#15 外法審問、あるいは外法性魔人マル=シレスに対する神殿監視指定について
視察から戻った翌日、神殿から審問の知らせが届いた。
相手に逃げ道を与えない丁寧すぎる文面だった。
リルは読み終え、机の上に置いた。
「外法審問」
ワヌレイが、ひどく嫌そうに繰り返した。
フェリペは文面を横から覗き込み、眉間にしわを寄せた。
「医療行為、戦場行為、竜殺しに伴う尺度干渉、ならびに公共空間における外法使用疑義……ずいぶん盛ってきましたね」
「盛ってはいない。すべて真実だ」
「今から盛っているということにできないものでしょうか」
フェリペは、盛らずに済む人生を少しだけ羨んだ。
ワヌレイはずっと肩を落としている。
「……行かなきゃ駄目ですか」
「駄目だ」
「ですよねえでもそもそもワヌレイたち王家に反逆してるじゃないですか神殿って王家側じゃないんですか行った瞬間に捕まって地下に連れていかれて審問という名の拷問とか火炙りとかそういう」
「ワヌレイ、落ち着け」
「落ち着けませんよトルカさん。外法審問ですよ。名前がもう痛いじゃないですか」
「名前が痛いって何? 神殿が王家寄りなのは事実です。ただし、王家の軍務機関ではありません。少なくとも建前上は」
「でもフェリペさん、建前って所詮建前に過ぎなくないですか?」
「ワヌレイさん、こういうときだけ妙に本質を突きますよね」
「火炙りの制度はあります。外法焼却儀ですな」
アンドレイが、壁際でぼそりと言った。
「ほら名前ついてる! 名前ついてるってことは実際に行われたんですね!」
「ご安心くださいワヌレイ様。煙の向きくらいは教育しておきますので」
「火炙り前提で話を進めないでくださいマルさん!」
「ただし、今の神殿が呼び出して即座に焼くことはまずありません。焼くなら書面より先に兵を出すでしょうし」
「昔は焼いてたんですか……」
「野蛮な時代があり申した。今が野蛮でないとは申しませんが」
ワヌレイがぴーぴー騒ぐのをよそに、マルは部屋の隅で、椅子に腰掛けていた。足を組み、尖った靴先をゆるく揺らしている。
「いやはや。ついに私めも、正式に裁かれる身分でございますか。出世でございますね」
「楽しそうだな」
「もちろんでございます、リル様。人間が人間を縛るために作った縄で、私めを縛れるか試す場でございましょう。見物料を払ってもよいくらいです」
しれっと、自分が人間ではないことを自白している。
「おまえの審問だ」
「ええ。特等席にございます」
リルは、マルの笑うさまを見た。
北門の夜も、路地に這いつくばっていた時も、竜の前に立った時も、この道化は笑っていた。表情だけを見れば、何も変わらない。
「拒む選択肢はない。そうすれば俺たちは神殿の手続きから逃げたことになる。竜を殺した名だけ受け取って、外法の問いから逃げたとも見られる」
「リル様の名は、いよいよよく燃える薪になってまいりましたね」
「油をかけた当人が言うな」
「火種をお持ちだったのは若様でございますよ」
「……」
「道化の口を縫ってから行けりゃ楽なんだがな」
「おやトルカ様。裁縫でしたら、私めの知り合いにたいへん向いている方がおりますよ。まあ、縫っていただけるかはわかりませんが」
「おまえに知り合いなんぞいるのかよ」
マルは、胸に手を当てて笑った。
「おりますとも。私めにも、友人、知人、恩人、その他分類不能の皆様が少々」
「最後のだけ妙に多そうだな」
「ええ。分類とは、箱に入らぬものが多いほど賑やかになるものです」
「必要なのは“被害者”の分類だろ」
*
審問は、ティンドレットの神殿支院で行われた。本来はもっと上位の神殿で行われるものだが、竜殺し後の混乱などから、現地支院で開かれたのだろうとアンドレイは言った。
神殿の奥、施療所と記録庫の間にある石造りの広間が、審問場となった。壁は厚く、窓は高い。あるのは長机、記録台、証拠品を置くための黒布、そして立会人の席。
審問官は三人いた。
一人は皺の深い老神官。もう一人は若い記録神官。
三人目は女神殿騎士──ユーレンスだった。くすんだ麦藁色の髪を太い三つ編みにし、生成りの外套を肩にかけている。
彼女はリルを見ると、軽く頭を下げた。外法行使目撃から数日ぶりである。
「神殿騎士ユーレンスです。本審問の立会い、ならびに外法使用記録の確認を務めます」
「リル=グレスだ」
「マル=シレスにございます。犬、星、道化、悪魔、その他お好きな札をお貼りください」
「審問中の戯言は控えてください」
「ええ、ですから審問前に申し上げました」
王家側の席には、代理人が一人。
さらにその後ろに、黒衣の男が座っていた。
長い黒髪。細い目。穏やかな笑み。神官服にも術師服にも見える服を着ている。指先は白く、祈る者のように組まれていたが、そこにあるのは祈りではなかった。
リルは、その男を見るなり、理由不明の不快さを感じた。
「ミルグリファと申します。王家神授記録顧問として、本日は記録照会のために同席しております」
「王家外法顧問ですね」
ユーレンスが補うと、ミルグリファは、困ったように眉を下げた。
外法顧問。王家が表向きには禁忌とし、神殿が審問の対象とする外法について、王家側で記録を読み、研究し、対処法を考える者である。王家は神授記録顧問とも呼ぶ。
外法を行使する官ではない。少なくとも、書面上は。
「神殿の方々は、どうにも言葉を急がれますねぇ」
「違うのですか」
「いいえ。分類としては、たいへん便利です」
「外法審問の場に、外法顧問かよ」
トルカが短く吐き捨てた。
「外法そのものは罪ではありませんので。罪となり得るのは、外法によって何をなしたかです。刃を鍛える者が、殺人審理の場に呼ばれることもございましょう」
ミルグリファは眉ひとつ動かさなかった。
そのもっともらしい言い繕いに、トルカは小さく舌打ちする。
マルは笑っていたが、いつもの見下した愉快さとは違う危険さを帯びた笑いだった。
それぞれの名乗りが終われば、リルは椅子に座り、マルは、その後ろに立った。
ワヌレイら兵士たちには、壁際の随伴者席が与えられていた。
審問官が、乾いた声で始めた。
「白手のヴェルオールの御前に記録する。本審問は、マル=シレス個人を処刑、拘束するための場ではない。ただし、外法使用が女神前戦場誓則に抵触するかを確認する場である」
処刑を否定する言葉に、ワヌレイが少しだけ息を吐き、フェリペの筆が動き出した。
女神前戦場誓則。
女神の御名において、戦場で降伏者、捕縛者、施療所、神殿、井戸、食料、死者、民の住居、記録をどう扱うべきかを定めた誓いである。
守られてばかりでなく、破られたことも多い。そして破られたとき、それを記録するためのものでもある。
審問官は黒布の上に置かれた札を一枚取った。
「第一。ミロ村付近の石橋において、徴発兵複数名が石材に拘束された件」
リルの背後で、ワヌレイが身じろぎした。
審問官は続ける。
「死者は確認されていない。だが、捕縛者に対する過度の拘束、恐慌誘発、身体の自由に対する外法干渉の疑いがある」
「殺してはおりませんよ」
マルが言った。
「殺さなければよい、という誓則ではありません」
ユーレンスが返す。
「まことに。人間は、殺さずともずいぶん壊れますからね」
「マル」
審問官は次の札を取る。第二。ティンドレット北門防衛戦。
「証言によれば、兵らは前進命令を受け、前進しているつもりのまま、同所に留まり続けた」
「敵兵の意志を奪ったのか」
「奪ってはおりません。少々、命令に対して律儀になっていただいただけでございます」
第三。施療所における熱傷患者への外法治療。
ここでは術師であるテオが証人として証言を求められた。
「マル=シレスの術には、手順がありません。少なくとも我々が確認できる手順はない。結果だけが発生している。成功してしまっているから、誰も手順を問わなくなる。手順は飾りではありません。失敗した時に何を誤ったのかを探すための命綱です」
言葉には静かな怒りが滲むが、マルを睨んではいない。
「私はそれを恐れています。マル=シレスのそれは術では──少なくとも、我々が術と呼んで守ってきたものではない。世界に空いた穴を便利な井戸のように使うなら、いつか誰かが落ちます」
「……」
直接非難されているマルよりも、リルのほうが深く沈黙した。
さらに外法使用事案が列挙される。
第四。竜殺しにおける尺度干渉。
第五。ラグティス橋市における公共空間での外法使用。落下、崩落、群衆恐慌を一時的に未成立化し、民間人退避の猶予を作った件。
尺度干渉の異常さと、神殿騎士の眼前で行われた外法行使の動かぬ証拠に、審問場がざわつく。
「マル=シレス殿。あなたの外法は、戦場誓則に抵触する可能性がある」
「可能性でしたらたいへん多くございます。刃物にも、火にも、王冠にも、可能性はございますでしょう」
「……リル=グレス殿。あなたは、この外法存在を制御できているのか」
審問官の視線が移り、広間が静まった。
さまざまな記憶が過ぎる。北門の戦い。命令違反。殴っても意味がないと悟った自分。境界鋲に縫い止められながらも石蔵から抜け出した道化。ワヌレイの血。竜の前で差し出された巨大化。
「できているとは言わない。遠ざけたまま王になる方が、もっと危険だ」
そのリルの答えに、ミルグリファは、小さく拍手をした。
「んん……よいお答えです。あなたは、犬星殿を所有しているのではない。制御もしていない。ですが、離さない。たいへん興味深い」
「気色悪い。黙ってろ」
トルカが唸ったが、ミルグリファは気にしなかった。
「リル=グレス卿。あなたは王権という現象に近すぎる」
「何の話だ」
「王とは、力ではありません。血でもありません。人々がそこに意味を見てしまう現象です。あなたはすでに、民の恐怖と期待を集めている。竜を殺し、外法を従え、誓則の場で罪を認める。素晴らしい。まことに、名が肉に馴染みはじめている」
リルは、ミルグリファを睨んだ。彼は王家外法顧問でありながら、リルを糾弾しているわけではなかった。それが逆に不気味だった。
「俺を標本のように見るな」
「失礼。そう見えましたか」
「そう見ているのだろう」
「ええ。見ております」
ミルグリファは微笑んだ。
「素直でいらっしゃる。私めとは大違いでございますね」
マルが小さく笑った。
失礼さだけで言えば、マルといい勝負だとリルは思ったが、同時に質の違いも感じていた。
「犬星殿にも、たいへん興味があります」
「存じております。こちらは不愉快でございます」
「光栄です」
審問官が杖で床を打った。
「私語を慎め」
その時、記録台の羽根ペンが、ひとりでに立ち上がった。
若い記録神官が悲鳴を飲み込む。
羽根ペンは、羊皮紙の余白へすらすらと文字を書いた。
――ここで皆様、たいへん困った顔をなさいました。
一瞬の沈黙を挟んで、ユーレンスが剣の柄に手をかけた。
「外法審問中に外法を使うな!」
「失敬。では、外法審問中以外であれば?」
「マル」
リルが短く言うと、羽根ペンが止まり、ふわりと倒れ、何事もなかったように机の上へ転がる。
マルは両手を広げた。
「有用性と危険性を、同時に可視化いたしました。審問への協力にございます」
「次にやれば、斬る」
ユーレンスの声は静かだった。
「おや。神殿騎士殿は、外法より物理がお好みで」
「私は、止める手段を選ばない」
「よろしい。実務的でございます」
リルは、マルを見なかった。
見れば、苛立ちが顔に出る。
今のやりとりで一つ証明されてしまった。マルは外法を使い、リルが止め、マルは止まった。言われれば止まるが先に行う、というのは制御下と言えない。
「過去にもマル=シレス殿は、制止された記録があります。ティンドレットにおける境界鋲使用の件です」
ユーレンスの言葉に空気が変わった。
ワヌレイが、明らかに強張る。トルカは顎を引いた。フェリペの筆が止まった。
マルだけは、動かなかった。
「あれが何か、知っているのか」
ユーレンスは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「神殿記録上は、王家神授具に属します。より古い分類では、外法具とも呼ばれます。外法を内蔵、あるいは媒介する器具の総称です」
「灯火札や記録札とは別なのか?」
「いえ、そういった通常の約定具とは異なり、対象の定義、名、尺度、境界そのものへ触れるものです。神殿は危険物として記録します」
「境界鋲も、それに入るのか」
「分類上はそうです。境界鋲は、境界に属するものを、この世界側へ縫い止める器具です。外へ逃げるもの、尺度をずらすもの、名や身体を曖昧にするものに対して、ここにある、という状態を強制する」
「ああ……」
リルは、ようやく腑に落ちるものを感じた。
道化は強いのではない。ずれている。
そして境界鋲は、そのずれを許さない。
「文献では、白手の女神より、オルディアス初代王ディオスへ賜られし聖具とあります。その散逸品、と見るのが妥当でしょうねぇ」
ユーレンスは慎重に言葉を選んでいたが、それをミルグリファが破った。
「散逸品、ということは、複数あるんですか」
フェリペは、書きかけの文字を見つめたまま言った。
「……記録上は」
「現存数、所在、完全な機能、いずれも不明です。王家宝物庫に残るものもあれば、どこかに旅立ったものもある」
ユーレンスの答えを、ミルグリファが楽しそうに補う。
「レネヴェグが持っていたものだ。なぜ、復讐者の手に王家の神授具が渡った」
リルの視線が、王家側の席へ移った。
「さあ。王家とて、すべてを完全に把握できているわけではありませんからねえ。歴史の中で行方不明になり、ならず者の手にでも渡ったのでしょう」
「都合のいい話だな」
「失せ物とは、たいてい都合の悪い時に見つかるものです」
ミルグリファは、穏やかに笑った。
それ以上の追及は無意味と見たリルは、代わりに薄笑いを浮かべているマルを睨めつけた。
「おまえ、知っていたな」
「ええ。存じておりました」
優雅に一礼するマルに、リルは立ち上がりかけ、代わりに長い溜息を吐いて、こらえた。
審問官が杖を打った。
「境界鋲の出所については、本審問の主題ではない」
「主題だ。王家が持つ外法具は、なぜ神授具と呼ばれる」
「境界鋲は、白手の女神より初代王に賜りし聖具である。犬星の外法と同列には置けぬ」
王家側の代理人が、初めて口を開いた。
「名を替えれば、罪も替わるのか」
「異端の術と神授の具を混同なさらぬよう」
リルが言うより早く、マルが笑った。
「おお。名札を替えれば罪が消える。たいへんよい手品でございますね。私めも今後は、外法ではなく神授風味の余興と名乗りましょうか」
「黙れ」
リルとユーレンスの声が重なった。
マルは満足げに黙った。
若い記録神官が、震える手で記録を続けていた。羽根ペンの先が羊皮紙をかすかに削る音がする。
その音の中、随伴者席の端で、誰かが小さく笑った。
「はあ。本当に女神様がおわすなら、なんで、こんなもんが要るんすかね」
ヨハンだった。
場の視線が集まるより先に、彼は肩をすくめた。
「いや、すんません。独り言っす」
「問いを罰する場ではありません。ですが、その問いを軽口にしてよい場でもありません」
ユーレンスが言った。
アンドレイが、随伴者席の端で小さく印を切っていた。
審問官は杖を握り直し、王家側の代理人は不快そうに眉をひそめた。
ミルグリファは、にこにことしていた。
いかにも加勢して軽口を叩きそうなマルは、いっそ奇妙なことに、薄笑いを浮かべたまま黙っていた。
*
審問官は、長く息を吐いた。
「本審問の結論を述べる。マル=シレスの外法は、女神前戦場誓則に抵触し得る。とりわけ人身干渉、捕縛者干渉、尺度干渉、戦場における意志拘束については、今後も記録と審査を要する」
静まった空気の中、マルは退屈そうにしていた。
「ただし、外法そのものを全面禁絶する条は存在しない。また、当該外法によって救命、竜害の除去、民間被害の抑制がなされた事実も確認される」
王家側の代理人が不満げに身じろぎした。
「よって、マル=シレスをこの場で拘束、処刑、封印することはしない」
ワヌレイが、今度こそはっきり息を吐いて弛緩した。
「ただし、神殿監視対象とする。
外法使用時は、可能な限り記録を残すこと。人身、死者、井戸、食料、施療所、神殿記録、捕縛者への干渉は、事後報告対象とする。戦場誓則への抵触疑義がある場合、神殿立会いの審査を受けること」
「おい。戦場で、いちいち神殿に伺えとでも?」
トルカがうんざりとした表情で言った。
「事後で構いません」
ユーレンスが淡々と答える。
「なお、神殿記録上、マル=シレスの扱いは暫定的に魔人分類へ置く」
「魔人?」
審問官はさらに告げたその言葉に、フェリペの筆が止まった。
ワヌレイが、思わずマルを見た。
「おや。私め、角も翼も蹄もございませんが」
「通常魔人分類からは逸脱する。ただし、現行制度においては、外法性身体、異常来歴、神殿監視対象、軍務随伴者を記録・管理する適切な分類が他に存在しないため、暫定的に外法性魔人として扱う」
「外法性魔人」
マルは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「たいへん結構。箱がなければ、棚にしまえませんものね」
「侮辱の意図はありません」
「もちろん。管理の意図でございましょう。侮辱より、よほど上等です」
ユーレンスの言葉にマルは笑った。リルは笑わなかった。
「そして、神殿騎士ユーレンス」
ユーレンスはすでに立っていた。
「以後、リル=グレス一党に同行し、外法使用の監視、神殿との連絡、戦場誓則上の立会いを務めよ」
ワヌレイが小さく「え」と言った。
ユーレンスは拝命いたします、と頭を下げた。ためらいや驚きは、その姿にはなかった。それを見て、あらかじめ決まっていたことだったんだなと、ワヌレイはぼんやり理解した。
「同行って……味方になってくれるんですか?」
「いいえ。しかし敵でもありません。私は神殿の者です。あなた方に従うためではなく、見届けるために同行します」
ユーレンスは少しだけ考えてから答えた。その言葉の中でワヌレイはしょんぼりしたり持ち直したりを繰り返した。
「おまえ、こういうのに懐くの早いよな」呆れたトルカの声。
「懐いてません。ちゃんとした人だって安心してるだけです」
「それを懐くって言うんだよ」
「……こういうのとはなんですか」
ユーレンスは複雑そうな顔をした。
「たいへんよろしい。リル様、監視役が増えましたね」
マルが笑った。
「他人事のように言うな」
「けれど、私めだけで済みましょうか」
リルは答えなかった。
審問は終わったが、何も終わった気がしなかった。
*
・外法審問。
・女神前戦場誓則における使用疑義。
・マル=シレス、拘束なし。外法性魔人認定を受け、神殿監視対象となる。
・神殿騎士ユーレンス、監視役として以後同行。
・境界鋲、外法具。王家側呼称では神授具。
・レネヴェグの所持していた境界鋲は王家からの散逸品のひとつである疑い。
・ミルグリファ王家外法顧問、リル=グレスが王権という現象に近づいていることを指摘。
・王家側、神授具と外法の区別を主張。
・マル=シレス、境界鋲の本質を既知。未報告。
・戦場誓則は、王家を裁くためだけのものではない。
* * *
その夜、マル=シレスは領主館の部屋にいなかった。
床も壁も椅子も、机も花瓶も縫いかけの布も、すべてが配置と大きさを間違えていた。あるいは、マル=シレスが間違っていた。
同じ形の椅子が、正面の白い壁へ向かって、ゆるい段を作って並んでいる。
正面の壁には、淡い光が映っていた。
夜の街。竜の骨。神殿の広間。長机。黒布。帳面に落ちる墨。
小さな人々が動き、口を開き、泣き、怒っている。
水の底から聞く芝居のように、言葉は形だけを残してこちらへ届く。
壁から響く音はなく、あるのは針が布を通る音だけだった。
客席めいた椅子の列の中央に、小さな机がある。
花瓶と縫いかけの布と白い糸巻きがあり、少女が座っている。
白い糸は、部屋の外や明滅する壁面の中まで長く続いている。
「おかえりなさい、マル」
「ただいま戻りました、奥様」
マルは少女の隣に腰掛ける。
「奥様ではないわよ」
「では、お嬢様」
「それも違うわ」
「ご主人様?」
少女は、ほんの少しだけ眉を下げた。
「……それは、もっと違うわ」
「おや。違いましたか」
「わたしは、あなたを飼っているつもりはないもの」
「ええ。存じております。そこが、たいへん奥ゆかしいところでございますね」
少女のため息にマルは笑った。
「今日はどうだったの?」
「首輪をいただきました」
「あら。誰に?」
「神殿に。神殿記録上、私めは外法性魔人ということになりました。神でも獣でも人でもない。管理する皆様も困っておいででしたので、余った棚に入れていただきました」
「嫌だった?」
「便利だと思いました」
少女は、その笑いをしばらく見ていた。
「嫌だったのね」
「便利だと申し上げました」
「そう」
マルは肩をすくめた。
「それから、境界鋲の名が出ました。王家神授具、だそうでございます」
少女の手が、ほんの少し止まった。
針の先にかかっていた糸が、白く光った。
「……そう呼ばれているのね」
「たいへん立派な名でございました。鋲も喜んでおりましょう」
「あの子はなんと?」
「怒っておられました」
「あなたに?」
「ええ。口を利いていただけなくなりました。もっとも、それ以外の全てにも怒っておられますが」
壁面を見ると、不機嫌そうな黒髪の少年の背中が映し出されている。
「あなた、あの子には怒られたいのね」
「妬いておいでで?」
「違うわ」
「安心いたしました」
「何をしたの?」
「何も。ただ、境界鋲について、何も申し上げなかっただけでございます」
「……それは、怒るでしょうね」
「正しいお怒りというものは扱いに困りますね。茶化すとこちらがみすぼらしくなる。道化の面目が潰れます」
「なぜ、言わなかったの? あなたが教えるべきだったんじゃない?」
「おや。ご主人様はいつから手順を大事になさるように?」
少女の指先で、糸が止まった。困ったような表情。
「アル=デリアもそうだけど、あなたもわたしに意地悪ね」
「アル様は意地悪と言うよりはご主人様への正当な怒りかと」
「ねえ、マル」
「はい」
「名前で呼んで」
「それは恐れ多い」
「嘘」
「ええ。恐れておりません。しかし名前は近すぎますので」
「そう」
少女の指が、マルの首に添えられる。誰よりも清らかで、世俗から遠く、罪を知らなさそうに、白い。
「あなたって、つながれたいくせにどこにもつながれない」
「ええ」
「神殿でも、王でも、男でも、女でも……わたしでも。いくらでも鎖はあるわ」
「私めの鎖になりたいと?」
「いいえ」
指先が、マルの喉元をなぞる。そこにはなにもない。
マルは身体を傾け、座る少女に上体を委ねる。
ひどく親密な距離のように見えた。
「だってあなた、必ず途中でほどくもの。つながれたいのではなくて、つながれているふりをすると、少し楽なだけなのかしら」
責めるにしては甘ったるい声が、マルの犬耳を揺らした。
「つなぎたいわけではないわ。でも、わたしは、あなたに遠く置かれたいわけではないの」
「ですが、近くに置かれると私めはつい噛みます」
マルは笑った。
「犬でございますので」




