第14話「触れたあとに残るもの」
夜の匂いには、記憶を引き戻す力がある。
湿ったアスファルト。
遠くの車の音。
誰かの香水。
酒の残り香。
そして、隣を歩く相手の体温。
---
ユウは、ソフィアと並んで歩いていた。
二度目の夜。
でも、不思議だった。
一度目より緊張している。
---
理由は分かっていた。
今夜は“ただの偶然”じゃないからだ。
---
ソフィアは歩きながら、小さく笑う。
「静かね」
---
「緊張してるんです」
---
「知ってる」
---
彼女は自然にユウの腕へ軽く触れる。
その仕草があまりにも自然で、ユウの鼓動が少し速くなる。
---
ソフィアはそれに気づいている。
でも、からかわない。
---
その代わり、少しだけ優しい目をする。
---
ホテルへ向かう途中。
交差点の赤信号で止まる。
---
ソフィアが前を見たまま言う。
「ねえ、ユウ」
---
「はい」
---
「怖い?」
---
ユウは少し考える。
---
「……少し」
---
「何が?」
---
その問いに、すぐ答えられなかった。
---
好きになってしまうこと。
終わったあと、空になること。
たった数日で、自分の感情がこんなに揺れていること。
---
ユウは苦笑する。
「多分、全部です」
---
ソフィアは静かに笑った。
---
「正直ね」
---
信号が青になる。
---
二人はまた歩き出す。
---
部屋へ入る。
静かな空間。
柔らかい間接照明。
窓の外には都会の灯り。
---
ソフィアはコートを脱ぎ、椅子へ掛ける。
その動作だけで空気が変わる。
---
ユウは視線の置き場に困る。
---
ソフィアはそれを見て笑う。
「まだ慣れない?」
---
「……慣れません」
---
「可愛い」
---
その言葉に、ユウは困ったように笑う。
---
ソフィアは近づいてくる。
ゆっくり。
逃がさない速度で。
---
そして、ユウのシャツの襟へ指先を添える。
---
「今日は前より、ちゃんと見てる」
---
近い。
息が触れそうなくらい。
---
ユウは小さく息を飲む。
---
ソフィアはその反応を見て、少しだけ目を細める。
---
「日本人って、我慢する顔が綺麗」
---
その言葉は危険だった。
---
ユウは思わず視線を逸らす。
---
するとソフィアが静かに顎へ触れ、もう一度こちらを向かせる。
---
「逃げないで」
---
低い声。
柔らかいのに、逆らえない。
---
ユウの鼓動が強くなる。
---
ソフィアはそのまま額を軽く寄せる。
---
「今、何考えてる?」
---
ユウは正直に言う。
---
「近いなって」
---
ソフィアは笑う。
「もっと近くしていい?」
---
返事の代わりに、ユウは小さく頷いた。
---
その瞬間。
ソフィアが静かに抱き寄せる。
---
柔らかい香水。
長い髪。
熱。
---
ユウは一瞬だけ目を閉じる。
---
ソフィアの指が背中へ回る。
ゆっくり。
確かめるみたいに。
---
「身体、熱い」
---
「ソフィアさんのせいです」
---
その返事に、彼女は少し驚いた顔をする。
---
そして、嬉しそうに笑った。
---
「そういうの、ずるい」
---
夜が深くなる。
---
会話は少なくなる。
代わりに、触れる時間が増える。
---
ソフィアは年上だった。
経験も多いのだろう。
---
でも、不思議と余裕だけではなかった。
---
時々。
ほんの時々。
彼女の方が寂しそうな顔をする。
---
ユウはその表情を見るたび、胸が少し痛くなる。
---
ソフィアがベッドへ腰掛けながら言う。
「ユウ」
---
「はい」
---
「あなた、優しすぎる」
---
ユウは苦笑する。
「よく言われます」
---
「でもね」
---
ソフィアは視線を上げる。
---
「優しい人って、一番壊れやすい」
---
その言葉が静かに刺さる。
---
ユウは何も返せない。
---
ソフィアは立ち上がり、再び近づく。
---
今度は、自分からユウの胸へ額を預ける。
---
「今日は、少しだけ甘えたい」
---
その声は、今までで一番弱かった。
---
ユウはゆっくり彼女を抱きしめる。
---
強くではない。
壊さないように。
---
ソフィアは目を閉じる。
---
静かな夜だった。
---
激しい言葉もない。
派手な音もない。
---
ただ、孤独だった二人が、少しだけ体温を分け合っている。
そんな夜だった。
---
窓の外では、街の灯りが揺れている。
---
時間はゆっくり流れる。
---
ソフィアが小さく笑う。
「ねえ」
---
「はい」
---
「今、幸せ?」
---
ユウは少し考える。
---
そして正直に言う。
---
「……かなり」
---
ソフィアは目を細める。
でも、その笑顔には少しだけ切なさが混ざっていた。
---
「それ、危ない答え」
---
ユウは意味を聞かなかった。
聞かなくても分かってしまったから。
---
幸せになった瞬間、人は終わりを怖がり始める。
---
夜は、そのまま静かに更けていく。
---
翌朝。
---
目を覚ますと、ソフィアはまだ隣にいた。
---
カーテンの隙間から朝日が差している。
---
ソフィアは薄く笑う。
「おはよう」
---
ユウも少し笑う。
「おはようございます」
---
二人とも、少し眠そうだった。
---
ソフィアはユウの髪を撫でる。
ゆっくり。
惜しむみたいに。
---
「今日もバー行く?」
---
「行くかもしれません」
---
「私も行く」
---
その言葉に、ユウは少し驚く。
---
ソフィアは笑う。
---
「二度目より、三度目の方が危ないって知ってる?」
---
ユウは苦笑する。
「なんですかそれ」
---
「本当に離れられなくなるの」
---
その言葉だけが、妙に静かに胸へ残った。
---
バーではその夜も、マスターが一人グラスを磨いていた。
---
「人は、触れたあとに孤独を知る」
---
この店では、体温を知った相手ほど、簡単には忘れられない。




