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バー人生の交差点  作者: こうた


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第6話「名前を呼ばない関係」

この店では、名前を聞かない客がいる。


理由は簡単だ。


名前を知ると、現実になるから。


現実になった関係は、終わる時に形が残る。


だからここでは、曖昧なまま夜を終わらせる人間が多い。


マスターはそれを止めない。


ただ静かに酒を出すだけだ。



---


その夜、最初に入ってきたのは男だった。


三十代半ばくらい。

スーツ姿だが、どこか疲れ切っている。


彼はカウンターに座るなり、ネクタイを少し緩めた。


「苦いやつください」


マスターは黙って琥珀色の酒を置く。



---


男はグラスを見て、小さく笑う。


「顔に出てました?」


「だいたい」



---


店内には古いジャズが流れている。


静かで、少しだけ寂しい音。



---


その数分後、女が入ってくる。


ヒールの音が小さく響く。


派手ではない。


でも、目を引く空気を持っていた。



---


彼女は店内を見渡し、男の隣に座る。


一席空けない。


その距離感に、男は少しだけ視線を動かす。



---


女が言う。


「混んでる?」


「いや」


「じゃあいいか」



---


マスターは何も言わない。


ただ、新しいグラスを置く。



---


最初の沈黙。


けれど気まずさはない。


むしろ、互いに“観察”している沈黙だった。



---


女が先に口を開く。


「疲れてる顔」


男は少し笑う。


「言われ慣れてる」


「仕事?」


「まあ」



---


女はグラスを持ちながら言う。


「逃げてきた顔にも見える」



---


その言葉に男は少し止まる。


図星だった。



---


「あなたは?」


男が聞く。


女は少しだけ考える。


「私は、帰りたくないだけ」



---


その返事には、妙な重さがあった。



---


男はそれ以上聞かない。


この店では、“理由”を深掘りしない方が長く話せる。



---


二人の間に少しずつ空気ができていく。


他人のままなのに、孤独だけが共有されていく感覚。



---


女がふと聞く。


「結婚してる?」


男はグラスを持つ手を少し止める。


「してる」


即答だった。



---


女は頷く。


「そっか」


その声色には落胆も驚きもない。


確認だけ。



---


男が聞き返す。


「あなたは?」


女は少し笑う。


「してた」



---


その一言だけで、会話の温度が変わる。



---


マスターが静かに氷を入れる音だけが響く。



---


男が言う。


「戻りたい?」


女は首を横に振る。


「戻れない」



---


その言い方には、“戻らない”ではなく“戻れない”という現実があった。



---


男は小さく息を吐く。


「俺も、帰りたくない」



---


その瞬間、二人の距離が少しだけ縮まる。



---


三杯目。


酔いというより、“本音を隠す力”が弱くなっていく。



---


女が言う。


「ねえ」


「何」


「こういうの、よくある?」


男は少し考える。


「こういうの?」


「知らない人と、知らないまま話す夜」



---


男は少し笑う。


「ない」


「じゃあ今日だけ?」


「多分」



---


女は視線を落とす。


「それくらいがちょうどいいかも」



---


その言葉が、妙に心地よく残る。



---


名前も知らない。


仕事も知らない。


住んでる場所も知らない。


でも、それが逆に安心だった。



---


女がふと笑う。


「名前、聞かないんだね」


男は少し間を置く。


「聞いた方がいい?」



---


女は首を横に振る。


「聞かない方が、綺麗に終われる」



---


その言葉に、男は否定しない。



---


沈黙。


でも、その沈黙はもう冷たくない。



---


女の指先がグラスをなぞる。


その動きを、男は無意識に見ている。



---


女が気づく。


「見すぎ」


男は少し笑う。


「ごめん」



---


でも視線はすぐに逸らさない。


その数秒が妙に長い。



---


女が小さく言う。


「危ないね」


「何が」


「この空気」



---


男は答えない。


答えられない。



---


二人とも分かっている。


ここで一歩近づけば、何かが変わる。


でも、その“何か”の正体を知るのが怖い。



---


マスターが静かに言う。


「終電、近いですよ」



---


現実が戻ってくる。



---


二人は立ち上がる。



---


店を出ると、夜風が少し冷たい。


さっきまでの空気が、急に遠く感じる。



---


女が言う。


「ここでいい」


駅まではまだ少しある。


でも、それ以上一緒にいる理由を作れなかった。



---


男は頷く。


「そうだな」



---


沈黙。


別れの前の沈黙。



---


女が少しだけ笑う。


「結局、名前聞かなかったね」


男も少し笑う。


「聞かない方がいいんだろ」



---


女は頷く。


でも、その顔は少しだけ寂しそうだった。



---


信号が変わる。


交差点。


またここ。



---


女が歩き出す。


数歩進いてから、振り返らずに言う。


「今日だけなら、嫌いじゃなかった」



---


男は答えない。


でも、その言葉だけで十分だった。



---


彼女は夜の向こうへ消えていく。


名前のないまま。



---


マスターは店で一人、空になったグラスを見つめる。


「名前がない方が、忘れられない夜もある」



---


このバーでは、始まらなかった関係ほど、長く心に残る。

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