#21 道化の善行に関する不本意な記録(上)
慈糸修道院への道は、旧巡礼宿の西門から丘を下り、葡萄棚の脇を抜ける。
修道院へ向かうことになったのは、リル、ワヌレイ、ディエゴ、マル=シレス、ユーレンスの五人だった。
普段ならばトルカがいる枠に、珍しくディエゴが収まっている。
トルカは旧巡礼宿に残るものを纏めるのに必要だった。兵の中で比較的壮健だったディエゴが、その代わりに抜擢された。
「修道院って、飯は出るんですかね」
沈黙に耐えかねたように、ディエゴが言った。
「出ないことはないだろう。避難民の受け入れ先へ行くのに、まず食事の心配か」
「いや、若様。大事ですよ。飯のうまいまずいで人はかなり変わります。修道院の粥って薄そうじゃないですか」
「俺達に便宜を図って濃い粥を出そうとするなら、改めさせる必要があるな」
「慈糸修道院には薬草畑があります。麦粥に薬草を入れることが多いはずです」
「薬草入り粥……」
ユーレンスが神殿騎士としての知見を発揮し、ディエゴが口に薬草を放り込んだような渋い表情になった。
「で、でも、ワヌレイはあったかいと思いますよ。この際あったかいご飯ならなんでもうれしいです」
「お、おお。あったかいか」
「はい、あったかいです」
「ああ、あったかいなら強いな!」
修道院の粥よりも薄い会話だな、とリルは思った。まだ薄いと決まったわけではないが。
今はこういうやりとりでも必要なのだろう。旧巡礼宿に刻まれた爪痕はそれぐらい深かった。
サイモンは指先に痺れが残っている。日常生活に支障があるほどではないが、戦闘に復帰させるには少し時間を待つ必要があるだろう。
ジャドに目立った症状は残っていない。肉体的にはほとんど全快と言っていい。彼女が元気づけたユッカという老婆は助からなかった。
ピートも意識を取り戻した。彼が玩具を渡した子供たちも無事だった。一見して問題なさそうに見えるが、今回の件が純朴な彼に与えた影響は未知数だ。
ケナスは口が悪かった。それ以外は悪くなかった。
レビは発症していない。ただ、発症した捕虜王家兵の救護に参加したことが、彼の精神に影を落としているようだった。
バルトロメアとフェリペは陰鬱な気分を振り払うかのごとく今も旧巡礼宿で仕事をしている。毒の症状よりも過労が心配だ。
テオは軽症で済んだ。だが今は、祈り札、薬草、水、治療反応といった正しい手順そのものを冒涜したミルグリファへの怒りと、自分がいながらまんまと利用されてしまった恥に苛まれている。
アンドレイは喉に炎症が残っている他、深く沈んでいる。彼が安易に安い祈り札を大量に仕入れたことが今回の被害を大きくした一因となってしまった。彼の根にある神殿不信と効率を求める心、世間擦れが逆に付け入られる原因となった。彼を罰するつもりはないが、軍規を改める必要があるだろう。
ヨハンの症状は軽微だったが、ひどく気に病んでいた。話によれば、祈り札の違和感に気づいていながら無視してしまっていたらしい。
「薬草粥ですか。きっと健康になりそうな味でございましょう」
「まずいってそんな風に上品に言えるんスね」
「効能と美味は、しばしば別居しておりますので」
「同居してくれよ~……」
そんなふうにディエゴをおちょくるマルを見ると、ふとその手が目に入る。
いつもは、袖口から伸びる手は白い手袋に包まれ、指先まで整えられている。道化の手というより、舞台の小道具のようだった。
だが今は細い指が、袖口からそのまま出ている。
爪には色が塗られていた。
右手は白。左手は黒。片方ずつ、丁寧に。
「爪、塗っているのか」
リルが何の気なしに言うと、マルが振り返って目を細める。
その表情を見てから、妙なことを聞いてしまったことに気づいた。
「おや。道化の爪を気になさるのも、王の務めなので?」
「いや、そんなことは……」
「では、若様個人のご趣味で?」
「おまえの身だしなみなどどうでもよい」
「違うとおっしゃるには、少々発見が早うございました」
マルはそう言って、リルの前に右手の甲をかざした。
白い爪。
細く、長すぎず、形が整っている。
その指は、軍隊に浮いている。剣にも、血にも、毒にも似合わない。
きれいな指だ。
そう思ってしまい、リルは、視線を外した。
微妙な沈黙が落ちた。
「あの、今の、なんか……その……いえ、なんでもないんですけど……なんか……」
そのやりとりを見て、ワヌレイが、目を泳がせて、両手をもにょもにょと動かした。
マルの視線がそちらに向く。
「ワヌレイ様。お顔にたいへん失礼な劇評が浮かんでおります。ディエゴ様と同じぐらい無礼でございます」
「ご、ごめんなさい」
「俺まだなにも言ってねえスけど」
「言いそうなお顔でしたので」
「いや、だって、爪なんか塗ってどうすんだよ。殴る蹴るしたらすぐ取れちまうだろ」
ユーレンスとワヌレイの視線が同時にディエゴへ向いた。少し遅れてリルも。
その眼差しにディエゴは一歩脚を後ろに引いた。
「え。何スか」
「ディエゴ殿。爪を塗る理由には様々あります」
「そうです。爪は、こう、気分とか、身だしなみとか、かわいさとか、いろいろあります」
ユーレンスが静かに言い、ワヌレイが頷いた。
二人とも爪を塗ったりはしていない。ディエゴの言うように実務に差し障りがあるためである。しかしそれは、塗ることが馬鹿馬鹿しいと思っていることを意味しない。
「かわいさ? マルさんに!?」
「失礼ですよ!!」
「今のはディエゴ様の本年度最も勇敢な発言でございますね」
マルはかざした手を下ろした。
「あ、その、す、すんません」
「おや、別に謝罪なさることはないのですよ。忌々しい道化が無駄に爪を飾り立てて目障りだと、正直に仰ってくださっても構いませんよ」
「本当に! 本当に悪かったって! 許してくれぇ!」
必死に頭を下げるディエゴにマルはくつくつと笑い、ワヌレイも苦笑いしていた。
よく考えてみれば、マルは先日の救護中に、手袋を片方なくしていたんだったな、とリルは思い出した。今両方とも素手なのは、そのためなのだろう。その程度に、リルは考えた。
「あはは……ちょっと、元気出てきました」
ワヌレイは、前を見たまま言った。
「フェリペさんやバルトロメアさんは、今も宿で、爪塗る暇もなく仕事してるんでしょうね……」
「そうだろうな」
「なんだか、ワヌレイ、ちょっと申し訳ないんですよね。あそこから逃げてきたみたいで」
リルはそれにすぐに返事をできなかった。
ワヌレイは、あ、と声を漏らして、歩みを止めた。
「いえ。別に、みなさんがそうだって言ってるわけじゃなくて。ワヌレイが、ちょっと息苦しいなって感じちゃって、外に出れてほっとした気分になっちゃっただけで」
ワヌレイ隊のティシータは息を吹き返した。しかし起き上がれる状態ではなかった。ワヌレイにとって、そばにいることと、遠ざかることは、どちらが苦しいのか、リルは一瞬だけ想像した。
「みなさんをワヌレイといっしょにしたいわけじゃないんです。すみません。これも大事な仕事なのに」
「いや……」
リルは、なだめるような言葉を口にしようとして、できなかった。その前に納得が胸のうちに下りてきたからだった。
ほっとした。
自分も。
修道院へ行くと決めた時、リルは理由をいくつも並べた。
移送先の確認。修道院への礼。神殿側との調整。生存者の見舞い。汚染物の確認。
どれも嘘ではないし、必要だった。
だが、一番最初にあったものは、もっと短かった。
あそこにいたくない。
彷徨の末にようやく得て、たった数週間で毒浸しにされた拠点、旧巡礼宿。
封鎖区画を抱え、神殿との厄介な関係を抱え、それでも、国になる前の居場所になりかけていた場所。
傷つけられた、“俺の国”。
その痛みから目を背けたがっていたことに、自分自身で気づけていなかった。
リルは、反射的にマルを見た。
当然、何か言うと思った。
──実務の名を借りた敗走とは、たいへん見栄えがよろしゅうございますね。
──拠点を得て数週間で汚染物件とは、なかなか縁起のよい内覧会でしたね。
──王位志向者にも、時には逃げ足が必要でございます。
だが、道化は沈黙を守っていた。
「マル。言え」
「何をでございましょう」
「今、思ったことだ」
マルは微笑んだ。いつも通り完璧な笑みに見えた。
「陛下未満の陛下にも休息が必要、ということでしょうか」
嫌味と言うには澄み渡った言葉に、リルは何も言えなくなった。
そもそも、道化ともあろうものが、見抜いていなかったはずがない。
自分が、実務を言い訳に逃避していたことに。
ようやく気づいた。
マル=シレスの様子がおかしいことに。
*
慈糸修道院は、丘の中腹にあった。
白い石壁に囲まれた、小さな修道院だった。
神殿系の修道院には、似たような名が多い。
白手、慈糸、結糸、織手、白衣、針祷。
女神の手や糸や衣にちなみ、施療、看護、孤児保護、巡礼者の宿泊、死者の看取りを担う施設に、それぞれの名が与えられる。
高い塔も、立派な聖堂もない。門の上には、白い手と糸車を組み合わせた古い印が彫られている。壁際には薬草畑があり、奥には葡萄棚が見えた。洗濯紐には、包帯と子供用の服が並んでいる。
門の前には、難民がごった返していた。
旧巡礼宿から運ばれた者だけではない。近隣の村から来た者、街道沿いの宿を逃げ出した者、王家軍の毒の噂を聞いて身を寄せた者も混じっている。
修道女たちが、水と粥を配っていた。
だが、桶の底は浅い。粥は薄い。乾いた布は足りていない。
慈糸の名を持つ院は、たいてい看護と避難民の受け入れに強い。そして今、その名にふさわしいだけの負荷が押し寄せていた。
リルが門に近づくと、人々の声が一度止まり、波のように囁きが広がった。
「リル=グレスだ」
「竜殺しの」
「グレスの若君」
「犬星を連れてる」
「王家の毒から助けたって」
「違う、神殿が助けたんだ」
「でも、あの人が命じたんだろ」
「王家は井戸までやったんだぞ」
「白手様の札に毒を仕込んだって」
「神殿の施療室を狙ったって聞いた」
「病人と子供を標的にしたんだろ」
「それが王の兵かよ」
「若様が怖くてしょうがねえんだ」
「やっぱり、あの方が、次の……」
事実と噂が混じっている。正確ではないものもある。
だが、すべて嘘ではなかった。
「若様、これ、広がりますよ」
ディエゴの声には、かすかな熱があった。
「王家の連中、やっぱりやりすぎたんです。井戸と祈り札はまずい。兵相手ならともかく、あれじゃ村の者も修道院も黙ってません」
「ああ。黙らないだろうな」
「つまりこれって──」
ディエゴは続けようとして、リルの顔を見て口を閉じた。
リルは、門の前に集まり、王家に怯え、憎悪する人々を見ていた。
この怒りは、旗になる。そして旗にできると、リルは理解していた。
この反感を利用し、兵や物資を集め、諸侯を束ね、より強い勢力にすることができる。
というより、そうなるだろう。
しかし、リルの胃の奥は冷えていた。
門の内側から、一人の老女が出てきた。
背は小さいが、足取りはしっかりしている。修道服は古く、袖には何度も縫い直した跡があった。白髪を布で覆い、手には節くれだった杖を持っている。
院長メステルだった。
「リル=グレス殿」
彼女は礼を失しない程度に首を傾けた。
「慈糸修道院は、動ける者を受け入れます。重症者は地方神殿へ送る手筈でよろしいですか」
「ああ。礼を言う」
「礼は後で。今は布と薪と人手をください」
リルは頷き、布、薪、食料、薬草、人手の割り振りについて言葉を交わした。
院長メステルは、リルをじっと観察していた。正確にはリルそのものではなく、民の眼差しを受けるリルを見ていた。
「よい風ではありませんね」
「何の話だ」
「人々の怒りです。あなたには追い風でしょう」
「ああ」
否定できなかった。
「怒りは旗になり、風になる。俺はそれを使う」
「……」
「だが、人の憎しみを育てることはしない」
「憎しみは、育てなくても勝手に育ちます。王家への憎しみは王家兵に、そして無辜の領民に。毒を撒いた者への憎しみは、毒の祈り札を売らされた商人に、井戸のそばにいただけの者に。 手の届く誰かへ、火のように広がっていく」
王家兵捕虜へ短剣を向けかけたレビの顔がよぎった。
すでにそれは起こっていて、レビだったから、近くにいるトルカがかろうじて止められただけだ。
「俺が止める。裁く。育たせはしない」
言ってから、綺麗事だとも思った。だがこう言うしかない。メステルも、それが正しいとは思いつつも、やりきれるとは信じていないだろう。傍に佇むマル=シレスは、やはり何も口を挟まなかった。
代わりに、道化は門の内側を見ていた。
人々の足元。水桶。包帯。薬草袋。
リルが、その視線を追うと、小さな少女が見えた。
右足を少し引きずっている。
年は十にも届かないほどだろう。修道院の子供たちの中では年長らしく、もっと小さな子を後ろへ下がらせながら、こちらを見ていた。
少女の手には、小さな水桶があった。
桶は、彼女の身体には少し重そうだったが、両手で把手を握り、洗い場の方へ運ぼうとしている。
「おい、嬢ちゃん。重いだろ。持ってやるよ」
ディエゴが先に動いた。
携えた槍を左手へ持ち替え、右手を伸ばした。毒の後遺症で、指先が少し震えている。その震えを隠すように、彼はわざと大股で歩いた。
しかしその善意の行動は、少女には少し違う印象に受け取られた。
屈強な赤髪の若い兵。背は高く、肩は広い。槍を持ち、鎧を着ている。元々人相が悪い上に、毒抜きの痕で顔色が悪い。腕には包帯が巻かれ、袖口には洗いきれなかった薬草と血の匂いが残っている。
「来ないで」
少女は水桶を抱えるようにして、一歩下がった。
小さな声にディエゴの足が止まった。
「いや、俺はその──」
少女はさらに下がり、桶の中の水が揺れる。
周りの子供たちも、泣きそうな顔をして少女の後ろに隠れた。
ディエゴは顔をしかめた。怒りではない。
「お嬢様」
黙ったディエゴのかわりに、マルの軽い声が響いた。
少女がびくりとする。
「その水桶は、たいへん不作法でございます」
「え」
少女は目を瞬かせた。
リルも言っている意味はわからなかったが、ただの悪ふざけではないことぐらいは察しがついていた。
メステルが、その声に気づいて振り返った。
「ノイ。その桶はどこから」
「洗い場の横です。向こうに持っていくようにって」
「誰が言いました」
「……わかりません」
メステルの顔色が変わった。
「置きなさい。静かに」
ノイと呼ばれた少女は両手で抱えていた水桶を、ゆっくりと地面へ下ろした。
マルが一歩前へ出た。
「中身を運ばせる顔をして、持ち主まで運ぼうとしております。礼儀知らずにもほどがある」
ノイがゆっくりと、水桶を地面に置いた。
桶の水面が揺れ、ほんの少し、黒い筋が浮いた。
ユーレンスが息を呑む。
「残留毒……」
「毒本体ではございません。桶の底と把手に、名残がございます」
「旧巡礼宿から運ばれた物品が、誤って混ざりましたか」
「ええ。洗うものと、洗ってよいものと、触れてはならないものが、たいへん仲良く混ざったようで。お嬢様には手を洗わせてください。きれいな水で。できれば、礼儀正しい水で」
メステルがすぐに修道女へ指示を出した。
ノイは修道女に手を引かれ、洗い場へ連れて行かれる。
その途中で、彼女は振り返った。
「犬のお兄さん」
「道化にございます。犬でもお兄さんでもありません」
「助けてくれたの?」
「いいえ。水桶を教育しただけでございます」
「……? でも、ありがとう。道化のお兄さん」
マルは返事をしなかった。
リルは、このことを、帳面に記すべきかどうかを少し考えた。
*
慈糸修道院の奥にある、食堂と呼ぶには少し狭い部屋にリルたちは通された。
もともと修道女たちの食事場所なのだろう。長い卓が二つ。壁際には乾いた薪と、洗ったばかりの器が積まれている。窓は小さく、外の声は布越しのように遠かった。
供されたのは暖かな麦粥だった。薬草が少し入っている。味は、うまいともまずいとも言いづらい。口に入れると、身体のどこかが「これは必要なものだ」と納得するような味だった。
「……あったかいですね」
ワヌレイが、匙を両手で包むようにして言った。
「ああ、強いな」
ディエゴが真面目な顔で言った。
ユーレンスは祈りの言葉を短く唱えてから、静かに粥を口へ運んでいる。彼女は疲れていても、そういう手順を崩さない。
マル=シレスも、粥を食べていた。
匙を持つ右手の爪は白く、椀を手にする左手の爪は黒い。白い粥の湯気の向こうで、その指先だけが妙に鮮明だった。
マルは、何事もない顔で匙を動かしている。
そういえば、とリルは思った。
この道化が何かを食べているところを、自分はあまり見たことがない。
まったく食べないわけではない。
戯れのように葡萄を摘んだり、林檎の皮を剥いていたことはある。
だが、今のように、他の者と同じ器で、同じ匙で、同じ卓について食べている姿は、ほとんど記憶になかった。
今までがおかしかったのか、今がおかしいのか、リルには判別できなかった。
それから、五人は静かに食事を続けた。
窓の外に視線をやると、避難民に粥が配られている。自分たちの器に入っているものも、おそらく同じ釜のものだろう。
それを眺めながら、先程の、マルが少女を助けた一件を思い返す。あれは、何だったのか。
毒の時の、人を救えという命令が、まだマルの中で続いているのか。
それとも、子供を怯えさせるディエゴを見かねて、手を出してしまったのか。
考えても、答えは出なかった。
「マル……さん」
沈黙を破ったのは、ディエゴだった。
「はい」
「さっきは、ありがとよ」
ディエゴは少し言いづらそうに頭をかいた。
「俺じゃ、あの子を怖がらせるだけだった。あんたが止めてくれなかったら、危なかったんだろ」
「水桶の教育に成功しただけでございます」
「いや、まあ、そういう言い方をするんだろうけどさ」
ディエゴは粥の器を置いた。
「毒の時も、すげえ仕事してくれたんだよな。俺、正直、あんたのこと、ただの胡散臭いやつだと思ってた」
「たいへん正確な認識でございます」
「でも、違った」
ディエゴは大真面目に続けた。
「あんたは、若様の隣に立つ奴なんだな。認めてやるよ」
マルのいつも通りの微笑みが、わずかに引きつったように見えた。
「ディエゴ様。人の人生を、兵の昇格審査のように扱うのはおやめください」
「いや、褒めてるんだけど」
「ええ。褒め言葉が刃物と同じ形をしている方は、しばしばそうおっしゃいます」
いつもの調子の皮肉のように見えて、いまひとつ切れ味が悪いようにリルには感じられた。
普段のマルなら、若様の隣に立つ奴、などと言われれば、ディエゴの善意ごと骨まで削るような言い方をしただろう。
よく見れば、衣装だって少し妙だった。
黒い燕尾服、銀糸の刺繍、継ぎ接ぎの色布。
それらが、汚れている、というほどではないにせよ──少しくすんで、輝きが鈍くなっている。
──見るということを、関わるということを選んで。まったくの無傷でいられると思う?
あの少女の言葉が脳裏に蘇る。
あれは、彼女自身だけを指していたわけではなかった。
道化は雨や汚れや傷を受けず、食事を必要としない、無敵の存在。
そう無意識のうちに信じ込まされて──いや、信じ込んでいた。
そうではないことは、レネヴェグの一件で、知っていたはずなのに。
「マル」
「はい、リル様」
「すまなかった」
マルの笑みが今度は凍りついたのを、リルは見逃していた。
「おまえにも、無理をさせた」
「いえ。あなた様には必要な命令でございました」
「それでもだ。憩ってくれ」
ディエゴは意味がわからない顔をしている。
ワヌレイとユーレンスは何も言わなかった。
「もう、人を助けろという俺の命令を守らなくていい。道化に戻ってくれて構わない」
沈黙が落ちた。
粥の湯気だけが、細く上がっている。
マル=シレスは、ゆっくりと微笑み直した。
「先日、礼拝室でも似たような許可をいただきましたね」
「そうだったな」
「たいへんありがたい許可でございました。なお、有効期限は毒物混入まで」
無意識のうちにリルの視線が下がった。
「……マル」
「冗談でございます」
「そうは聞こえない」
「では、私めも許可を出してさしあげましょう」
マルは匙を置いた。白と黒の爪が、器の縁から離れる。
「リル様。あなた様も、いつでもただの十九歳の少年に戻っていただいて構わないのですよ」
リルは何度か口を開いては閉じ、結局何も言えなかった。
「私め、少々爪を乾かしてまいります」
「……おい! 若様が気遣ってくれたのに、何だその言い草は!」
部屋の出口へ向かうマルの背中に、ディエゴが立ち上がり噛みつくように言った。
「あんた、若様の相棒なんだろ! だったら、今のはねえだろ!」
マルは振り返らず、ディエゴはさらに声を荒げた。
「ディエゴさん」
ワヌレイが青ざめた。
ユーレンスは、何も口を挟まなかった。
「やめろ、ディエゴ」
「けど、若様!」
「いつからおまえは人事の仕事を始めた?」
底冷えするような声に、今度はディエゴが青ざめる番だった。
そして、言ってから、リルはその言葉が自分にも向くことに気づいた。
静かに、長く、息を吐く。
毒術を食い止めた次に対処しなければならないのが、人間関係のうちに生まれた毒だとは思いもしなかった。
しかも、どうも、それは自分の撒いた毒であるらしかった。




