脳内8倍速と、帰れない世界の設計者
国立ゲノム医療研究センター 未登録区画
意識移行・定着室
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【定着室】の中央に置かれたNTEC(神経熱交換クレードル)は、まるで未来の棺桶だ。
鈍く光る銀色の台座に、律は横たえられている。
彼女の頭部を覆う重厚なヘルメット状の冷却ユニット。そこからびっしりと白い霜が降りた太いパイプが複数伸び、液体窒素に近い冷媒が絶え間なく循環している。
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【Neural Stabilization:Active】
【Subjective Time Scale:4.3x】
【Emotional Variance:0.01】
【Retention rate:17.4%】
【Brain temperature:28.0℃】
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モニターに映し出される彼女の脳温は、通常の生命活動では維持が困難な28.0℃まで引き下げられていた。
加速する思考、沸騰しようとするニューロン。
それをシステムが無理やり静寂へと押さえつける。
波形を追い、研究員達が確認しながら作業していた。
その中に1人、黒のオーバーサイズシャツを羽織り髪をラフに崩した、少し軽薄な雰囲気の男がモニターではなく律の顔を見ていた
「天野りっちゃん、ね。かぁ〜わい〜。」
ジェノスケープ社から出向中のUXデザイナー、深見透也だ。
モニターの経過を見ていた研究員が報告する。
「深見さん、【19】の定着率は17.4%です。」
「ふーん、随分低いねぇ。警戒心が強いのか…異世界を信じてない感じかな?馴染むのに時間がかかりそう?」
「はい。進行スピードを上げますか?」
「う〜ん。拘束期間が1週間しかないから…とりあえず今の4を……8倍くらいにしようか。」
「了解。脳内加速、定常値の8\times(8倍速)へ移行。」
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【Subjective Time Scale:8.1x】
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頭の中に異世界を直接描写するため、時間経過も現実と乖離する。
過度な加速は発熱を招き、冷却が追いつかなければ脳は焼き切れる。
今回は春休み期間の1週間と聞いているので、急ぐ必要がある。
「可愛い子にあまり負担かけたくないんだけど…ごめんねぇ。早めに異世界に沼っちゃって。」
深見の仕事は、被験者の“体験”を設計することだ。
依存させる。だが、帰還ルートだけは残す。
戻れるようにしておかないと、肉体放棄への同意が取れていないとみなされるから。
——もっとも、実際に戻る者はほとんどいないが。
異世界でのできごとの大半は、深見が事前に作った設計を基にAIが制御しているが、彼は微調整が必要な時に介入できる権限を持っていた。
「お。定着率がいきなり5%上がったね。ちゃんと【カナデ】と接触できたかな。」
「そのようです」
「チョロいな〜、りっちゃん。……もっと警戒しなよ。」
家族を失った被験者にとって、最も強く刺さるアンカーは“家族”だ。
それに似た存在と出会えば、あちらに依存するのは時間の問題だった。
放火による火事で、突然家族を失った少女。
きっと残酷な現実より、家族がいる嘘の世界の方が幸せだろう。
律の指先が、ほんのわずかに動く。
何かを掴もうとするように。
あるいは——
どこか別の場所で、誰かに触れているかのように。
「幸せになってね。」
律から目を逸らし、深見は呟いた。
モニターの定着率が、ゆっくりと上昇していた。




