#22 道化の善行に関する不本意な記録(下)
諸々を済ませ、慈糸修道院を出るころには、日が傾いていた。
西の空は赤く、葡萄棚の影が道に長く伸びている。
行きには半刻ほどに思えた道が、帰りには妙に遠かった。
マル=シレスは一見していつも通りに見えたが、常よりもリルとの距離が半歩遠かった。
リルに叱られたディエゴは、国を失った兵士のような沈痛な面持ちになっている。
ワヌレイは、「さっきのお粥あったかくて、よかったですね」などと粥しか話題を知らない女になっていたし、それで会話が弾むことは別になかった。
ユーレンスはせめて沈黙を回避しようと旧巡礼宿に戻ってからの実務の話をしてしまい、さらにリルを落ち込ませた。行きの道で逃避を自覚してしまった分、余計に気が重くなっていた。
リルは、ずっとどう謝るべきかを考えていた。何から謝ればいいのかわからない。道化であること、あるいは道化でなくなることは、マル=シレスにとってひどく重いことなのかもしれない、ということには気づいていたが、理解できないでいた。理解できないのに半端なことを言ったところで先ほどのように言葉の鈍器が返ってくるだけだろう。それでもいつまでも黙るのはなお悪い。悩みすぎて、そもそもなぜ道化のことで俺がこんなに考え込まなければならないのかと理不尽な気持ちにすらなる。人間を石材に閉じ込めて面白がった畜生のことを気遣って何の意味があるというのだ。いや、そこで考えを放棄するとディエゴかケナスになる。自分で考えてわからないなら誰かに訊くか? 誰に? 他の者ならマルを理解できるのか? 本人に? 本人に訊くこと自体がある種の暴力ではないか? 上官と部下のような権力勾配を背景とした交流は必ず暴力を孕むが、自分と道化はどちらのほうが立場が上なのか。
──いつでもただの十九歳の少年に戻っていただいて構わないのですよ。
それが皮肉だというのはもちろんわかる。
だが、十九歳の少年らしさとは、なんなのだろう。少なくとも兵士に命じ、叱責してばかりの日々からは遠いのだろうと思う。グレス家の次男という立場から、みんな何かしらの距離が最初からあった。見上げる相手、守る相手、従える相手、責任を負う相手。
たとえばディエゴはただの部下。ユーレンスは味方だが監視者。ワヌレイもただの部下……とは少し言い難いが、どうしても対等な相手にはなれない。だから少しこじれたときに、上官としての立場以外での正し方を知らない。
そんなことを考えながら歩いていたので二度道端のものにぶつかりそうになり三度道を間違えそうになり、ワヌレイに三回悲鳴を上げさせた。
そうしているうちに、旧巡礼宿の西門が見えた。
戻ってきてしまった。
そう思った時、礼拝室の方から、鋏の音がした。
「……?」
マル=シレスが毒の来歴を辿り、術の接続を断った反動で、礼拝室にはひどい汚染が残った。
毒そのものは退けられたが、祈り札、薬湯、血を拭った跡、白砂、床の目地に、毒が通った来歴の焦げ跡のようなものが残っている。
だからユーレンスは、誰も不用意に入らぬよう、扉に封印札を貼り、封鎖していた。
礼拝室に向かうと、その一枚が、裂けていた。
「何者かが、侵入しています」
リルがなにか言うより先に、ユーレンスが剣へ手をかけていた。
その時、音がした。
ちょきん。
礼拝室の奥からだった。
ワヌレイが一歩後退りかける。
ディエゴが槍を構える。
マル=シレスは動かず、沈黙していた。
「知っているんだな。マル」
「知らない方がよい音というものは、ございます」
ちょきん。
もう一度、鋏の音がした。
ユーレンスが短く頷き、ワヌレイが灯火札を掲げた。
リルたちは扉を押し、中へ入った。
灯火札に照らされた床には神殿が撒いた白砂が残り、その上に、黒い筋のようなものがいくつも走っている。
毒の残滓。あるいは、毒が通った跡。
それらが、床の目地、祈り札の灰、こぼれた薬湯の染み、血を拭った跡に沿って、細く伸びていた。
その中央に、少女がいた。
幼く小柄な体躯。長い髪は鈍い灰色。黒い衣服は修道服にも喪服にも見えず、だがどこか処刑台の布を思わせた。
手には、大きな鋏。
布を切ったり、髪を整えるものにしては、危険な輝きを帯びている。
少女は床に膝をつき、鋏の刃先を黒い筋の上に添えていた。
青い火の粉が、少女の身体から音もなくこぼれ、ちらちらと舞っている。
「判決は下った」
鋏の音よりも乾いた声。
「薬草、井戸、祈り札、手続きへの混入、汚染。
命令者は消えた。結末に従うがいい」
鋏が開く。
ちょきん。
言葉の重々しさに反して、いやに軽い音。
「未執行分の処理、継続」
黒い筋の一部が消えた。そこだけ、続くことを許されなくなった。
「……慈糸断ちの鋏」
ユーレンスが、息を呑んで、そう口にする。
吐き出された声には、畏れが満ちていた。
その声に、少女の手が止まり、顔だけこちらへ向ける。
「うわ。古臭い呼び方」
軽く、幼く、相手を小馬鹿にするような声。
先ほどまでの審判者じみた響きが消えていた。
「ねえ、マル」
少女は、今度はマルを見た。ユーレンスや、他の者などいないかのように。
マル=シレスは、礼拝室の入り口で恭しく一礼した。
「お久しぶりでございます、処刑人様」
「久しぶり、空洞」
その呼び方に、リルは眉をひそめた。
マルはただ笑っていた。
「……お知り合いですか」
「旧知の処刑人でございます。知己と呼ぶには、少々剣呑にございますが」
強張ったユーレンスの声に、マルは微笑んで返した。
「アル=デリア、アルでいいよ。
カビくさい呼び方されるの、だるいし」
少女──アル=デリアは、鋏を肩に担ぐように持った。
ユーレンスの瞳が揺れた。
リルは、それがあの白い部屋で聞いた名前と同じだということに気がついた。
「名が、あるのですか」
「あるよ。そこの犬耳道化と同じようにね。そっちが御使いとか告死とか鋏のなんとかとか勝手に言ってるだけ」
アルはかったるそうに吐き捨てる。
その姿にユーレンスは唇を引き結んだ。
神殿文献の中にいた不吉なものが、目の前で面倒そうに肩をすくめている。
その事実を、どう処理してよいかわからないのだろう。
「何をしている」
リルも、いつでも剣を抜けるようにしていた。
「見てわかんない?」
「毒を消しているのか」
「消してない。切ってる」
アルは鋏を鳴らした。
「ここまで続いた。ここから先は続かない。それだけ。それとも、ごしごし擦られて、何もかもなかったみたいに消されたい?」
「ど、毒のことを言ってるんですよね」
ワヌレイが小さく震えた。
「なんなんだよ、こいつ」
ディエゴには、会話の意味がほとんどわかっていなさそうだった。それでも、危険だけは感じているのだろう。槍の穂先がわずかに上がった。
アルはその槍をちらりと見て、せせら笑った。
「試してみる? 蟻の武器が私に届くか」
「何だと」
「よせ、ディエゴ」
「若様……」
「優しいね、王様ごっこ君」
「リル=グレスだ」
「ふうん」
アルは興味なさそうに返した。
「処刑人とはなんだ。誰の処刑人だ」
「終わるものの」
アルは鋏を開いた。
その瞬間だけ、声がまた変わった。
「継続を認めないもの。未執行分を閉じるもの。判決の後に残った、汚い余白を切るもの」
ちょきん。
床の黒い筋が、またひとつ途切れた。
青い火の粉が、風もないのに舞う。
それは炎というより、小さな星の燃え殻のように見えた。毒の残滓に触れると、音もなく消えた。
「で、道化。そのザマは何?」
マルを向いて、かくんと首を傾ける。
左右非対称の笑い方は、マルの浮かべるそれとは趣が違う。
もっと下品で幼い、道化のしない笑い方。
「あんた、道化辞めて医療ボランティアにでもなった? 道化コス、ほつれっぱなしじゃん、切ってあげよっか。全部切れたらごめんね」
リルには、言葉の意味がわからなかった。
だが、貼り付いて動かないマルの笑みを見て、それが侮辱なのだとわかった。
ユーレンスが剣を構え直した。
「アル=デリア。あなたの行為は、神殿封鎖区画への無許可侵入および封印札の切断にあたります。説明を求めます」
「さっきからしてるじゃん。未執行分の処理だって」
「誰の権限で」
「権限ん? ふうん、権限、権限」
アルはその言葉を気に入ったように繰り返した。
「蟻って、すぐそれ言うよね。それで、何でも縛れるって信じてる」
ワヌレイの肩が跳ねた。
ディエゴの顔がさらに険しくなる。
リルは、アルから目を離さなかった。
蟻。ただ自分たちを嘲ってそう呼んでいるのではない。
人間というもの全体を、取るに足らないものとして扱っている、そう感じた。
アルは立ち上がった。
礼拝室の床には、切られた黒い筋と、白く死んだ石の跡がいくつも残っている。
「未執行分の処理──今日の分は、だいたい終わり」
アルは鋏を肩に担いだ。
「ねえ、マル」
「はい」
「あとで」
それだけだった。
ちょきん、と鋏が鳴った。
次の瞬間、彼女の姿は礼拝室の影の中へほどけるように消えた。
残ったのは、白く切られた床と、青い火の粉の名残だけだった。
ユーレンスはしばらく動かなかった。
やがて、剣を下ろす。
ワヌレイが、そっとリルやユーレンスの近くへ寄った。
アル=デリアは、ある意味で、本物のおばけに限りなく近い存在だった。
「今の人、味方ですか」
「いいえ」
マル=シレスが答えた。いつもよりも速やかに。
ワヌレイが顔を強張らせる。
「じゃ、じゃあ敵なんですか」
「いいえ。終わりが好きな方です」
リルは、マルの横顔を見た。
問うべきことが多すぎた。
何を聞けばよいのかも、どこから聞けばよいのかもわからない。
床には、白く切られた跡が残っている。
ユーレンスはそこにかがみ込み、毒性が失われていることを確認した。
──慈糸断ちの鋏と伝承される存在、アル=デリアと思しき者が、旧巡礼宿礼拝室に出現。残留毒と見られる痕跡を切除。神殿封印札を一部切断。ただし、毒拡散の抑制に寄与した可能性あり。
そして少しだけ迷ってから、ユーレンスはそう記録した。
「ずいぶん困った記録だな」
「ええ。困っています」
ユーレンスは記録札を握った。
「ユーレンス。慈糸断ちの鋏とは何だ」
ユーレンスは、すぐには答えなかった。
「神殿の古い伝承にある名です。白手の女神が持つもの、あるいは女神に仕えるもの。慈糸の結び目を断ち、終わるべきものを終わらせる存在」
「物なのか、人なのか」
「文献によります。死にきれぬものを断つもの。死すべきものを終わらせるもの。死神、告死天使、断ち手。呼び名はいくつもあります。女神の持ち物として書かれることもあれば、女神に逆らって糸を断つ不吉なものとして書かれることもある」
「神殿の伝承なのに、曖昧なんだな」
「古い伝承ほど、祈りと恐れが混ざります」
ユーレンスは小さく嘆息する。
「伝承の中にいたものが、神殿の許可なく、毒を切除し、こちらの問いに答えず消えた。これをどう記録すればいいのか」
リルは、そこにいる道化に似ているなと思った。
本来なら感謝すべきことを、感謝しにくい形でやっていること。それから、人々が勝手に積み上げた神学的解釈を、嘲笑うように生々しく振る舞う様子。
もっとも向こうからすれば、こっちが作った勝手な伝承に押し込められているだけなのかもしれない。
「アル=デリアという名は?」
「文献では見たことがありません」
「本人はそう呼ばれたがっていたようだが」
「……伝承が、本人を正しく扱っているとは限りませんから」
目を伏せるユーレンスに、リルは別の神話上の存在を思い出した。
オル=ヴェガと呼ばれたがっていたあの少女のことを。
*
それから、ユーレンスは記録のために礼拝室に残った。
ワヌレイはディエゴを連れて、封鎖区画の外へ下がった。ディエゴはまだ何か言いたそうだったが、今度はワヌレイが袖を掴んで止めていた。
リルとマル=シレスだけが、礼拝室の外の回廊に残った。
封印札の貼り直された扉の向こうからは、もう鋏の音はしない。
それでも、耳の奥にはまだ、ちょきん、という音が残っていた。
「おまえ、妙な知り合いが多いな……」
ようやく出た言葉がそれだったことに、リルは自分でも少し嫌になった。もうちょっと他に言い方があるんじゃないか。
これで済ませず、アル=デリアについて詳しく訊くべきなのかもしれないが、それをするには少し疲れていた。
マルはいつものように微笑んだ。
「リル様ほどではございません」
「俺の知り合いは、少なくとも礼拝室の毒を鋏で切って、消えたりはしない」
少しだけ、いつもの調子だった。リルは息を吐いた。
「なあ、マル」
「はい」
「おまえ、楽しいか」
マルの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
また間違えたのかもしれない。
だが、他に言い方が見つからなかった。
今日、いやここ数日の道化はリルから見ても散々だった。
リルに振り回され、救命を命じられ、修道院では子供を助け、食堂ではディエゴに無礼なことを言われ、旧知らしき少女には医療ぼらんてぃあなどと罵られた。
そのことを、道化は、どう受け止めていたのか。
「愉しんでもよろしいので?」
マルは唇の端を少し吊り上げてみせた。
「いや、やめてほしいが……」
「では、どうお答えすれば?」
「……わからない」
「はあ。たいへん正直で結構」
マルは肩をすくめた。珍しくため息をついていた。
「ディエゴ様にしてもそうですが。蟻の気遣いなど、無意味だということに、なぜ気づかないのでしょうね」
蟻。
リルは、その言い方が先ほどの少女のものだと気づいた。
マルが真似たのか。移ったのか。
あるいは、もともと同じ場所から出た言葉なのか。
あの妙な部屋で会った白い少女の、人間を小さなかわいい生き物と扱う眼差しを思い出す。
「なら、蟻の言うことに、いちいち傷つくな」
言ってから、リルは自分で嫌になって、眉間を押さえた。
今の言い方では、半ば自分たちを蟻と認めている。
それに、まるでマルに甘えているようだった。
──おまえは強いのだから、俺たちの言葉で傷つくな。
そうではない。
「……今のは違う」
「はい。今のリル様の表情で、収支の釣り合いが取れたということにいたしましょう」
「何の収支だ」
「本日の道化損益でございます」
「道化損益?」
「リル様のお顔で、多少は補填されました」
「ろくでもないものだというのはわかった」
マルはくつくつと笑った。
その笑い方は、いつもの道化のものに見えた。
少なくとも、リルには。
「ではリル様。本日の帳尻合わせは、ここまでということで」
ちりん。
小さな鈴の音とともに、マルは去っていった。
*
その晩、リルは不可解な夢を見た。
石の床よりも白く、磨かれた骨よりも滑らかなものの上にいた。
最初は雪原か、いや、皿かと思った。
だが、そこには薄く弧を描く縁があり、遠くには細い指の影が伸びていた。
見知らぬ奇妙な風景のはずなのに、なぜか既視感があった。
それは、爪だと気づいた。
修道院までの道すがらに見せられた、マル=シレスの、白く塗られた爪の上に、乗せられていると気づいた。
爪を広大に感じるような、ひどく小さな姿で。
見上げても、道化の顔は見えない。
ただ、黒と白の衣装の影が空を覆い、鈴の音が遠い雷のように響いている。
蟻。
アル=デリアの声が、どこかでした。
蟻の身体ではその言葉に腹を立てたところで、拳を握ることも、剣を抜くことも、帳面を開くこともできず、白い爪の上で、ただ立ち尽くすしかなかった。
なぜここにいるのか、どうして乗せられているのか、あるいはどうして乗っているのか、何もわからない。
その、足場となっている爪が、ほんの少し傾いた。
落ちる、と思った。
その瞬間、目が覚めた。
リルはしばらく、暗い天井を見ていた。手のひらには汗。
夢。ただの夢。
いつもの帳面は枕元、手を伸ばせば届く位置にあったが、リルはそれを開こうとはしなかった。




