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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【SF文学】反射角

第一章 最初の朝


 世界が気づいたのは、物理学者が最後だった。


 二〇三一年四月三日、月曜日の朝。東京、杉並区。六畳のアパートの洗面台で、ハルは自分の顔を見た。


 何かがおかしかった。


 目の下の泡を拭い、もう一度見る。鏡の中の自分が、わずかに右にずれている。


 右目が、あるべき位置より数ミリ右にある。


 ハルは首を左に傾けた。鏡の中の自分も左に傾ける。同期はしている。だけど、位置がずれている。


 鏡が歪んでいるのかもしれない、とハルは思った。安物だから。三千円で買ったやつだから。


 蛇口を閉め、タオルで顔を拭き、出勤した。


 


 二〇三一年四月三日。同じ朝。


 世界中で、同じことが起きていた。


 ニューヨーク。マンハッタンのオフィスビル。百五十階の窓から朝日が差し込む。エミリーは自分のコンパクトを開いた。口紅を塗ろうとして、手が止まった。唇が、鏡の中でわずかにずれている。右に。一ミリか、二ミリか。


 ロンドン。グリニッジ天文台の研究室。アレクシスが望遠鏡の調整をしていた。昨夜と同じ角度に設定したはずなのに、ターゲットの星が視野の中心からわずかにずれている。


 ムンバイ。建設現場。作業員のラジェシュが、水平器を使って柱の垂直を確認しようとした。水平器の気泡が、微妙に定位置ではない。昨日と同じ柱を確認しているのに。


 


 誰も、すぐには騒がなかった。


 ズレは小さかった。一度未満。〇・九三度。


 人間の目で識別できる限界に近い。


 「機器の誤差だろう」「古い鏡が歪んだんだろう」「気のせいだろう」。


 そういう理由で、四月三日は終わった。


 


 しかし、四月四日の朝。


 ズレは大きくなっていた。


 ハルは洗面台の鏡を見た。昨日より、明らかにずれている。


 鏡の中の自分の顔が、今度は一センチ近く右にある。


 ハルは鏡の枠を手で押さえた。動かない。固定されている。鏡自体が物理的にずれているわけではない。


 しかし、映っている自分の顔がずれている。


 ハルはスマートフォンのカメラを鏡に向けた。スマートフォンの画面に映る鏡の映像には、ずれはない。


 正常に映っている。


 しかし、ハルの目で直接見ると、ずれている。


 どういうことだ。


 


 四月四日、午前九時。


 ツイッターのトレンドに「鏡がおかしい」が入った。


 世界中から、同じ投稿が溢れ始めていた。


 「鏡の中の自分の位置がずれてる。誰か同じ現象の人いる?」


 「昨日から鏡の映り方が変だ。左右は逆じゃない。位置がずれてる」


 「光学機器が全部おかしい。望遠鏡で観測している星が昨日と座標が違う」


 


 四月四日、午後二時。


 東京大学物理学部。


 緊急会議が召集された。三十人の教授と研究者が、大会議室に集まっていた。


 「現時点で確認できていることを整理します」


 物理学科主任の吉田教授が、前に立って言った。六十代。白髪。眼鏡をかけている。話し方は常に冷静だ。


 「昨日の朝から、反射角に異常が観測されています。計測によると、ズレは〇・九三度。今朝の計測では一・八六度。つまり、一日あたり〇・九三度ずつ増加しています」


 「つまり、毎日一度ずつズレていく、ってこと?」後方の席から若い研究者が言った。


 「正確には〇・九三度ですが、実質的にはそうです」


 沈黙。


 「原因は?」


 「不明です。しかし、これが事実であれば、単なる光学現象ではありません」


 吉田教授はホワイトボードに数式を書き始めた。


 「反射角の法則は、マクスウェル方程式から導かれます。電磁場の運動方程式です。これが成立しないということは」


 教授は書くのを止めた。


 「空間の対称性が崩れている可能性があります」


 会議室が静まり返った。


 


 ハルはその日、会議室にいなかった。ハルはただのシステムエンジニアだ。IT企業に勤めている。物理学者でも天文学者でもない。


 だけど、ハルには気になることがあった。


 


 昼休み。オフィスのデスクで、ハルはネットを検索していた。


 「反射角 異常 原因」


 出てくる情報は混乱していた。科学的な考察、陰謀論、宗教的解釈、パニック投稿。全てが混在している。


 ハルは科学的な記事を探す。


 一つ、論文のプレプリントを見つけた。昨夜投稿されたばかりのもの。著者はMITの物理学者。


 タイトル:「反射角偏差の初期観測:物理定数の時間変動の可能性」


 ハルには専門的な部分は分からなかった。だけど、結論の部分は理解できた。


 「もしこの変化が一定の速度で継続するならば、反射角が四十五度ずれるまでに、およそ五十日かかる計算となる。その時点では、通常の反射像は形成されない。さらに九十日後には、反射角が九十度となり、鏡は光を吸収するか、垂直方向に反射するだけの板となる」


 ハルは計算した。


 九十日後。六月下旬。


 


第二章 加速する世界


 四月二十日。十七日目。


 反射角のズレは、十五・八度に達していた。


 世界の景色が変わり始めていた。


 東京の街。高層ビルのガラス外壁が、異常な方向に光を反射するようになっていた。


 以前は、ビルのガラスは斜め下方向に光を反射し、歩道に影を作った。しかし、今は違う。反射角がずれているため、太陽光が予測不能な方向に飛ぶ。


 午前十時。渋谷の交差点で、ビルの外壁から反射した光が、道路の一点に集中した。アスファルトが焦げた。周囲の人間が逃げた。警察が規制線を張った。


 ニューヨーク。マンハッタンのビル街では、同様の現象がより深刻だった。ガラス張りの超高層ビルが多いため、反射光が複数の経路で集中し、小規模な火災が複数発生した。


 消防署が大忙しだ。しかし、消防車が来ても、次の火災がどこで起きるか予測できない。反射角が日々変化しているため、昨日の安全な場所が今日は危険になる。


 


 病院でも、問題が起きていた。


 内視鏡、レーザー手術装置、MRI。これらの医療機器の多くは、光の反射を利用している。反射角がずれることで、装置の精度が落ちた。手術中に、予定していた部位とは違う場所にレーザーが当たる事故が相次いだ。


 世界保健機関が緊急声明を出した。「光学系医療機器の使用を一時停止し、代替手段を検討すること」


 


 軍事分野でも混乱が起きた。


 精密誘導兵器のほとんどは、レーザー誘導を使用している。反射角の変化により、誘導精度が大幅に低下した。これがある国では「好機」とみなされ、軍事的な緊張が高まった。


 


 天文学は、吉田教授の言葉通り、壊滅的だった。


 反射望遠鏡は全て機能不全に陥った。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の観測データが、一週間前から信頼できない状態になっていた。NASAのエンジニアたちが姿勢制御を試みたが、問題は望遠鏡の機構ではなく、物理法則そのものにあるため、どうにもならなかった。


 


 ハルは、そういう状況を毎日ニュースで見ながら、自分のアパートの洗面台の鏡を見ていた。


 四月二十日の朝、鏡の中の自分の顔は、実際の位置から右に三センチほどずれていた。


 三センチのずれ。


 数字で言えば小さい。しかし、視覚的には気持ちが悪い。自分の顔が、いるべき場所にいない。


 ハルは歯を磨きながら、ずれた自分の顔を見た。


 慣れてきている自分に気づいた。


 


 会社の同僚のカエデが、今日も洗面所の鏡の前で化粧をしていた。


 「これ、慣れないよね。目の位置がずれてるから、どこに描いてるのか分からない」


 「鏡を見ないで描けばいいんじゃないの」とハルは言った。


 「それができたら苦労しないって」


 カエデは真剣な顔で、鏡の中のずれた自分の顔に向かってアイラインを引こうとしていた。しかし、左右の目元の高さが違う出来上がりになっていた。


 「もういいや」カエデはアイライナーをしまった。「化粧やめる」


 「意外と関係ないよ」とハルは言った。


 「でも、自分の顔が見えないって、なんか怖い。鏡って、自分の顔を確認するためにあるものじゃん。それができなくなるって」


 カエデの言葉が、ハルの頭に残った。


 


 帰宅してから、ハルは窓の外を見た。


 夜の東京。


 街灯の光が、建物のガラスに反射して、奇妙な方向に飛んでいた。


 いつもとは違う夜景だ。


 光が、あるべき場所に届いていない。


 あるべき場所ではない場所に届いている。


 


 ハルは日記を書く習慣がある。スマートフォンのメモアプリに。


 四月二十日の日記:


 「鏡の中の自分が、ますますずれている。三センチくらい。カエデが言っていた『自分の顔が見えない』という感覚、分かる気がする。自分の顔を確認する手段がなくなるというのは、思ったより不安なことだ。私は今、どんな顔をしているのだろう。他人は私の顔を正しく見えているのだろうか。それとも、他人の目にも私の顔はずれて見えているのだろうか」


 


第三章 五十日目


 五月二十三日。


 反射角のズレは四十六・五度に達した。


 予測通り、四十五度を超えたため、鏡に像がほとんど形成されなくなった。


 洗面台の鏡を見ても、自分の顔が見えない。


 光が乱反射するため、鏡は白い散乱板のようになっていた。


 


 世界中から「鏡が使えない」という投稿が溢れた。


 しかし、人々はすぐに別の方法を見つけた。


 スマートフォンのカメラ。タブレット。パソコンのウェブカメラ。


 これらのデジタルカメラは、物理的な反射を使わない。光を電気信号に変換する。だから、反射角の異常の影響を受けない。


 スマートフォンのカメラで自分の顔を確認するのが、新しい「鏡」になった。


 朝、洗面所でスマートフォンを出して、インカメラで自分の顔を確認する。


 化粧もインカメラを見ながらする。


 髪も、インカメラで確認しながら整える。


 人々は適応していた。


 


 しかし、問題はそれだけではなかった。


 都市の光害が深刻になっていた。


 反射角が四十五度を超えたため、光が予測不能な方向に飛ぶようになった。ビルのガラス外壁からの反射光が、道路に当たったかと思えば、次の瞬間には空に向かって飛んでいく。


 夜の東京は、昼間のように明るくなった。


 反射した光が街中に広がるため、空が白くなっていた。


 星が見えない。


 光が多すぎて、夜が夜でなくなっていた。


 


 電力消費も増大していた。


 太陽光発電パネルが、正常に機能しなくなっていた。パネルに当たった光が想定外の方向に反射し、電力変換効率が大幅に低下した。


 一方で、街中の反射光が増えたため、本来なら暗いはずの場所に光が当たるという逆の現象も起きた。


 予測不能な光の分布。


 


 ハルは五月二十三日の夜、アパートの窓から外を見ていた。


 真夜中の十二時。


 空が白い。


 星が一つも見えない。


 光が多すぎて。


 東京の夜空が、白く濁っていた。


 ハルは日記に書いた。


 「夜が消えた。正確には、夜の暗さが消えた。真夜中に太陽ほどではないが、薄曇りの昼間くらいの明るさがある。眠れない。目が光に慣れてしまって、暗くないと眠れない身体なのに、部屋を真っ暗にしても、窓の外からの散乱光が入ってくる。街が、光で満ちている。綺麗だと思う人もいるだろう。だけど、私には不安だ。自然の秩序が壊れている感じがする」


 


 その夜、ハルはある動画を見た。


 物理学者のポッドキャスト。


 吉田教授が出演していた。


 「今後の見通しについてどうお考えですか」とインタビュアーが訊いた。


 「率直に言いましょう」吉田教授は言った。「このまま変化が継続すれば、六月下旬には反射角が九十度に達します。その時点では、鏡に光を当てると、光は九十度の方向に反射します。つまり、光の進行方向に対して垂直な方向に飛ぶ。鏡は完全に機能しない」


 「それ以降は?」


 「さらに変化が続けば、百三十五度になります。光が入射した方向の逆側に反射する。つまり、鏡が光を跳ね返す」


 「鏡が光を跳ね返す?」


 「後方反射です。入射した方向に戻す。この状態では、鏡は黒い板のように見えます。光を全て吸収しているのと視覚的には同じです」


 「最終的には?」


 「百八十度になると、入射した光が完全に逆方向に返ります。この状態では、鏡は光源として機能します。太陽光を当てると、太陽の方向に向けて光が返る。空が光るようになる」


 「それは、地球規模での問題になりますね」


 「そうです。しかし、最大の問題はそこではありません」


 吉田教授は少し間を置いた。


 「この変化が何を意味するかです。反射角の法則は、空間の対称性から導かれます。空間の対称性が崩れているということは、私たちの存在する空間の基本的な性質が変化しているということです。それがどこに向かっているのか、私には分かりません」


 


 ハルはイヤホンを外した。


 窓の外。


 白い東京の夜空。


 空間の基本的な性質が変化している。


 ハルには、それが何を意味するか、具体的には分からない。


 だけど、怖い、と思った。


 


第四章 鏡のない世界


 六月一日。五十九日目。


 反射角のズレは五十四・九七度。


 鏡は完全に機能しなくなっていた。


 洗面台の鏡を見ても、白い光が拡散するだけ。像が結ばない。


 世界中の人間が、毎日スマートフォンのカメラで自分の顔を確認していた。


 


 しかし、スマートフォンにも問題が出始めていた。


 カメラレンズの内部にも、反射鏡が使われている。レンズ内の光の経路が乱れ始めた。一部のカメラモデルでは、撮影した画像がぼやけるようになった。


 製造各社が急いで修正に動いたが、ソフトウェアで補正できる範囲を超えつつあった。


 人々が、自分の顔を確認する手段が、一つずつ失われていった。


 


 ハルは、ある日の朝、スマートフォンのカメラが正常に機能しないことに気づいた。


 インカメラで自分の顔を撮ろうとすると、映像がぼやける。


 ハルは外付けのウェブカメラをパソコンに繋いだ。こちらはまだ鮮明だ。


 パソコンの画面に自分の顔が映る。


 久しぶりに、はっきりと自分の顔を見た。


 鼻の下に、昨日できたニキビがある。


 目の下に、疲れからくるクマがある。


 最後に鏡で自分の顔を正確に見たのは、いつだったろう。


 もう一ヶ月以上前だ。


 


 六月一日。夕方。


 ハルの会社で、緊急ミーティングがあった。


 ITシステムの見直しについてだ。


 会社が使っている光ファイバー通信システムの一部が、反射角の異常により性能が低下していた。光ファイバーは、光を内部の鏡面で反射させながら伝送する。その反射角が乱れると、通信ロスが発生する。


 「最悪の場合、六月末には現在の通信速度の三〇パーセント程度まで低下する可能性があります」システム部長が言った。


 「代替手段は?」


 「電波通信への切り替えを検討しています。しかし、インフラの整備に時間がかかります」


 会議室の全員が、同じことを考えていた。


 六月末まで、あと一ヶ月もない。


 


 ハルは会議室の窓から外を見た。


 昼間。晴れた空。


 ビルのガラス外壁から、光が奇妙な角度に飛んでいた。斜め上に向かって、光の柱のように。


 きれいだと思った。


 異常なのに、きれいだと思った。


 


 会社帰り。駅のホームで、隣に立っていた老人が話しかけてきた。


 七十代くらい。杖をついている。


 「あなた、鏡見られてますか」


 突然の問いかけに、ハルは少し驚いた。「最近は、パソコンのカメラで見てます」


 「そうですか」老人は頷いた。「私は目が悪くて、スマートフォンが使えなくて。鏡が見られないと、自分の顔が分からなくて困っています」


 「不便ですよね」


 「不便というより、怖いんです」老人は真剣な顔で言った。「自分の顔が分からないというのは。自分がどんな顔をしているか、他人にどう見えているか。それが分からない。なんか、自分という存在が曖昧になっていく感じがして」


 電車が来た。老人は乗らなかった。ハルは乗った。


 


 電車の中で、ハルは考えた。


 老人の言葉。


 自分の顔が分からないというのは、自分という存在が曖昧になっていく感じ。


 ハルには、少し分かる気がした。


 鏡は、自分を確認する手段だ。


 自分の外見を。自分の表情を。自分の存在を。


 それが失われていく。


 自分の顔が、世界から消えていく。


 


第五章 七十日目


 六月十二日。七十日目。


 反射角のズレは六十五・一度。


 光害は深刻になっていた。昼夜を問わず、街が明るい。ビルのガラスから跳ね返った光が、あらゆる方向に飛び散るため、街全体が光の霧に包まれているようだった。


 政府は「光害対策緊急法」を制定した。


 都市部のガラス外壁を持つビルに、反射光の散乱を抑えるフィルムの貼付を義務化した。しかし、費用と時間がかかるため、完全な対応には数ヶ月かかる見通しだ。


 


 農業にも影響が出始めていた。


 植物の光合成は、太陽光の当たる量に依存する。反射角の変化により、光の分布が変わった。これまで日照が十分だった農地に、予期しない影ができるようになった。逆に、日陰だった場所に過剰な光が当たる。


 農家が混乱した。どこに何を植えればいいのか、以前の経験則が通用しなくなった。


 


 ハルの生活も、少しずつ変わっていた。


 朝、起きる。


 洗面台の鏡は白い散乱板。像が結ばない。


 パソコンを開く。ウェブカメラで自分の顔を確認する。


 歯磨きをする。


 朝食を食べる。


 窓の外は、朝なのに異様に明るい。前夜から散乱した光が街に満ちている。


 出勤する。


 これが、七十日目のハルの朝だ。


 


 その日の昼休み。


 ハルはビルの屋上に上がった。会社のビルは二十階建て。屋上から東京が一望できる。


 屋上から見ると、街の異常がよく分かった。


 ビルとビルの間の路地に、光の柱が立っている。反射光が複数の経路で集中した場所だ。


 川の水面が、あるべき方向とは違う方向に光っている。


 遠くの山の、雪が残っているはずの部分が、異様な光り方をしていた。


 世界の光の地図が、書き換えられていた。


 ハルはしばらく、その景色を見ていた。


 怖いけれど、見続けてしまう。


 光がおかしくなっていく世界。


 だけど、光は確かにある。


 光が消えたわけではない。


 あるべき場所にないだけで、光そのものは存在している。


 


 その日の夜、ハルのスマートフォンに通知が来た。


 吉田教授のオンライン講演の案内だ。


 「反射角偏差の現状と、今後の展望について」


 ハルは申し込んだ。


 夜八時。


 パソコンの画面に、吉田教授が現れた。研究室からの中継。白い壁。棚には専門書。


 「今日は、少し異なる角度からお話ししたいと思います」教授は言った。「これまで、私はこの現象の物理学的な説明に注力してきました。しかし、今日は違う話をします」


 画面の中の教授が、少し間を置いた。


 「私が物理学者になったのは、世界の法則を知りたかったからです。なぜ物は落ちるのか。なぜ光は波のように伝わるのか。なぜ宇宙は今の形をしているのか。そういう根本的な問いに答えたかった」


 「今、私はその法則が変化していく様子を目の当たりにしています。四十年間、不変だと信じていた法則が、変わっている」


 「正直に言えば、怖い、です。私も」


 会場がざわめいた。オンラインのコメント欄に、リアクションが流れた。


 「しかし、怖いだけではないとも思っています」教授は続けた。「世界の法則が変わっているということは、世界は私たちが思っていたよりも、もっと可変なものだということです。固定されていない。変わりうる。それは、恐ろしいことですが、同時に」


 教授はまた間を置いた。


 「可能性でもある。そう思っています」


 


 ハルはその言葉を、日記に書き留めた。


 「可能性でもある。吉田教授の言葉。世界の法則が変わるということは、可能性でもある。今はまだ、何の可能性なのか分からない。だけど、その言葉は、今の私には必要だった気がする」


 


第六章 八十八日目


 七月一日。八十八日目。


 反射角のズレは八十一・八四度。


 九十度まで、あと八・一六度。


 あと九日で、鏡は光を垂直方向に反射するだけになる。


 


 世界は、変化に慣れつつあった。


 適応の速度は、人間の方が予想より速い。


 鏡の代わりにデジタルカメラを使う生活が、もはや「普通」になっていた。朝の洗面所でスマートフォンを開くことは、以前の世代が鏡を見ることと変わらない日常になっていた。


 光害への対応も進んでいた。多くのビルにフィルムが貼られ、光の散乱が抑えられた。夜の街の明るさは、以前の異常な状態より少し落ち着いた。


 農業は、新しい光環境に適応した作物の研究が始まった。光の方向が変わった世界での農業技術。


 医療は、光学系を使わない診断技術の開発が急速に進んだ。超音波、MRI(磁気共鳴は反射角に影響されない)、AIによる画像診断。


 


 だけど、消えないものがあった。


 心の中の、ある種の違和感。


 


 ハルは、七月一日の夜、友人のコウヘイと電話していた。


 コウヘイはカメラマンだ。以前は風景写真を撮っていた。


 「仕事、どう?」


 「変わった」コウヘイは言った。「光の動きが変わったから、以前と同じ場所で同じ時間に撮っても、全然違う写真になる。最初は困ったけど、今は面白いと思ってる」


 「面白い?」


 「うん。同じ場所が、毎日違う表情を見せてくれる。光が変わるから。これって、すごくない?同じ場所が、毎日違う場所になってる」


 ハルは少し考えた。


 「それは確かに面白いかも」


 「お前はどう?」


 「私は...ずっと日記書いてる。この現象が始まってから。毎日の変化を」


 「日記?」


 「うん。鏡が見えなくなっていく様子とか。街の光が変わっていく様子とか。自分がどう感じているかとか」


 「それ、残しといた方がいいよ。絶対に後で価値が出る」


 「価値というか、自分のために書いてるんだけど」


 「分かる。でも、こんな世界の変わり目を記録しているのは、ある意味、すごいことだと思う」


 電話を切ってから、ハルはしばらく窓の外を見た。


 七月一日の夜の東京。


 以前より明るい。しかし、以前ほど混乱していない。


 人々が、変わった世界に適応している。


 


 ハルは、ふと思った。


 反射角がずれていっても、人は生きている。


 鏡が見えなくなっても、人は自分の顔を確認する方法を見つけた。


 光害が増えても、対策を取った。


 農業が変わっても、適応しようとしている。


 人間は、変化した世界の中で、生きていく。


 


 それが、ハルには少し誇らしかった。


 


第七章 九十日目


 七月三日。九十日目。


 反射角のズレは八十三・七度。


 あと六・三度で九十度。


 今週末には、九十度に達する。


 


 吉田教授のチームが、緊急の発表をした。


 「反射角の変化が、ある特定の値に近づくと、減速する可能性があります」


 発表によると、ここ数日の変化速度が、わずかに遅くなっていた。〇・九三度から〇・八七度へ。僅かだが、明確なデータとして出ていた。


 「これが単なるブレなのか、本当の減速なのか、まだ断定できません。しかし、変化が一定ではない可能性を提示します」


 


 世界がざわめいた。


 「止まるのか?」


 「元に戻るのか?」


 希望的な観測が広がった。


 


 ハルは、その発表を読みながら、奇妙な気持ちになっていた。


 元に戻ってほしい、と思う。


 しかし同時に、戻らなくてもいいかもしれない、とも思う。


 


 この九十日間で、世界は変わった。


 鏡に頼らなくなった。


 光の動きを前提に作られたシステムが、見直された。


 人々が、自分の顔を確認する新しい方法を身につけた。


 


 そして、ハルは気づいたことがある。


 鏡が使えなくなった世界で、人々は他人の顔をよく見るようになった。


 自分の顔を確認できないなら、他人の顔を見て、間接的に自分の状態を知ろうとする。


 「今日、顔色悪いよ」「目が赤いよ」「なんか元気なさそう」。


 他人が、鏡の代わりになった。


 


 鏡は、自分だけで自分を確認するための道具だ。


 しかし、その道具が機能しなくなった時、人は他者を必要とした。


 


 ハルはそれを日記に書いた。


 「鏡のない世界で、人は他人の目を鏡にし始めた。自分の顔を教えてもらう。自分の状態を教えてもらう。これは、悪くないかもしれない。鏡があると、自分一人で自分を見られる。それは便利だけど、孤独でもある。鏡がなければ、誰かに頼らなければならない。それは不便だけど、繋がりを生む」


 


エピローグ 九十七日目


 七月十日。九十七日目。


 反射角のズレは八十八・四一度。


 変化は確実に減速していた。


 最新のデータでは、一日あたりの変化は〇・六一度まで落ちていた。


 吉田教授のチームは、新しい予測を発表した。


 「変化速度がこのペースで減速し続けた場合、反射角の変化は九十度付近で安定する可能性があります」


 九十度で安定。


 それは、鏡が永遠に機能しない世界だ。


 しかし、世界が終わるわけではない。


 光は存在する。ただ、反射の仕方が変わっただけだ。


 


 ハルは九十七日目の朝、いつものようにパソコンのウェブカメラで自分の顔を確認した。


 疲れた顔。だけど、目は生きている。


 


 洗面台の鏡を、久しぶりにじっくりと見た。


 真っ白な散乱光。像が結ばない。


 以前は、この鏡で毎朝自分の顔を確認していた。


 今は、もうできない。


 


 ハルは鏡に手を当てた。


 冷たいガラスの感触。


 この鏡は、壊れているわけではない。


 世界の法則が変わったから、機能しなくなっただけだ。


 


 ハルは、鏡に映る白い光を見ながら、思った。


 反射角がずれても、世界は続いている。


 人は適応した。


 完全に元には戻らないかもしれない。



 


 窓の外。


 七月の朝。


 光が、変わった法則で世界を照らしている。


 ビルのガラスから反射する光が、以前とは違う方向に飛んでいる。


 それはもはや、異常ではない。


 新しい普通だ。


 


 ハルはパソコンを開いた。


 日記のアプリ。


 最後の一行を書く。


 「九十七日目。世界の法則は変わった。鏡は使えなくなった。光は違う方向に飛ぶようになった。だけど、世界は続いている。私も続いている。反射角がずれても、存在することは変わらない。ただ、見え方が変わっただけかもしれない。自分の、世界の、見え方が」


 


 アパートの外で、朝の光が奇妙な角度に跳ね返っていく。


 あるべき場所ではない場所へ向かいながら。


 確かに輝きながら。

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