#25 居場所なき刃、あるいは縫合痕異常及び武装集団処理(下)
リルの目の前には、白い回廊が広がっていた。
「……ここは?」
視界を左右に巡らせると、白い壁が広がっている。
それが近くにあるのか遠くにあるのかすらも判然としない。
オル=ヴェガの部屋に似て、少し異なる場所だった。
あちらの白は、乙女の内面の清らかさを思わせた。
そう感じてしまうのは、あの少女の見た目に引きずられているだけなのかもしれないが。
一方で、こちらは傷を塞ぐ包帯の白さだ。
美しくも見えたが、近くで見れば、裂けたものを無理やり寄せ合わせているだけだとわかった。
「マル! いないのか!」
呼びかけには返事がなく、ただ自分の声が木霊した。
足元には白い床。
やはりこちらも、あるようなないような曖昧な、不思議な足場だ。
慎重に足を踏み出したところ、そこには何も踏み場がなく、無様に転んだ。
いや、転んだとも言い難い。傾いたまま床に沈んだ。
そもそも、さきほどまでは立てていたのかすらもわからない。
「足を置く場所を定めろ。曖昧に触れるな」
声に、顔を上げると、離れた場所に、クヴェル=ラヴェルが立っていた。
「つま先ではない。足を置くという行為を、先に決めろ」
言われた通り、足裏の下に床があると決める。
途端に、硬い感触が返ってきた。
同じように、手をつく場所を定めると、指先にも床が生まれる。
リルはようやく身体を起こすことができた。
「……奇妙な場所だな」
「ああ。行為が曖昧だと、立つ場所も曖昧になる」
「なぜおまえがここにいる。これもあの剣のせいか」
クヴェルはリルからは遠く、丘の上に立っているはずだった。
裂かれた痕に飲み込まれて、不思議な空間に来てしまったというのはわかるが、なぜ自分とクヴェルなのか。
「現象の全容は不明だ。 ただ、爆発を切られ、その来歴を辿られたことはわかる」
「それで、おまえまで引きずり込まれたとでも」
「音は私の手で、爆発は私の指だ。それを掴まれれば、身体も引かれる」
クヴェルは右手を見下ろしていた。
弦を押さえていた指先が、浅く裂けている。血が一滴、白い床に落ちた。
「……無茶苦茶だな」
「同感だ。だが、外法具とはそういうものだ」
クヴェルは顔を上げ、白い回廊の奥を見た。
「……ここは、どこなんだ」
「おそらく、縫合痕の内側だな」
「何だそれは」
「砦の内部や地下にこのような場所はない。だが、完全に隔絶された別の空間でもない。おまえの兵の足音が遠くに聴こえる。おまえを探して慌ただしく走り回っているようだな」
「足音が……?」
耳を澄ましてみたが、そのような音は聞き取ることができない。
「軍楽術監の耳を疑うか、リル=グレス?」
「……いや」
軍楽術監。音を媒介に術を用いる者。
であれば、常人と異なる聴覚を有していても不思議ではない。
少なくとも、自分を担ぐ狂言ではない。リルはそう判断した。
「つまりは、こう推測できる。砦ではあって、砦でない場所と」
よく見れば、回廊は完全な白一色ではないことに気づく。
壁の中に、砦の石材が混ざっている。
割れた石柱、中庭の床石、見張り台の欠片。
それらが、まばらに白い糸に縫い込まれるように、回廊の壁や天井から突き出していた。
砦から概念的に半歩外れた場所。
リルはそう理解した。
「なら、戻らねば」
駆け出そうとして、待て、とクヴェルに制止される。
「走れば戻れる空間でもなさそうだ。それに……」
クヴェルは、回廊のむこうを見た。
「奥で、あの男の息遣いが聴こえる。同時に落ちてきたのだろう」
リルは頷く。戻るにしても、ここでロッズを倒すのが先だ。
クヴェルの示す方向へ、二人して歩いていく。
慌てて駆け出したりはしない。奇妙な空間だ。何が起こるかわからない。
「王家軍の発表を見た」
しばらく進んだところで、リルは口を開いた。
「ミルグリファが死んだというのは、本当か?」
「ああ」
即答だった。
訊いてはみたものの、王家軍の発表以上の情報を出すような者には見えない。
そう思っていたが。
「私が始末した。ミルグリファ含め毒術師五人とも」
「始末だと」
思わぬ情報に、リルは思わずおうむ返しをした。
「汚らわしい術の痕跡を残すわけにはいくまい。作戦失敗時、私が消す手筈になっていた」
消す、という言葉が何を意味するか、クヴェルの術を知っていれば、自ずと推測できた。
あの毒を作り、流し、人を苦しめた術師たち。
その末路を想像しても、リルの胸が晴れることはない。
「見ていたのか。ミルグリファを。看過していたのか、クヴェル」
我知らず、声に憤りが滲んでいた。
クヴェルはリルの表情を横目に、ややあってから口を開く。
「ああ、看過していた。だが、肯定と同義ではない」
「……」
後半は、クヴェルにしては余計な言葉に思えた。
あえて付け足された意味を、リルは考える。
「王家軍は毒を流した。おまえたちは、戦えない者まで殺そうとした」
「ああ」
「必要のない犠牲が多く生まれたんだぞ……」
「遺憾に思う」
「それで済ませる気か」
「そうだな。済みはしない」
リルが声を荒げても、クヴェルの声色は変わらない。
「だが、どのような言葉なら、貴様は満足する?」
「……」
クヴェルは足を止め、リルを観察していた。
羽毛に縁取られた顔は、表情の判別がつきづらい。
「止められなかったことは、言い訳にならない」
クヴェルは言った。
「ゆえに、責任はある。だが、リル=グレス。貴様にも責任の一端はある」
「何を……」
「貴様はマル=シレスという外法存在を戦場に置いた。尋常の戦略では攻略が難しい存在だ。その結果、王家が毒を用いる口実になり、ミルグリファの道楽が入り込む余地が生まれた」
「こちらがマルを使ったから、毒を流していいとでも」
「善悪の話はしていない。責任の話をしている」
リルはそれ以上すぐさま言い返すことができなかった。
「……オルディアス王家は腐敗している」
視線を落とし、歯噛みする。
「クヴェル。おまえほどの者なら、理解しているはずだ。王家軍など仕える価値のない組織だと」
「ああ」
クヴェルはやはりあっさりとそれを認め、リルは鼻白む。
腕を広げると、それを覆う羽毛がそれに合わせて動いた。装飾ではない。クヴェルの身体から、直接生えていた。
──魔人であることを示す特徴。
「王家を正しいなどとは思わん。王家軍が清いとも思わん。命令系統は腐り、報告は歪み、戦場には不要な死が混ざる」
「なら……!」
「だが、私の居場所は王家軍にしかない」
「……」
その言葉は、冷たく、堅牢な響きを備えていた。
それ以外の答えを幾度も考え、幾度も棄却した果てに残ったもののように、リルには聞こえた。
「なら、俺のところへ来い」
そうとわかりながら、リルは言ってしまう。
「王家が正しいと思っていないなら、俺のところへ来い。おまえほどの術師なら、置き場所くらい――」
「容易く言うな。貴様は、私の置き場所を知らない」
クヴェルは短く切って捨てた。
「容易いとは思っていない」
「ならば、なお悪い」
小さくため息を吐く。
「己の置き場所を定めることは簡単な話ではない。まして、他人の置き場所を作ることはなお難しい。貴様を信じて身を預けるに足る根拠があると思うか」
「……」
「リル=グレス。貴様は、自分が本当にオルディアス十二代王と同じものにならないと思っているのか?」
反論をしようとしたそのとき、白い回廊の奥から、男の声が響いた。クヴェルは再び回廊の向こうを向いた。
──なんだ、ここは……! くそ、開けろ、開けろよ!
空間が裂かれる音が、どこかでした。
クヴェルが顔を上げる。
「追うぞ。討論をしにきたのではない」
「……ああ」
リルは剣の柄を握りしめた。
ロッズをここで止めなければならない。すべてはそれからだ。
*
外側では、白縫い砦が軋んでいた。
中庭の石畳に走る白い筋が、裂けた口のように開きかけている。
地下から白い光が漏れ、風が逆向きに吹き上がる。倒れていた盗賊の一人が、その光に触れそうになり、トルカが襟首を掴んで引きずった。
「近づくな!」
不在のリルの代わりにトルカが怒鳴り、指揮を執る。
「全員、壁から離れろ! そっちは捕虜を外へ出せ!」
「やってます!」
「そっちは若の捜索だ! 地下に落ちているかもしれん」
ワヌレイや兵士たちは捕虜の若者や、倒れた盗賊たちをほとんど抱えるように引っ張っていた。彼女の顔は泣きそうだったが、足は止まっていない。
「慈糸痕が開いています……!」
ユーレンスの声には、戦場で見せるものとは別種の恐怖が滲んでいた。
祈りを捧げても、縫合痕の拡大が収まる気配は見えない。
「そんなにまずいのかよ、神殿騎士殿」
「初代王の時代──いまよりずっと神々が近かった頃、この種の裂け目は各地で発生していた、という記録が残っています。土地は境目を失い、村ひとつが朝になるたび別の場所へ移り、人は消え……世界は、滅ぶ寸前だった、と」
「その裂け目災害が、今起こりつつある、って理解でいいんだな。あんたが使えるような約定術じゃ止められねえのか?」
「無理です。約定術は、世界の内側にあるものへ働きかける技術です。世界そのものの傷口に触れるのは、一般の術では……」
ちりん。
焦るユーレンスの横へ、マル=シレスが歩を進め、立つ。
白い光が、犬耳の輪郭を照らす。
そして、マルが裂け目へ指を伸ばす。
それをワヌレイとユーレンスが、目を見開いて見ていた。
「マルさん!?」
「いやはや。長い歳月の間に、縫い痕がほつれ、そこを裂かれたことで傷が広がりましたか」
「マル=シレス、あなたには塞げるのですか」
ユーレンスの声には、警戒と、わずかな期待と、そして信仰に反するものを見ようとしている恐れが混ざっている。
「いいえ。私めは耳障りに鈴を鳴らすのが仕事。ご主人様のような繕い、塞ぐ趣味も情緒も、品切れでして」
「“ご主人様”だと」
誰を指して言っているのかを理解し、ユーレンスの表情が歪む。彼女の信仰では、そのように言い表していい相手ではない。だが、ただの侮辱とも、その声の響きからは感じられなかった。
「な、何をするつもりなんですか。マルさん」
「卑しい道化にございますから。いつものように、少々手品を披露するだけにございます」
慄くワヌレイに、マル=シレスは顔色を変えずに言う。
「あなたは傷ではございません。古傷でございます。開いたのではございません。昔からそのような顔をしておりました。ええ、ええ、実にお似合いで」
裂け目の輪郭に、道化の嘘が絡みつく。
その広がりが、緩やかに勢いを失っていく。
ユーレンスは唖然としていた。
術と呼ぶにも奇跡と呼ぶにも不適当な、馬鹿げた言いくるめ。
それが世界の危機に対して、通用してしまっている。
「よろしゅうございます。そのまま、少々恥ずかしがっていてくださいませ。開くのは、もっと大仰な舞台を整えてからにいたしましょう」
閉じはしない。だが、止まっていた。
やっていることの輪郭だけなら、傷の来歴を辿り、塞がっていた時の状態を前に出す処置に似ていた。
神殿の癒やし手にも、似た術はある。
だが。
「それは、女神の御業です」
「ですから」
マルは、白い光の中で笑った。いつもの完璧な嘲笑ではない。
己の感じた不快さをも、呑み込んで楽しむ笑い方だった。
「私がやると、たいへん不敬でございましょうね」
*
白い回廊で、リルとクヴェル、そしてロッズが対峙していた。
ロッズもこちらへ気づくと、意気軒昂な様子で切界剣を構えた。
リルも剣を抜き、クヴェルは弦を押さえた。
「剣を捨てろ、ロッズ。それは、おまえが扱えるものじゃない」
「扱えるさ」
ロッズの瞳には、怯えと怒りが混ざっている。恐怖を怒りで覆っていた。
「見ただろう。おまえらが塞ぐ道を、俺は開いた。門が閉まってりゃこじ開ける。蔵が閉まってりゃぶち破る。村が拒めば王家印を見せる。王家印がなくなりゃ、力で取る。それしかねえ!」
「王家印は逸脱行為を認めるものではない」
「軍楽術監様、あんたもお説教か」
「ヘルブラム隊の解体処理は不完全だった」
ロッズの、冷たい嘲りの混じった視線がクヴェルへ向く。
「何が処理だ。汚れた連中を処理し損ねたから、盗賊になったってか」
「貴様らはヘルブラムによって兵に仕立てられたならず者だ。奴がいなくなれば王家軍での立場を失い、盗賊に戻ることは自明だった」
「他人事みたいに言ってんじゃねえ。王家連中の不手際ならてめえも同罪だろうが」
「そうだな」
あっさりと認められ、怒りのやり場を失ったロッズが沈黙する。
クヴェルの横顔は静かで、何も動揺がないように見えた。
代わりに、右手の指先から血が滴って、白い床に、赤い点がひとつ、またひとつ増えた。
「てめえらが教えたんだろうが! 奪い方をよ!」
「それで免責はされない」
「ふざけるな!」
ロッズが怒号とともに切界剣を振り上げると、白い床が裂けた。
稲妻のような音を立てて、亀裂が二人を呑み込もうと広がる。
ただの切り傷ではない。
床である、とかろうじて定まっていたものが、床ではないものへ戻されていく。
リルとクヴェルは左右に跳んで避けるが、さらに亀裂は広がり、二人の逃げ場所は狭められていく。
「はははは! いつまで逃げられるかな!」
「くそっ。あんなこともできたのか」
「いや、おそらくこの場所のせいだろう。出力が上がっているわけではない」
クヴェルの指摘に、はっ、とする。
ここでは、床も、道も、距離も、確かなものではない。
だからこそ、切界剣がそれらを裂きやすい。
──であれば、逆もできるはずだ。
「……調子に乗るな!」
広がっていた亀裂の端をだん! と踏みしめる。
俺が立っている──そう決めて。
すると、裂け目の成長が止まった。
「なるほど。床である、と上書きしたか」
クヴェルが感心したように首をかくりと傾げる。
やっていることは、最初に踏み場所を認識することで、そこを床と定義したのと同じだ。今度は立つためでなく、裂け目を進ませないために。
「……まったく、まるで約定術師だな」
──これは裂け目ではありません。ただの皺でございます。
あの道化ならそんな風に言うだろうか。
「ちっ……なら、こうだ!」
ロッズが再び魔剣を唸らせる。
リルとの間にある距離が斬られ、今度は急速に接近される。
切界剣の刃が、中途半端な構えのリルの胸へ向かった。
「くっ……!」
だがその時、左側の壁に縫い込まれていた石柱の欠片が爆ぜた。
リルを助ける鈴の音の代わりに、クヴェルの弦が鳴っていた。
「ここでも石は石だ。爆ぜさせられる」
白い回廊の中で、灰色の石片が散る。
爆風がロッズの足元を叩き、彼の踏み込みが崩れた。
「しゃらくせえ! 無駄だ!」
ロッズの刃が爆風を切り裂き、打ち消す。その間にリルは間合いの外に逃れた。
「……助かった」
「礼は不要だ」
切界剣の能力は不気味で間合いをつかみにくいが、次第に慣れつつあった。
あの刃は距離、術、爆発、縫合痕を容易く切り裂く。
この白い回廊では、床であるかどうかさえ曖昧なものなら、なおさらよく裂ける。
だが、リルの剣や身体のように、強く形を持っているものに対しては、そうではないようだった。
──動いている生物は鳴りが乱れる。
爆発術の講義を思い出す。それに似ているが異なる法則がある。
おそらく、不確かで形のないものを裂くことに長けた剣なのだろう。
だが、それがわかったとて、攻略できるかは別だ。距離を斬られ、間合いを乱されれば、リルの剣は届かない。負けないが決め手がない。
悪竜ヴォルグとの戦いと同じだ。
「クヴェル。爆破できそうな石の床や壁は周囲に点在している。おまえの爆発術で仕留められないか」
「半端な距離から爆風を浴びせようとしても、あの剣に切り裂かれるまでだ」
「なら、近くに誘い込めば……」
「爆破を見せてしまった今、そう簡単には床にも壁にも近づいてはくれまい」
──つまりはお互い、独力では勝てないということだ。
クヴェルは、弦を押さえ直した。
「リル=グレス。あの剣は、振る前に鳴る」
「鳴る?」
「切る対象を定めた瞬間、音が一拍消える。刃が動くより前だ」
リルはロッズを見る。
ロッズは荒い息をつきながら、切界剣を構えている。
確かに、刃を振る瞬間よりも前に、空間がひやりと沈む感覚がある。音が消える。息の音も、足音も、自分の心音さえ一瞬だけ遠ざかる。
切ると決めた瞬間、もう世界のどこかに切れ目が入っているのだ。
「クヴェル。次に音が消えた瞬間、爆発させろ。できるな」
「……ほう」
リルは視線で、その場所を示した。クヴェルは小さく頷く。
「のんきにごちゃごちゃ喋ってんじゃねえ!」
ロッズは吠え、剣を持ち上げる。
クヴェルの言う通り、周囲から音が遠ざかり、しんとするのがわかった。
また間合いを乱す気か。それとも、足場を裂くか。
踏み込めば遠ざかり、避ければ引き寄せられる、間合いそのものをねじ曲げる斬撃が来る。
「……今だ!」
轟音。
だが、爆ぜたのはロッズではない。
リルの背後──壁に縫い込まれていた石柱。
生まれた爆風がリルの背を叩いた。
加速を殺さず、踏み込み、切界剣によって距離が切り裂かれる一瞬前に、間合いの内側に入る。
「何だと!?」
ロッズの目が見開かれる。
リルは大剣を振り下ろさなかった。
斬るのではない。大剣の腹を、切界剣へ叩きつける。
ロッズは切界剣の刃を滑らせ、それでもなにかを斬ろうとするが、リルの大剣がその向きを押さえ込む。
「ッてめえ……!」
「この状態で先程のような大道芸ができるか?」
ロッズの怒りに呼応するかのように、切界剣の刃が震える。リルの大剣ごと、強引に距離を裂こうとしている。
「面白えッ、試してやるよ……!」
音が再び薄れる、それと同時に、ロッズが後退り、左足が石床を踏みつける。
と、それが破裂した。遠くで弦が鳴っていた。
「ぐあああっ!」
床石の破片は容赦なくロッズの脛を裂き、爆風が膝を砕くように跳ね上げた。
空間を裂きかけていた切界剣の切先も止まる。
リルはその一瞬を逃さず、大剣で切界剣を押さえたまま、肩からロッズへぶつかる。
ロッズの身体が後ろへ傾く。
リルは大剣を捨て、両手でロッズの手首を掴み、切界剣の柄ごと、ねじ伏せる。
「離せッ」
ロッズはなお暴れた。肘がリルの頬を打つ。膝が脇腹へ入る。呼吸が一瞬止まる。
だが、リルは手を離さない。
「俺は、これで、道を切り開くんだ──」
「違う」
リルは、ロッズの手ごと切界剣を床へ叩き込んだ。
刃が、白い縫合痕の内側に刺さり、回廊を震わせた。
ロッズの腕の骨が軋み、切界剣から、ロッズの指が剥がれた。
「おまえは、傷口を拡げているだけだ」
ちりん。
白い回廊の彼方から、鈴の音がした。
*
白い光が膨らむ。
次の瞬間、中庭に広がっていた縫合痕から三人が放り出された。
リルはロッズの襟首を掴んだまま転がり、石畳に肩を打つ。
クヴェルは片膝をつき、弦を押さえたまま体勢を保った。
ロッズは呻きながら地面に転がる。
全員を吐き出したあと、聖痕は揺れる水面のように何度もたわみ、収縮し、 口を閉じたかのように見えた。
「若!」
「若さまあ~」
トルカとワヌレイが駆け寄る。ワヌレイはいつものことながら泣きそうだった。
「無事ですか!」
「ああ。生きている」
リルは咳き込みながら答えた。
「リル様。お帰りなさいませ」
マルが普段の足取りで近づいてくる。
「マル。おまえが塞いだのか?」
「いえ。私めは、少々知人の手業を思い出していただいただけに過ぎません。最後の工程は、あなた様が」
「俺が?」
「ええ。切界剣を鋲代わりになさるとは、なかなか乱暴な解決にございます」
リルは自分が出てきた聖痕を振り返る。そこには回廊の床に刺さったはずの切界剣が突き立っていた。
ちょうど、傷口を留めるように。
ああ、それが理由で、切界剣はここから動かされていなかったのか、と得心した。
「本来、剣は鋲になりませんが。まあ、後始末は、王家か神殿の皆様がやってくださるでしょう」
ロッズは拘束され、リル軍の兵に運ばれることとなった。
どう裁くつもりだ、とロッズは吠えていた。
法を作る、とリルは答えた。
ユーレンスは、神殿に報告する、と告げた。
オルディアス王家が境界鋲を所蔵しているなら、切界剣のかわりに封印を完全にするために使われることとなるだろう。
その場合、抜かれた切界剣は神殿か、王家の所有になるだろうか。
クヴェルは、もはや語ることもないと言ったように背を向け、去っていく。
おそらくは、王家に報告に戻るのだろう。
「クヴェル。王家が間違っていると知っていて、なぜそこに戻る」
その背に、リルは声をかけた。
「さっきの言葉は、取り下げない。俺の軍は、おまえの置き場所にならないか」
その言葉に、ワヌレイやトルカがぎょっとしたような視線をリルに向けた。
「貴様は、私の置き方を知らん」
返ってきたクヴェルの言葉は、呆れでも嘲りでも罵倒でもない、いつもの平板な声だった。
「なら、教えろ」
「貴様が私を学ぶのを待てるほど、暇ではない」
リルは、それ以上食い下がりはしなかった。
本当に、この場の言葉でクヴェルを引き抜けるなどとは信じていなかった。引き抜くという語も乱暴だ。
だが、こう言わないのは嘘だと思った。
ロッズは、ヘルブラムの下以外では盗賊になる外ない。
そしてクヴェルは、王家軍で使われる以外の道がない。
ロッズを始末しなかったのも、クヴェルを誘ったのも、その現実に抵抗したかったからだった。
「次に会えば、敵だ」
「今も敵だ」
「そうだったな」
だが、少なくとも今は、クヴェルはリルを爆ぜさせることはないし、リルもクヴェルを斬ることはなかった。
そして今度こそ踵を返したクヴェルに、ワヌレイは声をかける。
「あの。ありがとうございました、クヴェルさん。……若様と、一緒に戦ってくださって」
「礼を言われる筋合いはない。必要だったからやったまで」
「それでも、です」
応えはなく、クヴェルは歩き出す。
鳥のような背中だったが、翼は開かない。
不格好でありながら、堂々とした立ち姿だった。
やがて、姿が見えなくなった。
リルも、その二人のやりとりを見ていた。
「それにしても、さすがはリル様」
クヴェルを見送ってから、マルが、いつもの調子で口を開いた。
「敵勢力二名と同時に縫合痕内部へ落ち、そのうえ無事にご帰還なさるとは。新たな英雄譚の一頁となりそうですね。題名はそうですね、『王位志向者、傷口で敵と仲良くなる』などいかがでしょう」
「仲良くなってはいない」
「ええ。もちろん。剣と爆発と拘束で語り合う、たいへん健全な社交でございました。王家と神殿が、揃って拍手喝采の書面を寄越す程度には」
リルは反論しかけて、やめた。
実際、裂け目災害の再発未遂の件が、何も言われずに済むはずがない。問題を解決したはずが問題が増えている。いつものことだ。
「……結構危ない橋を渡っていたな、俺は」
「いつものことではございますね」
政治的な問題だけではない。リル自身にとっても、あれは本来なら命を落としていておかしくない状況だった。
クヴェルにとっては、リルを始末する絶好の機会だったはずだ。
ちょうどロッズを制圧した時に外に出られたからいいものの、あのままクヴェルと閉じ込められていたらどのように転んだかわからない。ぞっとしない話だ。
「ありがとう」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど素直だった。
マルの笑みが、ぴたりと止まる。
「……はい?」
「鈴の音が聞こえたとき、ほっとした。あのまま戻れなかったら、どうしようかと思っていた」
「……」
マルはゆっくりと瞬きをして、なにか悪いものを食べた者を見るような眼差しを向けてきた。
それが少し愉快で、少しだけ腹立たしかった。今度は、失敗したか、とは思わなかった。
「どうした」
「いえ。リル様が、あまりに素直な謝意を述べられましたので。私めの聴覚に重大な不具合が生じたのかと」
「礼を言われるのが嫌なら、取り消す」
「いえいえ。いただけるものはいただきます。道化は施しで生きておりますので」
別に、マル=シレスを気遣ったつもりではなかった。
ワヌレイの真似事でもない。
いつぞやマル自身が言った通り、そんなものは無意味なのかもしれない。
それでも、言っておくべきだと思った。
癪ではあったが、認めざるを得なかった。
マルの鈴の音を聞いて、安心した。
マルが隣にいることを、自分が望んでいる。
そしてマルが隣にいることを、当然のものとして扱ってはいけない。
本当に癪だったが、必要なことだった。
居場所を失わないために。失わせないために。
政治的猶予の終わりは近い。
王家軍との再びの本格衝突も、近づいていた。




