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バー人生の交差点  作者: こうた


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第12話「夜を越える体温」

雨上がりの夜だった。


街は濡れているのに、人だけが乾いた顔で歩いている。


マスターはカウンターを拭きながら、窓の外をぼんやり見ていた。


こういう夜は、遠くから来た人間が現れる。


理由は分からない。


けれど経験上、そうだった。



---


扉が開く。



---


最初に入ってきたのは男だった。


二十代後半。


日本人。


黒いシャツに、少し疲れた目。


仕事帰りというより、“何かから逃げてきた顔”をしている。



---


男はカウンターへ座る。


「強めの、ありますか」



---


マスターは頷く。


琥珀色の酒を静かに置いた。



---


男――ユウは、小さく息を吐く。


今日は長かった。


営業先での失敗。


上司からの電話。


恋人からの別れ話。


全部が同じ日に重なった。



---


こんな日は、誰とも話したくない。


でも、一人でもいたくない。



---


そういう矛盾した夜だった。



---


数分後。


扉がもう一度開く。



---


店内の空気が少し変わる。



---


女だった。


長身。


整った輪郭。


濡れた赤いヒール。


黒いワンピース。


そして、外国人特有の“目線の強さ”。



---


彼女は店を見渡し、自然な動作でユウの隣へ座る。



---


「Buona sera」


低く柔らかい声。



---


ユウは少し驚く。


「こんばんは……」



---


彼女は笑う。


「日本語、大丈夫」



---


イタリア人だった。


年齢は三十前後だろうか。


大人の空気をまとっている。


ただ綺麗なだけじゃない。


“夜を知っている女”の雰囲気だった。



---


マスターがグラスを置く。


彼女は慣れた手つきで酒を持つ。



---


「仕事帰り?」


彼女が聞く。



---


ユウは苦笑する。


「そんな感じです」



---


「疲れてる顔してる」



---


その言葉に、ユウは少し笑った。


今日は何人にも同じことを言われた気がする。



---


「あなたも」


そう返す。



---


彼女は肩をすくめる。


「私は毎日」



---


その返し方が妙に自然で、ユウは少しだけ緊張がほどける。



---


「旅行ですか」



---


「半分」



---


「半分?」



---


「逃げてるの」



---


その言葉を、彼女は笑いながら言う。


でも目だけは笑っていない。



---


ユウはそれ以上聞かなかった。


この店では、理由を深掘りしない方がいい。



---


「名前は?」


彼女が聞く。



---


「ユウです」



---


「私はソフィア」



---


その名前の響きだけで、少しだけ現実感が薄れる。



---


二杯目。



---


会話はゆっくり続く。


仕事の話。


日本の夜。


イタリアの海。


孤独の違い。



---


ソフィアはよく笑う。


でも、その笑顔の奥には少しだけ寂しさがある。



---


「日本の男の人って、静かね」



---


「そうですか?」



---


「うん。でも、目で我慢してる」



---


ユウは苦笑する。


図星だった。



---


ソフィアはグラスを回しながら言う。


「イタリアだとね、もっとすぐ触れる」



---


「触れる?」



---


「好きとか、寂しいとか、綺麗とか」



---


彼女はユウを見る。


真っ直ぐ。


逃がさない目だった。



---


「日本人は、触れないで耐える」



---


その言葉に、ユウは返事ができない。



---


ソフィアは少し笑う。


「でも、そういうところ嫌いじゃない」



---


店の空気が少しだけ熱を持つ。



---


三杯目。



---


距離が近くなる。



---


ソフィアは話す時、自然にユウの方へ身体を向ける。


香水の匂いが近い。


甘すぎない、大人の匂い。



---


ユウは視線を逸らそうとする。


でも、時々吸い寄せられるように見てしまう。



---


ソフィアは気づいていた。



---


「見てる」



---


ユウは少し慌てる。


「すみません」



---


ソフィアは笑う。


「謝らなくていい」



---


そして少しだけ近づく。



---


「男の人に見られるの、嫌いじゃない」



---


その瞬間。


ユウの呼吸が浅くなる。



---


ソフィアはグラスを持ったまま、小さく言う。


「可愛い反応」



---


ユウは困ったように笑うしかない。



---


マスターは静かに氷を替える。


何も言わない。



---


外ではまた雨が降り始めていた。



---


ソフィアが窓を見る。


「帰れなさそう」



---


ユウも外を見る。


かなり強い雨だった。



---


「ホテル、近いの?」



---


「歩けば」



---


「濡れるね」



---


ソフィアは少し笑う。


その笑い方が妙に艶っぽい。



---


沈黙。



---


でも、不思議と気まずくない。



---


ソフィアが静かに言う。


「ねえ、ユウ」



---


「はい」



---


「今、寂しい?」



---


その質問に、ユウは少し黙る。



---


そして正直に言う。


「……かなり」



---


ソフィアは目を細める。



---


「私も」



---


その一言で、夜の温度が変わる。



---


四杯目。



---


会話は減る。


代わりに視線が増える。



---


ソフィアは時々、ユウの腕に軽く触れる。


自然な動作。


でも、そのたびにユウの鼓動は速くなる。



---


「緊張してる?」



---


「してます」



---


「なんで?」



---


ユウは苦笑する。


「綺麗な人が近いから」



---


ソフィアはゆっくり笑う。



---


「日本人って、急に真っ直ぐになる」



---


そして。


彼女は静かにユウの頬へ触れた。



---


指先だけ。


ほんの一瞬。



---


でも、その熱だけで頭が真っ白になる。



---


ソフィアは囁く。


「そういう顔、危ない」



---


ユウは息を飲む。



---


彼女の距離が近い。


視線も、吐息も、全部。



---


マスターが静かに言う。


「閉店時間です」



---


現実が戻る。



---


二人は立ち上がる。



---


外へ出る。


雨。


夜。


濡れた街。



---


ソフィアが傘を開く。


でも、一本しかない。



---


「入って」



---


二人は同じ傘へ入る。


近い。


肩が触れる。


脚が触れる。



---


ソフィアは歩きながら笑う。


「日本の夜、嫌いじゃない」



---


ユウは彼女を見る。


横顔が綺麗だった。



---


ホテル前。



---


ソフィアが止まる。



---


沈黙。



---


そして彼女はユウを見上げる。



---


「上、来る?」



---


その言葉は静かだった。


でも逃げ道はなかった。



---


ユウは少しだけ迷う。


理性が遅れて追いつく。



---


でも、その前にソフィアが笑った。



---


「無理ならいい」



---


その優しさが、逆に危なかった。



---


ユウは静かに首を振る。



---


「行きます」



---


ソフィアは小さく笑う。



---


部屋へ入る。



---


静かな空間。


雨音だけ。



---


ソフィアは靴を脱ぎ、ゆっくり振り返る。



---


その視線だけで、空気が変わる。



---


彼女は近づき、ユウのシャツに触れる。


ゆっくり。


確かめるみたいに。



---


「まだ緊張してる」



---


ユウは小さく笑う。


「……かなり」



---


ソフィアはそのまま額を軽く寄せる。



---


「大丈夫」



---


その声は、不思議なくらい優しかった。



---


夜は長かった。



---


言葉より、体温の方が多かった。



---


窓の外では、朝まで雨が降っていた。



---


翌朝。



---


ユウが目を覚ますと、ソフィアは窓際に立っていた。



---


朝の光の中でも、彼女は綺麗だった。



---


ソフィアは振り返る。


「おはよう」



---


ユウは少し笑う。


「おはようございます」



---


ソフィアも笑う。


でも、その笑顔には少しだけ終わりが混ざっていた。



---


「今日、イタリア戻るの」



---


ユウは少し黙る。



---


不思議だった。


たった一晩なのに、終わると分かった瞬間、胸が少し痛む。



---


ソフィアは近づき、軽くユウの髪を撫でる。



---


「優しいままでいて」



---


その言葉は、どこか別れ慣れしていた。



---


数時間後。


ユウがバーへ戻ると、マスターが静かにグラスを磨いていた。



---


「行っちゃいました」



---


マスターは頷く。


「旅の人でしたからね」



---


ユウは苦笑する。



---


マスターが静かに言う。


「一夜だけの関係って、不思議と長く残るんですよ」



---


ユウは窓の外を見る。


雨は止んでいた。



---


でも、昨夜の熱だけが、まだ少し身体に残っていた。



---


このバーでは、国も言葉も違う孤独が、時々同じ夜を分け合う。

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