#20 帰還、あるいは旧巡礼宿集団発症事案における救命選別および来歴接続処理記録
リルは歩いた。歩けてしまった。
さっきまで毒に倒れ、白い部屋で糸に包まれていた身体が、今は旧巡礼宿の中庭の土を踏んでいる。痛みとめまいは、まだ少し残っている。だが、指揮を取れないほどではない。
それが、ひどく気味悪かった。
リルはマルと軽く疎通を済ませた次に、フェリペとテオとバルトロメアに指示を出した。
「フェリペ、テオ、バルトロメア。毒を追うな。毒が通った道を追え。ばらばらに見るな。どこからどこへ繋がったかを出せ」
「帳面を全部ひっくり返します」
「症状も分けますわ。喉に肺、治療後の悪化」
「毒物ではなく、接続として来歴を辿ります」
三人がそれぞれ動き出す。
ユーレンスは礼拝室へ結界を張り直し、祈り札と施療所を隔てる細い光を床へ置いた。
残されたリルは、マルへと振り返る。
「マル。おまえは俺と来い。調査が終わるまでは救える者を救う」
「あなた様って馬鹿ですよね」
飛び出してきたのが道化にしてはあまりにも直截な罵倒だったので、リルは一瞬、自分が聞き違えたのかと思った。
「自分の治療を後回しにして、私めを使い走りにして、挙げ句ご自分が倒れる。私めはリル様の道化であって、便利な救急箱になった覚えはないのですが」
「……」
「いえ、今は救急箱なのでしょうね。蓋を開けるたびに喋り、使用者に文句を言う、不良品の救急箱でございます」
リルは何も言い返さずに、倒れている兵を指さす。
「喉が黒い。まだ戻せるか」
「戻せます。便利な救急箱にございますので」
マルは膝をつき、兵の胸へ手を置いた。
その間にも、リルは次の者を見ていた。
「その者は後だ」
「若様、まだ息があります!」
片目を腫らした若い兵が叫んだ。
倒れた男は、壁際で喉を鳴らしていた。唇が紫色に変わり、手が空を掴んでいる。確かに、まだ息はある。
誰かの名を呼ぼうとしているのか、口だけが動いていた。
「後だ」
「しかし!」
「今マルを回せば、あちらの三人が死ぬ。そいつは息があるだけだ。戻れる者を先に運べ」
言ってから、リルは自分の声を聞いた。
明朗なる命令で、兵が一人、その言葉で助からない側へ置かれた。
その瞬間にも、呼吸が詰まることも、命令が止まることもない。視線はもう次の負傷者へ移っている。
近い者。遠い者。助かる者。もう戻れない者。
それらが視界の中で点々と並ぶ様子が、地図のように見えた。
白い部屋の壁に映っていた旧巡礼宿を思い出す。
止め絵の連続のように、地獄が動いていた。あの少女は、それをただ見下ろしていた。心が動かないわけではなかったのだろう。ただ、遠すぎた。あるいは、遠いものとして扱った。
今の自分の目線がそれに似ているように思えた。
「若様。礼拝室へ」
中庭に戻り、リルを呼ぶフェリペは、袖口まで黒く汚れていた。
帳面を抱えた手だけが、奇妙に白い。
「まとまったか」
マルを見ると、別の兵の喉へ指を置いていた。唇の端から黒い泡がこぼれ、そのたびにマルの手袋が汚れていく。
「マル。続けろ。俺だけ行く。命令だ。救命を止めるな」
「承知いたしました。便利な救急箱は、こちらで蓋を開け閉めしております」
マルは、唇を薄く笑みの形にしたまま、頭を下げた。
リルは何も返さず、礼拝室へ向かった。
*
礼拝室は、白い線で区切られていた。
壁際には祈り札の箱。床にはフェリペの帳面。長椅子の上には、バルトロメアが症状ごとに分けた札。中央にはテオの中和陣。
「分かったことを言え」
「毒源が複数あるのではありません。道筋は思いの外単純です」
テオが口火を切った。
「喉から来る者、傷から来る者、治療の後に悪化する者。ばらばらに見えましたけれど、身体の入口が違うだけですわ」
バルトロメアが頷く。
「水は喉へ。薬草は傷へ。包帯は施療室と礼拝室へ。祈り札は名と身体へ。捕虜は、その全部をつないでいる」
「捕虜まで使ったのか、連中は。仮にも自分の兵だろう」
「ええ。橋奪取時に収容した王家兵ですね。王家側で処置され、こちらで治療された。水を飲む前に一人死んでいます」
フェリペが帳面を指で辿っていた。
「……あの捕虜の方、傷の割に熱が引くのが早かったですわ」
「薬草そのものに、弱い約定が仕込まれていました」
テオが言った。
「それも毒か?」
「逆です。薬としてよく効くようにしてある。熱は早く引く。痛みは遠のく。傷は鎮まる。この草はよい草である、と」
「なら、何が悪い」
「効きすぎることです。身体が、通常より早く“治療を受けている身体”へ寄る。毒術は、その動いた定義へ足をかけています」
ユーレンスが壁際の祈り札を見た。
「そして祈り札は、負傷者の名を身体から離さないためのものです。意識を失った者、声を出せない者、死に近い者でも、誰であるかを失わせない。そうして祈りと治療を、その人へ届かせる」
「……その道を、毒が通ったのか」
「はい。名を結ぶ札は、名から身体へ届く札でもあります」
「これは毒物ではなく、旧巡礼宿の救命手順を使った毒術です」
テオが総括した。
リルは礼拝室を見回した。
水。
薬草。
包帯。
捕虜。
祈り札。
傷。
喉。
名。
ばらばらの入口が、同じ奥へ向いている。
「経路、照合済みです。北井戸から始まり、薬草、包帯、祈り札、施療所、礼拝室。全部繋がっています」
「症状の枝、束ねましたわ。喉、肺、傷、血、治療反応。全部、一本へ」
「つまり、旧巡礼宿の導線そのものか」
リルは床の線を見た。
「はい。私たちが拠点として使えるように整えた順番です。水を配り、負傷者を運び、札を配り、捕虜を治療する。その手順を、向こうに読まれました」
フェリペが答えた。
負傷者を寝かせる場所。水を汲む井戸。馬を休ませる馬屋。避難民を入れる部屋。
神殿の祈りと、兵站の帳面と、兵士たちと、マルという外法存在をかろうじて同じ屋根の下に置いた場所。
これから作る国の、小さな原型のように感じた。
その仕組みを、逆手に取られ、毒を流された。
「……今回は、俺が甘かった」
その言葉に、四人が押し黙ったままリルを見つめた。
「井戸を疑うべきだった。薬草を疑うべきだった。捕虜を、包帯を、祈り札を。全部、最初から疑うべきだった。難民を収容するなら、なおさら……」
「疑いましたよ」
フェリペが枯れた声で返した。
「井戸も薬草棚も分けましたし、捕虜の持ち物も検めました。包帯箱も封を見ました。完璧だったとは言えませんが」
「なら、なぜ」
「普通は、ここまでしません。費用も危険も、見返りに釣り合っていません。普通の軍なら、やりません」
「王家軍はやった」
「これを想定しろというのは、マル=シレスの存在を想定しろというぐらいに無理です」
テオが眼鏡の汚れを雑に指で拭っていた。
「薬務反応術を軍事運用するにしても、普通は治癒遅延や薬効阻害です。地味ですが、接続はもっと細く済む。露見もしにくいし探知もされにくい。今回の術は、こちらへ太い糸を垂らしすぎています」
「戦場誓則が、この種の接続を禁じる理由の一つですね」
ユーレンスが静かに言った。
「道徳の話か?」
「互いを破壊しすぎないための不文律のようなものです。捕虜や施療所や井戸や祈り、治療、それらが攻撃経路になるなら、戦は戦でなくなります。降伏も治療も捕虜交換も成立しません」
「もう、成立していない」
「だから禁じているのです」
誰も、しばらく何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、バルトロメアだった。
「それでも、次も治療しますわ。助ける手を引っ込めたら、それこそ敗北ですわ」
「おお、素晴らしい。救急箱風情には持てぬ篤志にございます」
礼拝室の入口から声がした。マル=シレスだった。
汚れた道化衣装で、片方の手袋が欠けている。どこかで捨てたのか失くしたのかはわからない。白い指先に、血と黒い毒の筋が残っている。
「遅い」
「救急箱でございましたので。蓋の閉じ時が難しゅうございます」
「……それで、できるか、マル」
「たいへん曖昧な命令でございますね」
「毒が通った道を立たせろ。水でも、傷でも、札でも、薬草でもない。それらを使ったものを見せろ」
「承知いたしました。では皆様、帳面と傷と祈りをお借りします」
マルが手をかざす。
ユーレンスの結界光が、床を細く走った。
フェリペの帳面に記された線が、礼拝室の床へ影を落とす。
バルトロメアが症状ごとに分けた札が震えた。
テオの中和陣が、毒ではなく接続の形を固定する。
祈り札が、名を抱えたまま壁際で白く瞬いた。
その中心に、黒い線が浮かび上がった。
そして水の染みのように、蜘蛛糸のように、血管のように広がっていく。
井戸から桶へ。
桶から釜へ。
釜から喉へ。
喉から血へ。
捕虜の傷から薬草へ。
薬草から包帯へ。
包帯から施療所へ。
施療所から礼拝室へ。
傷から祈り札へ。
祈り札から名へ。
名から身体へ。
それらが幾重にも絡まり、一本の太い黒い束になる。
その先に、顔が──顔を成す気配が、見えた。
黒い長髪。細い目。穏やかな口元。神官服にも術師服にも見える衣の襞。濡れた指先。
「……これは」
驚き、そして納得する。
外法審問で、自分とマルに異常な興味を示した男。
「……王家外法顧問、ミルグリファ」
「ええ。たいへん趣味の悪いお顔でございます」
「辿れるか」
マルは黒い束を見下ろした。
こいつが。こいつの狂気が。すべて。
「術とは律儀なものです。帰り道を忘れません」
「なら」
小さく息を吸い込む。昂ぶる感情に指先が冷たくなる。
倒れた兵。
呪って死んだ者。
水を求めた子供。
治療したせいで悪化した者。
自分の名を呼んだ者。
リル=グレスなど来なければよかった、と言った者。
そのすべてが脳裏を駆け巡って、ひとつの意思に結びつく。
「殺せ」
しん、と礼拝室が静まり返った。
泣き声も、怒声も、布を裂く音も、遠くなった。
マルは瞬きをした。
「……申し訳ございません。よく聞こえませんでした」
「ふざけ──」
怒鳴ろうとして、リルは止まった。
マルの目が笑っていなかった。
神殿騎士ユーレンスは筆を持ったまま、リルを見ていた。記録札はまだ光っている。筆先は止まっていて、今の言葉はまだ、記録になっていない。
「あ」
リルは今自分が何を指示しようとしていたのか、遅れて理解した。
──捕虜、施療所、井戸、祈り札、治療者の手。それらが攻撃経路になるなら、戦は戦でなくなります。
戦場誓則によって禁じられた遠隔殺害。
その言葉が、冷たく頭の中に落ちる。
違う。
同じことをしようとしただけだ。向こうがこうしてくるのだから、やり返すことの何が悪い。
──神殿は、それを報復攻撃と呼ぶだろう。
道化は、わざとらしく咳払いをした。
「ええと。接続を断つことならできます」
「……」
「断った結果、術が向こう側へ跳ね返り、術者の皆さまに多少の不都合が生じるかもしれませんが」
マルは首を傾げた。
「それはまあ、危険な糸をこちらへ垂らした側の自己責任でございましょう?」
ユーレンスの筆先は、まだ動かない。
「──改めてご命令を、リル様」
「……はっ」
喉に引っかかるような笑い声が出た。
マルの笑い方に似ていると思った。
──同じことでも、呼び方を変えれば許されるのか。
外法審問で、神殿の言葉をそう軽蔑した。
外法具ではなく神授具。
犬星ではなく魔人。
今、自分はその論理を使おうとしている。
殺せ、ではなく、切れ。
暗殺ではなく、接続切断。
報復ではなく、処置。
リルは、自分の笑いがさらに引きつるのを感じた。
「切れ」
「リル=グレス殿、毒術接続の切断を命令」
ユーレンスの筆が動き、それだけが、記録された。
マル=シレスが、黒い束へ指を伸ばし、触れた瞬間、礼拝室全体が動いた。
音はない。
井戸の底で水が震えるような、傷口の奥で血が脈打つような、誰かが遠くで名前を呼ぶような震えがあった。
「ユーレンス様」
「封じています」
「テオ様」
「定義を固定しています。毒ではなく、接続として」
「たいへん結構」
マルは笑った。
「では、お帰りいただきましょう」
黒い束が反転する。
水が水路を逆に走るように、糸が針穴へ戻るように、吐いた言葉が喉へ押し返されるように、毒が帰路を思い出した。
*
王家軍後方の廃礼拝堂では、最初に祭壇右手の水質術師が喉を押さえ、倒れた。
二音だけ崩れた祈りの文言を口にし、膝をつく。その口の端から黒い泡がこぼれる。
「ミルグリファ閣下、接続が戻っています!」
「戻っているのではありません」
術の範囲維持を担当していた結界補助術師が慌てて叫ぶと、水盤の前で、ミルグリファは黒く濡れた唇を持ち上げた。
「帰ってきているんです」
水盤の黒い線が、次々に逆向きへ震え始めていた。
床に膝をついていた下位術師たちが顔色を失う。詠唱の調子が乱れる。乱れた箇所から、毒はさらに速く戻ってきた。
「切断を!」
「もう遅いんですよねぇ。切断は、帰還が始まる前の処置です。今切れば、ただ破裂する」
ミルグリファは、まるで他人事のように穏やかに言った。
「では、どうすれば」
「受け止めます」
「何で」
ミルグリファは答えなかった。
その視線の先にいた、薬務術師が倒れた。数合わせの中では比較的毒術の知見がある者だった。
床の文言が血を吸った縄のように震え、倒れた術師の身体を術式の節へ変える。
「おや……これでも足りませんか。少し毒の嵩が多すぎたようですね」
毒の帰路に“置かれた”薬務術師が、目を見開いたまま血を吐いた。
「あの、えっと」
突っ立ったままの、クド=キルマの声と膝が震えていた。
「俺は、違いますよね」
ミルグリファは視線すら向けなかった。
答えの代わりに、次に結界補助術師の背が反った。毒の勢いは収まっていない。
それを目にして、ようやくクドは、その場から駆け出そうとした。
だが、床に書かれた文言が靴底を離さない。膝が折れる。手が床を掻く。指先が黒く染まる。
(嘘だろ)
(なんで)
(なんで俺がこんな)
(帰らせてくれ)
(妻が)
黒い線が指の内側へ入り、爪の下から喉へ走った。
喉が閉じる。
血が固まる。
熱が上がる。
息が浅くなる。
そして最後に、痛みが来る。
組んだ術式通り、丁寧で完璧な順番だった。
クド=キルマが今際の際に考えたのは、死亡手当で屋根代は払えるのか、ということだった。
そして、それでも──あるいは、ようやく毒がミルグリファへ届いた。
彼の身体が弓なりに跳ねる。
目、鼻、口、指先から黒いものが噴いた。
近くに立っていた、クヴェル術監は一歩退いた。適切な角度で退いたはずだったが、それでも頬に黒いしぶきが散った。
「帰路が……あった」
ミルグリファは、笑っていた。
敗北し、これから死にゆく者の顔ではなかった。
「あの外法反応……、犬星殿の術ではない……。神殿の糸でもない……。リル=グレス卿、あなたは、別の手で戻されたのですね……」
黒い泡が、笑いに合わせて口元からあふれる。左眼が潰れていた。
「毒が帰るようにあなたも帰った。死の縁から。いいえ、境界から。んん……帰路がある。初代王ディオスは、やはり……」
「喋るな。飛沫が増える」
クヴェル術監の冷淡な声が響く。
それに、ミルグリファの応えはなかった。
そのまま、床へ頬をつける。
クヴェルは、倒れ伏した毒術師たちを見下ろして、記録した。
「毒術班、作戦単位として喪失」
クヴェルはそれ以上、誰も見なかった。
ミルグリファの笑いも、床に伏した術師たちの死体も、黒く濡れた水盤も、クドの傍らに落ちていた手つかずの昼食の包みも。
廃礼拝堂を出る。
──しばらくした後、廃礼拝堂は“消え”た。
*
旧巡礼宿では、毒の気配が遠のいていた。
のたうち回っていた兵が、荒い息をしながら床へ崩れる。吐瀉は止まらない。血も流れている。だが、死へ引きずる黒い重力は弱まっていた。終わりが見え始めた。
「水はまだ飲ませないで! 桶を分けて! 印のない桶は使わないで!」
「マル様、こちらへ! まだ息がありますわ!」
フェリペが叫び、バルトロメアが発症者のもとに道化を呼ぶ。
「はいはい、ただいま。皆様、本日はまことに死に急ぎでいらっしゃる。順番札をお配りした方がよろしいでしょうか」
マル=シレスはそう言って、床に膝をついた。
片方残った、白かった手袋は血と泥と吐瀉物で、指の節まで黒ずんでいる。
その手が、壁際に座り込んでいた兵の胸へ触れる。
「……笑うな」
かすれた重い声だった。
彼は肩に包帯を巻き、片目を腫らしていた。膝の上には、もう息をしていない兵の頭が乗っていた。
若い兵は、震える手で死んだ兵の髪を撫でていた。
「あんたがあっちを救ってる間に、こいつは死んだ」
バルトロメアが何か言おうとして、できなかった。
誰もそこに割って入れなかった。
「仕方ないんだろ。わかってるよ。若様が決めたんだろ。あんたの手は二本しかないんだろ。わかってる。でも、笑うな」
「……」
「口を閉じろよ。あんたの冗談、誰も救わねえんだよ……」
「それは──」
道化はそれでもやはり薄く笑っていた。笑ったまま、一瞬言葉を継ぐのをやめた。
「──いえ。たいへん失礼をいたしました。この無能な道化を、お許しください」
マル=シレスは、深く頭を下げた。
兵の苛立ちと怒りがそれで収まったわけではなさそうだったが、舌打ちを一度して、それ以上糾弾することをやめた。
リルはその光景を前にしながら、最後まで何も言うことができなかった。
胸がざわつく理由も正確にはわからなかった。兵の怒りは、少なくとも間違いだとは言えない。それでも、なにか自分が、致命的な過ちを犯してしまったのではないか、という感覚に囚われていた。
少なくとも、蔓延は終わった。
新たな発症者は出ていない。壁際に座り込まされ、寝かされていたものたちの呼吸も、少しずつ落ち着き始めている。
仲間の力と、リルの命令が、旧巡礼宿の全滅を食い止めた。
勝った。そう言えるはずだった。
だが、リルは勝利の輪郭をこの風景に見なかった。
礼拝室の床には、吐瀉物を吸った布が積まれている。水を求める声はもう小さくなっていたが、完全には消えていない。壁際には、名を確認できていない死者が並べられている。祈り札は触れないように離され、井戸桶には黒い印がつけられ、施療所の入口には封止の札が何重にも貼られていた。
(俺の……)
ここは、リルが得た初めての拠点だった。
(俺の国 だった のに)
疲弊しきった頭に自然と浮かんだ思いに、自分自身でぞっとした。
俺は今、何を考えた。
違う。俺は少しでもこの世界を良くしたかった。
幼い積み木遊びがしたかったわけじゃない。
そんなもののために、人々を巻き込んで、死なせたわけじゃない。
しかし次に思い出すのは、あの白い少女。
彼女が掌の上で兵隊の人形を愛でていた光景。
ふらついて、近くの柱にもたれかかった。
「若様」
声のするほうに首を向けると、ワヌレイが立っていた。
立っている、というより、どうにか膝を伸ばしているだけだった。顔は青白く、目は赤い。鼻の下は濡れている。鎧の留め紐は片方が外れ、髪も頬に張りついていた。
ひどい有様だった。いつものことである。
「今日のワヌレイは、駄目でした」
ワヌレイは、唇を震わせた。
「みんなに、迷惑かけて。怖がって。泣いて。動けなくて。隊長なのに。隊長って呼ばれてるのに、全然、駄目で」
「知ってる」
「そ、そんな……」
自分の言葉を肯定されておいて、ワヌレイは本気で傷ついた顔をしていた。
リルは目を伏せる。
「俺が悪い」
「……え?」
「俺は知っていた。おまえが駄目なやつで、隊長どころか、兵士にすら向いていないことを」
ワヌレイは、口を開けたまま固まった。
そこまで言われるとは思っていなかった、という顔だった。
「それでも使った。おまえが怖がりで、泣き虫で、帰りたがりで、すぐ足が止まることを知っていた。それでも、おまえは最後には戻ってくると知っていた」
リルの声が震えた。
「俺は、おまえに甘えていた。おまえは怖がりながらも俺についてきてくれる。泣いても、文句を言っても、最後には俺の背中へ戻ってくる。そう思っていた」
「若様」
「今日、何人も死んだ。俺が選んだ。俺が後に回した。俺が置いた。おまえも、そうだ。おまえが苦しんでいるのは、俺がそういう場所に置いたからだ」
毒はもう去っていたのに喉が痛んだ。自分の言葉に喉が削られるようだった。そうだ。あの兵だって、マルではなくて、俺を責めるべきだったのだ。マルが、ああいう道化だとわかって使っているのは、俺なのだから。
「全部、俺のせいだ」
「違う!」
ワヌレイが叫んだ。
礼拝室の何人かが振り向いたが、それでもワヌレイは止まらなかった。
「違います! どうして、そんなふうに言うんですか!」
涙が、ぼろぼろと落ちる。鼻水も垂れていた。いつものように、ひどい泣き顔だった。
「嫌なのは本当です。怖いのも本当です帰りたいのも本当です。隊長なんて無理です。兵士だって、向いてないです。あたしは、いつも逃げたいです」
「……」
「でも、あたしは、あなたについてきたの」
ワヌレイは、両手を握りしめた。
「あたしは、あなたに、ついていきたかったから」
リルは何も言えなかった。
「若様が悪いこと、いっぱいあります。たぶん。あたしには全部わかりません。でも、全部若様のせいにしないでください。あたしが怖いのも、あたしがついてきたのも、あたしのものです。勝手に、若様の罪にしないでください」
ワヌレイは泣きじゃくっていた。
「それまで取られたら、あたし、本当に何にもなくなっちゃう」
リルは、息を吸った。
胸が痛んだ。
今度は、はっきりと痛んだ。
「……すまない」
「謝るところ、そこなんですかぁ……」
ワヌレイはずるずるとその場にしゃがみ込んで、泣きながら、膝を抱えた。
隊長にも、勇敢な兵士にも、逸話にされる女にも見えなかった。
ただ、怖くて、疲れて、泣いている一人の兵だった。
リルはその傍らに立ち、天を仰いだ。
旧巡礼宿の天井があった。
汚れた梁。
煤けた祈りの文様。
毒と血と吐瀉物の臭いを押し込める、低い屋根。
そのさらに上に、白い部屋があって、はるか高みからオル=ヴェガが見下ろしているのかもしれない。
悲しそうに。しかし、愛おしそうに。
それは共感には程遠い。
だが触れれば、傷つけることができるかもしれないほどには近かった。
そう思えるほどには、彼女には表情があり、戸惑いがあった。叱られた子供のように、白い睫毛を伏せる瞬間があった。
生まれながらの怪物だったのか。
それとも、ああなるほどに、様々なものを見続けてしまったのか。
救い続け、拾い続け、捨てられず、並べ続けた末なのか。
いつか自分も、そうなるのだろうか。
兵が倒れ、朽ちていく光景を、悲しみながら、愛おしむようになるのだろうか。
滅びすら、自分の国の一部として見つめるようになるのだろうか。
泣きじゃくるワヌレイの声が、足元から聞こえている。
それを聞いているうちは、まだ、地上に立っていられる気がした。
・旧巡礼宿集団発症事案。
・毒術接続切断。
・死者、確認中。
・救命継続。
・帰還。
*
王都の東区。
朝から薄い雨が降る中、クリス=キルマは、天井を見上げていた。
正確には、天井板の継ぎ目から落ちてくる水滴を見ていた。桶は置いてある。布も敷いた。だが、雨が長引けば、また別の場所から染み出すだろう。
屋根を直さなければならない。
何度もそう思っていた。
思うだけなら、もう何十回もしている。職人に見てもらうだけでも金がかかる。板を替えるなら、もっと。季節が変わる前にどうにかしなければならない。板、釘、職人、足場。そこへ術師養成所の借金と、戦時税が重なる。
クドは、今回の任務が終われば払えると言っていた。
──報奨金が高いらしい。
そう言った時の夫の顔を、クリスは思い出す。
誇らしげではなかった。むしろ、少し申し訳なさそうだった。
夫、クド=キルマの正式な職名は、薬務反応術師だった。
近所の者は、毒術師と呼んだ。
薬師とも治療術師とも違う。
毒。
その一文字が、家の外壁の染みのようについて回る。
自分がこういう仕事だから、すまない、とクドは何度も言った。
クリスは、そのたびに怒った。
あなたが仕事をしているから、この家に灯りがついているのだ、と。
そう言った時、クドは困ったように笑っていた。
夫は、笑うのが下手だった。
毒術師にはともかく嘘には向いていない。疲れている時は、疲れている顔を。怖い時は、怖い顔をする。隠そうとしても、すぐわかった。
そして酒が入るたびに、治療術師への恨み言を言っていた。
あいつらは薬を煎じれば感謝される。俺たちは同じ身体の道を読んでいるのに、毒屋だ、と。
そのくせ最後には必ず、人に毒を盛るのが好きなわけじゃない、と付け足した。
クリスは、その言葉を全部は信じていなかった。
小さな人だと、彼を知る人は言う。
自分も、そう思っている。
今回の任務の前も、少し怖がっていた。
危なくないの、と訊くと、後方だから大丈夫だ、と答えた。
後方で、補助をするだけだ、と。
自分は主術者ではない。大きな術を組むのは上の人間だ。
だから心配ない。
まるで自分に言い聞かせるように口にして、出ていった。
三日経っても、帰ってこなかった。
任務が長引いているのかもしれない。
軍務ではよくあることだ。
連絡が遅れることもある。帰りが一日、二日ずれることもあることを、クリスは知っている。
知っているが、雨音を聞いていると、余計なことばかり考えてしまう。
無理をしていなければいい。
上役に急かされていなければいい。
いつものように、何でも引き受けていなければいい。
天井から落ちた水滴が、桶の中で小さく鳴った。
クドが帰ったら、まず温かいものを食べさせよう。
それから、屋根の話をする。
報奨金が本当に出るなら、修理の見積もりを取る。
その余りで厚い靴下を買うのもいい。クドは冬になると足先が冷える。
そんなことを考えていると、玄関の方で呼び鈴が鳴った。
クリスは顔を上げた。
胸の奥で、張りつめていたものがゆるむ。
「クド?」
ようやく帰ってきた。
そう思って、クリスは濡れた床布をまたぎ、急いで玄関へ向かった。
(神話胎動篇 完)




