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バー人生の交差点  作者: こうた


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第2話「触れそうで触れない距離」

この店は、静かな夜ほどよく人が集まる。


騒がしさを求める客は来ない。ここに来るのは、むしろ「何も起こらないこと」を求める人間だ。


それでも、ここでは時々“何か”が起きる。


それを止める人間はいない。


マスターはいつも通り、グラスを拭いているだけだった。



---


その夜、最初に入ってきたのは女だった。


年齢は三十前後。仕事帰りのようなスーツ姿だが、どこか糸が一本緩んでいる。きっちりしているのに、どこか危うい。


彼女はカウンターに座ると、ため息のように言った。


「強いやつ」


マスターは何も聞かずにウイスキーを出す。


その一杯を見て、女は少しだけ笑う。


「こういう店、久しぶり」


誰に向けた言葉でもない。



---


しばらくして、男が入ってくる。


黒いコート。無駄のない動き。視線だけが妙に鋭い。


彼は店を一度見渡し、彼女の隣に座る。


偶然にしては、あまりにも自然だった。


女は横目で見る。


「ここ、常連?」


「違う」


短い返事。


それ以上は続かない。



---


最初の沈黙は、気まずさではなかった。


むしろ“探り合い”だった。


言葉をどこまで出すか。


どこまで踏み込むか。


その境界を測る時間。



---


女が先に口を開く。


「仕事終わり?」


「そう見える?」


「見える」


男は少しだけ口元を動かす。


笑ったのかどうか分からない程度の変化。


「あなたも?」


「私は、逃げてきた」


即答だった。



---


その言葉に、男は少しだけ視線を上げる。


興味というより、確認。


「何から」


「全部」


女はグラスを軽く回す。


氷が音を立てる。


その音がやけに大きく聞こえた。



---


マスターは二人の会話に一切入らない。


ただ、グラスを一つ追加する。


それが“続けてもいい”という合図のようでもあった。



---


二杯目が来た頃、空気が少し変わる。


距離が縮まったわけではない。


むしろ、見えない緊張が濃くなる。



---


男が言う。


「逃げる必要あったのか?」


女は少しだけ間を置く。


「必要があるかどうかで動いてない」


「じゃあ何で」


女は彼を見る。


視線が一瞬だけ重なる。


その瞬間だけ、音が少し遠のいたように感じる。


「限界だったから」



---


その言葉は重いのに、淡々としている。


だからこそ真実に聞こえる。



---


男はグラスを持ち上げる。


「俺も似てるかもしれない」


「どこが」


「限界が分からないまま続けるところ」



---


女は少しだけ笑う。


「それ、一番危ないやつ」


「分かってる」


「分かってる顔してない」


男は否定しない。


その沈黙が答えだった。



---


時間が少しだけ飛ぶ。


会話は途切れたり戻ったりを繰り返す。


でも、不思議と途切れても終わらない。



---


距離は変わらない。


ただ、空気が変わる。


最初は他人だった二人の間に、“同じ種類の疲れ”が流れ始める。



---


女がふと聞く。


「こういう店、よく来るの?」


男は少し考える。


「来る時と、来ない時がある」


「曖昧」


「その方が楽」


女は頷く。


「分かる」



---


その一言で、また少し近づく。


言葉ではなく、理解で。



---


マスターが初めて小さく口を挟む。


「ここ、そういう人多いんですよ」


二人は同時に見る。


マスターは続けない。


それ以上は必要ないという顔。



---


三杯目。


ここで空気が変わる。


酔いのせいではない。


距離の感覚が少しずつ曖昧になる。



---


女が言う。


「ねえ」


「何」


「あなた、近づかない人でしょ」


男は少し止まる。


「そう見える?」


「見える」


少し間。


「でも今は違う」



---


その言葉に女は一瞬黙る。


そして、視線を落とす。


「そういうの、一番危ない」


「何が」


「一線越えそうなやつ」



---


男は答えない。


ただ、グラスを置く。


その動作だけが妙に静かだった。



---


沈黙。


でも、さっきまでの沈黙とは違う。


これは“選ぶ前の沈黙”。



---


女が立ち上がる。


「帰る」


男は少し遅れて立つ。


「送る」


女は即答しない。


数秒。


その間に、何かが決まっていく。



---


「……少しだけなら」


その言葉は、拒否でも許可でもない。


境界の曖昧な返事だった。



---


店を出る。


夜の空気は冷たい。


距離はあるのに、同じ速度で歩く二人。



---


信号待ち。


雨は降っていないのに、濡れているような空気。



---


女が言う。


「今日だけね」


男は横を見る。


「何が」


「この距離」



---


男は少しだけ笑う。


「守れると思う?」


女も笑わないまま言う。


「守る気あるの?」



---


沈黙。


信号が変わる。



---


二人は渡らない。


そのまま立ち止まる。



---


男が言う。


「分からない」


女が言う。


「私も」



---


その言葉で十分だった。



---


どちらからともなく、少しだけ距離が縮まる。


でも、触れない。


触れそうで、触れない。


その一線だけが、やけに鮮明だった。



---


やがて女は言う。


「ここまでにしようか」


男は頷く。


でも、その頷きは別れではない。



---


二人は反対方向へ歩き出す。


振り返らない。



---


マスターは店で一人グラスを拭いている。


「今日は少し近かったな」


誰にでもなく呟く。



---


この店では、何も始まらない夜もある。


でも、始まりかけた夜は確実に残る。


触れなかった距離ほど、あとに長く残るものはない。

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