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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【倫理SF】安全な手

 ヨウ子が教壇に立つとき、まず生徒の腰を確認する。


 ホルスターの位置、銃把の角度、ストラップの緩み。三十一年間、毎朝繰り返してきた習慣だ。乱れがあれば授業前に直させる。それが小学校教師としての最初の仕事だった。


 四月の始業式の朝、ヨウ子は一年一組の教室に入った。新一年生が二十六人、椅子に座って黒板を見ている。制服の上から標準型ジュニアホルスターを装着した、六歳と七歳の子供たちだ。銃はまだ入っていない。入学式の翌週、「銃の日」に初めて支給される。それまでの一週間は、空のホルスターをつけて登校する決まりになっている。


 ヨウ子は教壇の前で立ち止まり、二十六人の顔を見渡した。


 緊張している子、きょろきょろしている子、すでに退屈そうな子。毎年同じ顔ぶれだ、とヨウ子はいつも思う。名前は変わるが、表情の種類は変わらない。


「おはようございます」


 ヨウ子が言うと、二十六人がバラバラのタイミングで「おはようございます」と返した。


「私は田中ヨウ子先生です。今日からみなさんの担任です。一年間よろしくお願いします」


 ヨウ子はゆっくりと話す。ゆっくり、はっきり、落ち着いた声で。これも三十一年間変えていないことだ。感情管理の授業では、教師自身が手本でなければならない。


「今日は最初なので、一つだけ大事なことを話します」


 二十六人が静かになった。


「みなさんの腰には、今、空のホルスターがついています。来週からそこに銃が入ります。銃をもらったら、最初に何をすると思いますか」


 手が三本上がった。ヨウ子は一番端の女の子を指した。


「撃っていいか確認する」


「そうです。でもその前に、もっと大事なことがあります」


 ヨウ子は黒板に文字を書いた。太いチョークで、大きく。


 抜かない勇気。


「これが、この学校で一番大切なことです。銃は持っています。でも抜かない。それが一番強い人間です。一年間かけて、一緒に勉強しましょう」


 二十六人は黒板を見ていた。



 放課後、職員室でヨウ子は記録をつける。


 銃管理日誌だ。


 教師も生徒と同じように、毎日記録をつける義務がある。午前の安全確認、午後の安全確認、発射の有無。発射がなければ「0」と書く。三十一年間、ヨウ子の日誌の発射欄はすべて「0」だ。


 ファイルは三十一冊ある。職員室の引き出しに綴じてある分と、自宅に保管してある分を合わせて。一度、同僚の男性教師に「よくそんなに丁寧につけますね」と言われた。ヨウ子は「当たり前です」と答えた。記録をつけることは義務だ。義務は果たす。それだけのことだ。


 今日の欄を開く。


 午前:安全確認 異常なし

 午後:安全確認 異常なし

 発射:0


 ヨウ子はボールペンで「0」と書いた。今日で一万一千三百二十一日連続だ。正確な日数は記録から計算できる。ヨウ子はその計算を時々する。励みになるからではなく、記録の正確さを確認するためだ。


 職員室を出る前に、ホルスターのクリップを確認した。緩んでいない。銃把の角度が正しい位置にある。安全装置が作動している。


(確認完了)


 ヨウ子は職員室の電気を消して廊下に出た。



 ヨウ子が教師になったのは二十三歳のときだ。


 感情管理教育が義務化されて五年後のことだった。銃所持義務法が施行されたのはヨウ子が十二歳の時で、その二年後から学校教育への組み込みが始まった。ヨウ子が小学校六年生の時、初めて「感情管理」という教科の授業を受けた。担任だった女性教師が、黒板に「抜かない勇気」と書いた。


 ヨウ子はその文字を見て、決めた。


 自分もこれを教えたい、と。


 理由は単純だった。恐ろしかったからだ。


 十二歳で銃を持った日、ヨウ子は一日中手が震えた。金属の重さが腰にあることが、怖くて仕方がなかった。引き金を引けば誰かが死ぬかもしれない物体を、自分が持ち歩いている。その事実が、ヨウ子には耐えられないほど重かった。


 しかし周りの同級生は違った。


 銃を得た翌日、男子の何人かはホルスターを自慢げに見せ合い、早抜きの練習をした。女子の中にも、銃把にシールを貼ってきた子がいた。怖がっているのはヨウ子だけのように見えた。


 担任の女性教師だけが、ヨウ子と同じ顔をしていた。


 その教師は「銃は道具ではありません、責任です」と言った。その一言がヨウ子の三十一年間を作った。



 六月の終わり、一年一組の教室でヨウ子は感情管理の授業をした。


 テーマは「怒りを感じたとき」だ。


 銃のAI制御システムが搭載されてから十八年が経つ。現在流通しているほぼすべての銃に、心拍数センサーと脳波モニターが内蔵されている。所持者の感情状態をリアルタイムで計測し、規定値を超えた興奮状態では引き金が機能しなくなる。これを「感情ロック」と呼ぶ。


 感情ロックが解除されるのは、所持者が「平静状態」に戻った時だ。平静の基準は心拍数毎分九十以下、脳波のアルファ波比率が六十パーセント以上、皮膚電気抵抗が規定値内。これらすべてが満たされた時、銃は「安全解除」状態になる。


 しかし逆に言えば、平静状態であれば、銃は撃てる。


 怒りで撃つことはできないが、冷静に撃つことはできる。


 この矛盾を子供に教えるのが、感情管理授業の核心だった。


「怒っている時、銃は撃てません」ヨウ子は言った。「でも怒りを抑えた後は、撃てます。だから怒りを抑えることと、撃たないことは、別のことです」


 一年生の一人が手を挙げた。丸顔の男の子で、名前はコウタという。


「じゃあ怒りを我慢したら撃っていいんですか」


(鋭い質問だ)


「良い質問です。コウタくん、我慢することと抑えることは同じだと思いますか」


 コウタは首をかしげた。


「ちがう、かも」


「そうです。我慢は、怒りをお腹の中にしまっておくことです。抑えるのは、怒りを小さくすることです。我慢した怒りはいつか出てきます。抑えた怒りは、小さくなって消えます」


 コウタはまだ首をかしげていた。六歳に理解させるには難しい概念だとヨウ子も知っている。しかし毎年、この説明をする。毎年、わかったような顔をする子と、わからない顔をする子がいる。わからない顔をしている子の方が、真剣に聞いているとヨウ子は思っている。


「先生はどうするんですか、怒った時」


 別の子が聞いた。


「先生は、深呼吸します。それだけです」


 ヨウ子は実際に一度、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


「三十一年間、それだけでやってきました」



 ヨウ子の自宅は学校から徒歩十二分の場所にある。


 2DKのマンションで、一人暮らしだ。夫はいない。結婚したことがあるが、十五年前に離婚した。子供もいない。


 帰宅すると、まず玄関でホルスターを外す。専用の壁掛けフックに掛ける。これが帰宅後の最初の動作だ。銃は外さない。ホルスターごと掛けておく。自宅でも銃を手の届く場所に置く義務がある。玄関フックはその義務を満たしつつ、日常生活の邪魔にならない位置として、ヨウ子が選んだ場所だった。


 夕食は簡単なものを作る。今日は豆腐と卵の味噌汁と、白米。野菜炒め。一人前を丁寧に作る。


 食事中、テレビをつけない。静かな方が好きだからではなく、ニュースが感情を乱すことを知っているからだ。銃所持義務化以来、発砲事件のニュースは毎日ある。ヨウ子はそれを見るたびに、胃が締まる感覚がする。だから夕食中は見ない。


 食後、入浴。就寝前に翌日の授業準備を三十分。


 就寝は午後十時三十分。


 ベッドに入る前に、玄関のホルスターを確認する。安全装置が作動していること。銃が正しく収まっていること。確認してから寝室に入る。寝室の扉を閉める。


 眠るまでに時間はかからない。三十一年間、ヨウ子はだいたい十五分以内に眠れる。これも、感情管理の成果だとヨウ子は思っている。余計なことを考えない。明日の準備は終わっている。心配事はその日のうちに整理する。だから眠れる。


 ヨウ子の夜は、いつも静かだ。



 七月の三連休の最終日、ヨウ子の銃に国家管理センターから定期メンテナンスの通知が届いた。


 AIシステムの更新と、ログデータの確認。年に二回ある義務メンテナンスだ。翌日の朝、ヨウ子は指定の銃砲店に銃を持参した。


 店は学校の近くにある、小さな個人経営の銃砲店だ。三十年来の付き合いで、店主の名前はノムラという。六十代の痩せた男で、いつも油の染みた作業着を着ている。


「田中先生、お久しぶりです」


「よろしくお願いします」


 ヨウ子はホルスターごとカウンターに置いた。ノムラは銃を取り出し、慣れた手つきで分解し始めた。


「今日は定期メンテと、ログ確認ですね」


「そうです」


 ノムラは作業しながら、端末を操作した。ログデータをシステムに読み込ませる。数秒後、画面に数値が並んだ。


 ノムラの手が止まった。


「田中先生」


「はい」


「ちょっと確認したいんですが」


 ヨウ子はカウンター越しにノムラの顔を見た。表情が、いつもと違う。何かを慎重に選んでいるような顔だ。


「発射ログが出ています」


「発射ログ」


「はい。四十七回」


 ヨウ子は意味が理解できなかった。


「四十七回、というのは」


「前回のメンテナンスから今日まで、この銃が四十七回発射されています」


 しばらく、ヨウ子には言葉が出なかった。


「それは」


「はい」


「おかしいです。私は一度も」


「わかっています」ノムラは静かに言った。「ただ、ログはこう出ています。詳細を見ますね」


 ノムラが端末を操作した。画面にログの詳細が表示された。


 発射時刻が一覧になっている。


 最初のログは六ヶ月前の十月十四日。時刻は午前二時十七分。


 次は十月十九日。午前三時四分。


 その次は十月二十六日。午前一時五十一分。


 すべて深夜だ。ヨウ子は一覧を目で追った。時刻はすべて午前一時から四時の間に集中している。


「深夜ですね」ノムラが言った。


「私は眠っています」


「はい」


「眠っている間に、銃が」


 ヨウ子は自分の声が遠く聞こえた。


「AIが自動発射した可能性があります」ノムラはゆっくり説明した。「感情ロックシステムは、覚醒時の感情を制御するものです。ただし、睡眠中の状態については別の動作をすることが、最近の研究で分かっています。夢を見ている時、脳波が特定のパターンを示すと、AIが外部脅威への応答と判定して」


「発射する」


「することがあります。極めてまれですが」


 ヨウ子はカウンターに手をついた。


 四十七回。すべて深夜。すべて、自分が眠っている間。


「弾は」


「四十七発、消費されています」


「どこに飛んだか」


「それは、この端末では確認できません。国家管理センターに問い合わせれば、弾道ログが出ます」


 ヨウ子は頷いた。



 国家管理センターへの問い合わせに、三日かかった。


 平日の午後、センターから電話があった。担当者は女性で、落ち着いた声だった。


「田中ヨウ子様の銃のログについて、確認が取れました」


「はい」


「四十七回の発射のうち、四十三回は壁や天井への着弾を確認しています」


「自宅の」


「はい。弾道データと、田中様の住所の建物構造図を照合した結果、すべて田中様の自宅内への発射です」


 ヨウ子はそれを聞いて、小さく息を吐いた。


 四十三回は、自宅の壁だった。それなら、誰も傷つけていない。


「残りの四回ですが」


 担当者の声が、わずかに変わった。


「田中様の自宅の窓から外への弾道が確認されています」


「窓から」


「はい。四回のうち三回は、近隣の建物への着弾を確認しています」


 ヨウ子は何も言えなかった。


「三回とも、夜間に発生しています。そのうち一回は、近隣住民の男性、当時五十七歳の方が死亡した日時と一致します」


「死亡」


「はい。五年前の十一月、死因不明として処理されていた案件です。同様に、七年前と三年前にも、近隣で死因不明の死亡が報告されています。両件とも、田中様の銃の発射ログの日時と一致しています」


 ヨウ子は電話を持ったまま、立っていた。


「三人、ですか」


「確定ではありません。弾道が一致するということです。正式な捜査については、管轄の警察署から連絡が来る予定です」


「わかりました」


 ヨウ子は電話を切った。


 静かなリビングの中で、ヨウ子はしばらく動かなかった。


 窓の外に午後の光が傾いている。夏の終わりの、薄い光だ。



 夜、ヨウ子は銃管理日誌を引き出した。


 三十一冊。最初の一冊を開く。ヨウ子が二十三歳の時から書き始めた日誌だ。最初のページに、細い文字で「田中ヨウ子」と書いてある。


 発射欄を見た。


 「0」が並んでいる。毎日。一日も欠かさず。三十一年分の「0」。


 一万一千三百二十一個の「0」。


 どの「0」も、ヨウ子が書いたものだ。どの「0」も、ヨウ子が正しいと信じて書いたものだ。嘘をついたことはない。本当に、覚えていない。覚醒している間は、一度も撃っていない。


 しかし、四十七回、発射されていた。


 ヨウ子は最新の日誌を開いた。今日の日付のページ。


 午前:安全確認 異常なし

 午後:安全確認 異常なし

 発射:


 ヨウ子はボールペンを持った。


 「0」と書くべきか。


 今日の昼間、ヨウ子は撃っていない。それは事実だ。しかし六ヶ月分の発射ログを考えれば、「0」は正確ではない。


 ヨウ子はボールペンを置いた。


 「0」を書かなかった。初めてのことだった。



 警察から連絡が来たのは、その翌々日だった。


 担当刑事が自宅に来て、状況の確認と銃の提出を求めた。ヨウ子は淡々と応じた。銃を渡し、経緯を説明し、ログのコピーを提出した。


 刑事はヨウ子よりずいぶん若い男性で、帰り際にこう言った。


「田中さん、眠れていますか」


「眠れています」


 刑事が帰った後、ヨウ子は銃のなくなったホルスターを眺めた。


 壁のフックに掛かった、空のホルスター。


 六歳の子供たちが入学式の翌週まで使う、空のホルスターと同じだ。


 ヨウ子は「抜かない勇気」を三十一年間教えてきた。


 抜いたことはなかった。


 しかし眠っている間に、三人が死んでいた。


 ヨウ子はホルスターから目をそらした。


 明日も授業がある。一年一組の二十六人が教室で待っている。今日のテーマは「感情を数える」。怒りを感じたら、一から十まで数える。数え終わる頃には、少し落ち着いている。その練習をする予定だ。


 ヨウ子はダイニングの椅子に座った。


 三十一年分の日誌が机の上に積んである。すべてのページに「0」がある。三人の死亡日に書かれた「0」も、その中にある。


 ヨウ子はそれを見つけようとしなかった。


 見つけたとして、どうするべきか、わからなかった。


 その夜、ヨウ子は十五分以内に眠れなかった。


 初めてのことだった。


 眠れないまま時計を見た。午前一時を過ぎていた。


 銃はない。今夜は発射されない。それだけは確かだ。


 ヨウ子はそのことに、安堵した。


 その安堵が、何を意味するのかは、考えなかった。



 警察の調査が進む中、ヨウ子は通常通り授業をした。


 生徒には何も話さなかった。保護者にも話さなかった。学校側には銃を提出したことだけを報告した。銃のない状態での勤務は原則として禁止されているが、捜査中の特例として一時的に認められた。ヨウ子は銃のないホルスターだけをつけて教壇に立った。


 子供たちは気づかなかった。六歳と七歳には、ホルスターの中身まで確認する習慣がまだない。


 一週間後、コウタが手を挙げた。算数の授業中だった。


「先生、銃がないの」


 ヨウ子は少し驚いた。


「気づきましたか」


「うん、なんか軽そう」


 ヨウ子は少し考えた。


「今、修理に出しています」


「壊れたの」


「少し、不具合がありました」


「早く帰ってくるといいね」


 コウタはそれだけ言って、算数のプリントに視線を戻した。


 早く帰ってくるといいね。


 その言葉が、ヨウ子の胸に刺さった。刺さったまま、抜けなかった。


 自分は銃が帰ってきてほしいのか。


 答えがわからなかった。


 捜査の結果が出るのに、さらに二週間かかった。


 刑事が再び自宅に来た。今度は二人で来た。もう一人は上司らしく、年配の男性だった。


「田中さん、捜査の結果をお伝えします」


 ヨウ子はダイニングに二人を通した。


「三件の死亡案件について、田中さんの銃から発射された弾と、現場で発見された弾頭が一致しました」


「三件すべて」


「はい。ただし」年配の刑事が続けた。「発射がAIによる自動発射であることも確認されています。睡眠中の田中さんが、意図的に発射した証拠はありません」


「それは」


「故意性がないと判断しています。ただ、AI自動発射による死亡という事例は前例がなく、法的な解釈については現在、省庁レベルで検討中です」


「私は罪になりますか」


 二人の刑事は顔を見合わせた。


「それは現時点では答えられません」年配の刑事が言った。「ただ、当面の間、銃の返却は保留になります」


 二人が帰った後、ヨウ子は三十一冊の日誌を眺めた。


 一万一千三百二十一個の「0」。


 三件の死亡と一致する日付の「0」も、その中にある。ヨウ子にはそれを探す気力がなかった。探しても、何も変わらない。「0」は「0」だ。ヨウ子がその夜、確かに眠っていたことの記録だ。


 ただ、銃は眠っていなかった。


 ヨウ子は日誌をファイルに戻した。引き出しを閉めた。


 翌朝、ヨウ子はいつも通り出勤した。ホルスターをつけて。空のホルスターを。


 教室に入る前に、二十六人の腰を確認した。ホルスターの位置、銃把の角度、ストラップの緩み。全員、正しい。


 ヨウ子は教壇に立った。


 今日のテーマは「正しいこととは何か」だ。六歳に教えるのは難しいテーマだとヨウ子も知っている。しかし感情管理教育のカリキュラムに、この授業は含まれている。


「正しいことをしていれば、誰かを傷つけることはありますか」


 ヨウ子は問いかけた。


 二十六人が考えた。


 コウタが手を挙げた。


「ある、と思う」


「なぜですか」


「わかんないけど、なんとなく」


 ヨウ子は頷いた。


「そうです。正しいことをしていても、誰かを傷つけることがあります。だから正しいことをすれば大丈夫、とは言えません」


 では何をすればいいか、とヨウ子は続けようとした。


 しかし、言葉が出なかった。


 三十一年間、「抜かない勇気」を教えてきた。抜かなければ、誰かを傷つけない。そう信じてきた。


 眠っている間に、三人が死んでいた。


 抜かないことは、正しかった。しかし三人は死んだ。


 ヨウ子はもう一度、二十六人の顔を見た。


 答えを持っていない子供たちが、ヨウ子を見ていた。答えを持っているはずの大人を見ていた。


「先生も、まだ考えています」


 ヨウ子はそう言った。


 初めて、授業でそう言った。


 二十六人は静かだった。コウタだけが小さく頷いた。

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水が死んだ日

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