夏の冷笑大作戦───フロスト様がヨトゥンヘイム領の防衛機能についてお話があるようです。
「待て……っ! 待ってー……ッ!」
波止場で出航を待つスレイプニル丸の梯子。その手前で、私は膝に手をついて絶叫した。夏真っ盛りのヴァナヘイムは、呼吸するだけで肺が焼けそうな亜熱帯。そこをドレス姿で全力疾走したんや。死ぬかと思った。
「ゼーハー……ゼーハー……。私の……足が……遅いの……忘れたんか」
ほんま、いまドレス絞ったら、ヴァナヘイムに新しい池ができるで……。
「おや、サーシャ? どうしたんだい───通り雨にでも降られたみたいだ」
腕を組み、涼しい顔で立っていたフロストが、慌てて私を支える。暑苦しい。
今はそれどころやないんや。私は彼の胸元を掴み、アリステアから聞いた情報を吐き出した。
「……アールヴヘイムや。兄貴が唆したのは東方の技術大国。ミズガルズ王家が動いた元凶はあの国にある!」
「なんと……」
フロストの眉間に、鋭い皺が刻まれた。 そう、その反応。やっぱ走ってきてよかったわ。
「アールヴヘイムまで巻き込まれたか。……少し面倒になったな。彼らなら、ヨトゥンヘイムの極寒に耐えうる装備も持っているかも知れない」
「勝算はあるんか? 相手はドワーフの最新兵器やで」
脳内そろばんはかつてないほど『最悪』を弾き出していた。戦争が激化すれば氷の物流網にも影響が出かねん。せっかくこれまで気づいてきたものがご破算になるかも。
───そうなる前に、彼には勝ってもらう必要があった。
「大丈夫さ。攻められるのは初めてだが、ヨトゥンヘイムの『夏』を舐めてもらっちゃ困る」
フロストは不敵に笑った。ここまで私が不安になるのは、領地が今は夏であることにあった。
「氷が溶けて、攻めやすくなるんとちゃうの? 大丈夫なんか?」
「心配ないよ、サーシャ。実は冬のヨトゥンヘイムは、氷という『道』ができているから案外攻めやすいんだ。だが夏は違う。地面は逃げ場を失った雪解け水で、底なしの泥濘へと姿を変えているからね。同じヨトゥンヘイム領でも、まるで違う世界になっているよ」
フロストの言葉に、私は息を呑む。私が知っているヨトゥンヘイム領はまだ銀世界や。あとはたまに霧が深いかのどちらか。領地の外も城下町から外はあんまり興味なくて、見ることもしてへんかった。泥濘なんて当然想像できへん。
「ソリもスノーボードも使えない王国軍は、長い泥の海を彷徨うことになる。日中は濃霧で視界が消え、底なし沼が手招きするだろう。夜になれば氷点下の冷気が、泥まみれの兵士を凍えさせる。……それに俺の領地には毎年、巨大な台風がくるから───氾濫する川と泥濘の中で、彼らは進軍してきたことを後悔するだろうね」
現実にあるのは私が知る「美しい白銀の世界」とは真逆の、ドロドロとした地獄の光景らしい。
───それなら大丈夫なんか……?
「そもそもだな……平地で俺に勝てない奴らが、こちらに有利な地元にやってきて何をするつもりか、理解に苦しむ。統治者にあるまじき愚行だよ、これは」
彼の背後に、アリステアの言葉が重なる。
『鬼気迫った状態でなければ、ルールは作れない』。
もし、この防衛戦が兄貴の描いた「盤上の駒」やとしたら? フロストを嵌める作戦なのではないかと、嫌な予感がしなくもない。
「愚行……か……」
窮鼠猫を嚙むとは言うけど、確かに今回の進軍は敵側の焦りが見える。もしかすると、兄が狙ってるのは
ヨトゥンヘイムというより、むしろ───。
「……まあええわ。……ええか、フロスト。あんまり無茶しなや。あんたに万が一のことがあったら、誰が私のワガママ聞くんや」
「任せてほしい。……君は君のやりたかったことをやってくれ。それが何より、俺の助けになっているからね」
フロストは私の汗ばんだ頭を優しく撫でると、マントを翻して船に乗り込んだ。
「それじゃあ行ってくる。……夏の冷笑大作戦だ」
遠ざかる船影を見送りながら、私は口を大きく開けて叫ぶ。
「ネーミングセンスが終わってるー!そんな作戦じゃ勝てるもんも勝てへんぞー!」
吠えてはみたものの、背中を伝う汗は冷たかった。
「……全く。それじゃあお言葉に甘えて。フロストが敵を冷笑しとる間に、私はこっちを冷やして銭を稼がせてもらうとしようか」
あの紫デブキャットに最高の条件叩きつけて、ヨトゥンヘイム領に新品の大商船団を連れて帰ったろ。帰り荷は何がええやろうな。どうせなら特産品とか、美味しい食べ物とか、もっと調べてみてもええかも知れん。
フロストには悪いけど、ヴィーダルっていう可愛い褐色エルフのガイドもおることやし、ヴァナヘイム観光も後でしたいな。
───何はともあれ、商談の前に早く帰ってシャワー浴びへんとな。それぐらいの時間はあるやろ。……あって欲しいな。
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