ──
── 嫌悪 欲情 歓喜 ──
── 違う 違う 違う ──
き も ち い い き も ち い い
き も ち い い き も ち い い
い き も ち い い き も ち い
い き も ち い い き も ち い
い い き も ち い い き も ち
「いる」
視える。
理解できる。
──太鼓手がいる。
岩壁の右下。
斜面の裂け目。
──苔のない黒い岩の奥。
何かが切り替わったように、リルは、マルの背に回していた腕を素早くほどいた。
熱が離れ、心臓の拍がずれる。
その瞬間、弦の音が二人の間へ差し込んだ。
「リル様!」
マルの声を背に、リルは岩陰から転がり出た。
爆発。
マルのいた岩陰の上側が白く光り、石片が雨のように散る。
爆破はまだマルを追っている。
頬を熱と飛礫が掠める中、リルは地面を蹴った。
「そこか」
裂け目の奥で、影が動いた。
小さな太鼓を抱えた、太い腕の魔人が、驚愕に目を見開いていた。
──犬星の案内なしに、ここを読めないはずなのに。
太鼓手の手が上がる。
踏み込む。剣が腕を裂く。
背後で爆発。だが半歩ずれている。
飛礫に脚を抉られながら、剣を持ち替え今度は胸に突き入れる。
血しぶきがリルの身体前面を濡らした。熱いはずのそれがひどく冷たい。
「みっつ」
太鼓が、岩の上に落ちる。
肩で息をする。
「マル、いるか」
背後に、鈴の音が近づいてくるのがわかる。
岩陰から抜け出して、リルを追ってきたのだろう。
振り返ろうとした時、夜の山道に、聞き慣れない弦の音が走った。
今まで、爆発や索敵に使われていたものとは異なる、誇示するような音だった。
「……!」
炸裂。爆火。
道化との間に咲くそれを飛び退いてかわす。
「──欣喜雀躍!」
岩壁の上から高らかな声が降る。
切り立った岩棚の上に、ひとりの術師が立っていた。
細身の身体を覆う、月影に映える漆黒の外套。
胸に抱えた、古い木目の美しい弦楽器。
月光を受けて、弦が銀色に光っている。
「王を目指す少年と、それを飾る道化。面妖にして悪趣味! さあ、どのような演芸に仕立てて見せようか!」
「……なんだ、あいつは」
クヴェル魔人部隊の副官、レドロネットがそこに立っていた。
*
同じ頃。
「伏せろ!」
トルカの怒号とほとんど同時に、爆発が起きた。
土と石が吹き上がり、誰かが悲鳴を上げる。
笛が鳴り、太鼓が応じ、弦が、岩場の外縁を撫でる。
リル本隊のいる岩場にも、再び楽器の音が届いていた。
「立つな! 頭を下げろ!」
トルカが駆け、立ち上がりかけた兵の襟首を掴んで引き倒した。
その兵がいた場所を、石片が通り過ぎる。
「負傷者は三人一組で運べ! 荷は捨てろ! 命を先に持っていけ!」
兵たちは動き始めていた。だが、遅い。再三の爆破に晒された兵の脚が鈍っている。
それを、最初トルカは、恐怖で鈍っているものだと思った。
「なんか、若様がいないと、動きがのろくなった気がするんだよな。なんつうか……足が合わねえ」
「馬鹿を言っていないで脚を動かせ、ディエゴ。合わせる必要はない!」
「けどよ、若様がいる時は、ばらばらに走ってても、どっちへ行けばいいか分かったんだよな……」
「……あながち、気のせいではないかもしれません」
「おい、テオ。冗談はよせ」
「いえ。教本で学んだことが。隊長や王の指揮は、兵たちにとって一種の術式として機能することがあります。精神的な作用との区別はひどく曖昧ですが」
テオが、焦げた札を貼り直しながら顔を上げた。
「旗や声や命令や視線、信頼あるいは恐怖……戦場で積み重ねた来歴が揃うと、その軍団に約定術的な意味が生じます。指揮官を中心として、その指揮によって方向づけられる集団、という意味の。そして今はその中心であるリル=グレスがいない」
「おい。操られてる覚えはねえぞ。適当抜かすな」
「大衆がなにかを魔物や魔人に変える時、互いに自覚などないのと同じです」
「てめ……」
「いえ。王権について、テオ殿の仰ることは神殿でも似た説があります」
ユーレンスが、負傷者の包帯を結びながら続けた。
「王とは、国に向かって『私は中心である』と約束させる存在だ、という説です。王が命じるから兵が動くのではなく、兵がその声を中心と認めることで、王が王になる」
爆発。
今度は少し遠い。
岩場の端が崩れ、積んでいた水袋が谷へ落ちた。
フェリペが悲鳴のような声を上げていた。
「ただし、それは危うい。人と人との境界を揺らがせるものでもあります。兵が自分の意志で動いているのか、王の身体の一部として動いているのか。その境目が曖昧になる」
「それは……」
「ある種の外法である、とも言われています」
外法。その言葉が、夜の岩場で妙に重く落ちる。
ディエゴが、嫌そうに顔をしかめた。
「やめろよ。若様を犬星と同類みたいに言うな」
「人からは遠くなっている、という意味ではそうです」
「どういうことだよ」
「人が王として見なされる時、その人は人としての意味を少しずつ剥がされます」
「それは……約定術なのか」
「ええ。人間に向けられた、長く、鈍い約定です」
ジャドが隊列の端を確認し、ふと眉をひそめた。
何かいなくなってはいけないものが消えている気がする。
その違和感は、三人の新兵が、報告にやってきたことですぐに氷解した。
「トルカさん、ジャドさん、大変です! ワヌレイ隊長がいません!」
半泣きの三人の兵の名をそれぞれハイカ、ブーカ、ティシータと言った。
*
「しかしああしかしだ! このボク稀代の大天才レドロネットの演奏を! 間近で! 聴きたくないのか、我が術監は!」
けたたましく騒ぐ姿は、戦場でまみえる敵兵としては、狂っている。
騎士道物語の登場人物としても、奇抜。
「なぜボクを本隊から離すんだ! ボクもクヴェルの演奏を間近で見られないッ! ボクが優秀だからか! ああ、許せない! 許せないぞリル=グレス!」
術師──レドロネットは弦を一度、激しく鳴らした。
「おい。マル。同類かあれは」
「残念ですが、存じ上げません」
「隠れるのをやめて姿を現すとはな」
リルは小剣を構えたが、ここからでは届かない。
息は荒い。背中と脚の傷が熱を持っている。
レドロネットは、その声を拾って鼻を鳴らした。
「お馬鹿だね。直接近くで見たほうが正確に爆ぜさせられるに決まっているだろ!」
「そうかもしれんが」
こうして直接見られている以上、さっきのように抱き合うことで観測をごまかす手は使えない。いや、それにしたってわざわざ派手に姿を晒す意味はなんなのだ。
ふざけている。と、考えるのは簡単だった。
「ここからは室内楽の時間だよ、リル=グレス、犬星の道化!」
だが、爆発はふざけていなかった。
弓を掲げる。弦が鳴る。
岩棚が白く爆ぜ、火花のように石片が散る。
崖の壁面が連鎖して光り、夜の山道に一瞬だけ昼が戻る。
笛が高く重なり、弦が追い、遠くのクヴェル本隊の太鼓が低く応じる。
リルとマルは、範囲から逃れるべく駆け出す。
道化の白い手袋が上がり、飛来石片や爆風を逸らし、戻す。
しかしそれでは終わらない。
二重。
三重。
マルの外法が押し返すたび、跳ね返すように新たな攻撃がやってくる。
「これでは私が手品を披露する暇もございあません」
レネヴェグの時と、ミルグリファの時と同じ。
またしても、死が別々の形で差し出されてきている。犬星対策の基本方針。
レドロネットは一人で鳴っているように見えて、その音は多数の術師へ繋がっている。最も遠くには、クヴェル=ラヴェルの打つ拍子もある。
前に立つレドロネット、周囲の魔人楽師、遠方のクヴェル。
それらが一つの楽曲として、リルとマルを押し潰そうとしていた。
「欣喜雀躍、悲憤慷慨、そして意気軒昂!」
レドロネットが笑う。
大仰な口上、大きすぎる身振り、そのすべてが、周囲の術師たちへ向かう合図になっている。
「聴こえるかい、犬星! これがボクとクヴェルの矛盾二重奏だ! 遠くにいる我が術監と、近くで見ているボク! 離れているからこそ重なり、重なっているからこそ離れる!」
「術師同調に妙な名前をつける文化があるのか、王家には」
「いいやッボクの美学だ!」
弦が跳ねる。爆発が近づく。
「戦いに美学を持ち込むな! 殺し合いを何だと思っている!」
「クヴェルのようなことを言うなッ! 美学なしに人は生きられないッ!」
激昂に声を震わせながらも、演奏の正確さは乱れない──というよりは、狂った拍子に、辻褄を合わせ続けているといった表現が近い。
足を踏み外したはずの拍が、次の瞬間には別の旋律へ接続されている。怒りで跳ねた音が、爆発の起点をずらし、笑い声の余韻が、遅れて岩壁を震わせる。
「……おまえは、狂っている」
「狂っているのはおまえだリル=グレス! 殺戮を楽しめないフリをするな!」
隣を駆けるマルが、静かに言った。
「リル様。すべての物量や策を無意味にする手段がございます」
「……言え」
「私めが、戻ります」
「それは、駄目だ」
マル=シレスの言葉の意味を完全に理解したわけではない。
だが、それでは、道化が道化として戻ってこないということはわかっていた。
「では、どうなさいますか」
答えはない。
相手は一人に見えて、多数だ。リルとマルだけでは勝てない。
こちらにも、せめてもう一つ動かせる駒が必要だった。
「諸行無常、盛者必衰。リル=グレスの王気取りも、今日ここで終楽章ッ!」
弦が鳴る。
爆発が二人の周囲で咲く。
リルは、反射的にマルを抱き寄せていた。
心臓の拍と鈴が重なる。感覚が、広がった。
── 岩 弦 爆ぜる ──
── 笛 盾 逃げる ──
── 太鼓 谷 落ちる ──
── 命令 前進 隊列 ──
── 旗 呼吸 足音 ──
── 嫌だ 怖い 帰りたい ──
── 行く 戻る 逃げたい ──
「…………」
多くの意識が流れ込んでくる。その中にひとつだけ拍の合わないものがある。
──そうか。そういうことか。
「離れたほうがよろしいかと」
「……いや、このままいく」
「たいへん動きづろうございます」
「分かっている」
リルはマルの手を掴み、岩棚の窪みへ転がり込む。
手を握ったままでは、ひどく動きにくい。自由に向きも変えられず、素早く動くこともできず、剣も振りにくい。
光り膨れ上がる足元。
リルはマルの手を引き、斜面を滑るように降りる。
背中に爆風が触れる。
熱が傷口を舐め、視界が白く滲んだ。
それでも手は離さない様子を、レドロネットは笑った。
「まだ重なるか! 実に無意味執拗不格好! すでに視えているのだからなあッ!」
弓が走り、爆発の予兆が、二人の行く先を塞ぐように連続して現れる。
右。左。上。背後。
それをマルがすべて差し戻す間に、手を引いて逃げる。
「……クヴェルの爆発とは違うな」
クヴェルの爆破は、必要な箇所が必要な拍で壊れる。
冷たく、正確で、無駄がない。刃物や時計の美しさがあった。
「虚飾と思うか? リル=グレス!」
派手な音は、周囲の術師たちを引き上げている。
笛手はレドロネットの弦に合わせて呼吸を整え、観測役は彼の大仰な身振りで爆破の向きを共有する。
遠くのクヴェル本隊の拍さえ、レドロネットの激情を支柱として、この場へ届いている。
「理性と激情か。……クヴェルが骨組みを作り、おまえが色をつける。おまえの馬鹿げた振る舞いで、術師たちが同じ方向を見る」
「そぉぉぉうとも! 我がクヴェルは冷たい譜面! 揺るがぬ構造! 夜のボルトゥート全体を楽器とする孤高の術監! そしてボクはその譜面へ血と息と身振りを与える副旋律! ふ、副旋律だと!? このボクが!?」
「自慢しながら激昂するとは器用だな」
「ともかく! 遠くで冷えるクヴェルと近くで燃えるボク! 理性と激情! 計算と陶酔! 離れているからこそ重なり、重なっているからこそ矛盾する! これぞ、矛盾二重奏! 」
遅延させられた爆発が時間差でやってくる。
リルはマルの手を引き、砕けた岩の上へ飛んだ。
マルの白い手袋がひらめいて、飛来した石片が、裂傷と呼ばれる前に横へ逸れる。
「ずいぶんと自己顕示欲の高いお方で」
「ああ……そして視野が狭い」
大した術師なのだろう。クヴェル=ラヴェルが副官にしているのも頷ける。
だが同時に、クヴェルが相手では、今自分が考えている作戦は成立しなかった。
「重なって散るのが悲劇的で美しいと思ったか!」
レドロネットが弓を大きく振り上げた。
「ならば誤解だ! 君たちが勝手にボクの演芸を美しく飾るな! 死に方を選ぶのは演者ではない、指揮者だ! ──踊れ、【月下錯視曲】!」
弦が鳴り、それに高く、明るく、腹立たしいほど伸びる声が重なった。
爆発術。いや違う。だがとっさに正体が掴めない。
リルは足元の岩棚が広くなったように感じた。
そう感じさせられている。敵の術によって。
酔ったかのように、足の置き場を見つけられなくなる。
「ボクが爆発術しかできないと思ったか!?」
「くっ……」
「君たちは美しくない。重なればよいというものではない。役には役の配置がある。王は王として、道化は道化として死にたまえ!」
起きた爆風に、白い手袋が、リルの指の間からついに抜けた。
リルは右の岩壁へ叩きつけられた。
引き離され、拡張されていた感覚が、閉じる。
「さあ、どちらが先に落ちる? 王気取りか、道化か? それとも二人仲よく砕けるか? おまえらの死因は無様な落下死だァーッ!」
次の一歩を置くべき場所が、実際よりも半足分遠く見える。
崖の縁が、実際よりも少し外側にあるように思える。
まずい。
次に爆風が来たら、直接当たらずとも、足を踏み外して転落死する。
「ひゃははははは! ボクの譜に従って美しく死ね、下手くそども!」
月光の下、弓を掲げて、レドロネットは勝ち誇った。
「──いや、間に合った」
勇ましくも美しくもない小さな足音が、鳴った。
「は? 何を笑って──」
「レドロネット、ここは舞台ではない」
レドロネットの背後で、跳ねる小さな影。
「──戦場だ」
振り下ろされる剣が、その肩を切り裂いた。
「ぎゃああっ!?」
演奏が止まった。
レドロネットは悲鳴を上げて、たたらを踏む。よろめきながら、断崖へと数歩近づく。
そして、背後を見た。
「……あ、あなたの負けです。レドロネット……さん」
泣きそうな顔で、女兵士──ワヌレイが、血に濡れた剣を握りしめていた。
「馬鹿な、い、いつ、兵に指示を」
血が黒い麗糸に滲んでいる。先程まで高笑いしていた表情は、驚愕に塗り替えられていた。この状況で、部下に助けを求められるはずがない。犬星に外法を使わせる余裕など与えていなかった。約定具や外法具を使った様子もない。意思疎通の手段はなかったはずだ。
自分とクヴェルのように、術師同調でもしていない限りは。
「そ、そうか、そういうことだった、のか」
レドロネットはふらつきながら、それでも笑っていた。
「反逆者と道化の同調が、矛盾二重奏を上回るとは……いや、言うなれば、王道化同調 、か」
踵の下で、岩が欠ける。身体が傾く。
「う、美しくなんてない、こんなもの……」
月照の中、谷底へ落ちていく。
レドロネットにとって、美しいものは、クヴェルだけでよかった。
そうでなければ、ならなかった。




