#27 拍動錯乱(一)
そこにはさっきまで、三人の盾持ちが待機していた岩棚があった。
リル=グレスは、落ちて小さくなっていく兵を見ていた。
空を手で掻きながら、谷底へ落ち行くその姿は、あまりにも早く、あまりにも静かだった。
悲鳴は途中で風に裂かれ、鎧が陽光を跳ね返し、一度だけ光った。
人影は小さくなって、さらに小さくなって、黒い点になり、谷の色に紛れた。
リルは、命令を出すことを忘れていた。
あっけなく死ぬことはある。
心臓を刃で貫かれ、喉を矢で射抜かれ、刹那の間に死に抱かれる兵を。火に熱され、悶え苦しみ、動かなくなる民を。毒に侵され、のたうち回って、呪いながら息をしなくなる兵を。何人、何十人も、間近で目にしてきた。
だが、この死はあまりに遠く、小さく、冷たすぎた。
「若!」
トルカの声がする。
無論、呆然としている場合ではなかった。
橋の向こう側でも兵が膝をつき、こちら側では工兵が支索へ飛びついている。割れた岩棚の縁から、まだ小石がぱらぱらと谷へ落ちていた。
「……何が起こった。テオ」
「投射物ではありません。結界術は十分でした。橋に対しては」
テオは焦げた札を捨て、新しい札を取り出そうとしていた。手が震えている。
「ですが、それは読まれていました」
遠く、笛の音と太鼓の音が鳴っていた。
*
進軍が始まったときから、すでに罠の予感はしていた。
両側は切り立った岩壁。下には白く泡立つ谷川。ところどころに吊り橋がかかり、岩棚を削った細い道が、山肌へ縫いつけられている。
そんなボルトゥートの山道を、リル軍は隊伍を組んで進んでいた。
そこには、一切の敵兵の影がなかった。
「……なんか、嫌です」
旧巡礼宿にいた時からすでに悪かったワヌレイの顔色は、さらに悪くなっている。
「読み通り爆発術を使ってくるなら、巻き込まれないように兵は置かないってことだろ」
「それにしたって誰も見えないっていうのは、やっぱ、変です」
「それは……そうだな」
トルカが顔をしかめた。
いくら爆発術を運用するからといって、全く何も兵を置かないことはない。
進軍を止める役。爆発で崩れた敵を狩る役。術師の位置を悟らせないための囮。敵が爆破点を抜けた時に、もう一度足を止める役──そういったものが、普通なら必要になる。
森の中に、妙に澄んだ水場を見つけた時のような不気味さがあった。
「伏せてあるのか……?」
トルカの声にも確信はない。全く会敵しないまま、リル軍は進む。
やがて、細い岩棚が続く曲道へ出た。
その先には吊り橋がかかっている。
橋の向こうには、ボルトゥート外郭へ続く灰色の岩道が見えた。
縁から下を覗くと、谷川は白い線にしか見えなかった。
距離がありすぎて、水音もすぐには届かない。
下から吹き上げる風は、胃の底を撫でていくかのようだった。
小石が一つ、兵の靴に蹴られて縁から落ちた。それが跳ね返る音はいつまで経っても聞こえない。
「た、高いですね……」
ワヌレイが呟く。返事をするものはいない。
ここを越えれば、外郭前の足場に出る。
そう思った時、事件が起こった。
*
敵が橋に仕掛けてくることは、見え透いていた。
橋を兵が渡るまさにその時、橋の支索に巻かれた銅線が、青白く光ったが、テオとユーレンスが先んじてかけた結界術がそれを打ち消していた。兵たちが安堵したその矢先、盾持ちが待機していた岩棚が弾け、傾いたのだった。
間に合わなかった。
「仕掛けられた形跡は?」
「橋には仕掛けがありました。それは囮だったかもしれませんが……しかし岩棚には札や銅線といった媒介具は見受けられませんでした」
「では、どうやって爆ぜた」
「……分かりません」
テオは悔しげに言った。
「ですが、こちらが橋の術を防いだのを見て、即座に岩棚へ爆発術をかけたように思えます」
「なら、近くに術師がいるということか」
見渡す。岸壁や谷、別の岩棚、だが、どこにも観測者の影はない。どうにかして、こちらの様子を観察する手段があるはずだ。
「わかっていたが、爆破を防ぎきることはできないか。せめて転落死は防がね、ば……」
はっ、となって、己に随伴する犬耳の道化を見た。
ラグティス橋市での、落下物を途中で止めた芸当を思い出していた。
「マル。……今のは止められたんじゃないのか」
「ええ」
あっさりと肯定する声に、リルは怒声を飛ばしかけたが、やめた。
道化はいつも通り、慇懃で、腹立たしく、何もかもを舞台の上に置くような笑みを浮かべていた。
しかし、いつのまにか、道化の笑みの中に宿る、微妙な意味を汲み取れるようになっていた。あるいはそのつもりになっていた。
「次は……次は救え。俺の指示を待たなくていい。命令だ」
道化は頷いた。
「あの……」
理不尽な死を目前にして、ワヌレイは泣きわめかなかった。むしろ冷えた表情をしている。
「……さっきから笛の音みたいなのが聴こえるんですけど、これ、なんなんですかね……あ、今は止みました」
「笛の音だと」
「はい……。山道に入ったときから、してました」
「おい。なぜ言わなかった」
「ひえっ。すみません。最初は風の音だと思ったんです。でも、今思い返してみれば、間違いなく笛の音です」
全員が、同じ名前を思い浮かべた。
音を媒介とした爆発術師、クヴェル=ラヴェル。
──まさかあの術師は、見ずに、遠くから、こちらを爆破することができるのか?
*
笛が、また鳴った。
先頭から五人目の兵が踏み出そうとした岩が、内側から白く光った。
同時に、マルの白い手袋が上がった。
「まだ、踏める場所でございます」
砕けかけた岩が、まだ足場である顔をして、兵の靴底が、空ではなく石を踏んでいることになった。
身体が傾きかけた兵を、隣の盾持ちが掴む。
「引け!」
リルが叫ぶ。兵は引き戻された。助かった。
そう思った瞬間、太鼓が鳴った。
リルのすぐ横の岩壁が爆ぜた。
「ぐっ……!?」
熱と破片が顔を叩く。
リルは反射的に腕を上げた。石片が籠手を打ち、耳の奥で音が歪む。
「これは……」
「やはり、こうなりましたか」
「辿られたか。おまえの外法を」
マルを狙った──のか、それとも。
マルに指示を出せるのは、自分だけだ。
つまり、常にマルのすぐ近くにいる、自分を狙ったのかも知れない。
どちらにせよ、いずれかを落とせるなら向こうにとって僥倖と言って余りある。
「あちらは、正確にこちらをご覧になっているわけではないようですね」
「……ラグティス橋市と同じだ」
あのとき帳外吏は、民を助けざるを得ない状況を作り出し、マルの外法を釣りだした。
ここでは、兵を叩き落とし、マルに助けさせることで、こちらの位置を特定しようとしている。
だが、助けなければいいかというとそんなはずもない。
向こうからすれば、一人ひとり順番に落としていけばいいだけなのだから。
兵力が削れるだけで終わっても、何も問題がない。
リルかマルが死ねば、軍は終わる。
見捨て続け、軍が崩れれば、リルは負ける。
「どう負けるかを選べというのか。笑わせる」
「……次はどうなさいますか」
「命令は変えん」
「承知」
*
次の笛の音は爆発を起こさなかった。
岩に走っていた亀裂が、ある槍兵の下で広がった。
悲鳴とともに、その身体が谷側に傾く。
「まだ、落ちる形ではございません」
マルの白手袋が動き、谷底へ向かうはずだった重心が、岩棚の縁へ戻る。
近くの兵が鈎縄を投げ、槍兵がそれを掴み、命を繋ぎ止める。
リルは我知らず一歩踏み出していた。
太鼓の音。その足場が白く光る。
「若!」
トルカが叫ぶ。
爆発に、今度はリルの身体が谷側へ弾かれる。
熱が肩を舐め、石片が頬を裂いた。
マルが白手袋に包まれた手を躍らせると、リルの身体が、まだ転落ではない位置に留められる。
その直後、どこかで弦の音がした。
槍兵の滑落を防いでいた新品のはずの鉤縄が、見えない刃を入れられたかのように唐突に切れる。
──板が砕けるか、縄が切れるか、支柱が急に反発するか、といったところでしょうか。
支えを失った腕が、空を掻く。
槍兵の手が、あと指一本のところで滑った。
「あ」
誰かが声を漏らした。
マルの術は、リルを支えるために使われていて、届かない。
落ちていく兵の顔が見えた。
驚き、恨み、困惑、怒り、それらが微妙な割合で混ざり合っている。
そして、小さくなっていく。
リルの瞳孔が狭まる。
身体を駆け巡る得体のしれない感覚に、吐き気を覚えた。
「名前」
リルの声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「今の兵の名前を確認しろ」
*
ボルトゥート砦の屋上には、楽器を手にした演奏者たちが揃っていた。
だが、ここは演奏会場ではなく、王家軍魔人部隊の駐屯地であり、作戦本陣である。
中心に立つクヴェルの周囲には、数名の術兵が控えている。
笛手。太鼓手。弦手。観測手。クヴェルにはそれで足りた。
笛手が息を入れ、弦手が弓を引く。音が重なる。
遠くで爆発が起こる。
その反響を聴き、再調整する。
「……今ので仕留められましたかね?」
「ディーヌ。これで済むなら王家軍は手を焼いていない。再攻撃に向けて息を整えろ」
「はっ」
気を緩める気配のないクヴェルに、ディーヌと呼ばれた笛手は気を引き締め直す。
どれほどの戦果を出しても誇るどころか、一切の笑みも浮かべることのない上官だった。
ふと、そのクヴェルの羽毛が、わずかに震え、目を眇めさせる。
遠方より、輪郭のある意思が、術師同調の細い糸を伝って届いて、言葉として翻訳される。
『クヴェル! 聞こえますかボクのクヴェル=ラヴェル! 前線観測隊などという実に名誉で重要で正当で不愉快な配置より連絡! たいへん愉快で不穏な道化、マル=シレスを確認しました!』
届いたそれに、屋上の術兵たちが、露骨に顔をしかめた。レドロネットだった。
『認めましょう。あれは高性能です。たいへん腹立たしいですが実に高性能です。滑落する敵兵を救い、足場崩落を遅らせ、破片雨を逸らし、しまいには爆風を差し戻す。とんだ奇術です。種も仕掛けもない馬鹿げた奇術をその場その場で臨機応変に用意する。術師として真っ向から相手するなど馬鹿馬鹿しい。まさに一騎当千、いや、一匹当千の外術師です』
長い。明瞭すぎる。音として響いているわけでもないのに、誰もが“うるさい”と感じてしまっていた。
「……これ、本当に術師同調なんですか」
クヴェル配下の弦手が、弓を構えたまま眉間を押さえた。
本来、術師同調による遠隔伝達は曖昧なものだ。
左、右。進め、退け。待て、押せ──伝わるのは、せいぜいその程度の方向性である。そこに言葉の形を与えるのは難しい。
少なくとも、戦場で詩を送るものではない。
「普通、ここまで文章になりませんよね」
「なりません。そもそも、なってほしくありません」
「少し前まで王都で演奏家をしていたと聞きました。新進気鋭の若手だとか」
「どうしてあれほど明瞭に意識を伝達できるのですか」
「我が強いからでしょう」
「我で術師同調を押し広げるな。むしろ我が強いと同調に支障が出るのでは……」
「魔人でもないくせに。お遊びで軍に来た傾奇者ではないのか」
「なぜ術監は、あれを副官に」
誰かがそう言って、慌てて口をつぐんだ。
クヴェルは気にした様子もなく、レドロネットから流れ込む過剰な報告を聞いている。
『──だが、突破不能ではありません。彼は万能の傘ではない。せいぜいが穴の開いた天幕です。優先順を決めなければならない。もっとも手厚く守っている箇所がある! ははは! 主従一体、主人を愛する下僕の美しさですねえ! だが覆されるための美しさです!』
「要点を言え」
『このまま外法防御を繰り返すならマル=シレスを通じてリル=グレスの位置を完全に逆算できます! 防御が厚い場所が奴の主君です!』
「了解。観測と攻撃を続けろ」
配下たちは顔を見合わせている。
「……あの方、クヴェル術監の美学には合わないのでは」
笛手ディーヌが小声で言う。
「私は美学で軍務をやっているわけではない。貴様の美学に合わないと正確に言え」
「けど、美学がないわけじゃないでしょう。ただ必要だから鳴らしているだけの方ではない。あなただって、若い頃は──」
「観測、調整、完了しました。次、行けます」
「次を鳴らす。ディーヌ、無駄口はあとだ」
「……はい!」
観測手の割り込みに、ディーヌは口をつぐみながらも、納得はできていなかった。
クヴェルは、己を削ぎ落とし、最後に残った冷たく美しいものを音にする──ディーヌにはそう見える。
一方でレドロネットは自分という余計なものを、戦場に持ち込む。
クヴェルの美しく静謐な軍楽を踏み荒らすような態度のレドロネットを、ディーヌは許せてはいなかった。
*
リル軍はいったん、岩壁の抉れた場所へ身を寄せた。
古い巡礼者が雨宿りに使ったのか、あるいは山を削った時に偶然残ったのか。十数人がやっと肩を寄せ合える程度の岩棚だった。上から庇のように岩が張り出しており、谷側からは死角になる。
安全を保証するものではないが、少なくとも今は足元が白く光ってはいない。
「負傷者を奥へ。盾は谷側。術師は札を張り直せ」
命じるリルへの、兵たちの返事の声は鈍かった。
「案の定、私めが大きく防ぐ手も向こうには読まれているようでしたね。私めの手品に対応して、石、馬具、盾を手を変え品を変え揺らしてくる」
マル=シレスが白手袋を引っ張って整えていた。道化は自身とリル=グレスに対する被害は完璧に防いでいたが、周囲の兵たちを守りきれない。毒の時と同じで、守る相手から外れた者が、死ぬ。
「……なぜ、立て続けに爆破してこない。こちらがこうして固まっている。狙うなら今だ。橋も、足場も、負傷者も、まとめて落とせる」
「遊んでやがるのか。くそ、性格が悪ぃ」
リルは忌々しげに唸る。トルカは、そこにクヴェルがいるとでも言うように、岩壁の向こうを睨む。
「違う。クヴェル=ラヴェルが、そんなことをするはずがない」
「連続爆破できない事情があるのでしょう」
テオは焦げた札を並べ、指で岩の粉を拭っていた。
「事情?」
「相手はおそらく、反響でこちらの位置を割り出しています。音を山に通し、返ってくる揺れでこちらの足場、支索、荷車、人数の偏りを読んでいる。一度爆破すれば、地形が変わります。足場が欠け、岩が落ち、支索が切れ、兵が動く。音の返りも変わる」
「次を撃つには、再観測が必要ということか」
「ええ。マル=シレスも指摘していましたが、こちらの様子が手に取るようにわかるというのなら、それこそ神の所業でしょう」
「つまり、爆破と爆破の間には必ず猶予が生まれる。なら、こうしてじっとしているより動き続けた方がいい」
「ええ。……理屈の上では」
「現場には通用しねえ。兵がついてこねえ」
テオの言葉をトルカが補足した。
リルは岩棚の奥を見た。そこには兵たちがいる。命令すれば走るだろう。
しかしその一歩目は、誰も踏みたがらない。
次に踏む地面が、まだ地面である保証がないから。
「……数だけなら、被害は軽い」
歯噛みする。
剣や矢なら、まだ立ち向かうことはできる。
だが、己が信じていた足元が確かでないと知った時、人は戦えなくなる。
怒りは兵を奮い立たせるが、恐怖は身体を竦ませる。
今は数名の死で済んでいても、やがてそれは、必ず膨れ上がる。
*
次の突破は、術師たちが先頭に立った。
テオを中心に、ユーレンス、アンドレイ、祈祷術師二名、工兵隊付きの結界術師三名が、岩棚の手前に並ぶ。
「拙僧は神殿術の修行が途中なのですが……」
「未履修でも落第でもなんでも、数が必要な場面でしょう」
渋い表情を作るアンドレイを、ユーレンスが嗜める。
「どうするつもりだ、テオ」
「相手が爆破の定義を重ねる瞬間に、こちらも集団で同じ対象へ反対の定義を重ねます。隊列を伸ばすと端を狙われて削られる。一気に駆け抜けます」
「術師同調か」
リルは幻灯芝居の日にテオに行われた講義を思い出していた。
「ええ。こんな土壇場で試すことになるとは思いませんでしたが」
次の道は細かった。
人二人が並べば肩が触れる程度。
途中に古い補修板が渡され、さらにその先で短い吊り橋へ繋がっている。
見ただけで脆いとわかるが、そこを通らなければ進めない。
「こう祈ります。橋は、まだ橋である。岩棚は、まだ足場である。隊列は、まだ軍である。兵は、まだ落ちていない。これを全員でやります。やれなければ落ちて死にます」
ユーレンスが橋近くに聖印を設置し、テオが札を貼り付ける。
「行くぞ!」
リルの指揮のもと、兵たちが走り出す。
笛が鳴った。
「……来ます!」
ワヌレイが叫ぶ。岩棚が白く光る。
「橋は、まだ橋です!」
「白手の御前に、未だ道は途切れず」
「未だ足は借りの上、未だ命は帳尻の外」
「アンドレイ殿、妙な文言を混ぜないでください!」
「通りゃいいんですよ!」
爆発。
岩棚の縁が剥がれ、補修板が跳ね、吊り橋の片側が沈む。
落ちる途中にあるそれを、この場にいる術師たちは、まだ足場であると見做し続けた。
買った一拍の猶予の間に、走り続ける。
まだ誰も落ちていない。
行ける。通れる。
そう思った瞬間。
術師の一人が、橋の中央で兵が一人、足を滑らせているのを見てしまった。
まだ落ちていない。仲間の手が届く可能性はあった。
だが、その術師が落ちると見てしまった瞬間、術師同調に穴が開く。
術師の顔が真っ白になる。彼の中で、兵はもう落ちていた。
その一点から、騙しが破綻する。
「見るな!」
テオが叫んだが、もう遅い。
橋はもう足場でいることをやめていた。
兵二人が、同時に姿勢を崩す。
太鼓の音。
爆発。
「マル!」
「承──」
「いや、使うな!」
二人の足元が消える。
そして、二人が消えた。
「足を止めるな!」
リルが檄を飛ばし続ける、その視界の端で、また数名が落ちていた。
*
空が鉛色に沈み始めるころ、リル軍は、崩落の危険が比較的薄い広い岩場へ寄り集まった。
かつて巡礼者が荷を下ろした場所なのだろう。山肌を削った平地に、低い石積みの跡が残っている。岩壁が背を守り、谷側も少しだけ遠い。
笛の音はまだ響き続けている。獲物を探す狼の吠え声のように。
「……ひどいもんですね。もう、楽器の音が響くだけで錯乱する兵が出るようになった」
トルカの吐き出す息には疲労が濃く滲む。
リルたちは、マル=シレスを含む数名の兵と、車座になっていた。
あれから何度も似たような突破が繰り返された。
犠牲は少なくなかったが、クヴェル=ラヴェルの爆発術が直接奪った命は、そのうち半分もなかったかもしれない。
笛の音が聞こえた瞬間に錯乱し、まだ光ってもいない足場から飛び退いて、そのまま谷へ落ちた者がいた。
太鼓の音に怯え、隣の兵へしがみつき、二人まとめて体勢を崩した者がいた。
落ちかけた仲間を助けようとして、伸ばした手ごと岩棚から剥がれた者がいた。
恐怖で隊列から逃げ出し、脇道へ駆け込んだまま戻らなかった者がいた。
「なるほど。必ずしも直接殺す必要はない。こちらの心を崩したら、あとは勝手に落ちるのを待てばいいというわけか。合理的な術だ」
「言ってることがマル=シレスじみてきてますよ、若」
「だが、実際にそうなっている」
「次は、もちません」
テオが簡潔に述べた。
「術師同調がか」
「はい。恐怖が、術師たちに同じものを見ることをできなくさせています。わかっていましたが、所詮急場ごしらえの同調は脆い」
「信仰は恐怖を和らげることはできても、目の前で起こってしまったことをごまかすことはできません」
ユーレンスが首を振っていた。
「……状況を変える必要があるな」
だが、どうすればいいかなどはわからない。打てる対策は打った。マルもテオもユーレンスも最善を尽くしている。
「なんとか、術そのものを止められねえのか。術師を殺すとか」
トルカは頭を抱えていた。
「どこにいるのかもわからない術師をか。それができれば苦労はしない」
「あの、それなんですけど」
黙っていたワヌレイが手を上げ、皆の視線がそちらに向く。
「敵の楽器の音、近づいてませんか」
「……近づいている、だと?」
「はい。気のせいかもと思ったんですけど、夕方くらいから、ちょっと……近いです。笛も太鼓も」
「……」
敵は視認に頼っていない。だが、無限に遠くから撃てるわけではない。
おそらく、ボルトゥート山地のどこかに身を潜めている。
というより、そうでなくてはお手上げだ。
「いけるかもしれん」
「え?」
「敵は山を聴いている」
自分の息の音を聴かれることを恐れるように、リルは口元を手で覆った。
「だが、聴く場所は必要だ。笛手、太鼓手、弦手、観測役。互いに音を繋ぎながら、こちらを追っている。定点で、あるいは、移動しながら。だが、足場の少ない岩山では、そう自由には動けんはずだ。身を隠す必要もある」
「若、何を考えてるんです」
「敵の術師を探し出して、殺す」
「誰がそれを……」
ワヌレイがわずかに腰を浮かせかけたところで、先に白い手袋が挙げられていた。
「私めがやりましょう」
マル=シレスは、決死の状況下で、優雅に微笑んでいた。
「私めが敵の位置を暴きましょう。あちら様も私めの痕跡を拾いたがっている。ならば、拾わせればよろしい。囮としては、なかなか上等でございましょう?」
「……殺されに行く気か?」
「殺されないように努めます。この道化、皆様の共有財ですので」
「……」
リルは、悪竜ヴォルグとの戦いを思い出す。
あの時も、己の危険を顧みない自虐的な策を提案していた。
「陛下未満の陛下。私めは、もともと鳴っております。ならば、せめて鳴る場所をこちらで選びましょう」
違うのは、この献策には第二案がないということだ。
トルカは、黙り込んでいた。死地に向かうのを見過ごしたいわけではない。だが、他に策がない、という顔をしていた。
他の兵も、概ね同じだった。
「わかった。頼めるか」
「ええ。謹んで」
マルが、うやうやしく頭を下げる。
リルは立ち上がる。
「そして、俺が護衛をやる」
*
夜の山道は、昼よりも狭く感じた。
月明かりは岩壁に削られ、谷底からは水音だけが上がってくる。
リルは小剣の柄に手を置きながら、マルの半歩後ろを歩いた。
いつもの大剣や鎧はなく、最低限の装備である。
その軽さが、妙に落ち着かなかった。
「まさかあなた様が護衛を買って出るとは」
マルが、いつもの調子で言った。
「指揮官が囮役と同行など、前代未聞でございます」
「そうだな。だが、向こうとしてもこれは読めないだろう」
「どうでしょう。これこそが向こうの狙いやもしれません」
「おまえの近くが一番安全だ」
当然、他の兵たちは反対した。護衛をつけるにしても、他のものにやらせるべきだと。
いくつか理由は言えた。
自分とマル、どうせ片方がやられれば勝ちはないのだから、二人まとめてやられたところで同じ、だとか。
どうせなら囮の価値を上げるべきだ、とか。
マルと一番連携が取れるのはこの自分、だとか。
無理があるのはわかっていた。だが、最終的な決定権は自分にあった。
「よほど私めのことが気に召されたようで」
「そうだ。俺はおまえを一人にしたくなかった」
茶化すような道化の言葉を、否定しなかった。
「……リル様は、冗談が不得手にございます」
「冗談ではない」
「……」
「今まで何度も綱渡りを繰り返してきた」
リルは暗い足元を見た。
岩の割れ目が、夜の中で黒く口を開けている。
「今は文字通り、綱に切れ目が入っている」
「たいへん文学的でございますね」
「今まで何十人も、何百人も、いやもっと死なせてきた。俺の順番が、そろそろ巡ってくるのかもしれない。だから、言えることは今言っておく」
「物語では、その手の台詞を口にすると、本当に死ぬと相場が決まっております」
「物語ではない。現実の戦だ」
「私めは現をふざけた物語に変えるのが仕事ですので」
「おまえを一人にしたくなかった」
リルは小さくため息を吐いた。
「おまえだけを囮にして、俺が安全な場所で命令を出すのが嫌だった」
「それは、指揮官としてはあまりよろしくありません。王を目指すものとしても」
「……わかっている」
「友人としては」
マルは、一度そこで言葉を切る。浮かべる微笑みは、どこか失敗していた。
「とんだ喜劇にございますね」
「俺の人生は最初から、馬鹿げた喜劇だよ」
「では、せめて幕切れだけは美しく」
「死ぬつもりはない」
ここで死んでもいいと思っていた。
だが、もはや死に場所を選べるような立場にはないことも、リルは理解していた。
そして、自分はここで死んでおくべきだったのだと、すぐに思い知らされることになる。
「かしこまりました。死なぬための、たいへん醜い小芝居を始めましょう」
マルは小石を崖の縁に投げる。それが不自然に宙に留まる。
遠くで、笛が鳴った。




