革命前夜の泥濘 ───ナニワの令嬢、女王の正気を証明するためにドブ板外交に乗り出します
ヴィーダルの案内で波を切り、半日。ようやく辿り着いた獣人の国の玄関口で待っていたのは、期待していた歓迎のファンファーレやなかった。
「――会えへんって、どういうことやねん」
私の低い声が、熱帯の湿った空気に溶ける。眼前にそびえ立つ巨大な城門。私は女王陛下直筆の招待状を扇子と一緒に掲げていた。しかし、返ってきたのは鋭い槍の先端と、獣人兵たちの野太い怒号。
「(女王陛下は『心神喪失』により病臥中だ! 国政は軍部が代行している。怪しげな氷売りなど通す余裕はない、即刻立ち去れ!)」
「病気やて!? 先週まで『お主の氷が恋しゅうてなりんせん』って、あんなにあざとい……というか、ほぼラブレターを書いてた人が、急にボケるわけないやろ! 責任者出さんかい!」
怒りをぶつけるが、門番たちは聞く耳持たず。隣に立つフロストの威圧感にあてられたのか、城壁には弓兵までが並び始める始末や。国賓待遇のはずが、完全にテロリスト扱い。理不尽にも程がある。
◇
一度関所を離れ、私たちは街道の脇で荷馬車を止めていた地元の商人に声をかけた。おっちゃんは、山積みにされた腐りかけの野菜を前に、死んだ魚のような目で空を仰いでいた。
「(そこのおじ様、えらい物騒なことになっとるようですが。中はどうなっています?)」
獣人語で話しかけると、ピクッと犬の耳を立て、商人がこちらを向いた。
「(……あんた、北から来たのか。ソイツは運が悪い。三日前に軍部が王宮を完全封鎖したんだ)」
おっちゃんは周囲を警戒しながら、声を潜めて語り始めた。軍部の急進派がクーデターを起こし、エルフの女王と獣人の王を軟禁。さらに「女王は暑さで乱心し、正常な判断が下せなくなった」という虚偽の噂をバラ撒き、支配を正当化しているという。
「(なるほど……。女王が狂ったことにすれば、軍部は好き勝手に法を書き換えられるっちゅーわけか。あくどい商売やな、自分ら)」
私は懐から、あの手紙を取り出した。国中で「女王は乱心」と吹聴されているなら、この手紙は彼女がクーデター直前まで極めて理知的であったことを示す、世界で唯一の『正気の証明書』になる。
(これさえ公になれば、軍部の大義名分は一瞬で紙屑に変わる……。ええやん、特大の金の匂いがするわ)
隣で腕を組んでいたフロストが、氷点下の眼光を城門へ向ける。
「サーシャ。力ずくでこじ開けようか? ああいう不誠実な連中に対話は向かないと思うけど」
私が「Go」と言えば、たちまち城門は粉砕され、クーデターは物理的に鎮圧されるやろう。私らにはその力も、決定権もある。
「……筋肉で解決しようとするのは最後や。そんなんしたら、亜人と人間の全面戦争に発展しかねへん」
護衛とはいえ、完全武装したフロスト私兵団を連れとるんや。これ以上、相手を刺激したくない。
「望むところだ。血祭りにあげてやる」
ニコッと笑って城門を指さす婚約者。アカン、何も話聞いてくれてへん。背後の部下たちも、狂気的な笑みで音もなく敵を殲滅できる連射式のクロスボウを撃てる時を、今か今かと待っとった。
「アカン。落ち着いてや、フロストさん。私も内政干渉はバリバリやるつもりやけど、武力行使は流石に見栄えが悪い。やるなら大義名分を得てからや。……攻撃もされてへんのに殺しにかかるのは蛮族のすること。私らがそこまで落ちる必要はないやろ」
「ハハッ。気にしないよ」
「ちゃんと気にしてや?」
女王から一筆もらうか、向こうが先に仕掛けてくるまで。それまでは「商人」のルールで戦わなアカン。
「どこかに抜け穴あらへんかな。女王様さえ取り戻せたら、あとはこっちの好きにできるんやけど」
私の問いに、後ろで控えていたエルフの少年・ヴィーダルが顔を上げた。
「……下水道なら、あります。スラム街の奥にある排出口からなら、王宮の直下まで」
「下水道やて?」
思わず顔が引き攣る。この私が、ドブ板を歩く……?
◇
――数時間後。
私たちは、むせ返るような腐敗臭と湿気に満ちた、地下水路を突き進んでいた。カチャ、カチャ、とフロストの鎧が鳴る音が、不気味なほど鮮明に反響する。
「……最悪や。このドレス、もう減価償却前にゴミ箱行きやんか……」
フロストにお姫様抱っこされながら、僅かな松明の灯りを頼りに進む。壁を這う巨大なネズミの影が揺れる。商売の神様も、たまにはもっとマシな職場を用意してほしいもんや。
「……誰だ」
フロストが私を静かに下ろし、狭い水路用に調整されたショートソードを構える。闇の向こうから足音はせえへん。かろうじて聞こえる獣の呼吸音だけが、私の捉えた唯一の情報や。
「なんかおるんか?」
「いる……かなりの数だ」
その時。暗闇の奥から、カツン、カツン、という場違いに軽やかな足音が近づいてきた。
現れたのは中肉中背の、どこにでもいそうな平凡を絵に描いたような褪せた金髪の男。仕立ての良い旅装に身を包み、この泥濘の中でも一点の汚れもない靴を履いた、真面目そうな顔の人物だった。
「おや? ……ワァオッ ……信じられない。こんなところで会うなんて。商売の神も粋な巡り合わせをさせるものだ」
ケタケタと笑う男の顔。脳裏に、忘れかけていたマリーン・ヴェイルでの記憶や昔の記憶が鮮明に呼び起こされる。私は思わず、手に持っていた松明を落としそうになった。
「……、……アリステア兄さん?」
下水道にいたのは、かつてスプリングフェスで私の敗北を予言した、実の兄――アリステアやった。
兄さんの背後には闇に溶けるように、完全武装した猫の獣人兵たちがズラリと列をなしていた。軍部の粗野な連中とは違う。獲物の喉元を虎視眈々と狙うような、静かで、それでいて濃密な殺気。一目で精鋭やと分かった。
「そうですよ、兄さんです。ヨトゥンヘイム卿も初めまして。 いやはや噂に違わぬ嗅覚だ、末恐ろしい。……いやぁ、それにしても。こんなクソッたれの日でも、良いことはあるもんだ」
「兄さん……あんた、何する気や」
「な~に。ちょっと王様に頼まれて、この国を救いに来たんですよ。サーシャ君はジッとしていてくれたまえ。……特に、君の隣の御方に動かれると、私の計画もご破算になってしまうのでね」
兄さんは一点の曇りもない笑顔で言い切る。
「君は、金を稼ぎに来たのだろう? だったら、泥仕事は我々に任せたまえよ。我が家の才女に血は似合わないし、何より――その方が普通だ」
それだけ言い残すと、兄さんは音もなく下水道の奥へと背を向けた。連なる猫の獣人たちも、水音一つ立てない。闇の中、爛々と光る瞳の残像だけを残し、彼らは深淵へと消えていく。
外はまもなく、帳が下りる。兄さんの得意な夜がくる。
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