第13話「二度目の夜は、少しだけ危ない」
人は、一度だけなら“偶然”で済ませられる。
でも、二度目は違う。
そこには必ず、どちらかの意思が混ざる。
マスターは長い間この店を見てきて、そのことを知っていた。
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その夜、雨は降っていなかった。
代わりに、夜風が少し冷たい。
春が終わりかけている温度だった。
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ユウは扉の前で少しだけ立ち止まる。
入る理由を、自分でも整理できていなかった。
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仕事帰り。
疲れている。
酒が飲みたい。
それも本当。
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でも、本当は別の理由がある。
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あの夜から二週間。
イタリア人の女――ソフィアのことを、思い出さなかった日はなかった。
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たった一晩。
名前も、年齢も、細かい過去も知らない。
それなのに、身体より先に記憶へ残ってしまった。
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ユウは小さく息を吐き、扉を開ける。
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ベルが鳴る。
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マスターが視線を上げる。
「いらっしゃい」
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ユウは軽く会釈し、前と同じ席へ座る。
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「いつもの、でいいですか」
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“いつもの”。
まだ二回目なのに、その言葉が妙に落ち着く。
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ユウは苦笑しながら頷いた。
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店内には静かなジャズ。
グラスの音。
低い照明。
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全部、あの日と同じだった。
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違うのは、自分だけ。
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ユウはグラスを持ちながら、窓の外を見る。
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もう会わない。
そう思っていた。
旅の人。
一夜の関係。
そういうものだと、自分に言い聞かせていた。
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なのに。
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扉が開く。
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空気が止まる。
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ヒールの音。
長い髪。
黒いコート。
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ソフィアだった。
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ユウの呼吸が、一瞬だけ浅くなる。
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ソフィアも止まる。
数秒。
驚いた顔。
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そして、ゆっくり笑う。
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「……うそ」
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ユウは思わず笑ってしまう。
「それ、こっちの台詞です」
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ソフィアは近づいてくる。
前と同じように、自然に隣へ座る。
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「帰ったんじゃ」
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「帰った」
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「じゃあなんで」
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ソフィアは肩をすくめる。
「戻ってきた」
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その答えは、あまりにも彼女らしかった。
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マスターは静かに新しいグラスを置く。
でも、その手がほんの少しだけ遅れる。
珍しかった。
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ソフィアはユウを見る。
「会う気がした」
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ユウは苦笑する。
「そんなことあります?」
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「ある時はある」
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彼女の目は、前より柔らかかった。
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一度、夜を越えた相手。
その事実だけで、距離感が変わる。
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初対面の緊張がない。
でも、その代わり別の熱がある。
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ソフィアがグラスを持つ。
「元気だった?」
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ユウは少し考える。
「……普通です」
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ソフィアは笑う。
「普通じゃない顔してる」
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図星だった。
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ユウは視線を落とす。
「そっちは」
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「私も普通じゃない」
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その言葉に、二人同時に少し笑う。
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空気が近い。
前よりずっと。
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ソフィアはユウの横顔を見ながら言う。
「髪切った?」
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「少しだけ」
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「似合う」
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その言い方が自然すぎて、ユウは少し困る。
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「イタリアの人って、そういうの普通に言うんですね」
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ソフィアは目を細める。
「思ったこと言わないの?」
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ユウは少し黙る。
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そして、小さく言う。
「……綺麗ですね、今日も」
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一瞬だけ。
ソフィアの目が止まる。
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そして彼女は、ゆっくり笑った。
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「そういう顔で言うの、危険」
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前と同じ台詞。
でも意味は違う。
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二度目だから。
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マスターは静かに酒を注ぐ。
その音だけが、妙に鮮明に響く。
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時間が進む。
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二杯目。
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ソフィアは前より触れる。
話す時、腕が近い。
肩が触れる。
笑う時、息が近い。
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ユウは前ほど逃げられない。
慣れたわけじゃない。
むしろ逆。
彼女を知ったせいで、余計に意識してしまう。
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ソフィアが小さく笑う。
「まだ緊張する?」
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「します」
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「なんで?」
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ユウは苦笑する。
「……好きになりそうだから」
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その瞬間。
空気が静かに変わる。
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ソフィアは笑わなかった。
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代わりに、じっとユウを見る。
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その視線が長い。
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「なりそう、じゃないかも」
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低い声だった。
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ユウの鼓動が強くなる。
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ソフィアは視線を逸らさない。
「私も、多分そう」
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店内が静かになる。
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マスターが氷を落とす音だけが響く。
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恋ではないと思っていた。
一夜の熱。
孤独の共有。
それだけだと。
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でも二度目は違う。
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思い出してしまった時点で、もう戻れない。
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ソフィアが言う。
「ねえ」
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「はい」
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「今日は、帰りたくない」
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その一言が、静かに胸へ落ちる。
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ユウは答えられない。
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でも、沈黙で十分だった。
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ソフィアは少し笑う。
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「顔に出るね、日本人」
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そして。
彼女はカウンターの下で、そっとユウの手へ触れる。
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指先だけ。
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でも、その熱だけで理性が揺れる。
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ユウは小さく息を飲む。
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ソフィアは囁く。
「前より、危ない顔してる」
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マスターは視線を上げない。
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ただ静かに言う。
「二度目ってのは、だいたい始まりなんですよ」
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二人は同時にマスターを見る。
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マスターはグラスを拭きながら続ける。
「一度目は偶然。でも二度目は、どこかで会いたかった人間同士ですから」
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沈黙。
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その言葉を否定できない。
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閉店時間。
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外へ出る。
夜風。
街の灯り。
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ソフィアがユウを見る。
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「今夜も、来る?」
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前より静かな聞き方だった。
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でも、その分だけ本気だった。
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ユウは少しだけ笑う。
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「……行きます」
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ソフィアは嬉しそうに目を細める。
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二人は歩き出す。
今度は少しだけ自然に近い距離で。
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交差点。
信号待ち。
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ソフィアが小さく言う。
「ねえユウ」
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「はい」
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「会わない方がよかった?」
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ユウはすぐに首を振る。
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「全然」
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ソフィアは笑う。
その笑顔は、一度目の夜よりずっと柔らかかった。
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信号が青になる。
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二人は同じ方向へ歩いていく。
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マスターは店で一人、空になったグラスを見る。
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「人は、一度触れた温度を忘れられない」
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このバーでは、二度目に会った夜から、本当の孤独が始まることがある。




