EX-5 徴発監察官ディマビオの華麗なる休日
朝、ディマビオはいつもより少し遅く起きた。
水で顔を洗い、髭を整え、皺のないシャツを着た。軍装ではないが派手な私服とも違う。古いが質のよい上着と、手入れの行き届いた靴。街の人間に紛れるには少し硬く、役人に見えるには少し古い。
鏡の中の若いとも老いているとも言えない自分を見て、ディマビオは襟元を正す。
階段を降りると、副官が待っていた。
「本日は、ご予定が?」
「予定がないことを予定に入れた。急ぎの件は夕刻に持て」
「……承知いたしました」
副官が頭を下げるのを見届けてから、官舎の外へ出た。
王都の朝は、まだ薄く湿っていた。
石畳には夜の雨の名残があり、荷車の車輪がその上を鈍く鳴らしていく。洋餅を焼く匂い、馬糞の匂い、煮出した薬草の匂い、油の匂い。それらを確認しながら、ディマビオはゆっくり歩いた。
古い水路通りの角にある理髪師の店の扉を押すと、小さな鈴が鳴った。
「おや。今日は兵を連れておられませんな」
店主の老人が、馴染みの客に見せる笑みを浮かべた。
「髪を切るのに兵は要らん」
「首を落とすには要りましょう」
「理髪の腕が落ちたか」
「ほほほ。落ちていたら、あなた様の首はとっくに軽くなっておりますよ」
ディマビオは返事をせず、椅子に座る。
老人は白い布を肩に掛け、櫛を入れた。
手つきは遅いが、迷いはない。ディマビオは目を閉じた。
「いつも通りで?」
「ああ」
「いつも通りというのは難しいものですな。髪も世の中も、勝手に伸びたり曲がったりします」
老人は鋏を鳴らした。ちきり、と乾いた音がした。
「南門の方では、また徴発隊の話で持ちきりですよ」
「どこの隊だ」
「さて。年寄りの耳に、隊の名までは入りません」
「なら、誰の口から聞いた」
「市場の魚売りです。魚売りは神殿の小間使いから聞いたそうで。神殿の小間使いは、荷運びから聞いたとか」
ディマビオは目を閉じたまま、少しだけ鼻で息を吐いた。
「酒の席か。噂の来歴としては汚い」
「噂とは、だいたい汚いものです。内容は……村から取りすぎたとか。抵抗した男を吊ったとか。逃げた若い娘を連れ戻したとか。まあ、噂です」
「徴発そのものを恨む声か。やり方を恨む声か」
「では、やり方でしょうな。王家に食わせる米を出すのは仕方ない。兵に食わせる豆を出すのも仕方ない。けれど、冬越しの干し肉まで持っていかれたら、仕方ないでは済みません」
「なるほど」
「その上、笑っていたそうです」
髪が肩から落ちる。
白い布の上に、短く切られた黒と灰が散った。
理髪が終わると、ディマビオは代金を置いた。
老人はそれを見て、眉を上げた。
「釣りは要らん」
「情報料ですか」
「理髪代だ。首もつながっていることだしな」
「では、ありがたく」
店を出ると、朝の湿気は少し薄れていた。
ディマビオは水路通りを抜け、古い菓子屋に寄った。
店先には焼き菓子が並んでいる。蜂蜜を薄く塗ったもの、干し果実を練り込んだもの、胡桃を砕いて混ぜたもの。
「三つ」
店の女が包み紙を広げた。
「いつものですか」
「ああ。蜂蜜を二つにしろ。子供は甘い方を好む」
「閣下は、子供の好みまでご存じで」
「知らん。甘ければ黙る」
「それは大人も同じです」
「大人は甘いものを食っても余計なことを言う」
「では、三つとも蜂蜜にしますか」
「胡桃を一つ入れろ。私は甘すぎるものが好きではない」
菓子屋を出たあと、細い路地を抜け、古い石段を上がり、井戸のある小さな広場を過ぎる。そこに、傾いた屋根の家があった。
扉を叩くと、少しして女が出た。
ディマビオ同様に若くはないが、老いてもいない。
「まあ、今日はお早い」
「通りかかったついでだ」
「それもいつも通りですね」
「事実だ。王都の道は曲がりくねっているから迷う」
ディマビオは菓子の包みを差し出し、女はそれを受け取る。余らせた、ということだが、それもまた毎回のことなので、女はそれを信じていなかった。
奥から子供が顔を出した。十歳ほどの少年だった。ディマビオを見ると、少し背筋を伸ばした。
「こんにちは! 今日はお休みですか?」
「違う。予定がないだけだ」
少年はよくわからないという顔をしたが、包みの方に目を移した。
「蜂蜜ですか」
「二つある」
「やった」
「一つは母親の分だ」
「わかってます」
女が笑った。
「お茶を淹れましょうか。少しくらい、座っていかれては」
「座ると話が長くなる」
ディマビオは懐から、別に小さな袋を出し、戸口の棚に置いた。
女の顔から笑みが消えた。
「借りの返済だ」
「もう二十年です」
「利息というものがあるだろう」
「あの人は、あなたに貸した覚えなどないと思います」
「死んだ人間の記憶など確認できん」
「ディマビオ様」
女の視線がまっすぐにディマビオに向けられている。
「あなたが返しているものは、あの人への借りですか。それとも、あの人を死なせたことですか」
少年が菓子の包みを抱えたまま、うつむいていた。
「どちらでも、帳面上の処理は変わらん」
「あなたは本当に、そういう方ですね」
「そういう男だから、生きている」
女は小さく息を吐いた。
「では、受け取ります。帳面のために」
「そうしろ」
ディマビオは踵を返した。
「また曲がった道を通ってくださいね」
背中にかかる少年の声に、ディマビオは返事をしなかった。
*
旧水路通りの食堂は、昼時には少し早く、客は少ない。店の奥には炭火の匂いがこもっていた。煮込みの鍋がかけられ、豆と肉と野菜の崩れた匂いが湯気になっている。
ディマビオが窓際の席に座ると、店主が顔を上げた。
「今日は徴発の話はなしで頼みますよ」
「では味の話をしよう。今日の塩は少ない」
「まだ食ってもいないでしょう」
「匂いでわかる」
「犬ですか」
店主は笑い、皿に煮込みをよそった。
木の匙を取り、煮込みを一口食べると、塩がやはり少なかった。
しばらくして、扉の鈴が鳴った。
「空いてるか」
静かに入ってきた男は、狼のような凶相をしていた。
それから、窓際に座る男に気づいた。
「これは、ディマビオ閣下」
「ヘルブラムか。座れ」
「お邪魔でなければ」
狼のような凶相の男──徴発隊のひとつを率いる士官、ヘルブラムは向かいに座った。
「同じものを」
「あいよ」
店主が煮込みをよそう。
ヘルブラムは手袋を外し、丁寧に畳んで横に置いた。指には古い傷が多い。
「閣下ともあろうものが、休みの日に、こんな店ですか」
「高い店は味より椅子代を取る。お前は?」
「巡回帰りです。休みじゃありません」
「私も休みではない。予定がないだけだ」
「なるほど。高級な休みですね」
「安い煮込みを食いながら言う台詞ではない」
「俺の休みは、寝るか飲むかですから」
「下品だな」
「戦場ほどじゃありません」
ヘルブラムは匙を取り、運ばれてきた煮込みの湯気を吹き、それから食べた。
「街では静かだな」
「ここで怒鳴ったら飯がまずくなります」
「戦場ではまずくならんのか」
「戦場の飯は、最初からまずいでしょう」
「兵はお前の下品な口を好んでいるようだがな」
「好んでるわけじゃないでしょう。怖がってるだけです」
ヘルブラムは大きく口を開けて煮込みを放り込む。歯並びが悪い。
「怖がらせるのは悪くない。怖がらせ方が雑なのは悪いですよ」
「理髪師が似た話をしていた」
「理髪師が? 髪と徴発は違いませんか」
「伸びすぎれば切る」
「ずいぶん便利な理屈ですね」
「お前が言うか」
ヘルブラムは少しだけ口の端を歪めた。
戦場で見せる笑いとは違う。声を立てず、ただ疲れたような笑みだった。
「村から冬越しの干し肉を取った。抵抗した男を吊った。逃げた娘を連れ戻した。兵は笑っていた」
最後の一つでヘルブラムは匙を止めた。
「そこまで聞いているなら、俺に聞くことはないでしょう」
「不本意か。話したくないのか。問題だと考えていないのか。お前も戦場では笑うだろう」
「ひひっ。俺の笑いはいい笑いなんですよ。品があって、教養があって、女神も頬を染める」
「本当にそう思っているわけでもあるまい」
少しの間、他の客が食器を鳴らす音と、厨房から皿を洗う音だけが響いていた。
やがて、ここで話すことじゃありませんよ、とだけヘルブラムは言って、そこでその話は終わった。
*
食事を終え、二人は店を出た。
陽は高くなっている。水路通りの石畳は乾き、朝の湿気は消えていた。
食堂から少し歩いた場所で、二人の王家兵が商人に絡んでいた。
「王家のためだ。出せ」
「これは注文の品でして、すでに買い手が」
「王家より先の買い手がいるのか、ん?」
「そういう意味では」
兵がにやにやと笑っているのを見て、ヘルブラムの顔から、食堂での静けさが薄く消えた。
歩み寄り、兵の肩に手を置いた。
「おい、やめとけ」
怒鳴ってはいなかったが、兵は凍りついた表情で振り向いた。
「ヘルブラム隊長」
「やめとけ、と言った」
「しかし、徴発札が」
商人は困惑していた。礼を言うべきか、逃げるべきか、判断しかねている顔だった。
ヘルブラムは商人を見た。
「行け」
「は、はい」
商人は荷を抱え、足早に去った。
ヘルブラムは直立している兵たちの前に立つ。
「口を閉じろ。歯が見える」
徴発札を見せびらかしていた兵が、慌てて口を結んだ次の瞬間、ヘルブラムの拳がその頬を打った。
兵はよろめき、荷車の轍に足を取られかけた。もう一人が反射的に支えようとして、ヘルブラムに睨まれ、手を止めた。
「立て」
「はっ」
「何を笑っていた」
「申し訳ありません」
「聞いたことに答えろ。何を笑っていた」
兵は青ざめたまま黙った。ヘルブラムは一歩近づいた。
「泣く相手を見ると楽しいか。子供が荷に追いすがると愉快か。女に札を見せると、自分の背が伸びた気がするか。ああ?」
「いえ、そのような」
「なら、何を笑っていた」
「……申し訳ありません」
「それは答えじゃねえっつってんだ」
ヘルブラムは兵の胸元を掴み、唸るように言った。
「俺たちは札を持った盗賊だ。盗る。脅す。従わせる。だがな、札を持った盗賊には札を持った盗賊の作法がある」
兵は震えていた。
「笑うなとは言わん。戦場なら笑え。怖けりゃ笑え。隣の若いのが震えてりゃ、下品なことでも言って立たせろ。だが、泣いてる相手を見下ろして笑うな。小物の笑いは格を落とすんだよ」
ヘルブラムは兵を突き放した。
「次に同じことをしたら、俺が札なしでお前から取る。歯でも指でも耳でもいい。選ばせてやるほど暇じゃないがな」
「は、はい」
「失せろ」
二人は逃げるように去った。
「立派な上司だな」
「ははは」
「あいつらは、おまえの真似をしたつもりだったんじゃないか」
ヘルブラムは自嘲のような笑みを浮かべていた。
「でしょうね。悪い手本ほど、覚えがいい」
*
それから、ふたりは別れた。午後は、特に何もしなかった。
市場を通り、神殿前の広場を抜け、城壁沿いの道を歩いた。
ディマビオは休み、という語が苦手だった。
書面に向かい、兵に指揮を飛ばすことだけが職務だと思っていない。
物乞いの数。兵の靴の汚れ。神殿の施療所に並ぶ者の顔色。水売りの値段。城門脇の掲示板に貼られた布告の剥がれ方。
王家の紋章に唾を吐く者はいなかったが、畏敬を抱いて見上げる者も少なかった。
何もしない代わりに、そういったものを見た。
夕刻、官舎に戻ると、待っていた副官の顔が朝よりも硬かった。
「西方より。グレス領周辺において、徴発隊との衝突が複数確認されています」
差し出される数枚の報告書を、眺める。
ディマビオは菓子の包み紙を懐から出した。
昼に自分用に残していた胡桃の焼き菓子である。食べるのを忘れていた。
包みを開く。菓子は少し崩れていた。
ディマビオはそれを見て、包み紙を丁寧に畳んだ。
「予定が入ったか」
ディマビオは報告書をもう一度見る。
リル=グレス。
王家の書式は、記された名にまだなんの肩書も与えていなかった。




