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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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139/221

【ポストアポカリプス】灰の道

 その日の朝、男は廃ビルの九階で目を覚ました。


 コンクリートの床に敷いたシートの上で、仰向けのまま目を開く。天井はない。上階が崩落した十七年前、そのまま放置されている。青い空が四角く切り取られていた。雲はない。風もない。良い天気だった。


 男の名前はシンジという。四十二歳。身長は百八十三センチ。体重は推定六十四キロ。体重は推定、と言うのは、この世界に体重計がほとんど残っていないからだ。残っていたとしても、電池が切れているか、液晶が割れているか、そもそも水没して錆びているかのどれかだ。


 シンジは起き上がる前に、まず耳を澄ませた。


 風の音。遠くで何かが崩れる音。鳥の声はない。この都市に鳥が戻ってきたのは三年前で、まだ数が少ない。それ以外の音はない。


(静かだ、良い)


 ゆっくりと上半身を起こし、窓の外を確認する。窓ガラスはとうの昔に割れて、枠だけが残っている。枠に手をかけて外を見た。


 高さは約二十五メートル。視界は良好だ。


 眼下には旧市街が広がっている。かつて百万人が暮らした都市の残骸だ。道路は所々で陥没し、ビルは半分が傾き、植物が隙間という隙間から這い出している。全体的に灰色だ。建物の色も、地面の色も、空気の色でさえも、全部灰色に見える。光の加減ではなく、実際に灰色なのだ。六年前の火山噴火で降り積もった火山灰が、雨で濡れて乾いてを繰り返すうちに、街全体の表面を均一な灰色に染めた。


 動くものはない。


(よし)


 シンジは荷物の確認から一日を始める。


 バックパックの中身を床に並べた。水のボトルが三本。一本は昨夜飲み切った空だ。残り二本、合わせて約千二百ミリリットル。食料は干し肉が五切れ、缶詰が二個。缶詰の一個はラベルが剥がれていて中身が分からない。開けてみないと分からないが、腐っていた場合のリスクを考えて、確実なほうから消費する。


 地図。折り畳まれた古い道路地図に、シンジ自身が書き込んだ書き込みが重なっている。赤いボールペンで引かれた現在地のマーク。目的地まで直線距離で約二百八十キロ。しかしこの距離を直線で進めることはない。橋が落ちている、道路が崩壊している、水没している、危険な集団がいる——そういった理由で迂回を繰り返すから、実際の歩行距離は四百キロを超えるだろう。


 ナイフ一本。長さ二十センチ、刃渡り十二センチ。錆が浮きかけているが、砥石で丁寧に手入れしてある。


 ライター。燃料残量は不明だが、昨日の夜に火が着いた。


 以上だ。


(少ない、しかし足りる)


 シンジはこれだけで七年間、生きてきた。


 終わりは突然だった。


 正確な日付を覚えている人間は、今やほとんどいない。カレンダーも、スマートフォンも、電気も消えた世界では、日付はすぐに意味を失う。しかしシンジは覚えている。三月十七日。あの日、電力網が完全に停止した。原因は今でも分からない。EMP攻撃という説もあった。大規模なサイバー攻撃という説も。AIシステムの暴走という説も。どれが正しかったとしても、結果は同じだった。電気が消えた。


 電気が消えると、まず交通が止まった。


 交通が止まると、食料の流通が止まった。


 食料の流通が止まると、三日後には都市で暴動が始まった。


 暴動が始まると、人が死に始めた。


 その後の六ヶ月で、人口の三分の一が死んだ。餓死、暴力、疾病、寒さ。死に方の種類は多様だったが、根本の原因は一つだった。電気がなければ、百万人規模の都市は維持できない、という単純な事実だ。人類は二百年かけて、電気なしでは生きられない種族に進化した。そしてその電気が消えた。


 七年前の話だ。


 現在、この都市に人間はほぼいない。ゼロではないが、廃墟の広さに対して人の数が少なすぎて、一日歩いても誰とも会わないことがある。残った人間たちは、小さな集落を作るか、シンジのように単独で動くかのどちらかだ。


 シンジは荷物を詰め直し、バックパックを背負った。総重量は約八キロ。これ以上重いと、一日三十キロ歩けない。


 階段を降りた。九階から地上まで、踊り場のたびに立ち止まって周囲を確認しながら降りる。七分かかった。


 地上に出た瞬間、灰の匂いが鼻を打った。


 七年間、この匂いに慣れようとしてきたが、慣れない。火山灰と腐敗と埃が混ざった、乾いた灰色の匂いだ。生きた匂いが何もない。この匂いを嗅ぐたびに、シンジは電気があった頃の朝の匂いを思い出す。コーヒーの匂い。焼いた食パンの匂い。シャンプーの匂い。


(やめろ)


 シンジは記憶を切り捨てて、歩き始めた。


 目的地は南だ。正確には南南西。約四百キロ先に、かつて火力発電所があった。その発電所が、七年ぶりに動き始めたという噂を、二ヶ月前に聞いた。噂の出所は信頼できる人間だった。


 電気が戻るかもしれない。


 その一点だけが、シンジを動かしている。



 旧市街を抜けるのに、半日かかった。


 廃ビルの間を縫うように進み、崩落した陸橋の下を潜り、土砂で埋まった地下道の脇を迂回した。進行方向に人の気配を感じるたびに、立ち止まって観察した。安全と判断してから進む。危険と判断したら迂回する。


 この判断が、七年間シンジを生かしてきた。


 正午頃、川に出た。


 川幅は約四十メートル。橋は七年前の洪水で落ちている。欄干だけが水面から突き出ていて、かつて橋があったことを示していた。上流三百メートルに、コンクリートの残骸が積み重なった浅瀬がある。シンジはそこを渡ることにした。


 浅瀬の水深は膝下、約四十センチ。石が濡れていて滑りやすい。一歩ずつ確認しながら進む。対岸まで約八分。途中で一度バランスを崩したが、ナイフを収めた腰のホルダーが濡れる前に体勢を立て直した。


 対岸に渡って、靴を脱いだ。靴下を絞る。約三十ミリリットルの水が出た。靴の中敷きを取り出して、日光に当てながら歩く。乾くまで約一時間。それまでは靴の中が不快だ。


(どうということはない)


 先を急いだ。


 午後三時過ぎ、住宅地の廃墟に人の気配を感じた。


 立ち止まる。壁に背をつける。息を浅くする。


 気配の方向は右斜め前、約二十メートル先の崩れかけた民家だ。煙草の煙の匂いがかすかにする。少なくとも一人、屋内にいる。


(動くな、待て)


 シンジは五分間、動かなかった。


 五分後、民家の戸が開いて、男が一人出てきた。年齢は三十代後半。痩せている。右手に太い棒を持っている。目つきが鋭い。シンジの存在にはまだ気づいていない。男は空を見上げ、伸びをして、扉の前で小便をした。


(一人か)


 シンジは民家の窓を確認した。二階の窓に、人影が一つ。


 二人だ。


 男は小便を終えて家の中に戻った。扉が閉まる。


 シンジは壁沿いに素早く移動し、民家から見えない角度のルートを選んで、百八十度迂回した。余分に約四百メートルの距離が加わったが、接触を避けるためなら安い。


(正しい判断だ)


 七年間で、シンジが学んだ最大の教訓は一つだ。出会いは選べ、ということだ。


 電気が消えた後の世界で、人間は二種類に分かれた。


 生き延びるために協力しようとする人間と、生き延びるために奪おうとする人間だ。


 比率は、だいたい半々だった。


 シンジは両方と会ってきた。前者には助けられたことがある。後者には二度、殺されかけた。だからシンジは、知らない人間と接触する前に、必ず観察する。観察して、判断してから、接触するかどうかを決める。


 これが正しい方法かどうかはわからない。ただ、この方法でシンジは生きている。


 夕暮れ前に、郊外の農地跡に出た。


 かつて水田だった場所が、今は雑草に覆われている。しかし雑草の中に、人の手が入った痕跡がある。畝の跡。草が刈られた区画。誰かが農業を試みた場所だ。


 区画の端に、小さな野菜が育っていた。


 シンジはしゃがんで確認した。大根だ。小指の太さほどしかない、育ちの悪い大根が三本、土から頭を出している。


(誰かが育てている、取るな)


 シンジは立ち上がって、その場を離れた。


 自分が食べるものは自分で確保する、というのがシンジの原則だ。他人の食料を奪わない。奪えば、その人間が死ぬかもしれない。シンジが死なせた人間の数は、この七年間でゼロだ。その記録を維持したかった。


 記録を維持するための理由が、シンジにはもう一つある。


 妻のことだ。


 妻の名前はユキといった。三十八歳。シンジより四歳下だった。電気が消えた二年後、疫病で死んだ。


 ユキは生きていた間、一度もシンジに「誰かを殺さないで」と言わなかった。しかしシンジには分かっていた。ユキが何を望んでいたかを。ユキは、シンジが人間として死ぬことを恐れていた。身体が生きていても、人間として死ぬことを。


 だからシンジは、奪わない。殺さない。七年間、その二点だけを守り続けた。


 農地跡を抜けると、一本道に出た。


 両側に防風林が並ぶ、真っ直ぐな農道だ。視界が開けた。南の空が橙色に染まっていた。日没まで約一時間。


(今夜の寝床を探せ)


 道路の右側、防風林の向こうに廃農家が見えた。近づいて確認する。扉は壊れて吹き飛んでいるが、屋根は残っている。二十平米ほどの土間。壁は三面が無事で、一面に大きな亀裂が走っているが崩落はしていない。


(使える)


 先客の痕跡はない。虫と鼠の気配はあるが、それは許容範囲だ。土間に枯れ草を集めて簡易な寝床を作り、バックパックを降ろした。


 夕食は干し肉二切れ。水を三口飲む。合計約百八十ミリリットル。残りを計算する。朝には補給が必要だ。明日の午前中に川か池を探す。


 食事を終えて、地図を開いた。


 今日の移動距離を確認する。出発点から現在地まで、地図上の距離で約二十七キロ。実際の歩行距離は、迂回を含めて三十二キロほどだろう。


 目的地まで残り約二百五十キロ。


 このペースで進めば、九日から十日で着く。天候次第では十四日かかるかもしれない。


(着けるかどうかより、着いた時に何があるかだ)


 噂が正しければ、発電所が動いている。電気がある。


 電気があれば何ができるか。シンジは目を閉じて考えた。


 まず照明が灯る。夜が怖くなくなる。冷蔵庫が動けば、食料を保存できる。ポンプが動けば、清潔な水を安定して供給できる。無線機が動けば、遠くと連絡できる。医療機器が動けば、助かる命が増える。


 そしてもし、誰かが情報を集めていれば——この七年間で何が起きたかを記録していれば——失われた知識を繋ぎ直すことができるかもしれない。


(それだ、それが必要だ)


 シンジは医師だった。電気が消える前は、市内の総合病院で外科医をしていた。


 七年間、シンジは医師として動いてきた。正確には、医師の知識を持つ人間として、助けられる人間を助けてきた。薬は少ない。器具はもっと少ない。それでも知識だけは残っている。消毒の方法、傷の縫合、骨折の固定、感染症の初期対応。シンジの手が届く範囲で、何人かは助かった。


 しかし知識だけでは限界がある。


 三年前、シンジが出会った集落で、十二歳の女の子が盲腸炎を起こした。腹膜炎に移行する前に手術が必要だった。しかし麻酔がなかった。正確には、麻酔薬は手に入れられたが、麻酔を安全に管理するための機器がなかった。シンジは手術を試みたが、失敗した。女の子は三日後に死んだ。


 あれ以来、シンジは電気のある場所を探し続けている。


 電気があれば、あの子は生きていたかもしれない。


 外が暗くなった。


 シンジは枯れ草の上で横になり、天井を見た。屋根の一部に穴が開いていて、星が見えた。四つ、五つ。


 ユキと夜空を見たことを思い出した。電気があった頃は、都市の光が強すぎて星がよく見えなかった。電気が消えた後の夜は、恐ろしいほど星が多かった。ユキは初めて満天の星空を見た夜、「きれい」と言った。次の瞬間、自分でその言葉を消すように黙った。


 きれいだと思う余裕があることへの、後ろめたさだったかもしれない。


 あるいは、きれいな星空のために何万人もが死んだことへの、怒りだったかもしれない。


 シンジには分からなかった。ユキに聞けばよかった。あの夜、聞けばよかった。


(眠れ)


 目を閉じた。


 眠るまでに二分もかからなかった。



 翌朝、シンジは日の出より三十分早く目を覚ました。


 体内時計の精度は七年間で上がっていた。電気があった頃はスマートフォンのアラームなしでは起きられなかったのに、今は必要な時間に正確に目が覚める。人間の身体は案外、適応するものだとシンジは思っている。


 今日の空は曇りだ。


 雨になるかどうかは、午前中に判断する。雨が本降りになれば、行動を止めて雨宿りする。雨の中を歩くことで体温が下がり、体力を消耗することのデメリットの方が、一日の移動距離を失うデメリットより大きい。


 まず水を探した。


 廃農家から南東に約二百メートルの場所に、用水路があった。水は流れていない。底に溜まった雨水が残っているだけだ。色は少し濁っている。臭いを確認する。腐敗臭はない。表面に膜はない。


(使える)


 直接飲まない。沸かすか、あるいは浄水剤を使う。浄水剤は残り四錠。貴重品だ。今回は焚き火で沸かすことにした。


 廃農家に戻り、乾いた枯れ草と折れた木片でを集めた。ライターで火を着ける。一回で着いた。鉄製のカップに水を入れて、沸騰させた。沸騰を確認してから、さらに三分間沸かし続ける。冷めるのを待って、ボトルに移した。


 合計約八百ミリリットル。今日の行動量に対して、最低限ギリギリの量だ。


 朝食は干し肉一切れと、缶詰の一個。プルタブを引くと、大豆の水煮だった。塩気がない。しかし食べないよりはいい。全部食べた。


 出発した。


 今日も南だ。


 曇り空の下、廃農家から続く農道を進む。防風林の木々が風に揺れている。葉の音だけが聞こえる。足音を自分でも確認しながら歩く。コンクリートの上では固い音、土の上では柔らかい音。道の状態を音で把握する。


 二時間歩いたところで、集落に出た。


 廃集落ではなく、人が住んでいる集落だ。


 最初に煙の臭いで気づいた。次に、畑の臭い。土を耕した、有機的な臭いだ。それから声が聞こえてきた。複数の声。子供の声も混じっている。


(集落だ)


 シンジは慎重に近づいた。


 集落は農道の突き当たりにあった。古い農家が七軒、コの字型に並んでいる。その中央の広場で、五人の人間が作業をしていた。大人が三人、子供が二人。大人の一人が農具を持ち、畑の土を耕している。もう一人が薪を割っている。三人目は座って何かを編んでいる。子供たちは走り回っている。


 武器を持っている人間はいない。少なくとも目には見えない。


 シンジは農道から外れて、集落の右側面に回り込んだ。集落の全体を把握したかった。裏手に回ると、追加で二軒の農家と、小さな物置が見えた。物置の前に老人が一人、椅子に腰かけて日を浴びている。


(全部で六人、子供が二人、敵意のある素振りはない)


 接触することにした。


 シンジは正面から集落に入った。


 作業していた三人の大人が気づいた。農具を持った男が体を起こして、シンジを見た。警戒の表情だ。しかし逃げない。薪を割っていた男が斧を持ったまま立ち上がった。


 シンジは両手を開いて腰の高さで前に出した。武器を持っていないことを示す、七年間で確立したサインだ。


 農具を持った男が何か言った。


「通りがかりです。水を分けてもらえませんか」


 シンジは言った。


 男は眉をひそめた。言葉が通じているかどうか、確認しているようだった。


「南から来ましたか、北から」


 別の男が聞いた。薪割りをしていた男ではなく、座って何かを編んでいた、小柄な女だった。


「北からです」


「何を持っていますか」


「食料と水とナイフ。それだけです」


 女はシンジを見た。上から下まで、素早く確認するような視線だった。


「入ってください」


 女がそう言うと、農具の男が渋い顔をした。女が男に何か短く言った。男は黙った。


 シンジは集落に入った。


 案内されたのは、七軒のうちの一軒だった。薄暗い土間に、木製のテーブルと椅子が二脚。テーブルの上に陶器の皿が一枚。壁に地図が貼られていた。シンジが持っている道路地図と同じ種類だが、書き込みがずっと多い。赤、青、緑、三色の書き込みが密集している。


 女は椅子に座り、シンジにも座るよう促した。


「どこへ行きますか」


「南西の発電所です」


 女の表情が変わった。わずかに、しかし確かに変わった。


「知っていますか」


「知っています」


 女は少し間を置いた。


「あそこには行かないほうがいい」


「なぜですか」


「動いていません」


 シンジは女を見た。女の目は真剣だった。嘘をついているようには見えない。


「誰かが確認しましたか」


「三ヶ月前に、ここの男の一人が行きました。発電所は廃墟でした。人もいなかった。電気もなかった」


噂が間違いだったか。あるいは三ヶ月の間に何かが変わったか。


「その男は今いますか」


「いません。帰ってくる途中で行方不明になりました」


 シンジは黙った。


 女はシンジを観察していた。


「あなたは何者ですか」


「通りがかりの旅人です」


「医療の知識はありますか」


 シンジは少し驚いた。なぜその質問が出るのかを考えた。


(誰かが病気か、怪我をしているのだろう)


「あります。外科医でした」


 女の表情が、初めて柔らかくなった。


「少し待ってください」


 女は立ち上がって外に出た。しばらくして、男を一人連れて戻ってきた。さっきの農具の男だ。男の右腕に、布が巻いてある。


「三日前から熱があります。腕が腫れています」


 シンジは男の腕を確認した。布を解くと、肘から手首の間に赤い腫れがあった。熱を持っている。中心部に白っぽい点が見えた。


膿んでいる。感染症だ。(切開して膿を出す必要がある)


「何で切りましたか」


「鉄の棒です」


「いつですか」


「五日前です」


(五日、感染から三日で腫れが出たなら進行は標準的だ、今ならまだ間に合う)


「切開します。痛いです。我慢できますか」


 男は無表情に頷いた。


 シンジはバックパックからナイフを出した。火で炙って消毒する。女に沸騰した水を頼んだ。清潔な布も頼んだ。


 男を椅子に座らせ、腕をテーブルの上に伸ばさせた。


「動かないでください」


 男は頷いた。


 シンジはナイフの先端を腫れの中心に当てた。一気に刺す。膿が溢れ出した。男が低い声を出したが、動かなかった。シンジは布で膿を拭いながら、腕を軽く押して残りの膿を押し出した。量は約三十ミリリットル。色は黄色く混濁している。臭いは強い。


 沸かした湯で傷口を洗った。清潔な布で覆った。


「これで完全に治るとは言えません。しかし膿を出したことで、熱は今日か明日には下がるでしょう。三日後に布を換えて、傷口を確認してください。また膿が溜まっていたら、同じことをしてください」


 女が聞いた。


「薬は必要ですか」


「あれば、抗生物質があったほうがいい。ただし七年前から保存されている薬は、もう効果が薄れているかもしれません。清潔にして、安静にすることの方が大切です」


 処置を終えた。


 女は水を一リットルと、乾燥した豆を一握りをシンジに渡した。


「ありがとう」


「いえ」


 シンジは水を受け取り、豆を受け取った。


礼は受け取れ。断ることは相手の厚意を傷つける。


 これもユキに教わったことだ。


 シンジが集落を出ようとすると、女が後ろから呼んだ。


「発電所のことですが」


 シンジは振り返った。


「三ヶ月前に確認したのは事実です。でも、あなたが言う噂を流したのが三ヶ月より前であれば、その後に何か変わったかもしれない」


「そう思っています」


「東回りで行くと、廃工場の群れを通ります。そこに、独自に発電機を動かしている人間たちがいると聞いたことがあります。四ヶ月前の情報ですが」


「どのくらい東に行けばいいですか」


「この道を東に約十五キロ。それからまた南へ。詳しくはわかりません」


(十五キロ、一日の余分だが情報が手に入るなら価値がある)


「ありがとうございます」


「気をつけて」


 女はそれだけ言って、集落に戻った。


 シンジは東へ歩き始めた。



 東回りのルートは、女の言った通り廃工場の群れを通っていた。


 大小合わせて十数棟の工場が、フェンスで囲まれた広大な敷地に並んでいた。フェンスの一部は倒れている。錆びたフォークリフトが何台か、駐車場に放置されている。


 そしてたしかに、動いている機械の音がした。


 低い、継続的な振動音だ。エンジンではなく、発電機の音だとシンジには分かった。外科医として病院に勤めていた頃、停電時に作動する非常用発電機の音を聞いたことがある。あれに似ていた。


 フェンスの外から声をかけた。


「誰かいますか」


 反応はなかった。


 もう一度、今度は大きな声で呼んだ。


 工場の一つから人影が出てきた。三十代くらいの男だ。作業着を着ている。手に工具を持っていた。


「何だ」


「通りがかりです。この先の発電所のことを聞きたい」


 男は立ち止まった。シンジを見た。


「南の発電所のことか」


「そうです」


 男はしばらく考えていた。


「入れ」


 男はフェンスの穴からシンジを招き入れた。


 工場の中は、外見から想像するより整然としていた。棚に工具が並んでいる。床が掃除されている。奥に大型の発電機があって、それが動いていた。発電機から伸びたケーブルが、天井のライトに繋がっている。


 電球が光っていた。


 シンジは七年ぶりに電球の光を見た。


 蛍光灯ではなく白熱電球で、光は弱く、黄色かった。しかしそれは確かに電気の光だった。


(動いている、電気がある)


「燃料は何を使っていますか」


 男は振り返った。意外そうな顔をした。


「廃油だ。近くの農機具店から集めてきた。まだ二年分はある」


「この発電機一台で全部まかなっていますか」


「今は三台ある。もう二台は修理中だ」


 シンジは発電機を見た。出力を確認しようとしたが、計器が読めなかった。


「どのくらいの出力が出ますか」


 男はシンジを見た。


「あんた、エンジニアか」


「外科医です」


 今度の男の反応は、朝の集落の女と同じだった。表情が変わった。


「外科医か」


「元です。今は旅人です」


「なぜ南の発電所のことを聞く」


「電気がある場所を探しています。電気があれば、助けられる命が増える」


 男はシンジを見続けた。何かを判断しようとしている目だった。


「発電所の話を聞いたのか」


「二ヶ月前に噂を聞きました。三ヶ月前に廃墟だったと言う人もいます」


「どちらも正しい」


 シンジは黙って続きを待った。


「三ヶ月前は廃墟だった。今は違う」


(動いているのか)


「本当ですか」


「俺たちが動かした。二ヶ月前から。噂を流したのも俺たちだ」


 男はそう言って、奥の椅子に腰かけた。シンジにも座るよう顎で示した。


「なぜ噂を流したんですか」


「人を集めるためだ」


「どんな人間を」


「使える人間を。医者、エンジニア、農業の知識がある人間、教師。電気が戻っただけでは、何も解決しない。電気を使える知識が必要だ」


(そういうことか)


 男は続けた。


「俺たちは発電所を動かした。次は病院を作りたい。学校も作りたい。でも俺たちだけじゃ足りない」


「人が何人いますか」


「今は四十二人。半年前から集め始めた。目標は百人だ」


 シンジは工場の天井を見た。電球の光が、黄色く空間を満たしていた。


この光の中で手術ができる。あの十二歳の女の子に、麻酔をかけることができる。


「俺は一人です。役に立てるかどうか分かりません。でも行きます」


 男は少し笑った。この七年間で人間が笑った顔を見るのは、何度目だろうとシンジは思った。


「名前は」


「シンジ」


「カワベだ。よろしく」


 二人は握手をした。


 カワベの手は、エンジンオイルで真っ黒だった。シンジの手は、処置した後でもまだわずかに血の臭いがした。


 その夜、シンジは工場に泊まった。電球の下で眠った。


 天井に黄色い光が揺れていた。


 目を閉じる前に、シンジはユキのことを考えた。ユキが生きていたら、この光を見てどう言っただろう。


(きれい、とは言わないだろう)


 ユキならこう言うはずだ。


「ようやく、人間らしくなってきたね」


 シンジは目を閉じた。


 電球の光が、まぶたの裏に滲んだ。


 翌朝、シンジは発電所へ向かった。カワベと一緒ではなく、一人で。カワベには、一度一人で行くと伝えた。発電所が本当に機能しているかどうか、自分の目で確認したかった。カワベは何も言わずに地図を書いて渡した。


 発電所まで約六十キロ。二日の行程。


 シンジは歩いた。


 曇り空の下、灰色の風景の中を、南に向かって歩き続けた。


 七年間歩き続けた道の先に、今度は何があるか。


 分からない。分からないが、昨日よりは少しだけ確かな何かがあった。


 シンジは歩くペースを落とさなかった。一歩一歩、確かめるように踏みしめながら、南へ進んだ。

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水が死んだ日

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