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バー人生の交差点  作者: こうた


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1/8

第1話「帰れない理由」

この店には、名前の由来を聞く客が多い。


だがマスターは説明しない。


代わりに、グラスを拭きながらこう言うだけだ。


「交差点ってのは、止まる場所じゃないんですよ」


それで終わる。


意味が分からないまま、客は酒を飲む。



---


その夜、最初に入ってきたのは男だった。


スーツは少し皺が寄っていて、ネクタイも緩んでいる。仕事帰りというより、仕事から逃げてきたような姿だった。


彼はカウンターに座るなり、短く言った。


「いつものやつ」


マスターは何も聞かずにウイスキーを出す。


その手際を見ながら、男は小さく息を吐いた。


「今日、終わらなかったんだよ」


独り言のような言葉。


マスターは答えない。


代わりに氷を一つだけ追加する。


男はそれを見て少し笑った。


「優しいな」


「違いますよ」


マスターは静かに言う。


「薄まるだけです」


男はその意味を聞き返さない。


代わりに、グラスを一口飲んだ。



---


次に入ってきたのは、女だった。


黒いコート。髪はまだ雨の匂いが残っている。


彼女は店に入るなり、迷わず男の隣に座った。


偶然ではない座り方だった。


男が少しだけ横目で見る。


「知り合い?」


「違う」


女は即答した。


その速さが、むしろ不自然だった。


マスターは二人を見ても何も言わない。


ただグラスを二つ並べる。



---


沈黙が先に始まったのは女の方だった。


「仕事?」


彼女が聞く。


「まあな」


「終わらなかった?」


男は少しだけ驚いた顔をした。


「なんで分かる?」


「顔」


それだけで会話は一度途切れる。



---


しばらくして、男が言った。


「逃げてきたんだよ」


「何から」


「全部」


女は少しだけ笑う。


「雑すぎる」


「でも本当だ」


その言葉に、少しだけ重さが乗る。



---


マスターはその間、一度も口を挟まない。


ただグラスを磨き続けている。


この店では、会話は客同士のものだ。


干渉はしない。


でも、すべてを聞いている。



---


女がふと聞いた。


「あなた、誰か待ってるの?」


男は少し考えてから答える。


「待ってた気もする」


「今は?」


「分からない」


その「分からない」は、嘘ではなかった。



---


グラスの氷が溶けていく音だけが増えていく。


時間が進んでいるのか止まっているのか分からない。


ただ、二人の距離だけが少しずつ変わっていく。



---


女が言った。


「私も、終わらせに来た」


男はそれを聞いても驚かない。


この店に来る人間は、だいたい何かを終わらせに来る。



---


「何を?」


男が聞く。


女は少しだけ間を置いた。


「好きだった人」


それだけで十分だった。


詳細はいらない。


この店では、過去は説明されない。


持ち込まれるだけだ。



---


男は静かに言った。


「俺はまだ終わってない」


女は横を見る。


「じゃあ似てるね」


「どこが」


「どっちも中途半端」


男は少しだけ笑う。


その笑いは、痛みを隠していない。



---


マスターが初めて口を開いた。


「ここ、そういう場所なんで」


二人は同時に見る。


マスターは続ける。


「終わる人もいれば、始まる人もいる」


「でも、どっちも長くはいない」



---


女がグラスを持ち上げる。


「じゃあ短くていい」


男が聞く。


「何が」


「今」


その言葉に、男は少しだけ黙る。



---


外では雨が強くなっていた。


窓を叩く音が、この店だけを隔離していく。



---


男が言った。


「俺さ」


「うん」


「誰かとこうやって話すの、久しぶりなんだよ」


女は少しだけ目を細める。


「私も」



---


沈黙が変わる。


さっきまでの沈黙は“距離”だった。


今の沈黙は“選択”になっている。



---


グラスが空になる。


マスターは注ぎ足さない。


ただ静かに言う。


「次、どうします?」



---


その問いは、酒の話ではない。


二人ともそれを理解している。



---


男が立ち上がる。


「帰る」


女は少し遅れて立つ。


「私も」


でも、同じ方向ではない。



---


店の外に出ると、雨はまだ続いていた。


二人は並ばない。


でも、しばらく同じ場所に立っている。



---


男が言う。


「今日、悪くなかった」


女が答える。


「うん」



---


そして、どちらも名前を聞かない。


聞けば、何かが始まるからだ。



---


交差点の信号が変わる。


二人は違う方向へ歩き出す。



---


店の中では、マスターがグラスを拭いている。


誰もいなくなったカウンターに向かって、小さく呟く。


「またひとつ、交わったな」



---


このバーでは、出会いは奇跡ではない。


ただの通過点だ。


それでも、人は少しだけ変わって出ていく。

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