#23 灯りと湯気、あるいは夜間浴場付近灯火確認記録
「幻灯芝居?」
「ええ。白い布を吊るし、裏から彩光札の光を複雑に組み合わせ、音写し札の音響と合わせ、臨場感たっぷりに物語を語る、いま巷で流行っている娯楽です」
フェリペがそう提案してきたときは、芝居と何が違うのだ、と思った。
「……それが?」
「それを、慰安として兵士たちに見せましょう」
*
そういうわけで、広間に白布が吊るされることになった。
広間の壁に描かれていた白手は布の裏に隠れ、かわりに夏の夜の川辺が浮かんでいた。
灯りがいくつも流れている。
川面に火が揺れる。人々の影が行き交う。彩光札が、あらかじめ写し取った光景を、札に刻まれた順に映し出す。笛と太鼓の音が、小さな音写し札から流れていた。実物より少し薄く乱れた音だったが、映像を引き立てるには十分だった。
リルは、それを見ながら、オル=ヴェガの部屋の壁面に映されていた旧巡礼宿の光景を思い出していた。あれよりもずいぶん粗い。ある程度、想像で補う必要があった。
フェリペによると、これほどの映像を作るには大量の彩光札が必要になるらしい。なかなか予算のかかる娯楽だとも思う。
「いや、あそこで手を取らないのは嘘でしょう」
ディエゴが膝を叩いた。上映中に声を出してはいけない、というような作法は別にない。
「夜ですよ、若。灯りですよ。人混みから離れた川辺ですよ。あそこで手を取らなかったら、何のために男に生まれてきたんですか」
「おまえは何のために生まれてきたんだ」
あまり乗れていないトルカが呆れたように言った。
「そりゃあ、武勲と酒と、こういう話で盛り上がるためですかね」
「浅いのう。しかし、確かにあそこで手を取らぬ男は、いささか腰が引けておる。娘の方があれほど待っているのであるぞ」
「ジャドさんもそう思います?」
ジャドが腕を組んで頷き、ワヌレイはそれに少し身を乗り出して同意した。
布の中では、娘役が祭りの列から抜け出していた。髪飾りの灯が揺れている。夏越しの祭り、という設定らしい。娘役は橋の下に立って、そこに相手の男が遅れてやってくる。陳腐な逢瀬だった。
『見つけたのなら、声をかけてくださればよかったのに』
男が何か言い訳をする。祭りの音に紛れて、言葉は少し乱れた。娘役は笑い、橋の下の影へ半歩だけ身を引いた。
『今夜だけは、知らないふりをしてくださいませ』
娘役が言った。
広間が、ひゅう、と湧いた。
「いいですねえ」
ワヌレイが、ほとんど溜息のように言った。
「夏の夜で、灯りがいっぱいあって、人混みから少し離れて。そこで、誰かが待っててくれるとか……いいですよねえ」
ワヌレイはよく言えば素朴な、悪く言えばそのまんまな感想を口にしていた。リルにはそれの何が良いのかは共感しかねた。
幻灯の光が頬に当たっている。戦場にいるときのおどおどとした様子とは異なる、やわらかく、少しだけ恥ずかしそうで、少しだけ憧れている顔だった。
「……おまえ、ああいうものに興味があるのか」
「ありますよ。ワヌレイだって人間ですよ?」
「いや……そうだな」
「今、初めて知った顔をしておったな。リル殿、ワヌレイとて年頃の娘であるぞ」
「わかっている……」
「娘が晴れ着姿で祭りに向かうときの父君の顔にございましたね」
マル=シレスが、いつの間にか広間の柱にもたれていた。
いつも通りの黒と白の道化衣装。銀糸の飾り。足首の鈴。白黒に分かれた髪の上で、犬のような三角耳が楽しげに揺れている。白い手袋はない。
「おっと失礼。年齢上は若様の方が下でした」
「黙れ」
「はい」
マルは素直に黙ったが、黙っていても顔がうるさく見えた。
「条件が揃いすぎています」
テオは、幻灯芝居というより彩光札の側を見ていた。布に映る娘役より、術式の方に興味があるらしい。だが兵たちの盛り上がりを聞くと、眉間に皺を寄せた。
「何がですの?」
「夜間、祭礼、群衆音、発光、身体接近、秘密性。加えて、互いに相手を待たせているという負荷。あれは恋愛というより、認知誘導に近いです」
「テオさん、最悪です」
ワヌレイは嫌そうな顔をしている。
「事実を言っただけです。恋愛とは、かなりの部分、脳の異常です」
「追い打ちしないでください」
「野暮なのである」
「まったくです、いいじゃありませんの」
「バルトロメアさんもこう言ってます」
「脳の異常、最高ですわ。発熱、心拍上昇、食欲低下、判断力低下、特定対象への執着。まあ、たいへん。施療院へ運びたくなりますわ」
「そういう擁護もあるというのか……」
「若様。若様的にはどうなんですか。楽しめてますか。幻灯芝居」
「……まあ、楽しめている」
「楽しめている人の顔じゃないですよね。全然」
「楽しめている……」
「ほほほ。リル様は普通に役者を呼んで芝居をやらせるのと何が違うのか、ただ目新しいものをありがたがっているだけだ、光と音に誤魔化されているだけに過ぎん、などと十九歳らしからぬ保守的なことを思いながらもそれを口に出さない品性をお持ちなのですよ」
「おい、そこまでは思っていない」
「ある程度は思ってるんですね、そういうことを」
マルの言ったことも含まれてはいるが、それ以上に、芝居の内容に何一つ感じ入るところがなかった。もちろん、リルとて、光が美しいことはわかる。白布の中で揺れる川面の灯り。暗い広間に浮かび上がる夏の夜は、確かに目を引いた。音写し札から流れる笛と太鼓も悪くない。ただ、物語がわからない。そういう型があるというのは薄らと知っている。それだけだ。
兵たちが笑うのが聞こえる。
その笑い声が、リルにはどこか遠いもののように感じた。
自分たちが弱っている絶好の機会に、王家軍が攻めてこないのは、あちらが派手にやりすぎたからだ。水や包帯や薬草や祈り札といった生活を汚し、死にまで至らしめた。それによって生じた民衆の疑惑と恐怖に、王家は軍を動かすより先に対応する必要があり、そのために猶予が生まれ、幻灯芝居を見ることができた。
自分たちの勝利によって得たわけではない、向こうの失点によって生まれた、猶予だった。
*
上映が終わり、リルは歓談に励む兵たちを残し、一足先に広間を後にした。
旧巡礼宿は、昼間より夜の方が古く見える。毒抜きの済んだ区画にも、まだ白い紐が張られていた。広間から漏れる笑い声が、廊下に薄く響いた。
「いかがでしたか。幻灯芝居は」
神殿騎士ユーレンスが、壁際に立っていた。井戸番の交替を確認していたのだろう。鎧は着ていない。だが剣は手の届く位置にあり、首元には小さな白手の護符が下がっている。
「神殿騎士が、ああいうものを認めるとは思わなかった」
「幻灯芝居をですか」
「兵が浮かれることをだ」
ユーレンスは礼拝室の方を見た。
「浮かれているのではありません。浮かぶために、あれが要るのです」
「……」
「沈みっぱなしでは、人は働けません」
わかっている。笑わせる必要はある。休ませる必要もある。兵は食わなければ動かず、眠らなければ壊れ、笑うこともできなくなれば、剣を握ったまま中身から腐る。
フェリペにもトルカにも似たような進言をされた。身体が疲弊し、心に傷を負った兵士たちには、こういった物が必要なのだと。納得もした。
だが、このようなものにうつつを抜かしていいのか、と頭の片隅から考えが離れない。強迫観念のようなものだった。
「リル=グレス。少しよろしいですか。旧巡礼宿の防御施策について、途中経過の報告が上がってきました」
やはり一足先に広場を抜け出してきた、テオが帳面を手に近づいてきた。
「アル=デリアなる存在の活動もあってか、魔術的見地からは旧巡礼宿に毒性はほぼ残留していないと言えます。しかし兵たちはともかく、難民を収容する施設としては使えないでしょうね」
テオは先日のアル=デリアとの遭遇には居合わせなかったが、その話を聞かされた時はマルの外法を目の当たりにしたときの次ぐらいに嫌そうな顔になっていたのが印象的だった。また意味のわからない存在が増えたと思っているのだろう。
「王家軍が毒作戦を今回限りにする保証はありません。再汚染の可能性を考え、当面は神殿の祈り札とこちらの記録札を併用し、結界を用意します」
「厨房、施療室、浴場にも同じ処置を進めています。礼拝室周辺は、祈り札の交換を終えました。ただし、古い巡礼宿の礼拝室ということもあり、壁そのものに信仰の来歴が残っており、ここはもうひと手間かかりそうです」
ユーレンスとテオの説明に、リルは顎を撫でて考えた。
「古い信仰の来歴が? それに何か問題があるのか?」
「はい。同じ対象に別の術者が乱暴に結界を重ねると、濁ってしまいます」
「単純に重なって強くなる、というわけではないんだな」
「そうはいきません。片方がこの壁を“礼拝室を守る壁”として扱い、もう片方が“毒の侵入を拒む境界”として扱えば、同じ壁に別々の約束を結ばせることになります。認識の差異が小さければ補い合うこともありますが、大きければ約定同士がぶつかり、弱まるか、ねじれます」
「……逆に、同じ認識なら強くなったりするのか?」
「ええ。同じ対象を、同じものとして見て、同じ約束を結ばせることができるなら。複数人で世界へ交渉する分、術は強くなります。これを、術師同調と呼びます」
テオは眼鏡の位置を指で整えた。
「うまく重なれば、人数倍以上の効果も期待できます。ただし、同じ対象を同じ認識で見るのは、簡単ではありません。術者の来歴、癖、信仰、恐怖、目的。そういうものが、術式に混ざりますから」
広間から、また笑い声が上がった。
さっきの幻灯芝居の続きについて、まだ誰かが言い合っているのだろう。
その声を背中に聞きながら、リルは、ふと別の名を思い出した。
「ミルグリファのあれは、同調だったりするのだろうか?」
リルの言葉にテオは眉を寄せた。ユーレンスも、わずかに表情を硬くする。
「毒の時だ。あれだけ広く、同時に、複数の媒体を汚染した。術師が一人でやったわけではないだろう」
「頭数は揃えていたでしょうね。術式も共有し、媒体ごとに担当を分け、発動時刻を揃え……しかし、同調とは違います」
テオは首を振る。
「同調のためには対象への認識を揃える必要があります。ミルグリファが、そういうことのできる術師に見えましたか」
「……見えないな」
ミルグリファ。
糸のように細い目。穏やかな声。人間を人間としてではなく、神秘や標本や来歴の器として見る男。
あれは、多数で一つのものを見る男ではない。
多数の目を並べ、そこから得られる差異を楽しむ男だ。
「人間を並べることはできても、足並みを合わせることはできない。そういう術師です」
テオは書き付けを閉じた。
「そのミルグリファについて、もう一件報告が」
ユーレンスの声が、少しだけ硬くなった。
「死亡したそうです」
そう告げるユーレンスに、リルは、すぐには返事をしなかった。
「毒術の暴走によって関係術師らとともに中毒死。王家軍は、本件をミルグリファおよび周辺術師の独断、暴走として処理する方針のようです」
あれほどの大規模毒術を向こうに返したのだから、当然死んでもおかしくはない。ただ、同時に、死んだことにされていてもおかしくないのが不気味だった。
それを感じたのか、テオも眉間に皺を寄せている。
「毒のような作用を示す約定干渉というだけで、毒ではなく、しかも独断だった。関係者は死亡した。そういう書面にするのでしょう。事実はともかく、ミルグリファに命じて毒物を流した、などと認めるわけにはいきませんからね」
「水を喉を塞ぐものにしておいて、毒ではない、か」
ため息。
「防御施策は続けろ。井戸、厨房、施療室、浴場。水回りを優先。礼拝室は兵の出入りが多い。札の張り替えは人目につく時間にやるな。不安を煽る」
テオとユーレンスは了承し、散っていく。今ここにいないマル=シレスにも伝えておくべきだろう。
地味で手間がかかる。だが、やらなければ先日のように足元をすくわれる。
自分や兵たちは戦う前に、生きている。
生きている以上、水を飲み、粥を食べ、傷を洗い、笑い声を漏らす。
そこを汚されるなら、守らなければならない。
*
その夜、リルは寝つけなかった。
戦いもなく、幻灯芝居の上映もあり、比較的休めた日だった。今日だけで言えばテオなどのほうがよほど働いていただろう。だから落ち着かなかった。美徳とは言い難い。先日過酷な思いをしたにも関わらずのほほんと芝居を楽しむワヌレイたちを見習いたいぐらいだった。嫌味ではない。
リルは外套を羽織り、剣を取った。見回り、というほどでもない。
廊下には灯りが少なかった。毒の後、夜間の無用な出入りは減らしている。水場の近くには見張りを置いているはずだった。厨房、井戸、施療室、浴場。水を扱う場所は、すべて警戒対象だ。
だから、見えた灯りに足が止まった。
浴場の方だった。
古い巡礼宿には、巡礼者用の小さな浴場がある。拠点として使い始めた時は、半ば倉庫のようになっていた。今は掃除され、兵たちが交代で使っている。ただし毒事件後は、使用時間と人数を制限している。夜更けに灯りがついているのはおかしかった。
見張りの姿もない。リルは眉を寄せた。
王家の密偵。毒術師の置き土産。水場への再干渉。
そういう可能性が、順番に浮かび、リルの手が剣の柄にかけられる。先日、アル=デリアの一件が起こったばかりだ。
廊下の奥へ進み、浴場へ近づくほど、湯気の匂いが濃くなっていく。
(毒ではない……か?)
浴場の前にある脱衣所の戸が、わずかに開いていた。中から小さな灯火札の光が漏れている。人の気配はある。だが、水音はほとんど聞こえない。
「誰かいるのか」
抑えた声で呼んだが、返事はなかった。
リルは戸に手をかけ、ゆっくり開いた。
狭い脱衣所に棚が並び、木の籠がいくつか置かれている。壁には乾いた布が掛かっていた。床の板は湿っている。湯気が薄く漂い、灯火札の光をぼやかしていた。
誰もいない。
ただ、籠の一つに、服が畳まれていた。
銀糸の飾りがある黒と白の布。鎖の装飾。継ぎ接ぎの色布。
見慣れた道化の衣装に、リルは固まった。
敵の工作の類ではない。それはいい。
問題はマルの衣装だ。なぜ衣装だけがある。脱いだのか。つまり、今あいつは裸なのか。いや、そもそもあいつは風呂に入るのか。
そこまで考えて、リルは自分が脱衣所に立っていることに気づいた。
まずい。
引き返そうとしたその時、浴場の戸が開いて、湯気が流れた。
白と黒の髪が濡れているのが見えた。
犬耳は水を含んで、いつもより少し伏せている。白手袋のない指が戸にかかっている。足首に鈴はない。肌に湯の光が乗っていた。
道化の衣装に隠されていた身体が、そこにあった。
男とも女ともつかない。
──いや、どちらでもある。
目を奪われていた。
どちらなのだろうとは素朴に疑問に思っていたが深く考えたりはしていなかった。そもそも伝承上の存在には性の区別などないのかもしれない、ぐらいに感じていたのだが、答えが目の前に示されていた。
普段の印象と同様に、奇妙な身体と言えた。
だが、奇妙という一語で片付けたくない何かも、リルの中にはあった。
リル同様に、マルも、一瞬固まっていた。本当に一瞬だったが、それだけに道化の演出らしくはなかった。
赤紫がかった瞳が、リルを見た。濡れた睫毛の下で、いつもの笑みがまだ完成していない。舞台に上がる前の顔。鈴が鳴る前の沈黙。白手袋が覆う前の指。
なにか言うべきか、そもそもさっさと退散するべきか、迷い、何もできなかった。戦場なら死んでいた。
「今夜だけは、知らないふりをしてくださいませ」
マルは、濡れた髪を肩から払い、深々と一礼した。
「おい!」
娘と道化。
夜。灯り。見つけたのなら、声をかけてくださればよかったのに。
本来遠いはずの両者が、リルの頭の中で対応させられてしまった。
「……服を着ろ」
ようやくリルの身体が動いて、反対側を向いた。
「風呂上がりにございますので」
「知ってる」
「ご理解が早くて何よりです」
「そういう意味じゃない」
「では、羞恥を?」
「いいから着ろ」
「覗きにしては、たいへん堂々としていらっしゃいますね」
後ろを向いているのでマルの表情は見えない。
「違う。不審な灯りを確認しに来ただけだ」
「誰かが湯浴みしているだけだとは考えなかったのですね」
「……」
「いえ職務熱心で何よりでございます。ええ」
「……悪かった」
背中で、棚に掛けてあった布を取る気配があった。おそらく身体に巻いたのだろう。かすかな布の音が妙につぶさに聴こえる。
「謝罪は承りました」
「……嫌だったか」
「おや。風呂上がりの裸体を見られて喜ぶ趣味があると、お考えで」
ぐ、と言葉に詰まる。
その台詞はいつもの道化の皮肉の形を取ってはいたが、それでも、失敗した、と悟った。またやってしまった。
「……その、俺は……」
それ以上何も言うことができなくて、力なく、脱衣所を出ていく。
廊下の冷気が顔に当たる。浴場の湯気と、夜の石壁の冷たさが、胸の中で変に混ざった。
なぜ昼間の幻灯芝居の恋人役にマル=シレスを重ねた。いくら、向こうが悪ふざけしたからと言って。
あれは道化だ。
神殿が分類に困り、王家が欲しがり、人を弄び、文字通り奈落の穴に落とす外法存在だ。
部屋へ戻った時、手が冷えていた。
リルは帳面の前に座った。
書かなければならない。
何を?
・夜間浴場付近に灯火あり。
・確認のため脱衣所へ入室。
・浴場使用者、マル=シレス。
・衣服未着用状態。
・身体的特徴
そこまで記して手が動かなくなった。
男か、女か。そのどちらでもないか。そんな問いが頭を掠めた瞬間、リルは自分を殴りたくなった。分類してどうする。それに何の意味がある。それは俺が安心したいだけじゃないのか。
マルの身体を、記録に落とす権利はない。
筆先から墨が落ち、黒い点が、紙に滲んだ。
「たいへん正確なご判断かと」
背後から声がして、リルは、小さく叫んだ。
剣に手を伸ばしかけ、相手が誰かを理解し、途中で止めた。ゆっくりと振り向く。
マルがいた。
いつもの道化衣装ではなかった。
白い簡素な内衣を着ている。髪はまだ乾ききっていない。犬耳も少し伏せている。白手袋はない。鈴もない。足音がしなかったのはそのせいだ。
「いつから、いた」
座したまま凍りついている。絞首台を前にした捕虜のような声が出た。
「リル様がご自身の敗北を認めたあたりから」
「どこだ、それは」
「『衣服未着用状態』とお書きになったあたりでございます」
「読むな。見るな」
「リル様が仰ると、たいへん味わい深い命令でございますね」
リルは顔を覆いかけて、やめた。
「悪かった」
「先ほども伺いましたが、二つ目として頂戴いたしましょう」
ちら、と後ろに立つマルを見やる。
濡れた髪が首筋に貼りつき、伏せた犬耳の先から水気が落ちている。白手袋のない指は細く、湯の熱が残っているのか赤みがある。
それだけで、別人のように見える。別人ではない。これもマルだ。そう思うことが、リルにはうまくできなかった。
「別に、書いても構わないのですよ。誰かに見せるわけでもございますまい。それを、私めが止める権利などありません」
マルは椅子の背に手をかけた。座ろうとはしない。
その手に、当然ながら爪が備わっているのが見えた。
「帳面には書かない。おまえの身体を、俺の記録に分類する権利はない」
「権利。権限」
道化がその単語を舌の上で転がすさまは、先日のアル=デリアのそれに似ていた。
「その、おまえが風呂に入るとは思っていなかったんだ」
言い訳を口にしてから、失敗したと思った。どうやら失言は増援を呼ぶらしい。
マルはゆっくり瞬きをした。
「リル様」
「今のは違う」
「まだ何も申し上げておりません」
「わかっている。失礼なことを言った」
「今のご質問、相手が普通の人間であれば、かなりしっかり怒られる類にございます」
「……そうだな」
「わかっていて私めには投げる。すばらしい差別意識でございますね」
リルは自分の部屋の机に座っているはずなのに、なぜか拷問椅子に座らされている気分になっていた。
「心配だった」
「裸をご覧になった言い訳としてはなかなか高等でございます」
「……毒が、まだ身体に残っているんじゃないのか」
思いつきを口にする。
そもそも、マルの身体が目につくようになり始めたのは、すべて毒事件が境だ。爪も、手袋も、食事も、衣装のくすみも、そして入浴も。
今まで気づかなかっただけなのか。マル=シレスが、急に必要としはじめ、行いだしたのか。普通に考えれば、前者だ。だが、マルであれば後者も有り得そうに感じる。それはやはり、毒の影響なのではないか。
そして、口にしてからこれも間違いだったような気がしてきた。もう何を言っても、間違えてしまうような気すらしていた。
リルの胃が締め付けられているのを知ってか知らずか、マル=シレスは、しばらく考えるような間を置いてから、口を開いた。
「あなた様は、私めを道具にしたいのですか。人として尊重したいのですか」
「それは」
何を言い出すのかと思った。先日は、こっちの都合で振り回されたことに苛立ちを顕にしていたではないか。それがうまく言えず言葉に詰まる。
「すべて詳らかにしていただいても構わないのですよ」
「……なっ」
「一言命じていただければ、改めてすべてをお見せしましょう」
「ふざけるな!」
反射のように叫びが出た。
「おや。出過ぎた真似でしたか」
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
そして、叫びの後から、その理由を考えた。絡まった思考の中からは、それをすぐに見つけられなかった。
「私めとて、湯に浸かりたくなることはございます」
煩悶する様子に満足したのか、道化はようやく答えらしきものを口にした。
「湯は嫌いではございません、輪郭を溶かしてくれますので。ただ、洗うことは苦手ですね」
「洗うのが?」
「身体とは、触れれば触れるほど、そこにあることを主張してまいります。道化は、見られ方を選ぶ商売にございます」
マルは、椅子の背から手を離した。
「衣装も、鈴も、手袋も、耳も、口上も。すべて、私めが私めを見る者へ先に差し出す札です。しかし、身体そのものはそうではない」
「……」
「そして身体を洗うとき、マル=シレスという観客がそこに存在してしまう」
迂遠な、煙に巻くような言い回しを、理解したつもりになるのには少し時間がかかった。
──おそらく、裸を見られるのは、マル=シレスも普通に嫌。
大雑把に言えば、きっとこうなる。
「……悪かった」
「四つ目。リル様の謝罪は、今夜なかなか豊作でございますね」
もはや何も言えない。
「まあ、ですが。リル様の今宵の度重なる無作法のおかげで、道化の輪郭は少ししっかりいたしました。救命や人助けなどという不得手な芸を続けますと、道化の輪郭が鈍るもので」
「どういうことだ」
「裸体を見られ、主君をうろたえさせ、帳面を一行止め、謝罪を四つ引き出し、なおかつ昼間の幻灯芝居まで回収できたのでございます。道化としては、なかなかの収穫にございます」
「おまえはそれでいいのか」
「ええ」
リルは、少しだけ息を吐いた。
いつもの調子だった。そう思ってしまった。
いや、こんなことで安心するべきではない。
「たいへんありがとうございます、リル様。では、今夜はどうぞ、脳の異常をお大事に」
マルは一礼して、扉に向かう。
リルは、その背を呼び止めようとして、何も言えそうにないことに気づいて、やめた。
鈴の音や足音なく、閉まった扉を、しばらく見つめていた。
──救命や人助けなどという不得手な芸を続けますと、道化の輪郭が鈍るのでございます。
毒が旧巡礼宿を襲った時、自分は助けろと命じた。ティンドレットの時と同じように。
マルならできる。マルにしかできない。だから命じた。責任は自分が取るつもりだった。神殿に記録され、王家に利用され、民に恐れられ、犬星を従える危険人物として見られる。その代償は、自分が払うものだと思っていた。
しかし、そうではなかった。
自分の信用を担保にしていたつもりで、マルそのものを質に入れていたのかもしれない。
急な気づきに、リルは立ち上がりかけた。
追いかけるべきだと思った。
だが、追いかけて、何と言う?
おまえは俺の命令で削れたのか。
俺は、おまえの何を使って人を救ったのか。
次に同じことが起きたら、俺は命じてよいのか。
その答えを欲しがること自体が、またマルに何かを差し出せと言っているように思えた。
それに、許されようが許されまいが選択肢は他にない。
兵士百人を使い潰すよりは、マル=シレスを削ったほうが遥かによい。
いや違う。数の問題ではない。
昼間の幻灯劇を思い出した。
夜。灯り。人混みから離れた二人。娘役の台詞。
くだらない。
兵たちの手前、それを表に出すことはしなかったが、ずっとそう思っている。
それなのにどうしてか、今わかってしまう。
──人は、恐ろしい出来事をそのまま受け取れない。だから、歌にし、夢にし、奇跡にするのです。
ユーレンスの言葉も思い出す。
あの時リルは、それを民衆の弱さだと思った。
違った。
自分も同じだった。
マル=シレスという複雑なものを、湯気の向こうに立つ身体を、そのまま受け止められなかった。だから、昼間の安い幻灯芝居を思い出した。
「違う」
口に出してみても痛みが消えることはなかった。
火や毒で人が命を落とすのを見せつけられた時は、自分の外側が削り取られるような思いをした。今は、内側からじぐじぐと腐っていく音が聴こえるかのようだった。罰を受けたい。自分を罰したい。そしてそれで何かが変わるわけでもないと理解できる程度には、リルは賢かった。
世界は待ってはくれない。
王家はいずれ、再び攻撃を仕掛けてくるだろう。
巡礼宿の防御は明日も進めなければならない。
そして自分は、マルの爪や、濡れた髪や、鈴の鳴らない足音のことを考えている。
「馬鹿か、俺は」
灯りを消して、寝台に横になる。
もう、眠るのも嫌だ。
この分では先日よりもひどい悪夢を見るに違いない。
現実で胃を痛めて夢でも裁かれる。グレス家の次男でなかったら暴れているところだった。
グレス家の次男だったので、粛々と瞳を閉じて寝た。
*
そして気がついたら白い場所にいた。
先日の夢を思い出して一瞬だけ半狂乱になりかけたが、そっちではないことにすぐに気づいた。
「こんばんは」
あの白い少女が目の前で微笑んでいたからだ。
「そんなに頻繁に会っていい存在ではないと思うんだがな」
悪夢とどっちがマシだったか、リルは脳内で審議することになった。




