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#18 祈るな

【直接的な残酷描写はありませんが、精神に負担が生じうる描写があります】

 クド=キルマという男がいる。

 彼は、毒に惹かれていた。


 毒は、身体が身体であることを露わにする。

 喉が閉じる。血が固まる。熱が上がる。息が浅くなる。

 人が当たり前に使っている身体の手順が、ひとつずつ剥き出しになる。彼はそれが恐ろしく、同時に美しいと思った。


 だが、毒術師(公式の書面では清潔に呼び替えた別の名があるが、それも結局蔑称になっているので、あまり意味はない)は王家軍に必要とされながら、尊ばれることはなかった。必要にならない方がよい職能だったからだ。


 日頃のクドは“安く使える治療術師”として、腹を下した兵に薬湯を飲ませ、矢毒で腫れた指を洗い、腐った肉を切り落とす許可を出していた。隣で似た仕事をしている公認治療術師の給金は倍以上だった。違いは推薦状と神殿認可代と、実習期間を食いつなげる家の太さだった。


 それでも、クドは妻を迎えたばかりで、冬までに屋根を直さなければならなかった。


 *


 橋奪取の翌日の昼。


 最初は、炊き出しの列に加わっていた老婆だった。


 粥を啜って、喉に引っかけたような、濁った咳をしていた。

 ジャドが振り返る。


「慌てて食うからだ。水を——」


 椀が落ち、粥が土に広がり、湯気が、白く立った。

 老婆は喉を押さえた。口を開く。声が出ない。目だけが大きく見開かれていた。


 次に子供の膝が折れた。ピートが腕を伸ばす。抱き止める。子供の口元から、粥と唾液が細く垂れた。


「ねえ、どうしたの」

 ピートの声は、ひどく小さかった。


「……粥を下げてください」


 フェリペが帳面を閉じて告げるが、とっさに誰も動けなかった。


「……粥を下げて! 水桶に触るな! 椀を戻すな、置け! 食べた者と食べてないものを分けて!」


 鍋の周囲が一気に崩れた。

 椀を捨てる者。子供を抱える者。井戸へ走ろうとする者。自分の喉を押さえる者。祈り札(ヴォート)を握る者。女神の名を呼ぶ者。


 トルカが人垣を割った。


「道を空けろ。倒れた者を抱き上げるな。寝かせろ。水を……」

「水は持ってこないで!」


 フェリペが叫んだ。


「そっちが汚された可能性もある。井戸を封じてください。今すぐ。誰も近づけないように」


 ユーレンスはすでに走っていた。井戸の縁に膝をつき、白い札を三枚、石に押し当てる。


白手(ヴェルオール)の御名において、ここを閉じます。水よ、今は喉へ向かうな」


 井戸の周囲に薄い光が立った。石畳の隙間に白い線が走る。神殿の結界術だった。

 バルトロメアが老婆の顎を上げた。瞼をめくり舌を見て喉に指を当てる。


「喉です。痙攣。呼吸が浅い。粥か水」

「毒か」


 リルの声がした。

 彼は中庭の入口に立っていた。周囲の兵が一歩退く。


「まだ断定できませんわ」


 バルトロメアは老婆の胸を押さえた。


「ですが、食べた者から倒れています。水も疑うべきです」

「フェリペ」

「配給停止済み。井戸水使用の鍋、薬湯、水桶を全部分けます。触った者も分けます」

「トルカ」

「人を動かす。騒ぐ奴は殴る」


 マル=シレスは、老婆の横にしゃがんだ。


「おやおや。食卓の礼儀としては、少々賑やかすぎますね」

「マル、治せ」

「はい、リル様」


 マルが指を当てると、老婆の喉が、ひくりと震える。


「喉でございますね。毒というより、水の行儀が悪い。喉を通るものではなく喉を閉じるものとして振る舞っております。たいへん反抗期でございます」


 喉の上を撫でた。


「水は流れるもの。喉は通すもの。粥は腹に落ちるもの……」


 老婆が息を吸った。

 ひゅう、と細い音がした。次いで咳。粥が口端からこぼれる。バルトロメアが素早く横を向かせた。

 誰かが安堵の声を漏らした。

 だが、すぐに別の場所で悲鳴が上がった。


「助けてくれ! 粥は食ってないんだ!」


 若い兵が、自分の腕を押さえていた。袖の下から、古い傷跡が黒く浮き上がっている。竜の爪でも剣傷でもない。半月ほど前の、もう塞がったはずの切り傷だった。

 バルトロメアの顔色が変わった。

 包帯を剥がす。傷は閉じている。閉じているはずなのに、その下で黒い線が脈を打っていた。


「水ではありません」

 バルトロメアが言った。

「傷です。いいえ、傷でもない。……治療痕?」


 ユーレンスが井戸から振り返った。

 彼女は記録札(ログ・タリス)を起動していた。薄い札の表面に細い文字が走っている。井戸封止後、未飲水者に発症。神殿中和術、井戸周辺に効力あり。負傷者の治療痕へ転移の疑い。


「転移? 毒が動いているのか?」


 リルが問う。

 バルトロメアは黒くなった傷を見下ろした。


「違いますわ。毒が動いているのではありません。()()()()()()を、変えられています」


 次に別の兵が祈り札を握りしめて倒れた。

 白い札が胸に押し当てられている。唇が動く。女神の名を呼ぼうとしている。だが声は出ない。喉が閉じていた。

 それを見ていたアンドレイの顔から、血の気が引いた。


「……札?」


 彼は自分の手の中に残っていた札を見た。

 白い紙片。紐。折り目。祈り文。

 自分が配ったものだった。


「祈るな」


 その声は最初誰にも届かないものだったが、次は叫びになった。


「……祈るな! 札を捨てろ! 女神様の名を呼ぶな!」


 中庭が凍りつく。

 僧侶崩れのアンドレイが、祈るなと叫んでいた。誰もそれを笑えない。

 ヨハンは、札の紐を見て青ざめていた。同じだった。やはり同じだった。


「これは、井戸毒ではないな」

 リルは、息を短く吐いた。

「はい」

 ユーレンスが答えた。彼女は記録札から目を離さなかった。

「井戸、施療、祈り札、傷病者。ここに触れるのは戦場誓則違反です」

「外法か」

「いえ」

 テオが歯噛みしている。彼も駆けつけ、倒れた者の一人を診ていた。

「定義をぎりぎり壊してはいません。約定術の範疇の中で定義を最大限拡大解釈している。……外法よりも腹が立つ一般約定術があるとは思わなかった」


 ──どこの誰だ、こんな陰湿な術師は。

 テオは思わず天を仰いだ。


 *


 旧巡礼宿から離れた、王家軍後方の廃礼拝堂。

 床には水路図が広げられていた。旧巡礼宿の井戸、施療室、礼拝室、物資庫、捕虜置き場。細い線がそれらを結び、中央の水盤へ集まっている。


 その、水盤の一角の細い線が白く抜けた。


「第六井戸系、消失」

 そう報告した若い術師、クド=キルマの声はわずかに上ずっていた。

「喉へ結んだ毒の約定がほどかれています」

「そんな、あっさり」

「早すぎる……!」

「これが犬星か……」


 ざわめく術師たちの中心に立つ黒衣の男が、濡れた指先を唇に当てた。


「ええ。ですから、一つでは足りないのです」


 彼は嬉しそうに笑って、水盤の別の線へ触れた。


「喉をほどかれたなら、次は傷へ」


 王家外法顧問、ミルグリファ。

 今回のリル軍攻略作戦を一任された男の名だった。


 *


 兵の傷跡が、内側から裂けた。

 皮膚が破れたのではない。血が噴いたのでもない。塞がっていたはずの傷が、自分はまだ傷であると思い出したように、黒く沈んだ。


「押さえて」

 バルトロメアが舌打ちした。

 近くにいた兵が直接身体に触ろうとして、触るなというトルカの制止の声が飛ぶ。

 バルトロメアは自分の袖を噛んで裂き、布を巻いた。だが、布が触れた瞬間、黒い染みが包帯へ移った。

 ユーレンスの記録札に文字が走る。


「施療痕より包帯へ毒性足場移行。神殿中和術、局所効力あり。持続せず」

「記録している場合か」

 誰かが怒鳴った。ユーレンスは顔を上げなかった。

「記録している場合です。これが何で、何を使い、何を破っているのか。残さなければ、次にまた使われます」


「では、包帯には少々、お行儀よくしていただきましょう。布は布。傷は傷。毒の案内係ではございません」

 マル=シレスが、兵の腕に手を伸ばした。

 指が包帯を撫でる。黒い染みが抜けた。兵が息を吐く。バルトロメアが即座に傷を押さえ直す。


「次だ。次の発症者を」

 リルが号令を飛ばす。

「フェリペ、印をつけろ。食事、水、札、怪我、接触。経路を全部分ける」

「分類札が足りません」

「布でも紐でも髪でもいい。分かればいい。それから救命優先も決めろ」

「ではそちらは色で。赤は今すぐ。黄は待機。白は歩ける者。黒は動かさない者」

「呼吸が浅い者は赤。声が出て歩ける者は白。迷ったらわたくしに回してくださいませ」

「やれ」


 フェリペは頷き、帳面を抱えて走った。


「トルカ。礼拝室と施療室を分けろ。捕虜置き場も切り離せ。動線を一つにするな!」

「承知」

「ケナス。発症者と未発症者を分けろ。縋る奴を剥がせ。恨まれてこい」

 ケナスはすでに、祈り札を握ったまま倒れた男から、その妻を引き剥がしていた。

「はいはい。恨まれるのは慣れてますよ。どうせ普段から好かれてねえしな」

 ケナスは女の腕を掴み、乱暴に引いた。女の肩が柱にぶつかる。

「ケナス、乱暴に扱えとは言ってない!」

「はい、すみませんでした。……ったくよ、飯と井戸と怪我人を一箇所に集めりゃ、こうなるって、わかるでしょうが」

「え、じゃあなんで言ってくれなかったんですか、ケナスさん」

 ケナスの言い草に、ワヌレイは表情を歪めていた。

「言えますか? 若様が一生懸命救済してらっしゃるときに。最初は一晩だけだったんですよねえ。次は怪我人だけ。次は子供のいる家だけ。次は橋市から逃げてきた奴だけ。で、気づいたら恰好の的の出来上がりってわけだ」

「……ケナスさん!」

「うるせえ! それに付き合わされて身体張らされてんのはこっちなんだよ! これぐらい言わせろ!」


 リルは、先日すでにフェリペから似たような具申を受けていた。方針を転換するつもりはあったが、その直前に毒が来た。などと釈明をしたところで現状が変わるわけでもないので、リルもフェリペも黙っていた。

 ワヌレイが反論の言葉を探しあぐねていると、ともに働いていたワヌレイ隊の若い兵が倒れた。


「……ティシータ!」

 ワヌレイは、すべてを忘れたように駆け寄った。膝をつく。名を呼んで抱き起こそうとする。


「触るな泣き女!」


 ケナスが怒鳴ったがワヌレイは聞かなかった。若い兵の肩に手をかける。兵の唇が紫に変わっていた。


「ワヌレイ、隊長」

 震えた部下──ティシータの声。


「自分、ワヌレイ、隊長と、いっしょに、戦って死ねるなら、……、リル様の盾になれるなら、でも、こんな……」


 刃で死ぬのだと、矢で胸を抜かれて死ぬのだと思っていた。盾を構え、誰かの前に立ち、せめて何かを防いで死ぬのだと。

 (ごみ)のように意味もなく死ぬなんて思ってなかった。数の一つにされて無造作に殺されるなんて思ってなかった。

 こんな死に方は嫌だ。

 そこまで言葉にすることができなかった。


 戦場では死に方を選べない。

 似たような意味の言葉をワヌレイもさんざ聞かされていた。それが、こんなに残酷な意味だとは知らなかった。


「バルトロメアさん、この子、まだ息してます。助けてください。この子ワヌレイの隊の子なんです。さっきまで、普通に、普通に喋って」

「手を離して」

「だって、この子、まだ」

「離しなさい!」


 ワヌレイの手が震えた。

 バルトロメアはその隙に兵の顎を上げ、喉を見る。


「喉ではありません。札でもない。これは……」


 ティシータの胸元には、ワヌレイが結んでやった隊の布紐があり、それが黒ずんでいた。


「所属の印へ移っています」

「祈り札より部隊識別布へ。対象の所属意識を足場にした可能性」

 ユーレンスの記録札がまた走る。


「所属って。──あたしのせいですか」

 ワヌレイの声が裏返っていた。


「違う。毒を仕掛けた者のせいだ」

 リルが否定した。

「でも、これ、あたしの」

「違うと言っている!」

 リルの声は強かった。だが、その強さがワヌレイを震わせることがあっても、支えはしなかった。さまよう視線がやがてマルへと向く。


「戻してくださいよ。橋市で、やったじゃないですか。壊れたのも、倒れたのも、戻したじゃないですか。なら、これも戻してくださいよ。ここを、さっきに」


 マルは別の兵の喉から指を離した。兵が荒く息を吸う。


「できません」

「嘘だ。できるくせに。だって、前はできた。皆、見てました。橋市で、あんなに」

「ワヌレイ」

「やってくださいよ。戻してくださいよ。マルさんならできるんでしょう。いつもみたいに、ふざけて、変なこと言って、なんとかしてくださいよ」


 ワヌレイに袖を掴まれたまま、マルは淡く笑みの形を保っていた。もしくは、口元を小さく歪めたまま硬直させていた。


「雨漏りの床を拭くようなものでございます。屋根に穴が空いたままなら、拭いた床はすぐ濡れます」

「でも戻せるんでしょう」

「あのような芸は、猶予を与えるだけでございます。いまは毒が、まだ向こうの舞台袖から投げ込まれ続けております。戻した端から、また次が参ります」

「それにまとめて戻せたとしても、毒だけじゃなく、今やっている治療も戻ります。止めた血も、吐かせた毒も、封じた井戸も、分けた人垣も」


 テオが補足した。声が掠れていた。彼もまた床に膝をつき、黒く湿った包帯を見ていた。


「そもそも、毒をいっぺんに止めることって、できないんですか。鎧をいっぺんに重くしたみたいに」

「ワヌレイさん。これは厳密には毒物じゃない。これは、毒として振る舞う約定です」

「それの何が……」

「水は、“喉へ毒を運ぶもの”に。傷は、“外から内へ入る門”に。包帯は、“傷と毒を結ぶもの”に。祈り札は、“名と身体を結ぶもの”にされている。毒物を押し付けてるわけじゃなくて、ひとつひとつ解釈をいじって、あたかも毒のように振る舞わせてる」

「だから、いっぺんに消せないんですか」

「いっぺんに触ることはできます。たぶん、マル=シレスなら。でも安全に括れない。鎧や兜や槍なら、“装備”で括れた。でも今回は、水も傷も包帯も札も、人を救うためにも使っている。毒を運ぶものと人を救うものが同じ経路を通ってる」

「……」

「まとめて剥がせば、毒だけじゃなく、止血、封止、治療のすべてが消えるかもしれません」

「でも、ひとつひとつなら消せるんですよね」

「ええ。今もマル=シレスがやっている。ですが、向こうが見ている。水を消せば傷へ、傷を閉じれば包帯へ逃がされる」

「たいへん優秀。ですが、もう少し楽しい場で発表していただきたかったですね」

 マル=シレスは、皮肉げに口元を歪めた。


「じゃあ、どうするんですか!」

「救えるところから救う。毒が移る前に切る。泣いてる暇がある奴は札を集めろ」

「トルカさん」

「ワヌレイ。泣くなら歩きながら泣け」

「泣き女。こっち来い。札を持ってる奴を分ける。優しくすんな。優しくすると触る」

 ケナスが乱暴に言う。

「ワヌレイに、できるわけ」

「できるから言ってんだよ。おまえ、そういう時だけは妙に使えるだろ」


 ワヌレイは絶句する。一度がくりと、全身から力が抜ける。

 倒れも座り込みもしない。一度身体が跳ねる。

 表情が嘘のように冷える。


「札を持っている人は壁際へ」


 短剣を抜く。


「札を持っている人は壁際へ。

 触らないで。

 渡さなくていい。

 自分で床に置いて、

 離れてください。

 白は壁際へ。黄は座って。赤は施療室。

 次。一、二、三、四。

 触らないで。踏まないで。

 避けて。そこを通らないでください。

 次。置いて。

 置いてください。

 指を開いて。離れて。

 次。動きます。切ります。

 動かないで。離れて。

 触らないで。自分で置いて。

 離れて。次。はい」

 

 このようにして働いていたときのことをワヌレイはあまり覚えていない。

 助けを求める声を聞きながら、倒れた誰かをまたぎ、毒の足場にされた包帯や札を刃で切り、親と子を引き剥がしたりしたことは覚えている。


 *


「……ミルグリファ閣下。これ、このまま続けてよいのですか」


 クド=キルマは、恐る恐る具申した。

 交代で小休止に入っていたときだった。

 水質術師が塩漬け肉を薬草茶で流し込んでいるのが、視界の端に見えた。よく食欲があるな、とクドは思った。

 妻が朝、丁寧に結び直してくれた昼食の包みは手つかずだった。黒洋餅(パン)と硬いチーズ、干し林檎。そして隅には砂糖菓子がひとつ。せめてそれだけでも口に入れておくべきかもしれない。


「おや。人選がですか。毒術を専門に扱える者が、四人どころか君ひとりだった件については、ええ、心苦しく思っています。君には少々重い役をお願いしている」

「そうではなくて。いえそれもあるんですけど。さっきから、その、対象が、……兵では、ないような」


 ミルグリファの言う通り、他の面子は水質術師だの結界補助だの限りなく毒の素人に近い連中だ。毒の行き先を、どこまでわかっているかも怪しい。だから自分が言う必要があった。

 偵察兼後方撹乱。

 反逆軍の負傷兵と拠点機能を弱らせ、犬星の外法対応を観測する。前線に立つわけではなく、報奨金は通常任務の三倍。

 クドはそれで志願した。

 妻には、後方の薬務だと説明していた。

 嘘のつもりはなかった。


「ああ、それですか。民間人を対象外に置けるほど、リル=グレス卿の拠点は整理されていません。これは向こうの責任ですね。むしろ、民間人を盾にされているとすら受け取ることもできる」

「え? あ……」

「ほら、術がほころんでいますよ。君が頼りなのですから。集中してください」

「え、あ、は、はい」


 上官にあまりにも滑らかに戦場誓則を無視されたので、クドは、自分の方が作戦を理解していないのだと思いこまされた。

 そういうものなのかもしれない。そう思った時には、もう手を戻していた。

 誓則破りの線は、彼の指の下でつながり続けていた。


 *


「搬送役の方はこちらに! 触れたものを、そのまま身体へ入れないための術です」

「防げるんすか、これ」

 ヨハンの手首に、ユーレンスが白い糸を巻いていた。

「いえ。ただ遅らせることはできます」

「はは、正直すぎません? ……聞かなきゃよかったっす」

 引きつった笑い。


「あなたたちは治療者じゃない。運搬具でもない。触るのは、持ち上げるためだけ。毒を受け取る役じゃない」

 さらに隣ではテオもディエゴの掌に印を結び、予防の約定をかけていた。敵の毒に媒介にされないためである。

「た、助かるぜ。……で、どうなんだこれは。効くのかよ」

「……おそらくは」

「そりゃ心強え。じゃ、死ぬまでに若様の役に立たねえとな」

 ディエゴはから笑いした。


「テオ。いつの間に連中はこんなに多様な毒を仕掛けたんだ。マルのような手順を踏み越える術師でもいたということなのか」

 リルはユーレンスに糸を交換してもらいながら、テオに問うた。一度巻かれた白糸は、すでに半ばまで黒く湿っていた。

「ありえないとは言いませんが、即興で組める数ではありません。おそらく数日……いえ、もっとかけて準備していたのでしょう。水、傷、薬草、包帯、祈り札、捕虜、治療痕のすべてに仕込むのは時間がかかります」

「どう仕込んだ」

「負けながら仕込んでいたんです。橋を失って、街を失って、こちらに人が集まるのを見ながら。井戸へ、札へ、捕虜へ、施療の手順へ、少しずつ約定を結んでいた」

「そんなことができるのか」

「できます。準備と記録があり、こちらを観察していれば」


 テオは、箱にまとめて廃棄された祈り札の束を見た。


「そして、こちらは勝っていた。だから、同じ手順を繰り返した。配給して、治療して、人を集めた。その繰り返しが、向こうには目印になった」


 リルは足元が傾くような感覚を覚えた。


「わざと負けていたのか。毒を仕込むために」

「……いえ、だとしたらその気配にリル殿が気づいたでしょう」

 ユーレンスが否定した。

「王家は本気だった。本気で()()()に交戦して──それでも勝てないときのために、布石を置いた。そして今日、それが発火した」


 *


 屋根の上で、サイモンは矢を放ち続けていた。敵を殺すためではない。水桶、封鎖線。行ってはならない場所へ向かう者を、足元の矢で止めるためだった。


 しかし十本目を射ったところで、矢は桶ではなく、桶を持つ男の袖を裂いた。

 男が悲鳴を上げる。

 放つ指が狂っていた。


「サイモン! もういい!」

 トルカの指示が聞こえて、サイモンは弓を下ろした。だが、その指先は白かった。弓弦を掴む形のまま、こわばっている。

 地上に刺さった矢羽の根元が、黒く湿っていた。


「……触れてないのに。矢まで媒介に……?」

 フェリペが顔をしかめた。

「正確には、止めたという来歴(ヒストリア)まで約定に乗っ取られたんでしょう。くそっ。それも駄目なのかよ」

 テオが悔しそうに地面を靴裏で叩いた。


「……実に礼儀知らずの毒でございますね。徹底していらっしゃる」

 マルのその声には、ほんのわずかに感嘆が混じっていた。

 リルはそれを聞き逃さなかった。


「おい、楽しむな」

「まさか」


 マルは白い指で、別の兵の腕から黒い筋を抜き取った。


「ただ、皆さま、たいへん勤勉でいらっしゃる。数百年もあれば、術師諸氏もずいぶん手癖が悪くなるものですね」

「褒めているのか」

「はい。たいへん、不愉快ながら」


 マル=シレスが触れた水は澄み、塞いだ傷は閉じていく。

 しかし数が──意味が多い。

 水。傷。血。肺。薬草。包帯。清めの水。結界の外縁。治療されたという来歴。

 それぞれが、別々の毒として、別々の死に方をリル軍へ差し出してくる。

 ()()()()()

 

「忙しいですね」


 すぐに致命となる毒ではないのは、軍全体を消耗させる狙いもあるだろう。

 だがそれ以上に、測るような意図を感じる。

 そう、標本を見るかのような視線を。


 ピートが倒れた。運ぼうとしていた子供を落とさないように、ピートは自分の身体を下にした。背中が土に叩きつけられる。子供は彼の胸の上で小さく跳ね、鳥の玩具を握ったまま、浅く息をした。


 粥を作っていた老婆の身体を支えようとしていたジャドが急に口をきけなくなって、横に倒れた。指が、震えながら土を掻いた。


 ケナスが、妻を抱き起こそうと泣き叫ぶ男を引き剥がそうとして、片膝をついた指に力が入らなくなって座り込んだ。


 ワヌレイは男の腕を掴み男の膝裏を蹴った。男が崩れる。その手から倒れた女の袖が離れた。ワヌレイは自分が何をしたのかを見た。

 そして次の男へ向かった。


 区画線が引かれ、札は箱に閉じ込められ、桶が倒され、泣く者が壁際へ押しやられ、施療室は満ち、礼拝室は封じられ、それでも毒は止まらなかった。


「そこを閉めろ。水桶を寄せるな。担架を戻すな。戻した担架が毒になる」


 トルカは剣を杖にし、まだ立って指示を出していた。

 声が荒くなる。息が浅い。


「フェリペ、残りの担架は」

「八」

「人手は」

「足りません」

「いつも通りだ」


 トルカは笑った。笑ったつもりだった。


「フェリペ。指揮を補え」

 リルは歯噛みしていた。

「無理です。数字でなら」

「数字でいい」

「発症者、確認分二十九。重篤八。死亡……わかりません」


 フェリペの手も震えていた。だが帳面は落とさなかった。

 筆を動かしながら、頭はほとんど勝手に全然別のことを考え始める。

 ──毒と帳面、あるいは集団発症(アウトブレイク)事案における兵站担当者の華麗なる生存記録。

「くそっ」

 何が華麗だ。しかもまだ生存できてない。


 そして、リルの喉に違和感が走った。

 最初は、乾きだと思った。

 次に、痺れだとわかった。

 舌の奥が重い。指先が冷える。息を吸うと、喉の奥に細い針が触れたような痛みがある。たたらを踏む。

 マルが振り向いた。犬耳がわずかに動いていた。


「リル様」

「触るな」


 リルが鋭く拒んで、伸ばされかけていたマルの指が止まった。


「軽い。向こうを先にしろ」

「いえリル様はたいへん重うございますよ。責任とか、罪とか、無駄に」

「若様、治療を受けてください」

 フェリペが帳面から顔を上げて加勢する。

「指揮系統が落ちます。あなたは今いちばん消耗させられない資源です」

「たいへん不敬ながら、私めも同意いたします。リル様は貴重品ですので、湿気と毒にはお気をつけいただきたく」

「俺を治している間に人が死ぬ」

「若様が倒れれば、その後、十人死にます」

「やめろ。こんな議論に時間を使うな。俺はまだ命令できる。命令できるうちは、他を先にしろ。マル。命令だ。行け!」


 唾を飛ばして叫ぶリルに、マルは氷のような笑みを貼り付けて、命令を守った。


「……承知いたしました」


 *


 遠く、廃礼拝堂の水盤で、細い線が震えた。


「リル=グレスに届きました」


 クドは水盤を覗き込んで言った。

 線は細い。だが確かに中央へ伸びている。指揮官の反応。周囲の線が、そこへ集まり、そこからまた散っている。リル=グレスは毒を受けながら、なお指示を出している。さっきからずっと、こっちの毒を消し続けている犬星。その忌々しい外法もなぜか離れた。やれる。勝てる。俺の毒が犬星を越えた。クドは拳を握っていた。


「今なら、線を太くすれば、確実に!」

「死にますね」

「は、はい。ですから」

「いけません」


 意味がわからなかった。

 敵の反応を観測し、指揮系統を撹乱し、可能なら反逆軍主導者を無力化する。

 それが作戦目的だったはずだ。


「殺すのでは、ないのですか」

「いいですか、クド君。殺してしまえば、そこで終わりです」


 まるで幼子に食器の持ち方を教えるように言って、ミルグリファは水盤を覗き込んだ。


「いえ、終わるなら、それで得られる観測もありますが……まだ見られるものはたくさんあるでしょう。彼が、犬星殿を遠ざけた理由。犬星殿がそれに従った理由。兵が彼を呪った時、彼が何を呪うのか……」

「……閣下。これ以上長引かせては、民間人にさらなる犠牲が」

「ええ。それも彼の反応を見るのに使えます」


 クドの瞳孔が狭まる。

 ようやく、自分が参加しているものの輪郭を見た気がした。

 しかし。なぜ。どうして殺さない。

 どうして終わらせない。

 終わらせられるのに。


 俺は、何をやらされているんだ?


「閣下、我々は、ただの後方撹乱作戦だと聞きました」

「はい。負傷者は弱っています」


 ミルグリファは、微笑んだ。


「たいへん順調ですね」


 *


「おい、なんだよ白って!」


 腕の内側に黒い筋が浮いて、顔を青くした男が、白い布──“優先度低”を結ばれた手首を突き出してバルトロメアに食って掛かっていた。


「ふざけるな。毒だぞ。腕が黒いんだぞ。助ける気がないのか。おれは兵だ。運べる。戦える。まだ役に立つ。なのに後か。あの子供が先か」


 近くでは女が、ぐったりした子供を抱えていた。黄の布──“二番目に優先”をくくられた子供の息は浅い。


「あなたは声も出て歩けるでしょう。待ってください」

「待って死んだらどうする」

「その時は、わたくしの判断です」

「人殺しが!」

 

 彼はトルカに腕を掴まれて引きずられていった。

 それに入れ替わるように、子を抱いた父親がバルトロメアへと駆け寄っていく。自分の子をなんとか優先してほしい、と訴えていた。


「井戸を封じろ。札を集めろ。運べる者から運べ。軽い者は後だ。俺も後だ」


 リルは毒を受けたまま、倒れず、歩き続け、命令を出していた。まだ、声が出て、歩けるから。

 そして、焦燥していた。

 施療所の時に似ていた。だが、あの時とは違う。あの時は、やるべきことをやれば終わった。今回は終わりが見えない。治したそばから毒が形を変える。あちらへ行けばこちらが傾き、こちらへ向かえばあちらが傾く。掌の上で踊らされて、少しずつ追い詰められている。

 全滅。

 その二文字が頭を過ぎる。

 何か。何か策を。

 だが。目の前の命を救わねば。

 指揮を止められない。

 何かにつまづきかける。

 それは倒れた兵の身体だった。

 名は、リルにはまだわからない。

 口元に黒い泡があり、目だけが動いていた。


「……リル、グレ、ス」


 リルは膝をついた。

 兵の声を聞くためではない。膝が、勝手に落ちかけたのだ。それを、意志で途中に留めた。


「おまえが、来なければ」


 兵は言った。


「夢を、見せなければ」


 周囲の音が遠くなる。


「理想の王国があるなんて」


 口端から濁った液が流れ落ちる。


「おまえが、言ったから」


 そうではない。

 と、言い切れれば、どれだけ楽だったか。

 リルたちが来た。王家と争った。

 リル軍が勝ったから、人々はここへ集まった。

 ここなら助かると信じた。

 マルがいたから、王家は外法を恐れ、毒を井戸へ、祈りへ、傷へ流した。

 だからその兵は毒に倒れた。


 ──あなたのご立派な怒りの火に、また誰かを投げ込むおつもりですか。


 道化の言葉が蘇る。

 そうだ。

 俺が。

 俺が殺した。

 俺がこいつらを殺した。

 ふざけるな。


 水を求める声。祈るなと叫ぶ声。女神の名を呼んでしまう声。包帯を裂く音。誰かが吐く音。誰かが死ぬ音。

 なぜ自分たちが死ななければならないのか、知らない者たちの声。

 ただ生きようとしている者たちの声。

 生かそうとしている者たちの声。

 兵の怨嗟の声は、砂嵐のような声たちにかき消される。

 リルは立ち上がろうとした。


 視界が揺れた。

 リル様。リル=グレス。

 誰かが呼んだ。

 誰の声か、わからなかった。

 リルは答えようとした。

 舌が動かなかった。

 それでも、何かの名を呼ぼうとした。

 助けを求めたのではなかった。

 救いを願ったのでもなかった。

 祈ったのでもなかった。

 呪おうとしたのだ。

 王家を。

 毒を。

 毒を作った者を。

 それを許した戦を。

 そして世界を。

 なぜ、このように世界を仕立てた。

 惨めにもがいて無意味に死んでいくのが、楽しいか。

 見ているというのなら、答えろ。

 玉座の背を踏み台にして、その御髪を掴んでやる。

 この地獄の中へ引きずり下ろし、目を逸らすなと命じてやる。


女神ヴェ・ル・オー・ル!」


 その瞬間、足元の感覚がなくなった。


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