第7話「十年分の距離」
この店では、年齢を聞かない客が多い。
年齢を知った瞬間、言い訳が増えるからだ。
若すぎるとか、遅すぎるとか。
似合わないとか、やめておいた方がいいとか。
そういう“正しい言葉”が増える。
だからこの店では、夜の間だけ年齢は曖昧になる。
マスターは、その曖昧さを崩さない。
ただ静かに酒を注ぐだけだ。
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その夜、最初に入ってきたのは男だった。
四十代前半。
スーツ姿は整っているが、どこか疲れが滲んでいる。
仕事ができる人間特有の静けさと、長く一人でいる人間特有の距離感。
彼はいつものようにカウンターの端へ座った。
「いつものを」
マスターは黙ってグラスを置く。
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男は店内を見渡す。
静かだった。
こういう夜は嫌いじゃない。
誰にも期待されない空気が落ち着く。
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その数分後、女が入ってくる。
年齢は二十代前半くらい。
大学生か、社会人になったばかりか。
まだ“これから”の空気を持っている。
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彼女は店内を見渡し、空いていた席へ向かう。
そして、男の隣に座った。
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男は少しだけ視線を動かす。
女は気づいて笑う。
「隣、だめでした?」
「いや」
「ならよかった」
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マスターがグラスを置く。
透明な酒。
氷が静かに鳴る。
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最初の沈黙。
でも、それは気まずさではない。
互いの輪郭を測る時間だった。
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女が先に口を開く。
「常連ですか」
男は少しだけ考える。
「まあ、たまに」
「落ち着いてる感じする」
「それ、褒めてる?」
女は笑う。
「半分くらい」
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男も少しだけ口元を緩める。
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女はカウンターに肘をつきながら言う。
「こういう店、初めてなんです」
「似合わないな」
「ひどい」
「悪い意味じゃない」
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そのやり取りで、少しだけ空気が柔らかくなる。
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男が聞く。
「なんで来た」
女は少し視線を落とす。
「逃げたくて」
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その言葉に男は反応しない。
ここでは珍しくない理由だった。
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「仕事?」
男が聞く。
女は首を横に振る。
「恋愛」
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男はグラスを持つ手を少し止める。
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女は苦笑いする。
「重いですか」
「いや」
「慣れてる顔してる」
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その言葉に、男は少しだけ笑う。
「年の分だけな」
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女はそこで初めて年齢を意識したように彼を見る。
「いくつなんですか」
「聞く?」
「だめ?」
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男は少し考える。
「四十二」
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女は目を少し丸くする。
でも驚いた顔は長く続かない。
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「大人だ」
「そうでもない」
「そういうこと言うところが大人」
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男は苦笑する。
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女が言う。
「私は二十四」
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今度は男が少しだけ黙る。
十八歳差。
数字にすると、急に現実味が増す。
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マスターは何も言わない。
ただ氷を入れ替える。
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二杯目。
会話は自然に続く。
年齢の話。
仕事の話。
好きな音楽。
昔の恋愛。
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不思議なほど、会話が途切れない。
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女がふと聞く。
「若すぎるって思いました?」
男は少し考える。
「思った」
「正直」
「でも」
「でも?」
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男はグラスを見ながら言う。
「それだけじゃないとも思った」
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その言葉で、空気が少し変わる。
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女は視線を逸らす。
「ずるい言い方」
「何が」
「期待しそうになる」
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男は答えない。
答えられない。
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三杯目。
酔いより、“距離感”の方が危うくなっていく。
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女が言う。
「年上の人って、もっと余裕あると思ってた」
男は少し笑う。
「幻想だな」
「ないんだ」
「ないよ」
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その返事は妙に正直だった。
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女はグラスを指でなぞる。
「私、年上好きなのかも」
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男は少しだけ眉を動かす。
「危ない発言だな」
「なんで」
「相手が勘違いする」
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女は彼を見る。
長い視線。
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「勘違いじゃなかったら?」
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その瞬間、空気が止まる。
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男はすぐに返事をしない。
できない。
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十八歳差。
普通なら踏み込まない距離。
でも、この店では“普通”が少しだけ曖昧になる。
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男が静かに言う。
「君、たまに無防備だな」
女は少し笑う。
「今だけです」
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その“今だけ”が危険だった。
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マスターが初めて口を開く。
「ここ、“今だけ”の人が多いんですよ」
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二人は同時にマスターを見る。
マスターはそれ以上言わない。
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時間が深くなる。
店内の音楽が少し低くなる。
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女が言う。
「ねえ」
「何」
「もし、十歳くらいしか離れてなかったらどうしてた?」
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男は少しだけ息を吐く。
「考えない質問するな」
「答えて」
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長い沈黙。
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やがて男は言う。
「困ってたと思う」
「今は?」
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男は彼女を見る。
真正面から。
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「今も困ってる」
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女は笑う。
でも、その笑顔は少しだけ嬉しそうだった。
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マスターが静かに時計を見る。
「終電、近いですね」
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現実が戻ってくる。
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二人は立ち上がる。
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店を出る。
夜風は冷たい。
でも、隣にいる温度だけは近い。
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駅前の交差点。
赤信号。
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女が小さく言う。
「また会えますか」
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男はすぐに答えない。
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会えば、きっとまた迷う。
でも、会わなければ残り続ける。
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やがて言う。
「ここなら」
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女は少しだけ笑う。
「ずるい答え」
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信号が変わる。
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二人は別方向へ歩き出す。
でも、一度だけ同時に振り返る。
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マスターは店で一人呟く。
「歳の差ってのは、時間の差じゃないんですよ」
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このバーでは、越えられない距離ほど、人は静かに近づいてしまう。




