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バー人生の交差点  作者: こうた


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3/9

第3話「終わったはずの名前」

この店には、静けさが似合う。


それは偶然ではない。


騒がしい夜に来る客は、だいたい自分の中の騒がしさに耐えられない人間だ。


そしてこの店は、その騒がしさを“消す”場所ではなく、“並べる”場所だった。


マスターはいつも通り、同じ動作でグラスを拭いている。


何も変わらない夜のようでいて、ここでは毎回違う物語が始まっている。



---


その夜、最初に入ってきたのは女だった。


少し乱れた髪。整えきれていない呼吸。


誰かに追われているわけではないのに、逃げてきた人間の歩き方をしていた。


彼女はカウンターに座ると、短く言った。


「水、ください」


マスターはウイスキーを出した。


女はそれを見て、一瞬だけ笑う。


「そういう店か」


「そういう店です」



---


しばらくして、男が入ってくる。


彼は入口で止まり、一度だけ店内を見渡した。


その視線が、女に止まる。


数秒。


その数秒で、空気が変わる。



---


男は何も言わずに彼女の隣に座る。


偶然ではない座り方だった。


女は横目で見る。


「ここ、来たことある?」


「ない」


即答。


それ以上の説明はない。



---


最初の沈黙は重くない。


ただ“確認”の時間だった。


この人間は敵か、味方か。


過去を引きずっているか、今にいるか。



---


女が先に口を開く。


「追ってきたわけじゃないよね」


男は少しだけ眉を動かす。


「何を」


「私を」


男は短く笑う。


「違う」


その否定は軽いのに、どこか引っかかる。



---


マスターは二人を見ない。


ただ、グラスを二つ出す。


それが合図のように会話が続く。



---


男が言う。


「名前」


女は即答しない。


少し間が空く。


その間に、何かが揺れる。


「……聞きたいの?」


「確認だけ」


女は小さく息を吐く。


「昔は呼ばれてた名前ならある」



---


その言葉で空気が変わる。


過去がテーブルに置かれる。



---


男はグラスを回す。


「昔って?」


「もう終わった関係」


「誰と」


女は少しだけ視線を落とす。


「あなたみたいな人」



---


その一言が刺さる。


でも、痛みを見せない言い方だった。



---


男はしばらく黙る。


やがて言う。


「俺も、似たようなものかもしれない」


女が見る。


「何が」


「終わったはずのものを、まだ引きずってる」



---


その言葉に女は少しだけ笑う。


「多いね、そういう人」


「ここはそういう場所だろ」



---


マスターが初めて口を挟む。


「来る人、だいたい“途中”なんですよ」


二人は一瞬だけマスターを見る。


マスターはそれ以上言わない。



---


二杯目。


会話は少しずつ崩れる。


言葉の量ではなく、意味の密度が上がっていく。



---


女が言う。


「ねえ」


「何」


「私のこと、誰かに似てると思ってる?」


男は少し考える。


「似てるというより」


「より悪い?」


「より危ない」



---


女は笑う。


「それ、褒めてる?」


「警告」



---


そのやり取りの中に、妙な距離の縮まり方がある。


近づいているのに、踏み込んでいない。



---


男が言う。


「その“終わった関係”、ちゃんと終わってるのか?」


女は少し固まる。


グラスの氷が音を立てる。


「終わってるよ」


「そう言い切れる?」



---


沈黙。


長いようで短い。



---


女はゆっくり言う。


「終わらせたかったから終わった」


その言葉は、説明ではない。


願いの形だった。



---


男はそれ以上聞かない。


聞けば壊れる種類の話だと分かっている。



---


時間が少し進む。


二人の間にある空気は、もう最初とは違う。


警戒ではなく、共鳴に近いもの。



---


三杯目。


酔いではない。


判断が少しだけ柔らかくなる。



---


男が言う。


「もしその人が、今ここに来たらどうする?」


女は即答できない。


その沈黙が答えに近い。



---


やがて言う。


「多分、普通に話す」


「殴らないのか」


女は少し笑う。


「昔なら殴ってた」



---


その“昔”が、重い。


でも今は軽く言える距離になっている。



---


マスターはグラスを拭きながら小さく言う。


「ここ、そういうの整理する場所なんで」



---


その言葉で、女は少しだけ目を伏せる。



---


男が言う。


「じゃあ、整理できた?」


女は少し考える。


「まだ」


「何が残ってる」



---


女は男を見る。


長い視線。


そして言う。


「怖さ」



---


その一言で全てが変わる。



---


沈黙。


でも今度は逃げる沈黙ではない。


向き合う沈黙。



---


女が立ち上がる。


「帰る」


男も立つ。


「送る」



---


外は冷たい。


でも、さっきまでの空気よりは軽い。



---


歩きながら女が言う。


「あなた、変わってるね」


「どこが」


「近いのに遠い」


男は少しだけ間を置く。


「それ、お互い様だろ」



---


女は少し笑う。


「そうかも」



---


信号待ち。


また交差点。



---


男が言う。


「終わったんだよな」


女は少しだけ止まる。


「終わった」


今度は迷いが少ない。



---


でも続けて言う。


「でも、残ってる」



---


その言葉で夜が少し静かになる。



---


信号が変わる。


二人は別方向へ歩き出す。


でも、前より少しだけ振り返りそうになる距離。



---


マスターは店で一人言う。


「終わったものほど、ここに残るな」



---


このバーでは、終わりは消えることではない。


形を変えて、次の誰かの夜に混ざっていく。

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