#19 白き掌の上で
水盤の周囲には、クド=キルマを含め四人の術師が膝をついていた。祈るように、あるいは帳簿を読むように、低く文言を唱え続けていた。
「作戦目的を確認する」
そこに入口付近から割って入る声があった。
低く、平らな声だった。怒りではない。記録の読み上げに近かった。
「本作戦の名目は後方撹乱。リル=グレス軍の拠点機能低下。井戸、糧食、治療手順への限定干渉。非戦闘員を主対象とすることは、命令範囲に含まれない」
「おや、クヴェル術監殿。ようこそ」
ミルグリファの声は柔らかかったが、歓迎もしていなかった。
「……ミルグリファ外法顧問。これ以上、民間人被害が拡大するなら、作戦の強制終了を検討する」
水盤の周囲にいた若い術師たちが震え上がり、詠唱を止めかけた。
クヴェル術監の言う強制終了が何を意味するか、知っていたからだ。
(まずいまずいまずいまずい)
もちろんクド=キルマも全身から脂汗を流していた。
途中、ミルグリファに強引に納得させられていたが、やはりこれはまずい任務だった。考えてみれば当たり前だったのに。
毒への矜持も、ミルグリファへの恩義も、その瞬間には吹き飛んでいた。思い浮かぶのは妻の顔と、まだ直していない屋根のことだけだった。逃げたい。今すぐ抜けるべきだ。
だが、抜けてどうする。報奨は。処罰は。屋根代は。自分が抜けた後、この術を毒草の名を三つ並べることもできなさそうな素人三人とミルグリファだけに任せてよいのか。
クド=キルマは、動かない理由を一瞬で大量に並べていた。
ミルグリファだけが、水盤から目を離さないまま、穏やかに微笑んでいた。
「邪魔をしないでいただきたい。今、よいところなのです」
「作戦は観劇ではない」
「ええ。観測です」
ミルグリファは濡れた指先を持ち上げた。水滴が、指の腹から水盤へ落ちる。黒い線の一本が震え、すぐに別の線へ移った。
「剣や炎や爆発では行けぬ境地に、毒は、立たせることができるのです」
「死地か」
「臨死です」
クヴェルは黙った。
ミルグリファは、その沈黙を肯定と受け取ったのか、あるいはどうでもよかったのか、柔らかく続けた。
「クヴェル術監もご存じでしょう、初代王神話を」
「軍務に不要な範囲の話題だな」
「文献によれば、初代王ディオスは、白手の女神の寵愛を受け、死の淵より帰還した。王家はそれを奇跡と呼びました。神殿は神託と呼びました。民は救済と呼びました」
「それが?」
「……ですが、もしそれが現象であったなら?」
「……」
「死の縁。救われる者と、救われない者の境。名を呼ぶ声。呪う声。選ぶ者。選ばれる者。その中心にこそ、王を王たらしめる何かが現れるとは思いませんか」
クヴェルは知っていた。というより、王家に仕える人間は誰もが知っている話だった。初代王にまつわる神話。神授された王権。それが神殿の承認と、数百年に及ぶオルディアス王家の正当性を支えていた。
「思わない。夢想を作戦に持ち込むな」
しかし少なくとも、クヴェルにとってはどうでもいい話だった。
「クヴェル殿。あなたはつまらない」
「当人は作戦管理官だ」
「実に明快でよろしい。あなたの術のように」
ミルグリファは、黒く濁った水面へ目を細めた。
クド=キルマは、なんでもいいから、早く終わってくれと思っていた。
このやりとりのさなかにも、祈るような思いで毒を操作し続けている。もう粘るな。毒を消すな。俺が作戦ごとクヴェル術監に消される前に、全員消えてくれ。
思考はとうに破綻していたし、自分の指の下で人がどんな苦しみ方をして死んでいるか、想像することはとっくにやめていた。
「しかし、あなたが起こす現象は粗雑に過ぎる。毒ならば、順番が見える。誰を先に救うか。誰を後に置くか。王が、自分の命をどこに置くか。んん……素ぅ晴らしい。王を篩い、試すに、これほどふさわしいものはない……」
「遊びを持ち込むな、と言っている」
肩を震わせて笑うミルグリファに、クヴェルの声の温度が一段階下がった。周囲の術師がいよいよ顔色を失った。
「遊びではありませんよ、クヴェル殿。あなたが軍楽を奏でるように、私は毒で問いを立てているだけです」
ミルグリファは、笑みを残したまま水盤へ視線を戻した。水盤の黒い線が、ひとつ震えた。
「ですから、もう少しだけ観測させてください。
リル=グレス卿のうちに、神話が胎動するところを」
*
どこかで小鳥のさえずる声が聴こえる。
リル=グレスは、白い部屋にうずくまっていた。
最初に思ったのは、死んだのか、ということだった。
あの世。天国。女神の衣の内。子供の頃、神殿の老婆が語っていた死者の休む場所。しかしそう呼ぶには、私的な気配があった。
床があり、壁があり、棚があった。机があり、椅子があり、布のかかった寝台があった。すべて白い。だが空虚ではない。白い光の中に、細々とした小物が置かれている。
壊れた兵士の釦。折れた羽根ペン。小さな旗。乾いた麦の穂。祈り札。銅貨。泥でできた人形。布の端。誰かが使ったらしい匙。ひびの入った椀。
生活の道具に見えて、その気配がなかった。
使うために置かれているのではなく、保存されているように見える。
リルはなぜか、副葬品のようだと思った。
副葬品の置かれている空間。
──棺。
それが、直感的に思い浮かんだこの部屋の正体だった。
喉が痛む。
毒はまだ、身体の中にあった。いや、身体だけではない。喉という場所、血という流れ、傷という来歴、名を呼ぶという行為、そのどれもが、まだ黒い指で撫でられているようだった。
リルは息を吸おうとした。空気が薄い。白い部屋なのに、毒の匂いだけが残っている。
身動ぎすれば、付着していた砂と泥と埃と血が、白い床にぽつぽつと落ち、染み込むようにして消えていった。夢の世界に来たわけでも、死んでしまったわけでもないと、ようやくわかる。
その奥に、古めかしい安楽椅子に腰掛ける少女がいた。
白い髪。白い肌。白い衣。だが、死者の白ではなかった。雪のようでも、骨のようでもない。布の内側の白。誰かの手で温められていた白。
彼女はそこで、白い布を縫っていた。伸びる糸は長く長く、部屋の外まで伸びている。
「おまえは……?」
彼女に近づこうとし、重い身体を引きずって、数歩進む。距離は縮まらなかった。部屋は小さい。棚も机もそこにある。だが、彼女だけが遠い。
少女が立ち上がり、向こうから歩いてくると、距離は簡単に縮まった。
「おまえは、何者だ」
かすれた声が出る。少女は、少し首を傾げた。
「あら。わたしを呼んでおいて、そんなことを訊くの?」
「何のことだ……」
改めて、少女を見た。
身体の輪郭をくるむ、祭服のようにも、寝間着のようにも、姫の衣装のようにも見えるが、どれとも一致しない白い装い。
右眼はそれ自体が淡く輝くような月白。左眼は夜明け前の空のような青。
幼い娘の顔立ちをしているが、眼差しと所作に、何百年も同じ椅子に座り続けていたような静けさがある。
数拍遅れて、まさか、と、ある可能性に気づく。
「俺は」
奥歯を噛みしめる。
「助けてほしかったわけじゃない」
「ええ」
善意を無下にするような言葉にも、少女は眉一つ動かさない。
「でも、痛そうだったから」
白い糸が、少女の指先から伸びた。
糸は光っていた。祈りの光ではない。もっと細く、もっと静かで、布を繕う針先に宿る光に似ていた。
糸がリルの喉へ近づく。暖かく優しい気配があった。
だからこそおぞましく感じて、リルは反射的に手で払い除けた。
「やめろ」
少女はきょとんとした。
「どうして?」
「俺なんかよりも、苦しんでいるやつらが大勢いる! わかるだろう!」
叫びに応えるように、白い部屋の壁面が明滅して、次に像が映し出される。
そこに見えるのは、旧巡礼宿の様子だった。
のたうち回り、吐瀉する兵士。
壁際にうずくまる難民。
助けようと奔走するリルの配下たち。
ゆっくりと、止め絵の連続のように、その地獄の光景が動いていた。
「うん。そうかもしれない」
少女は静かにそれを見ていた。悲しんでいるようにも、悼んでいるようにも、愛おしそうにも見えた。
「でも、今助けてもいいと思ったのは、あなただから」
少女は近くにある棚の一つを指さした。
帽子を被った小さな兵隊の人形たちがひしめいている。
そこから一つ離れた人形に指で触れて、倒す。
「これがあなた」
それから、掌で、兵隊の群れを押す。
横薙ぎに倒されて、ぱらぱらと床に散った。
「これがみんな」
そしてかがみ込むと、落ちた兵隊を、すべて拾い上げて、掌の上に収める。
兵士たちはもう倒れておらず、白く暖かな掌にきれいに収まって、並んで立っていた。
もう踏みつけられることも、落ちることもないだろう兵士たち。
「こんなふうに助けてしまって、いいと、あなたは思う?」
少女はそれを見せながら、陶然と微笑んでいた。
リルの身体を、悪寒とも熱ともわからないものが、駆け巡った。
その有様が欺瞞に見えたわけではなく、むしろ本当に助かってしまっているように見えたからだった。
そしてその顔は、問いの答えを恐れているものには見えなかった。
はっきりとした恐怖を覚える。
マル=シレスの外法に相対した時のそれに、似ていた。
言えば、楽になれると思った。
助けろ。全員を拾え。おまえがやれ。俺のかわりに地獄を背負え。
その白い髪をひっつかんで、命じてやりたかった。
毒よりも甘い想像だった。
「駄目だ」
絞り出すような声。
「それは助けるのとは、違う」
「そう。やっぱり駄目なのね」
少女は、どこか気落ちしたような様子だった。
「あなたなら、そう言うと思った。もしかしたら、とも思ったけど」
その落胆に、リルは怒ればよいのか、怯えればよいのかわからなくなった。
「……なぜ、世界はこのようになっている」
少女は兵隊人形を掌に乗せたまま、リルを見た。
「不完全なまま、人は傷つけ合う。助けようとすれば、誰かを選ぶ。守ろうとすれば、囲う。王になろうとすれば、踏む側に立つ。おまえが手を伸ばせば、掌に収めることになる。なぜ、こうなんだ」
リルは、白い部屋を見回した。
棚に並ぶ小物。壁に映る旧巡礼宿。白い掌の上の兵士たち。
少女は、しばらく黙っていた。
「わたしが、そう作ったわけではないわ」
ひどく小さな声。
「ただ、ほどけていたから縫ったの。冷えていたから温めたの。落ちそうだったから拾ったの。それでも、こうなったの。……みんな、同じことを、繰り返す」
少女は掌の兵士の人形を、そっと棚に置き直した。
「わからないのか。おまえにも」
気が遠くなるのを感じる。毒のせいではない。
そんなことがあっていいのか。
そう言いたかった。
しかし、現にそうなっている。
もっともらしい顔をしている神官どもに聞かせてやりたいと思ったが、どうせ丁寧に箱にしまわれ直すだけだろうなともわかった。
「ごめんね。あなたがほしい答えを、あげられなくて」
少し眉を下げて、再びリルに向き直る。
「みんなをそうしてはいけないのは、あなたにとって大事なのね。
でも、あなたをそうしてはいけないのは、どうして?」
リルの表情が強張る。
「だから、それは、俺だけが、助かるわけには」
「あなたが助からなかったら、どうやってみんなを助けるの?」
「……」
「自分が助かってはいけないと思っているの?」
再び、旧巡礼宿を映す動く止め絵を見た。
運ばれてきた者。名を呼べた者。息をしているとわかった者。手の届く場所にいた者。そして、置いた者。軽い者は後だ。俺も後だ。命令した。合理的だった。治療資源を重症者へ回すためだった。
本当に?
リルは喉の痛みに顔を歪めた。
「自分だけが楽になるのが、嫌なの?」
マルに何度も助けられた。死ぬはずだった場所から、何度も引き戻された。仲間を癒させた。敵を退けさせた。竜を討たせた。壊れたものを戻させた。
その力で、人が集まった。ここなら助かると信じた。
ここなら、王家に踏みにじられずにすむと信じさせた。
リル=グレスの旗の下なら、明日があると信じさせた。
そして死んだ。
「あなたが痛いままだと、誰かの痛みも少し軽くなるのかしら?」
──あなた様はまだ、ご自分の手を汚せば世界を清められると信じておいでだ。
──違うのか。
──手が汚れるだけでございます。
白い糸が、もう一度近づく。
リルは今度こそ、それを払わなかった。
糸が喉を包む。黒い針のような痛みが、少しずつ遠のいていく。息が入る。指先に熱が戻る。血が、自分のものとして流れ始める。
屈辱だった。
助けられることが、これほど屈辱だとは知らなかった。
少女は光の糸を繰りながら、リルの喉から胸へ、胸から腕へ、腕から指先へと毒の約定を解いていく。
「でも、あなたって、元気になったらまた辛い目に遭いにいくのでしょう。頑張っていてえらいわ。かわいい」
少女は、リルが顔をしかめる様子を眺めていた。痛みから解放されていく身体と、それを受け入れることに震えている心を、どちらも愛おしいもののように見ていた。
「けれど、ここに残って休み続けてもいいのよ」
「棺に寝かせるようなことを言う」
「違うわ。寒くないようにしているだけ」
「そうか。だが、俺は戻る」
「助けようとした誰かに、呪われても?」
「それでも。いや、だからこそだ」
「逃げてもいいと、わたしは思うのに」
「おまえはそうやって、人を誑かしてきたんだな」
少女は少ししゅんとした。
白い睫毛が伏せられる。叱られた子供のような顔だった。その顔を見て、リルはまた拳の置き場を失う。
「……あなたって、アルに似ているわ。でも、あなたはアルよりずっとぐちゃぐちゃで、アルよりずっと諦めが悪い」
リルの知らない名前だった。
「それは悪口か」
「ううん。マルが気に入るわけね、と思ったの」
次に出てきたのがよく知った名前だったので、リルは目を見開いた。
「……マル=シレスを知っているのか」
「ええ」
当然のような頷きに、驚きはあったが、心の何処かで、やはり、と感じている自分もいた。
道化が、地上の尺度に収まるような存在ではないとは、薄々理解していた。
「マル、ずっとあなたの話ばっかりするのよ。今日はリルが怒った。今日はリルが間違えた。今日はリルがちゃんと見ていた。今日はリルが嫌なことを言った、って」
目の前の存在が微笑んでマル=シレスを語る様子は、まるで自分の子や知己を自慢するような世俗的なものだった。それになんとも言えない居心地の悪さを感じる。
今すぐ戻るべきだった。
それはわかっていた。
だが、白い糸は確かに毒をほどいている。戻ったところで、まだ策はない。
そして何より、マルの名がこの部屋であまりにも自然に出たことを、聞き流せなかった。
「……俺はあいつのなんなんだ」
「おもちゃ?」
「おまえ」
「えっ。あっ。マルだからね? あくまでマルがそう思っていそうってだけで。わたしはあなたのことそんなふうに見てないから、あっでもかわいいとは思ってるけど、そうじゃなくて」
わたわたと手を振り、釈明を行う少女に、大きくため息を付いた。
「調子が狂う」
「?」
「おまえのような者でも、俺ごときの言葉にいちいち慌てるのだな」
「それの何がおかしいのかしら?」
少女は首を傾げる。
「わたしが変わらないように見えるのかしら。見るということを、関わるということを選んで。まったくの無傷でいられると思う?」
リルは絶句した。
目の前の少女の答えに呆れたわけではない。
「もう治った。戻る」
「え」
リルは立ち上がった。毒は癒えていた。
少女は目をぱちくりとさせたが、リルの瞳を見て、小さく頷く。もう引き止めはしなかった。
「わかった。あっちよ」
少女の指さすほうに、戸が開いていた。
そこに向かえば戻れることを、リルは理屈でなく理解した。
しかしそこに足を踏み入れる直前で、止まる。
身体を半分だけ振り向かせた。
「おまえは……ヴェルオールなのか?」
訊くべきことなのかはわからなかった。
だが、気づかなかった振りもできなかった。
少女は目を丸くした。
それから、嬉しそうに、しかし困ったように笑った。
「ううん。わたしはオル=ヴェガ。オルって呼んでくれたら、嬉しい」
神殿の経文や王家の神話に刻まれた名ではない。
それを呼べば、何かを受け取ってしまう気がした。あるいは、何かを奪ってしまう気がした。
「……覚えておく」
「うん」
少女──オル=ヴェガは、はにかんだ。
「また、お話しましょうね」
その言葉を最後に、白い部屋が遠ざかった。
*
リルが目を開いて最初に見たのは、座り込んで自分を見下ろすマル=シレスの顔だった。
道化は涼しげな笑みを貼りつけていたが、髪は乱れ、頬には泥が跳ね、白い手袋は指先まで黒く湿っていた。ティンドレットの路地でレネヴェグに甚振られていたときよりも、汚れているように見えた。
さっきまで見ていた光景が清潔な部屋だったからか、その落差にリルは一瞬だけ目を奪われた。
「リル様」
マルの声は、いつも通りだった。ただ、息を吐く仕草に、安堵のようなものを見て取れた。
次第に、ぼやけていた視界が像を結ぶ。
白い部屋の暖かな香りが、まだ鼻の奥に残っていた。
それはすぐに吐瀉物と土と血の臭いにとってかわる。
どちらも夢ではなかった。
白い部屋の温度は、もう皮膚の奥にしか残っていない。柔らかな布の白も、光の糸も、少女の声も、すべて遠い。
ふらつきながらも身を起こす。
世界は答えを持たない。
地獄に、出口などないのかもしれない。
積み上げた石は、いずれ崩されるだけなのかもしれない。
それでも、まだ、止まれない。
答えを持たないまま、なお縫い続ける者がいた。
「マル、仕事がある」
「おや、目覚めて第一声がそれとは人使いの荒い。まず私めの涙ぐましい看病をお褒めいただいても──」
「毒を追うな」
リルの掠れた声に、マルはまばたきを一つする。
「向こうが、見ている。触っている。その手を探せ。掴め」
マル=シレスは、一瞬だけ黙った。
それから、リルの言葉を噛み砕くように目を細め、深く一礼した。
鈴の音は鳴らなかった。
「承知いたしました。屋根に手を伸ばしましょう」




