悪役令嬢はお休みです───代役として悪役令息様が顔を出してやったぜ
ドンドン
ノックの音がする。ミヤハが対応する。音が消える。
外で会話の声が聞こえる。あの声はフロストのものだ。
何かをミヤハと外で話している。今日は何日目だ?
寒い。痒い。寂しい。
震える目で外を見る。
……朝日がカーテンの隙間にチラついていた。
「リハまであと一日か。……ノヴァーリス商会は……考えても仕方がねぇか」
無意味な呟き。そうやって頭の中を吐き出してしまわなければ、頭の中が悪い妄想で腐るような気がした。
「ウッ……」
俺は自室のトイレに籠る。飲んでは出す。食べては出す。胃液を、血を、その全てが空になるまで。そして部屋に戻るとまた食べる。これでは畜生と代わり内ではないかと自嘲しながら。
「惨めだ……惨めだよ……」
血の滴るステーキを口に入れる。腹が減って仕方がない。舌なめずりをし、齧りつき、咀嚼し、飲み込む。体に血を補給するこのサイクルでのみ、俺の渇きは満たされた。
食後の僅かな安堵感。
テストステロンを少し取り戻した俺は、一時的にまともな思考を取り戻す。
かと言って不安が拭えるわけではない。今この瞬間にも、全ての人間が浅ましい俺の姿を滑稽に思い去っていくような不安感が全身を支配する。
そしてソレが何より憎い。怒りで食器を叩き割りそうになるが、そんなことをしてしまいそうな自分が惨めで悲しくなる。
「抑えろ……ゆっくり、深呼吸して……呼吸を落ち着かせろ。話はそれからだ」
サーシャに転生した俺は、最初の数年『アレックス』としての自我が強かった。父上もその中性的で快活な俺を『アレクサンドル』という中性的な名前を付けて下さり、可愛がってもくださった。
だが、時間が経つにつれて『サーシャ』としての自我が芽生え始めると、次第に『アレックス』としての人格は、彼女の不始末を押し付けられる人格に切り替わっていった。
それを望んだのは俺だし、そっちの方が健全だと思ったからだ。
だから俺は大部分の記憶と、それに結び付いた知識をサーシャには譲渡した。
この世界で生きて行くべきなのは、どう考えたって彼女だからだ。
───だから残ってるといえば、僅かな前世の記憶と、彼女が持っていない前世の技術くらいだろうか。
それも俺が消える時が来たらくれてやってもよかった。
アイツの運動音痴は生来のものだが、それで少しはマシになるだろう。
「てか早く大人になってもらわねえと、俺が消えれねぇ……」
俺の役割は彼女の激しい怒り、悔恨、嫉妬、それらが蓄積した心の重りを、発散するためのサブマニュピレーターのようなものである。
月に一度のメンテナンスのたびに浮上しては、彼女の精神を健全にしてまた沈む。
彼女の淀みを速やかに発散するのが俺の役目だった。
どうやって発散するかと言えば、そんなものは簡単。欲求不満の全てを解消すればいいのだ。食ってヤッて寝る。それだけだ。
血はドバドバ出て貧血になったり、情緒不安定になったりするが、それを遂行して後はジッと毛布にくるまっている。そうするだけで、サーシャの精神は落ち着いた。
「ミヤハ……早く帰ってこい……何を有徴にフロストなんかと会話している? 俺を凍えさせる気か?」
それはそうと、ガクガクガク、と毛布にくるまってミヤハを待つ。
部屋の扉の前から動かないアイツだが、いるのといないのとでは精神の安定度合いが違う。アイツはこの部屋にいるべき女だった。
俺は耳を澄ませる。
鋭敏な聴覚はこの邸にいる百十七名の人間の足取りと、ミヤハとフロストの会話を聴き分けることができた。いつもなら癪に障るところだが……腹も満たされて、今はそれに耳を傾けるぐらいには俺にも余裕ってやつが生まれていた。
「……ですからこの三日間、サーシャ様は誰とも面会できません」
「病気なのであれば医者に見せた方がいいんじゃないか? それとも単に具合が悪いなら、散歩でも……。サーシャがみんなと食事を取れないぐらい具合が悪くなるなんて、正直ちょっと考えづらいんだけど」
能天気でお日様みたいなことを言っている天然。
頭が痛くなった。
ムカつくのは、そんな言葉程度でサーシャの精神がすこぶる健全になってることぐらいだ。
こいつは昔から少し依存体質がある。頑張って隠してるみたいだけどな。
自分じゃ何にもできねぇから仕方ないのかも知れないが、だからといって男に依存されんのは困る。
俺の存在意義をアイツに奪われるのは癪に障るからな。
仕事が楽になるのはいいが、アイツが裏切らない保証がどこにある?
ジョンの馬鹿でさえサーシャを裏切ったというのに?
男に頼るメンタルケアは危険を孕む。
どうしたって自分で何とかしなけりゃならないんだ。
……だが、サーシャはそこら辺、周囲の十八歳の中でも未熟な面が残ってる。
だからこうして、弱ったら俺の人格に頼ってしまうぐらいだしな。
これでも、ダンスやらマナーなんかのストレスがたまる習い事に、一々俺が浮き出てくるなんてことが減ったのは良いことなんだが……。
にしたって月一で浮上してくんのは、いい加減止めて戴きたいものだ。
自分の体のことなんだ、自分でしっかり管理しろってんだよ全く。
「フロスト! 私はちょっと今会えない!三日後に顔出すから大人しくしてろ!」
「……! サーシャ⁉ どうしたんだ、そんなしわがれたガラガラ声で?」
扉の奥からフロストの驚く声とミヤハの溜息が聞こえてくる。
「月一の風邪みたいなものだから、心配すんな。……どうしても心配したいなら、ミヤハに言え……ソイツなら何とかする」
俺はフロストに言われたガラガラ声を搾り出しながら、布団の中で丸くなる。時間が過ぎればまた、俺の精神は穏やかではなくなる。だからその前にフロストをこの部屋の前から消す必要があった。
「ミヤハ、サーシャは風邪なのか?」
「……そのようなものです。差し入れがしたいのであれば、コチラにリストをご用意しております」
「これは?」
「サーシャ様がこの期間に口にされる一日分のお食事です」
「……す、凄い量だな。普段から食べる子だけど、一段と食欲旺盛になるのか」
俺はソレを聞いて、サーシャの精神が深く深層に沈みこんだのを感じた。羞恥で見悶えているらしい。この期間のことをサーシャは覚えておくことはできないが、感覚として察知しているのだろう。
俺はサーシャの記憶を覗けるが、アイツは俺の記憶を覗けない。
まぁこれは数少ない『俺』としての特権ともいえるだろうな。
「わかった。サーシャには早く元気になってもらいたいからな。掻き集めてみることにするよ」
ドッドッドッドッ、という馬が走るような音でフロストは俺の部屋の前から姿を消したようだった。そして少しして、ミヤハが部屋に入ってくる。
「落ち着いたようですね」
「腹が満たされりゃ、誰だって楽になるってもんだ。ミヤハ、耳掃除しろ。あと爪の手入れもな」
風呂も入りたいな。体から泥を被ったヤギか豚みたいな匂いがしてくる。
「自分でしてくださいよ。あなたならできるでしょ」
「やれるのと、やらないのは別だ。ほらっ、早くしろよ。でないとお前が昔俺に送ってきたラブレター、サーシャに見せるぞ」
「……そんなものないですよ。なんですか、妄想癖まであるんですか、あなた」
「えーと、なんだっけ。『前略アレックス様、六歳の誕生日パーティーに来ていただいてありがとうございました。ミヤハはとても嬉しくて……』」
「なんでそんな昔のことをぺらぺらと……殺されたいのですか?」
俺は扉の前に立っていたミヤハに口を抑えられ、ベッドに押し倒される。
手には磨かれた銀食器のナイフが握られていた。
この女は自分の主人の眼球が片目潰れようと、構わないというのか。
「お、おい……この体はサーシャのものだぞ。いいのかそんなに手荒な真似をして」
「どうせサーシャ様は覚えていないのでしょう」
「おいおい……」
羞恥と憤怒を湛えた眼、これ以上の辱めを受けようものなら、何をするか分からないといった苛烈な瞳に、動物の本能として俺は身の危険を感じずにはいられない。
「……チッ。降参だ。俺にできることと言ったら、古い記憶を呼び起こすぐらいのものだからな。……この程度の悪戯、乗ってくれなきゃ興ざめってもんだぜ」
「そうですか。でしたら私のコレも悪戯です」
そういってミヤハはスッとナイフを戻す。そして代わりに竹の耳かき棒を取り出して、掃除をしてくれた。
「そんな脅し文句さえなければ、普通にしてあげますよ」
「バカいえ、それが俺のアイデンティティみたいなもんだろうが」
「最悪なアイデンティティですね」
看板の話とか、かき氷機がどうなったとか。
色々気になるところではあると思いますが、ゆっくり書いて行こう思います。
次の回はサーシャ様復活回です。たぶん。
ご期待下さい。
高評価・ブックマークが執筆の燃料になります。
ブックマークして、次のお話も読んで下さい(強欲)!
それではまた、次のお話でお会いしましょう。(´・ω・)ノシ




