#16 旧巡礼宿、あるいは地下怪異風説および閉環針状外痕物確認記録
「宿、ですよね」
「ああ」
ワヌレイは門の前で立ち止まり、口を開けた。宿というには壁が厚かった。
「若様。宿です」
「見ればわかる」
「屋根があります。壁もあります」
「ある」
「井戸も──」
リルは途中から無視した。
ラグティス東旧巡礼宿。
神殿との協定によって、そこがリルたちの新しい拠点になった。
街道から少し外れた丘の上にあり、低い石垣と古い門を持っている。門扉には神殿紋が彫られていたが、その下には削り取られた王家の印も残っていた。祈りの扉は、かつて命令の扉でもあったらしい。
「領主館では客の身分故肩身が狭かったが……ようやく堂々とくつろげるというものであるな」
ジャドは早くも実家気分になっていた。
「豆が入る。塩も入る。矢束も入る。薬草は湿気を避ければいける。良い宿ですね」
フェリペは宿というよりは倉に対する評価を下した。
「古いけど、手入れすれば使えます。西側の雨樋は死んでますけど、屋根はまだ生きてます」
ピートが門の蝶番を見上げた。
そうして門をくぐった兵は、リル麾下十二人だけではなかった。
中庭では、まだ顔と名の一致しない兵たちが荷を下ろし始めていた。ティンドレットから来た者。竜殺しの後に加わった者。神殿の紹介で馬を引いてきた者。
リルの名を呼ぶ声は増えた。そのぶん、リルが名を知らない顔も増えた。
*
旧巡礼宿はある時は宿でありある時は倉でありある時は監視所であり、長い歴史の中で様々な改築が施されていた。中央に古い礼拝室があり、その左右に宿泊部屋が並ぶ。そして厨房と井戸、馬屋、倉。地下へ続く石段は二つあり、一つは厨房近く、もう一つは礼拝室の裏にあった。
歴史ある建物には、怪談もついて回る。
もともと、旧巡礼宿の利用者や守衛の間にまことしやかに流れていた、出所不明の噂だった。
曰く、誰もいないはずの倉で、誰かが荷を留めている。旅の途中で死んだ巡礼者が、今も出立の日を待っている。金属がこすれる音が夜中にする。
話は、夕刻の飯の湯気と一緒に膨らんだ。
鼠の音だと言う者がいた。
古い鎖が鳴るだけだと言う者がいた。
神殿が隠すくらいだから、鼠では済まないと言う者もいた。
「なんなんですかなんでようやくワヌレイたちの屋根が手に入ったのに早速こういう話で盛り上がるんですかワヌレイもう帰りたいですここが帰る場所なんですけど」
ワヌレイは、夕食の豆を匙ですくったまま小刻みに震えていた。
「え、多分建付けが悪いとかで異音が出てるだけですよね?」
ピートは冷静だった。
「旧い建物にはよくある噂だ。風で木が鳴ったり鼠が鳴いたりするのを、暇な兵士が怪談にしてるだけだろ」
トルカは気にしていないようだった。
「霊がいるってんなら、若様に威光を振りかざしてもらって成仏させりゃいいだろ。坊主の祈りよりも効果がありそうだ」
ケナスは全方面に失礼だった。
「まったくだ。どんなお化けがいようと若様の敵じゃねえ!」
ディエゴはわかっていなかった。
「馬鹿じゃねえの。いちいち怨霊なんかに怯えてたら王家兵なんて殺せるかよ」
レビは呆れたそぶりを見せていた。
「そうそう。生きてる人間のほうがお化けなんかよりよっぽど怖いっすよ」
ヨハンはへらへらと笑っていた。
「猥談で霊が散るという俗信を試す機会かもしれぬな」
ジャドは凛々しげな顔でろくでもないことを言っていた。
「幽霊? くだらない……」
テオは、ここにいる全員を一度ずつ見てから、深く息を吐いた。
「おや、テオ殿は霊を信じぬ立場でござるか」
「無知を情緒で飾るなと言っているのです。未確認の音響現象、残留約定、土地来歴の反響、死者儀礼の不全、いずれもありえるから、お化けや幽霊などという簡単な語でくくるのは──」
ジャドは途中からその話を聞いていなかった。
「……」
サイモンは黙々と食事を続けていた。
「サイモンさんは怖くないんですか? お化け」
ワヌレイはそっとその様子を覗き込んだ。
「命令があれば撃つ」
「お化けを!?」
「怖がれという命令があるなら怖がる」
「怖がるってそういうものじゃないと思うんですけど」
「実に端正な恐怖管理でございます。サイモン様の心には、幽霊も上官印を持って出直す必要がございますね」
「この隊、お化けより怖い人が多すぎるかもです」
「地下に怪異が出る。これはもう、肝試し、もとい探索調査しかありませんわね」
バルトロメアが妙に生き生きとしていた。
「楽しもうとするな、バルトロメア」
「リル様。人命に関わらない恐怖なんて、最高の娯楽ですわ」
「言い方を考えろ」
「健全な精神刺激ですわ」
「悪化している」
「ええ、行く気なんですかバルトロメアさん……ワヌレイは行きませんからね」
「ワヌレイ、ご安心なさいな。失神、過呼吸、転倒、軽度の打撲、恐怖による泣きじゃくりまで対応いたしますわ」
「最後のそれ名指しですよね?」
「リル様。地下倉の番号が一つ飛んでいます」
噂の盛り上がりには混ざらず、フェリペが台帳を手にリルに近づいた。
「一号から七号まであるのですが、四号がありません」
「改築かなにかで、なくなっただけではないか?」
「改築や欠番ならそう記載があるはずです。それがないのは倉管理への侮辱でしょう」
リルは豆の皿を置いた。
「確かに看過できんな。見にいくか」
「やったですわ」
「ええ~~~ん」
バルトロメアがぐっと拳を握り、ワヌレイが震えた。
「では拙僧も行きますぞ。怪談は早めに潰した方がいい。放っておくと、巡礼宿の地下に女神様の声がするとか言い出す人が出ます」
アンドレイも腰を上げた。
「たいへん信心深いではございませんか」
マルが楽しそうに目を細めた。
「そういう信心が一番面倒なんですよ。何にせよ形を把握したほうがいいですな。うまくすれば名物として運用できるかもしれません。札を売るとか」
「売るなよ」リルが釘を差した。
「はい、売りません」
*
食事を終えたあと、リルは礼拝室の裏にある下り階段へと向かった。その背後にぞろぞろとついてくる暇そうな集団を見て、軍規を考え直したほうがいいのかもしれんなとリルは思った。
「お待ちください」
そこに現れたのはユーレンスだった。
「神殿管理の封鎖区画があります。リル=グレス殿の使用許可範囲には含まれません」
階段には、神殿の封蝋が下がる古い鎖が渡されている。しかもその封蝋は新しい。つまり、この宿がリル軍に渡される前に、わざわざ封じ直されたということを意味する。
「……神殿管理」
ついてきた暇人の一人であるワヌレイの顔から血の気が引いている。
声から先程までの騒がしさが一瞬消えた。
「若様。これ、もう肝試しじゃありませんよね」
「最初から調査だ」
「違いますそういう意味じゃなくて神殿が封じてる地下ってもう本物じゃないですか書類で管理されてるお化けは本当に人が死ぬ、死ぬやつです、帰りましょう若様」
「確認させろ。俺の兵を置く建物だ。知らぬ区画は置けない」
ワヌレイを無視して、リルはユーレンスに詰め寄った。
「知らずに済む区画もあります」
「それは神殿の言い分か」
「現場の言い分です」
しばらく睨み合っていたが、ユーレンスのほうが先に折れた。
「わかりました。ただし私も同行します」
*
地下の空気は冷たかった。
石段を降りるたび、旧巡礼宿の賑わいは遠ざかっていった。上では兵が荷を運び、鍋が鳴り、誰かが寝床の取り合いで文句を言っている。その音が一段ごとに薄くなり、代わりに水の匂いと古い石の匂いが濃くなった。
「一号。二号。三号」
フェリペは灯火札を掲げ、壁の番号を読んでいた。「今だけ明かりである」と約束された約定具である。他の全員にもこれがフェリペによって支給されている。高級品ではないが、雨のなかを敗走していた頃はこれ一枚あれば奪い合いになっただろう。
ついでに、一応心霊案件という名目でアンドレイによって祈り札も配られていた。白い小さな紙に白い掌の紋が刷られている。
「め、女神様の加護ですか。これがあればお化けは怖くないってことですね」
「そう、ありがたい、神殿に認可された……気休めですぞ、ワヌレイ殿」
「気休め!?」
工兵見習いのピートが手を触れ、蝶番を確かめる。
「三号倉の扉の鍵は錆びてますね。でも直せば使えます」
「四号は」
リルが問い、フェリペは灯火札を奥へ向けた。
廊下の先には壁があった。
「ありませんね。いや、ないようにされています」
実際には、壁に見えるように塞がれた扉があった。周囲の石と色が少し違う。神殿紋の小さな封が四つ、石の継ぎ目に貼られている。鎖はない。扉の取っ手もない。
その時だった。かちり。とどこかで音をした。
「ひっ」
ワヌレイが息を呑み、近くにいたジャドの腕にしがみついていた。
「ワヌレイ殿……」
「すみません無理です今だけです今だけですから」
「構わぬが、剣を抜く腕を塞ぐな」
「じゃ、じゃあどこにしがみつけば」
「胸」
「胸!?」
「冗談である」
「ワヌレイ、素晴らしい反射ですわ。恐怖時に最も安全と思われる対象へ即座に接近する。生存本能としてたいへん正しいですわ~。心拍も上がっておりますわ~」
「分析しないで……」
「それで、ユーレンス。ここは何だ」
リルの問いにユーレンスは答えない。
「ここは何だ、と聞いている」
「神殿管理の封鎖区画です」
二度目の問いに、ユーレンスは封を見た。
「四号倉か。なぜ受領書に書かなかった」
「使用許可範囲外だからです」
「知らないほうがいいとでも言うつもりか」
「……知ったせいで危険になるものもあります」
「神殿は便利な言い回しに詳しいな」
リルの視線が鋭くなる。
ユーレンスは否定しなかった。
「ですが、常に間違っているわけではありません」
リルは、マル=シレスが、笑おうとしてやめるのを見た。
「開ける。ピート、できるな」
「リル殿」
「俺はここを拠点として受け取った。知らぬ区画は置けない。危険なら記録する。封じるなら、封じる理由も記録する」
*
ピートの工作により、しばらくして、石が外された。
隙間から、冷たい空気が漏れた。
腐臭も、血の匂いも死者の気配もない。
灯りを入れる。
「…………?」
最初、リルはそれを武器だと思った。
銀色の巨大な線が、地下倉の闇に横たわっていた。
だが、剣ではなかった。槍でも鎖でも門の金具でもない。
針のようだったが、それにしては形状が妙だった。
片端は丸く巻き込まれ、ばねのような形をしている。そこから伸びた長い銀色の軸は、ゆるく曲がり、端に付いた小さな箱状の部位の内側へ、ぴたりと収まっている。
そこを横から覗き込んだピートは、軸先端の鋭く尖った形状がしまわれているのを見た。
「この箱が、先端を受けているんですね。鞘……、受け具……、でしょうか?」
全体が、一つの閉じた形を作っていた。
何かを刺し、留め、そして刺した先端を隠すための道具。
だが大きすぎた。
人が何人も横になれるほどの長さがある。
「……お化けじゃ、ない……」
ワヌレイはジャドの腕を握ったまま、震える声で言った。お化けや霊ではないからといって怖がらない理由にはならなかった。
「これは、どこを診ればいいのかしら……」
肝試しにはしゃいでいたバルトロメアも、今は呆然と針を見ていた。
「神殿記録上は……閉環針状外痕物です」
ユーレンスが答えた。
「へい……がいこん……?」
ワヌレイはぽかんとしていた。
「外痕物。神殿の分類語です。外法具のように“人が使うもの”ではなく、こちらの世界の来歴に属さない痕跡として扱われています」
「外法具と分類しない理由はなんだ。境界鋲にしたって、人が作ったものではないだろう?」
「使い方があるということは、禁じ方がわかっているので、それを守ればよい。これは、何に使うものかすら定かではありません。女神から授けられた記録があるわけでもない」
だから恐ろしいのだとユーレンスは言う。
「鉄……鉄か? 違う。鉄に近すぎるのに、鉄としての来歴が薄すぎる。これだけ長大なのに鍛造された跡が……」
「さわるな!」
テオは思わず針に手を伸ばし、ユーレンスに止められていた。
「接触による害は確認されていませんが、触れる必要もありません」
「……何か影響を及ぼす、というわけではないのか?」
リルが問う。
「記録上は。物質的・精神的な危険ともになし。神性反応なし。約定反応は極めて微弱」
「なら、なぜ封じた」
「聖具と間違われるからでしょう」
ユーレンスのかわりに、アンドレイが、銀色の針を見上げたまま答えた。
「針。銀色。巡礼宿。女神様のものだと言い出すには、十分すぎる」
「女神のものではないのか」
「神殿は、未分類としています」
「雑だな」
「針、糸、衣。女神の伝承には、この外痕物と結びつきやすい語が多いですが、神殿は、そう認めていません。ただ……女神ご自身も外より来られたのではないか、と読む者はいます」
ユーレンスは、わずかに唇を結んだ。
「……そもそも、外世界って、なんの外ですか」
「街の外でも、国の外でもありません」
ワヌレイの疑問に、ユーレンスが答える。
「民は、おとぎ話として語ります。月の向こう、星の縫い目の先、女神の庭、犬星の来た場所。そういう言葉で」
リルは怪訝な表情を浮かべる。外世界。伝承や神話にある、いわゆる天国や地獄のようなもの。
「おとぎ話について、神殿が真面目に討議しているのか?」
「こちらの世界ではない何かが、こちらへ触れることがある。あなたもただの伝承とは切って捨てられない立場のはずです」
視界の端で犬耳が揺れるのを見た。
「その可能性を、神殿は捨てていません。そして女神が外より来られた可能性を、私は否定できません」
「ユーレンス殿。ですが、外より来たものすべてを、女神に近いものと呼ぶこともできませんぞ」
アンドレイが制するように言った。
「若様、これは隠した方がいいですな」
「神殿と同じことを言うのか」
「違います。神殿は、説明できないから隠した。拙僧は、説明される前に勝手な説明が増えるから隠せと申しております」
「わかるように言え」
「お化けなら、皆怖がって近づかないかもしれませんが、女神の針だと思われたら、皆ありがたがって近づき、布を結び、病人を連れてくるでしょう」
「……」
「そして誰かが言うのです。リル=グレスは女神の針を得た、と。あるいは、外なる穢れを招いた、と」
リルは黙った。ユーレンスは何も言わなかった。
「女神様が外から来たのかどうかは、偉い方々が祈りながら悩めばいい。ですが、これを見た民が何を祈り始めるかは、今ここで考えた方がいいですぞ」
再び、銀色の針に視線を戻す。
テオの指摘通り、鉄に似ているが鉄でない、削った痕も鍛えた痕もない奇妙な金属。まるで初めからこうあれと願われたかのように、あまりにも滑らかで均一すぎた。自然物ではありえないというならば誰が作ったのか。どのような意図で。神授物として片付けられればいっそ楽だった。こんなところで神殿の言い分を理解したくはなかった。
奇妙な針ひとつに、人の営みそのものが嘲笑われているかのような感覚を覚える。
長い沈黙のあと、リルは指示を決めた。
「記録する。公開はしない。地下四号倉は封鎖を継続する。ただし、神殿管理のままではなく、俺の帳面にも記す。フェリペ、管理番号を振れ。欠番のままにはするな」
「了解しました」
「ユーレンス。神殿側の記録も写しを出せ。全部とは言わない。だが、使用する建物の下にあるものを、俺が知らぬままにはしない」
「承知しました。……他の兵には?」
「旧神殿管理物があるため立入禁止、と伝える」
その夜、旧巡礼宿の地下にお化けが出るという噂は、少しだけ形を変えた。
*
礼拝室。
白手の女神へ旅の無事を祈り、出立の朝に膝をつき、帰還の夜に礼を述べるための、古い広間である。壁には、白い手と衣の襞をかたどった神殿紋が残っていた。彫りは浅く、ところどころ欠けている。
リルはその隅に置かれた机で、帳面を開いた。
・旧巡礼宿、神殿協定により使用開始。
・宿泊室、倉、馬屋、井戸、外壁、見張り台あり。
・軍事拠点として転用可能。
・地下四号倉、封鎖区画。
・閉環針状外痕物あり。
・形状、巨大な留め針に類似。
・材質、既知金属に該当せず。
・鍛接痕、鋳型痕、鎚目、鑢目を認めず。
・神性反応なし。
・約定反応、極めて微弱。
・用途不明。
・神殿側、聖具誤認および民間信仰化防止を理由に秘匿。
・秘匿理由、一部妥当。
・ただし欠番処理は不適切。
・当面、非公開。
・記録は継続。
書き終えてから、リルは最後の二行をしばらく見ていた。
隠すことは嫌いだった。名を消すことも、事実を埋めることも、力ある者が都合の悪いものをなかったことにする手つきも、リルは嫌っていた。
だが、見せることが正しいとも限らない。
だからこそ、厄介だった。
「マル」
リルは帳面を閉じずに立ち上がった。
礼拝室の壁際に、マル=シレスがいた。いつからいたのか、足音はしなかった。白い手袋の指を重ね、神殿紋の影に半身を置いている。
「はい、陛下未満の陛下」
「今日は静かだったな。外痕物、外世界由来などという神殿の雑な分類。そして怪しい銀色の針。おまえにとってはおちょくる恰好の機会だったろうに」
「リル様の御前でございますので。私めにも、沈黙という美徳を披露する日がございます」
「似合わん」
「残念至極」
「境界鋲の時も、おまえは黙っていた」
マルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「語るべき時機を見計らっておりました」
「黙ったのだな」
リルは言い直させなかった。
「あの時、俺たちは、何を刺されているのか知らないままおまえを運んだ。抜けばいいのか、抜いてはいけないのかも知らないまま判断した」
「結果として、リル様はたいへん賢明な判断を──」
「黙れ」
リルの右手が、剣の柄に置かれた。
抜かれはしなかったが、白い手袋の道化は、その手を見た。
そして、深く頭を垂れた。
「では、どうぞお斬りください」
柔らかな声だった。
あまりにも従順で、あまりにも慣れていた。
「お怒りはもっともでございます。私めの沈黙がリル様の判断を曇らせたというのであれば、首のひとつでお慰めいたしましょう」
「違う。俺は、おまえに罰を受ける芝居をさせたいわけではない」
マルは頭を下げたまま、動かなかった。
リルの手は、まだ剣の柄にあった。
「おまえは、斬られるふりをして俺の怒りを受け流そうとしている。あるいは嘲笑おうとしている」
「……」
「斬れないかもしれない。斬っても意味がないかもしれない。返り討ちに遭うかもしれない。それでも、許せないものはある」
マルは顔を上げる。そこに笑みがこびりついていた。
「……たいへん、王らしいお言葉でございます」
「茶化すな」
「茶化しておりません」
呆れたように両腕を広げた。
「斬られる理由を作るな、とは。道化風情に、ずいぶん殊勝なものをお求めでございますね」
「逃げるな」
「逃げてなどおりません。私めは道化でございます。余計なことを言い、肝心なことを隠し、主の足元を掬う。そういう役でございましょう」
「おまえは俺を王にしたいのだろう」
返答に少しの間を要した。
「ええ。もちろんでございます」
「なら、それが必要だ」
「それ、とは」
「俺が、おまえを斬る理由を持たずに済むことだ」
マルは表情を消して黙った。
「王は、道化の芝居に付き合って兵を危険に置かない。道化が隠したせいで兵が死ぬなら、王は道化を斬る。斬れるかどうかではない。そう決めていなければ、俺は王になれない」
「……さて、私めはそのような厳しい王を望んだでしょうか?」
「なら望み直せ」
マルは答えず、芝居がかった所作で胸に両手をあてた。
「俺を王にするなら、おまえも俺の王に従え。道化だから黙る、道化だから隠す。それはもう通らない」
「ひどいことを仰る。空洞の道化から道化を取り上げて、何が残ると?」
「違う。おまえは俺の道化だ。なら、俺が許さない沈黙をするな。おまえは隠したいものがあるから黙った。俺に判断されたくないものがある。なら、その欲ごと俺に従え」
「おや。ご理解のうえで仰っておいでですか」
「何をだ」
道化はゆっくりと歩み寄り、身体を傾ける。
顔が触れそうなほどに近づく。リルが柄に重ねていた手に、道化の白手袋が重なる。
「あなたの望むように、忠実に欲し、選び、背いてさしあげましょうか。本気で」
道化はそのまま、一瞬だけ礼拝室の外へ視線を向けた。ワヌレイが、トルカが、名を覚えたばかりの兵が、この屋根の下で休んでいる。
道化の手の力が少しずつ強くなり始める。親密な距離と言うには、伴う痛みが強すぎた。礼拝室の灯が揺らめいて、道化の影が長くなる。
「あなたのご立派な怒りの火に、また誰かを投げ込むおつもりですか」
「ああ、そうだ」
血のような、夕焼けのような、腹立たしいほどに赤い道化の瞳。
それを正面から見据え返すと、そこに自分が映っているのが見える。
そこにいる自分は、
怒っている?
怯えている?
見惚れている?
「だから、今、言うんだ。燃え尽きる前に。おまえを許すつもりはないと」
あの施療所の灰の匂いを、まだ覚えている。
すべてを救うことも、正しい答えを選ぶこともできなかった。
それでも、見なかったことにはできなかった。帳面を閉じてよい理由にはならなかった。これまでの歩みそのものが、止まらない理由になっている。
届かないことと、手を伸ばさないことは違う。
止められないことと、見逃すことは違う。
リルはふと気が抜けたように笑った。
「なあ。マル=シレス。おまえは俺に王になってもらいたい」
「ええ」
「つまりは、俺がほしい」
「まあ、そうとも言います」
「そのために、こんなところまで付き合ってきた。俺がのたうち回るさまを、飽きずに見てきた。空洞を言い訳に、拝観料も払わずにな」
リルとは対照的に、マルの笑みが止まった。
「──そんな浅ましい奴のどこが、空洞だ?」
わずかな間があった。
礼拝室の灯が、重なった二人の影を伸ばしていた。
白手の女神紋が、壁の上でただ広がっている。
それは赦しも、裁きもしない。
マル=シレスの笑みが、軋んでいた。
「……内世界人風情が」
「聞こえたぞ」
「失礼。痛いところを突かれると、故郷の方言が出るものでございます」
そして、再び元に戻っていた。
マル=シレスは、ゆっくり手と身体を離す。
いつもの距離に戻る。
「答えろ。あれは、外世界のものか。外世界のものであるなら、あれはなんなのだ」
「あれ自体に危険性はありません。しかし、外世界においてあれが何なのかを知れば、あなたはきっと本当に壊れてしまうでしょう」
不吉な言葉に、リルは眉をひそめる。
「おや。おまえらしく、俺が壊れることを望まないのか」
「今ではございません」
「それを決めるのは俺だ」
「ええ。ですが、申し上げられません。どうか、そこだけはお汲み取りください」
リルはさらに追及を飛ばそうとして、マルの表情を確認し、やめる。今日、帳面に記したものを思い出す。
すべてを明かせばいいというものではない。
そして、ようやく剣の柄から手を離した。
ここは告解の場所ではない。
先に進むために祈るための部屋だった。
「危険はない、という言葉を信じよう。おまえが何を隠しているかも今は問わない。だが、次に、おまえが黙っていたことで兵が死ぬなら、俺はおまえを許さない」
「御意」
マルは静かに頭を下げた。
そして、下がることはなく、机の上の灯を少しだけ遠ざけた。帳面の文字が、暗くなりすぎない位置に。
その手つきは、叱られた道化のものにしては妙に丁寧だった。
リルはそれを咎めなかった。




