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#26 王を眠らせるための練習曲

 王都の城壁は遠目には清潔だった。

 白い石を重ね、王家の紋章を掲げ、神殿区の尖塔を背後に従えている。だが、近づけば白さの下に煤があり、石継ぎには補修の跡があり、門前には検問を待つ荷車の列が伸びていた。

 人の列もあった。徴発免除を求める者や、戦死した息子の名を確認しに来た母親。どこかの村から逃れてきたらしい家族。


 遠くで鐘が鳴るのが聞こえた。

 音が歪んでいる。修繕が必要だ、とクヴェルは思った。


 王都の南門をくぐると、整列していたクヴェル隊所属の兵たちが、一斉に敬礼した。

 角や鱗や膜翼、獣毛といった、あからさまに人間のものではない特徴を持っている者が多い。見た目には変わらなくとも、呼吸が笛のような音を出す者もいる。

 クヴェル=ラヴェル同様に、ほとんどが魔人(アノマ)だった。

 王都の民は、彼らを遠巻きに見る。その眼差しにも、彼らは慣れていた。

 王家軍の装束が、彼らの居場所をかろうじて形作っていた。


「術監。あの、白縫い砦での件ですが」

「報告済みだ」

「いえ。ご無事で、よかったです」


 その兵は表情を緩ませていたが、クヴェルの視線を受け、すぐに視線を伏せた。

 余計なことを言った、と顔に書いてあった。


「ああ、私の存在は作戦継続上有益だからな」

「……。は、はい!」


 その返事がクヴェルなりの心配りであると理解するまで、兵は少し時間を要した。


「ラヴェル術監。陛下がお呼びです」

 別の兵が進み出た。

「報告書は提出済みだ」

「直接、お聞きになりたいとのことです」


 *


 王宮の廊下に敷かれた厚い絨毯が、軍靴の音を吸う。

 壁には歴代王の肖像画が並んでいる。

 額縁の中の王たちは、皆、同じ方向を向いていた。


 案内されたのは、謁見の間ではなく、小さな私室だった。

 小さいと言っても、庶民の家なら広間と呼ぶ程度の広さはある。

 壁には厚い布が掛けられ、床には毛足の長い絨毯が敷かれている。窓は細く、外の光は入るが、外の音はほとんど入らない。


 クヴェルの目的の人物は、椅子に座っていた。頭に乗せた王冠は、頭蓋の一部のように見えた。整った顔立ちで、肌は白く、血色が薄い。五十を越えているはずだが、老いに崩れてはいない。かと言って若く見えるかというと、それも違う。

 腐敗していない、という形容が近かった。


 オディウム=オルディアス。

 オルディアス王家十二代王。時の最高権力者、その人だった。


「王家軍楽術監、クヴェル=ラヴェル。盗賊団討伐および白縫い砦事案より帰投した。報告を行う」

 クヴェルは片膝をついた。

 オディウムが座している椅子は玉座ではないが、同じことだった。 

「後でよい」

 オディウムの目線の先、部屋の隅に、大提琴(チェロ)が置かれている。

 クヴェルは顔を上げ、立ち上がってそれに歩み寄り、手に取った。


 古いが、よく手入れされている。王宮の楽師が使うには質素で、戦場に持ち出すには繊細すぎる。木肌には細かな傷があり、駒の近くには弓の癖が残っていた。

 クヴェルのよく知っている──普段戦場で爆発術の媒介にするものとは異なる、ただの楽器だった。


 クヴェルが奏でたのは、古い練習曲(エチュード)だった。

 音楽院に入った者なら、誰もが一度は弾かされる、余計な装飾のない、弓をまっすぐ保つための曲。旋律は素朴で、幼い者でも覚えられる。王はそれを好んだ。


「……………………」


 王冠が、燭火を受けて細く光る。

 オディウムは目を閉じてそれを聴いていたが、やがて開く。

 拍手も喝采もないが、乾いた彫像のような相貌に、少しばかり潤いが戻ったように見えた。

 クヴェルは軍楽術監の座に就いてから、自分の音がもたらす作用に表情を動かさないようになった。今日もそうしていた。

 

「盗賊団討伐。対象三十七。死亡二十六。捕縛十一。周辺村落被害、確認中。装備に王家軍制式外套の改造品が混在。……」


 クヴェルは、最初に行うはずだった報告を始めた。聖痕のこと。ロッズの拘束。切界剣について。そして、リル=グレスのこと。


「リル=グレスは、どうだった」

「判断に躊躇がありません。自分の危険を計算に含め、周囲の損耗もよく見ます。そして敵ですらもその思想の対象に含める」

「王には向かぬか」

「それは不明ですが、王になろうとしています。軍備を増し、拠点も増えた。神殿経由の支援線が太くなっている」

「神殿は表向きは中立のはずだが」

救恤(きゅうじゅつ)のための支援という名目です。結果としてリル軍は難民救済に手勢を割かれることなく、兵力増強に集中できている。小規模勢力ではなくなりつつあります。周辺諸侯にも表立って協力するものが増えだしました」

「次はどこへ来る」

「あの性格からして、遅滞戦略は取らないでしょう。もっとも速い手段を採る」


 クヴェルは、部屋の机に置かれていた地図を見た。

 ラクディス南方の山並み。

 谷と道と旧関所が重なる、灰色の線。


「ボルトゥート山地」


 *


 ボルトゥート山地の地図は、机からはみ出していた。

 山道は細く、谷は深い。

 古い関所が三つ。廃砦が二つ。吊り橋が四つ。実際に使えるかどうか不明の旧道が六本。山腹を縫うように伸びる石積み道は、地図上では一本の線だが、トルカの報告では荷車二台がすれ違う幅はない。


「帰りたいです……」

 ワヌレイが言った。まだ出発もしていない。

「早いな」

「山ですよ。高いじゃないですか。上から石が落ちてきますよね。あと落とされますよね。若様、本当にここを通るんですか」

「通る。通れさえすれば迂回よりも年単位で計画が早くなる」


 リルの前には、地図と報告書と損耗予測が並んでいる。

 フェリペが補給線を指でなぞり、ユーレンスが神殿側の施療拠点候補に印をつけていた。テオは山地の地盤と旧関所に残る約定記録を確認している。サイモンは黙って弓兵の配置案を見ていた。


「ボルトゥートを取れば、ラクディス方面の王家軍を分断できます。同時に、王都への圧力が現実になる。商人組合や諸侯も様子見を続けにくくなるでしょう」

「失敗したらどうなるんすかね……」

 フェリペの言葉に、ヨハンが不安そうに呟いた。

「退路を絶たれて、谷が丸ごと墓になりますね」

「たいへん景気のよい計算ですわね」

 バルトロメアが地図から目を離さないまま笑った。

「施療所は山麓側に一つ、中腹に仮設を一つ。上に作るのは危険ですわ。崩落でも爆破でも、逃がせませんもの」

「爆破……」


 ワヌレイが小さく繰り返すと、その場の誰もが同じ人物を連想した。

 クヴェル=ラヴェル。

 白縫い砦で一時的に共闘した敵。切界剣の性質を見抜き、リル=グレスと即席の連携を組んで賊を討ち取った者。


「山岳地帯で、あの爆発術師と当たるのは避けたいところです」

「避けられん」

 厳しい表情をするテオに、リルは首を振った。

「ボルトゥートを守るつもりなら、向こうは必ずクヴェルを置く。なら、使われる前提で作戦を組むしかない」

 ボルトゥート山地の地図の上、橋や細道、岩棚といったいかにも仕掛けてきそうな場所に、赤い駒が置かれていく。

「……そうですね。クヴェルが出るか出ないかに関わらず、山岳地帯は爆発術を利用するのに絶好の場所です。爆破させるものが多すぎる」

「ええ。足場崩し、落石、橋梁破壊、荷駄の分断、退路封鎖。活用法に枚挙の暇がありません」

 テオが眼鏡の位置を指で直し、ユーレンスが地図の上を指でなぞる。

「ふつう爆発術ってどうやってかけるんだ? クヴェルみたいに楽器使うのは珍しいだろ、さすがに」

「当然、なんらかの射程を用意する必要があります。至近距離で爆発させる術者がいたら、それは自殺志願ですね」

 トルカの初歩的な疑問に、テオは淡々と返した。

「爆発術でありがちなのは、投射物媒介です。約定を仕込んだ矢弾、投石、槍、金属片、短剣を投射する方法ですね。これは射手に爆発術の心得がなくとも扱えるのが利点ですので、クヴェルが不在でも常に警戒する必要があります」

「つまり、普通の矢だと思って受けたら爆発する、ってことか」

「はい。盾で受けても危険ですね。接触で起動する場合もあります」

「最悪じゃねえか」

「戦場で相手が最悪でないことを期待するのは、祈祷の分野──あ、ユーレンス殿の前でこの喩えはまずいですね」

「いえ。祈祷にも限界はあります。爆発に対しては、特に」

 ユーレンスは穏やかに言った。

「対策としては、盾に防御の約定術をあらかじめかけておく必要がありそうです。例えば、“この盾で受けたものは爆ぜない”といったような」

「兵ではなく地形が狙われた場合、その対策は無効になります。原始的な手段ですが、荷駄と歩兵の密集を避ける必要もあります。爆発術は密度が高いほど損害が増える。山道では難しいですが、隊列に間隔を置く」

「マルさんなら全部防げるんじゃないスか。以前、王家軍の矢の雨をまとめて逸らしたじゃないスか」

「ええ、ええ。可能でしょう。すべて矢の形を取っていれば、でございますが」

 ディエゴの質問に対しては、マルはそれ以上は説明せず、ちらり、とリルを見た。

 毒作戦の時、マルですら多様な毒を一度に止めきることができなかった。そのことを暗に言っているのだろう。

「そうだな。マルを全体防御の前提にはしない。 投射物も危険だが、クヴェルの見せたような音による爆破を警戒すべきだと思う」

「神殿側から、簡易の封音札を出せます。音を媒介にする術式の精度を乱せる可能性があります」

「視界を妨げるのも有効でしょう」

 テオが、地図上の岩棚に黒い駒を置く。

「煙幕、幕布、鏡面板、反響を乱す鈴。あるいは、露出せざるを得ない観測手を潰す」

「鈴?」

 ワヌレイに足首の鈴を見られて、マルはにこりとした。

「私めをぶら下げますか?」

「そこはせめてお揃いになりますか? とか言ってくださいよ」

「罠もよく見る手段ですね」

 テオは、さらに赤い駒を置いた。

「橋や死体や残置物に爆発の約定を仕掛け、接触を条件に起動する類のものがあります。注意していればひっかかりませんが、疲弊していると意識の間隙を衝かれます」

「残置物。……負傷者には?」

 リルが問う。

「最悪、負傷者にも仕込まれます。戦場誓則違反ですが」

 ユーレンスの目つきが険しくなる。

「クヴェルが禁じても、現場が追いつめられればやる者は出るかもしれません」

「見るものすべてを疑っていくしかないか」

「ワヌレイ、行軍する前から疲れてきました……」

「以上が手段ですが、爆破対象として警戒すべきなのは足元ですね」

 テオは、地図上の吊り橋を指した。

「正面や頭上はともかく、足元からの爆発は防御しようがありません。渡っている最中の橋を爆破されたら目も当てられません」

「橋が爆発するってなんなんだよ。木板が火を噴くのか」

「爆発術は必ずしも炎や爆煙を伴うわけではありません。いえ、爆炎にこだわる術師もいますが、クヴェルはその類ではないでしょう。圧力や張力の操作も含まれます。橋に爆発術がかけられた場合は、板が砕けるか、縄が切れるか、支柱が急に反発するか、といったところでしょうか」

「それを爆発って言うのか?」

「爆発という現象を取ることが多いので、分類としては爆発術にまとめられているだけです。急に何かが壊れたら、だいたい爆発です」

「雑だなおい。それで、どうすりゃいいんだ」

「兵が密集して通る場所は、爆発物にされないよう、先にこちらの約定で保護します」

「橋に『おまえは橋だ、爆弾ではない』と言い聞かせるわけか」

「概ねその理解で構いません。結界術を維持するにも限界があるので、ある程度対象を絞る必要はありますね」

「すると、読み合いだな……」

「くそ、面倒過ぎる。なんで今まではこれを使ってこなかったんだ?」

 トルカががりがりと頭を掻く。

「平地では乱戦になって味方を巻き込むからですね。施設を破壊する恐れがある市街地、火災に発展する可能性がある森林なども、使い方次第ですがそう安易に振り回せる術ではありません」

「山地はこっちにとって最悪の場所ってわけか」

「防衛する向こうにとっては最高の場所ですね」


 術の有識者であるテオと、戦場の有識者であるユーレンスによって次々と対策が打ち立てられていく。

 それでも、安心には程遠かった。不安は払拭しきれない。


「対策を並べるほど、向こうが何をしてくるか見えてくるな」

「恐怖に名前をつける作業でございますから。たいへん結構。名付けられた恐怖は、多少殺しやすくなります」

「多少か」


 リルは息を吐く。

 次の戦いは、犠牲を強いることになる。いつもよりも多く。


 *


 クヴェル=ラヴェルが王の私室を出ると、廊下の壁際に待ち構えるように立つ人影があった。


 黒い麗糸(レース)と銀糸の外套。軍装の上に重ねたそれは、喪服にも舞台衣装にも見える。黒い腕抜き(アームカバー)の先で、黒く塗られた爪が苛立たしげに腕を叩いていた。

 黒髪は艶が強く、瞳は濃い紫。

 一見してうら若い少女のようにも見える。

 だが、少女めいた装いの奥に、隠しきれない刃物のような骨格がある。


「王の子守唄はお済みですか、軍楽術監殿」


 クヴェルは足を止めた。


「報告は済んだ」

「報告? 笑止千万本末転倒! あの王冠付きの干物は報告書を大提琴(チェロ)で読ませる趣味でもおありで?」

「レドロネット。廊下では声量を落とせ」

「邪智暴虐のジジイのご機嫌取りをするな、と言っているんです」


 近くにいた衛兵が、聞かなかったことにする顔で視線を逸らした。


「……不敬だぞ」

「だから何です。斬りますか。首ならこの麗糸(レース)の上に綺麗に落ちますよ。ああ一世一代絢爛豪華!」

「任務前に副官を失うのは損失だ」

「ハッ! クヴェル=ラヴェルを凌ぐ前人未到の空前絶後、天下無双の針小棒大、無敵の稀代の大天才の音楽家が消えることを惜しんでくれます?」

「今の私は音楽家ではない。軍楽術監だ」


 クヴェルの外見に釣り合うほどに奇妙(バロック)な副官──レドロネットの罵声を無視して、クヴェルはつかつかと歩き出す。レドロネットはそれに追従する。


「なぜあなたひとりで向かったのです鳥頭。驚天動地の副官を差し置いて」

「私ひとりで済む任務だった。貴様には私の不在を埋めてもらわねばならん」

「その結果リル=グレスと仲良く肩を並べたそうじゃないですか。厚顔無恥にもほどがある、譜面も読めない武門の愚物と」

「いや、奴は私をうまく使ったぞ。譜を読む才がある」

「は、あああああああ!?」

 廊下の上等な絨毯を、レドロネットは音が出るぐらいの強さで踏みつけた。黒く塗られた爪を、噛み割りそうなほど強く噛む。

「許せない許せないゆぅぅるせなぁぁい。不倶戴天怨敵調伏、リル=グレス、殺してやる!」

「ああ。期待している」


 *


 夜が更けても、リルはまだ地図を見ていた。

 部屋には灯りが一つだけ残っている。


「リル様、灯りを替えます」

「いい。下がれ」

 神殿から遣わされた、リルの身辺の世話を担当させられているはずの若い書記兼侍従の気遣いを、リルは固辞していた。

「ですが、フェリペ様より、夜半を過ぎたら茶を薄くしろと」

「フェリペに、命令系統を間違えるなと言っておけ」

「……承知しました」


 仕事がなくなった侍従は、一礼して退室し、リルが残される。

 一方で机の上の書類は、命じても消えてはくれない。

 裂け目災害再発未遂の件についての、王家からの丁重な抗議文。切界剣の所有権、ロッズの身柄についての神殿や王家との折衝。

 あの場において間違った判断をしてはいないから許せ、で済ませるわけにはいかない。少なくとも書類上は丁寧な弁明の必要がある。

 リルは、数日ろくに休むこともできず、それに悩まされていた。


 そして今日加わった、ボルトゥートの地図。

 山地の線は、昼よりも深く見えた。谷の影が紙の上で濃くなり、旧関所の印が、まるで墓標のように並んでいる。


「リル様」


 マル=シレスが音もなく立っていた。

 白と黒の髪。犬のような耳。整った上半身の衣装と、道化めいた下衣。


「地図は睨んでも平らなままでございますよ」

「黙れ」


 マルが本当に黙ったので、リルは筆を止めた。


「……何をしている」


 マルは答えず、部屋の灯りを少し落とした。

 机の端に転がっていた短い定規を拾い、地図の外へ置く。冷めた茶を下げ、新しい茶を置く。リルの肩に掛かっていた外套の位置を直す。

 あまりにも静かだった。


「何をしている、と聞いている」

「主君の健康管理でございます」

「そんなものを命じた覚えがない」

「リル様がすでに三回もお付きの方を下がらせたため、私めにお鉢が回ってきたというわけです。おお、道化風情が侍従の真似事とは。これまた滑稽な演目にございます」

「いらん。命令だ、下がれ」

「却下いたします。明日、リル様が寝不足で判断を誤れば、兵が死にます」

「……その可能性はある」

「では、お休みください」

「まだだ。寝ても王家の抗議が消えるわけでも、ロッズの処遇について決まるわけではない」

 リルとて、これがまずいことは理解していた。自傷に近い。だが、大人しく休める状態でもなかった。目を瞑ったところで、そのまぶたの裏に未処理の問題が浮かび続けるだけだ。

「ええ、ですが」

 マルは微笑んだ。

「すでに、幕間の時にございます」


 リルは立ち上がろうとしたができなかった。

 灯火が一つ、低く揺れて、部屋の音が遠ざかる。

 窓の外で鳴っていた夜番の足音が、布の向こうへ沈む。紙の上の山道が、意味を持つ線ではなく、ただの墨へ戻っていく。椅子の背が、リルの身体を受け止める形になる。


「マル。……命令だ。やめろ」

「主君の正しき決定を嘲弄するのもまた、道化の務めでございます」

「配置がまだ……」


 身体は椅子に沈み、呼吸は少しずつ落ち着いていく。

 やがて、筆を握る指から力が抜けた。

 マルはその手から筆を抜いて、地図の端に重しを置く。

 そして、リルの肩に毛布を掛けた。


「……便利な道化でございましょう」


 その時、視界の端で青い火の粉が一つ落ちた。

 床には触れず、途中で消える。


「キッショ」


 マルは振り返った。

 その視線の先にあるのは、幼いようにも見える顔。軽薄な笑み。黒い服に灰色の長い髪。手には鋏。髪の端に、青い火がちらついている。


「そのやさし~い声、キッショ」


 アル=デリアが、扉のそばに立っていた。


「夜分に押し入る趣味は、処刑人の職務に含まれておいでで?」

「ならあんた、今のは道化の仕事だったの?」


 笑っている。


「主君の命令に背き、正論を台無しにし、眠りへ引きずり落とす。なかなか道化らしい振る舞いかと」

「王様が壊れそうだったから、心配して、寝かせたんじゃなくて?」

「道化の心情はさておき、結果的にはそうなってしまいますね。おお、この道化、不本意ながら主君を安眠に導いてしまいました」

「はっ、チョケてんじゃねえよ」


 マルも笑っていた。いつものような、客席へと向ける笑顔。


「情に絆され、主君を案じ、夜伽めいた献身に及んだとでも? 私めの品位を傷つける美談でございます」

「品位なんか残ってないよ」

「明日、リル様が過労で判断を誤れば兵が死に、幕が乱れる。そうなれば困るのはこの道化めでございます。何か問題でも」

「あんたが自分の情を、自分で一個も持とうとしないところだよ」

 青い火の粉が、もう一つ浮いた。

空洞(からっぽ)に物を持たせるとは、なかなか酷なことを」

「そーいうとこだよ」

 アルはきゃははは、と笑った。

「忠臣でも妾でもなんでもいいけどさ。そいつは、あんたに何も返せないよ。正しい王様でいるなら、あんたを選ぶこと自体が裏切りになる。わかってんの?」

「ええ」

 マルの笑みは静かなものだった。

「私は道化にございますから。寵愛を頂けるなら、狂いし王の悲劇となる。頂けぬなら、自ら滅びる奸臣の喜劇となりましょう。どちらも、演目としては上等にございます」

 アルの笑いが消えた。

「あんたマジで言ってんの。あんた自身が壊れるか壊れないかって話をしてるんだよ」

「壊れる?」

 マルは、心底不思議そうに首を傾げた。その視線の先では、アル=デリアの鋏が鈍く輝いている。

「私めの話をなさるのであれば、()()()()()()()()()()()()()()()、となるのでは」

「はあ? あのさぁ、あんたはまだいるだろ」

「ええ、たいへん器用な残骸として」

「その話、王様くんともしたわけ?」


 マルは、アルから視線を外した。青い火の粉ではなく、己の影を生み出すゆらめく灯火を見ていた。

 

「……あなた様やリル様が、私めを空洞でないと仰るのは、理解しかねる話なのです。皆様、この道化に見たいものを見ているだけではございませんか」

「逆じゃないの?」

「そうかもしれませんが」


 青い火の粉が、ぱちりと鳴った。

 子供のように寝息を立てているリルの姿だけが、場違いだった。


「アル=デリア。あなたが終わらせたものが、どのように飾られ、どのように焼かれ、どのように舞台へ吊られようと、怒る筋合いはございませんよ」

「あたしのせいにすんのぉ? 死体にしたつもりはないんだけどぉ」

「おや。ずいぶんとご自分に都合のいいことを仰る」

「そうだね。あたしは都合のいいことを言ってる」

「……」

「でも、あんたはそいつに毛布をかけた」


 マルの笑みが酷薄なものに変わった。


「なら、それも切ってしまえばよろしい」


「……な」

「眠らせる声。毛布を掛ける手。主君を案じる心。どれも、この道化には不要な部品でございましょう」

「……」

「それがあるのだとして。あなた様の鋏なら、綺麗に落とせるのでは?」


 アルの鋏が、かちりと鳴った。刃は開かなかった。

 それを見て、マルは肩をすくめた。


「あなた様は、私めを惜しんでくださるのですか? それとも憎んで?」

「どちらも違うね、バカ道化」

「二度も都合よく使われるのは、気が進まない?」

「今のあんたを切れば、周りもまとめて切れる」

「……」


 道化は、眠れる主君を見た。なぜこのように無防備なものとして映っているのかは、眠るように仕向けた道化にすらわからない。


「では、どうせよと。欲するようにやれと?」

 灯火が、一瞬強く燃え上がり、マル=シレスの影が濃く長くなる。

「さあね」

「処刑人様は、ご自分の責任には甘い」

「ないものとして扱えば、あんたがまた同じところに戻ってくるのは確かってだけ」

「永劫の責め苦よりは一瞬の斬首が好みというわけですか」


 零れる青い火が、ふっと薄くなる。アルは扉へ向かった。

 

「あなたこそ、ご自分の素っ首をどなたかに切り落としてもらうべきです」

 アルは振り返らなかった。

「そうかもね」


 それだけ言って、彼女は消えた。

 しばらくマルは、床に落ちる前に消えた青い火の粉のあたりを見ていた。


 部屋は、何事もなかったように静かだった。

 灯火は低く、地図の上には谷と旧関所の印が並んでいる。椅子に沈んだリルの肩から、毛布が少しずれていた。


 マルは小さく息を吐き、毛布を直そうと手を伸ばした。

 その指先を、リルに掴まれる。

 白い手袋の上からでも、リルの手の熱は伝わって、びくり、と震えた。


「……リル様」


 道化は何か尋ねようとしたが、相手の目は開いていないし、呼吸も深かったし、返事もなかった。

 眠った少年を前にして、道化の冗談は無力だった。

 やがて、空いている方の手で毛布を直す。


「……ええ、ええ」


 しばらく、そのままの姿勢でいた。

 手を抜くことも、握り返すこともできないまま、誰にともなくつぶやく。


「便利な道化でございますとも」


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