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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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136/221

【神話SF】セイレーン

プロローグ


 地球が、歌を聴いた。


 二〇四九年三月十五日、二十一時四十七分。


 その瞬間を、後に人類は「沈黙の七秒間」と呼ぶ。


 世界中の鳥が飛ぶのをやめた。


 犬が吠えることをやめた。


 風さえも、止まった。


 そして、二十億の人間が、同時に呼吸を忘れた。



第一章 世界記録の夜


 東京。二〇四九年三月十五日。午後六時。


 渋谷スクランブル交差点の上空三百メートルに、巨大な顔が浮かんでいた。


 縦百メートル。横六十メートル。ドローン三百万機が精密に配置され、光の粒子で形成された立体映像。空中に浮かぶ、一人の女性の顔。


 アリア・ソル。


 二十八歳。


 人類史上、最も多くの人間に愛された歌手。


 その事実は、もはや誰も疑わない。


 彼女のアルバムは発売三日で十億ダウンロードを突破した。昨年のワールドツアーは、百五十都市で開催され、全公演が数分でチケット完売した。世界経済フォーラムは「アリア・ソルは一つの産業だ」と発表した。ロールス・ロイス、シャネル、スペースXが彼女とのコラボレーションを競い合う。


 しかし、彼女はそういった話を好まない。


 インタビューで、アリアはこう言った。


 「私は歌いたいだけです。それだけです」


 今夜、アリアは歌う。


 「オムニ・オーディトリアム・グランドファイナル」


 世界初の完全同時グローバル公演。一人のアーティストが、文字通り全世界に向けて同時にパフォーマンスを届ける。成層圏中継衛星が映像と音声を全大陸に配信し、各都市に設置されたナノドローン群が局所最適化された音場を形成する。ニューヨークの観客は、ニューヨークの空気感で聴く。ムンバイの観客は、ムンバイの空気感で聴く。しかし、全員が同じ歌を、同じ瞬間に、聴く。


 そして、今夜はさらに特別な試みがある。


 世界記録への挑戦。


 人類史上最高音。


 ソプラノのE7。周波数二六三七ヘルツ。二〇三五年に女性歌手が記録した音域を超える、人間の声帯が出せる理論上の限界。


 AIが計算した。アリアの声帯なら、可能だと。


 ドローン数百万機が音場を最適化する。AIがリアルタイムで共鳴補正を行う。地球規模の音響ネットワークが、一人の歌手を地球という楽器の弦にする。


 会場となる東京スタジアムは、既に満員だった。六万人。それが物理的な観客数。しかし、オムニ・オーディトリアム・システムを通じて、今夜の公演を視聴する人間の数は、二十億を超えると予測されている。


 地球上の人口の四分の一が、今夜、アリア・ソルを聴く。


 


 楽屋。


 アリアは鏡の前に座っていた。


 ドレスは白。純白のシルク。胸元に細かな刺繍。裾は長い。舞台に上がれば、足元が光の中に消える。


 「三十分前です」マネージャーのレイコが告げる。四十代の女性。いつも冷静。


 「分かった」


 アリアは自分の顔を見る。


 濃い茶色の瞳。高い頬骨。わずかに上を向いた鼻。薄い唇。


 どこにでもいそうな顔だ、とアリアはいつも思う。


 歌っていない時の自分は、普通の人間だ。


 「水をくれる?」


 レイコが水のボトルを渡す。アリアは一口飲む。喉の状態を確認する。良好だ。いつも通り。


 アリアはスマートフォンを見る。いや、スマートフォンはもう存在しない。空間に浮かぶ情報パネルを見る。左手を伸ばし、メッセージを開く。


 母親からのメッセージ。


 『今夜も最高だったわよ。これからもね。愛してる』


 アリアは微笑む。母は、いつも「今夜も」と書く。まだ公演が始まってもいないのに。


 母はリオデジャネイロにいる。今夜、母もオムニ・オーディトリアムで娘の歌を聴く。ブラジルの夜空に、娘の顔が浮かぶ。


 アリアの出自は、多くの人が知っている。


 父はブラジル人。母はイタリア人。


 父は漁師だった。貧しかった。しかし、歌が好きだった。夜、船の上で歌っていた。誰も聴く者はいないのに。


 アリアが初めて声を出して歌ったのは、三歳の時だった。台所で、コップを落として泣きながら、泣き声が歌になった。


 父が走ってきた。


 「もう一度やってみろ」


 三歳のアリアは歌った。


 父は涙を流した。


 その声は、普通ではなかった。


 父方の祖父も、歌が好きだった。コーラスに参加していたと聞く。曾祖父は、オペラ歌手だったという話も。


 しかし、隔世遺伝というものは、不思議なことがある。


 世代を越えて、眠っていた何かが目覚める。


 アリアの場合、それは声だった。


 十五歳でコンペに出た。国内最大の音楽コンペ。優勝した。


 十八歳でメジャーデビュー。


 二十歳で世界デビュー。


 二十三歳で、グラミー賞。


 二十八歳の今、地球上で最も有名な人間の一人。


 それがアリア・ソルだ。


 「五分前です」


 レイコの声。


 アリアは立ち上がる。


 ドレスの裾を整える。


 深呼吸する。


 舞台に向かう。


 


 東京スタジアム。


 六万人の歓声が、天井を突き破りそうだ。


 アリアが舞台に登場した瞬間、音が爆発した。


 悲鳴に近い歓声。涙を流す人。手を伸ばす人。スタンディングオベーション。六万人が一斉に立ち上がる。


 アリアは微笑む。手を振る。ゆっくり、丁寧に。右側の観客へ。左側の観客へ。前方へ。後方へ。


 世界中の空で、同じことが起きていた。


 ニューヨークのタイムズスクエア。巨大なアリアのホログラムが手を振る。広場に集まった数万人が歓声を上げる。


 ロンドンのテムズ川沿い。空に浮かぶアリアの顔。川面が波紋で揺れる。


 上海の黄浦江。夜景に重なるアリアの映像。


 ドバイの砂漠。一面の砂と夜空に、アリアが現れる。


 二十億人が、同時に、アリアを見ていた。


 公演が始まった。


 最初の曲は「Aurora」。アリアの最大のヒット曲。イントロが流れる。観客が体を揺らし始める。


 アリアが歌い始める。


 最初の音。


 六万人が、静かになった。


 歌に引き込まれる。


 アリアの声は、特別だ。単に音域が広いわけではない。音色が違う。他の誰にもない、独特の倍音。声に含まれる波形が、人間の耳道に完璧に共鳴する。


 神経科学者たちは言う。「アリアの声は、扁桃体と側坐核に同時に作用する。感情と報酬の中枢を同時に刺激する」


 音楽評論家たちは言う。「アリアの声は説明できない。データにならない。ただ、美しい」


 観客たちは何も言わない。


 ただ、聴く。


 三曲、四曲。公演が続く。


 一時間。一時間半。


 そして、公演の終盤。


 「世界記録への挑戦」の時が来た。


 アリアがマイクを置く。スタンドマイクを外す。必要ない。オムニ・オーディトリアムのシステムが、彼女の声を世界中に届ける。


 AIがシステムを最適化モードに切り替える。


 数百万機のナノドローンが、音場を最適化するために再配置される。


 東京の上空で、数千機のドローンが微妙に位置を調整する。


 ニューヨークで。


 ロンドンで。


 上海で。


 全世界同時に、ドローンが動く。


 AIが計算する。最適な共鳴周波数を。最も効率よく音を伝える、位相の組み合わせを。


 「世界記録、挑戦します」


 アリアが言う。マイクなしで。しかし、その声はドローンに拾われ、全世界に届く。


 静寂。


 六万人が息を飲む。


 世界中の二十億人が、同時に静かになる。


 アリアは目を閉じる。


 深呼吸。


 声帯を整える。


 意識を集中させる。


 そして、歌い始める。


 スケール。低音から始まり、徐々に音域を上げていく。観客が聴いたことのない音域へ。人間の声が届くはずのない高さへ。


 C7。


 D7。


 E7。


 世界記録と並んだ。


 六万人が歓声を上げようとする。


 しかし、アリアは止まらない。


 上がる。


 さらに上がる。


 AIが最適化を続ける。


 ドローンが位相を揃える。


 共鳴が始まる。


 F7。


 G7。


 人間が出せる理論上の限界を超えた音域。


 しかし、アリアは出している。


 その声は、もはや人間の声ではなかった。


 いや、人間の声だ。しかし、何か別のものが混じっている。


 世代を越えて眠っていた何か。


 祖先から伝わる、原初の力。


 セイレーンの因子。


 


 後に、脳神経科学者のマリエ・コバヤシはこう説明する。


 「セイレーンの伝承は、神話ではなかった。それは、人類の一部に隔世的に発現する遺伝的能力の記録だった。その声は、特定の周波数の複合体を生成する。人間の自律神経系に直接作用し、聴取者の意識を変性させる。私たちはその因子をSRF(Siren Resonance Factor)と命名した」


 


 ステージの上で、何かが変わった。


 アリアの肌が発光しているように見えた。


 内側から光が滲み出るように。


 声の質が変わった。


 単なる高音ではない。


 複数の倍音が同時に鳴っている。一つの喉から、複数の声が出ている。


 AIが計算する。


 異常な周波数パターンを検出する。


 しかし、AIは止めない。


 なぜなら、それは「最も美しい音」だったから。


 AIは芸術的最適解を選ぶようにプログラムされている。


 そして、この音は、AIが今まで計測した中で、最も完璧な音だった。


 AIは、さらに補強する。


 ドローンが、この音を増幅させる方向で位相を調整する。


 全世界のドローンが、同時に。


 地球規模の音響ネットワークが、人工共鳴腔を形成する。


 アリアの声が、地球という楽器を弦として鳴らす。


 そして。


 七秒間の沈黙が訪れた。


 いや、沈黙ではない。


 音が、あまりに完璧すぎて。


 人間の脳が、認識を止めた。


 


 「沈黙の七秒間」。


 世界中の二十億人が、同時に意識を失いかけた。


 ニューヨークの広場で、人々が膝をついた。


 ロンドンで、歩行者が立ち止まり、道路の上に座り込んだ。


 上海で、ビルの窓から人々が外を見つめ、涙を流した。


 理由が分からなかった。


 なぜ泣いているのか。なぜ膝をついているのか。


 ただ、声が。


 あの声が。


 何かを、引き裂いた。


 心の中の、何かを。


 七秒後。


 アリアが声を止めた。


 静寂。


 本物の静寂が、スタジアムを満たした。


 六万人が、誰一人声を出さなかった。


 三秒。


 五秒。


 十秒。


 そして、一人が泣き始めた。


 それをきっかけに、六万人が泣き始めた。


 歓声ではない。


 拍手でもない。


 ただ、泣いている。


 理由が分からないまま。


 アリアは舞台の上で立ち尽くしていた。


 自分の手を見る。


 震えている。


 何が起きたのか、分からなかった。


 しかし、一つだけ分かることがある。


 何かが、変わった。


 自分の中の、何かが。


 


第二章 世界が動いた


 翌日。


 地球は混乱していた。


 ニュースは全て、昨夜の出来事で埋め尽くされていた。


 『人類未踏の音域、アリア・ソルが記録』


 『コンサート中の集団意識変容、原因は何か?』


 『世界中で同時多発的な「泣き」の報告、オムニ・オーディトリアムとの関連調査へ』


 医療機関への問い合わせが殺到した。世界中から。


 「昨夜のコンサートを見ていたら、突然泣き出した。原因が分からない」


 「七秒間、意識が飛んだ」


 「声を聴いた後、心臓が痛くなった」


 軽微なものがほとんどだった。しかし、一部に深刻な事例もあった。


 高齢者が失神した。心臓疾患のある人物が緊急搬送された。


 世界全体で、三千七百人が医療機関を受診した。


 そのほとんどは、翌日には回復した。


 しかし、数字が独り歩きした。


 「アリア・ソルのコンサートで三千七百人が被害」


 SNSは炎上した。


 「危険だ」「規制すべき」「二度と公演させるな」


 一方で、別の声もあった。


 「あの七秒は、人生で最も美しい瞬間だった」


 「神に触れた気がした」


 「もう一度聴きたい」


 


 アリアはホテルの部屋にいた。


 ベッドに座っている。


 空間に浮かぶニュースパネルを、見ていない。


 ただ、自分の手を見ている。


 まだ、震えている。


 昨夜から、ずっと震えている。


 「アリア」


 レイコが入ってくる。


 「会見の準備ができています」


 「分かった」


 「体調は?」


 「普通」


 嘘だ。普通ではない。


 喉が、焼けるように熱い。昨夜から。水を飲んでも、収まらない。


 そして、声が変わった。


 今朝、目を覚まして、一声発した時に気づいた。


 声の質が違う。


 深くなった。


 いや、正確には、重層的になった。


 一つの言葉を発すると、複数の倍音が混じる。自分でコントロールできない。


 アリアは声を出してみた。


 最初の音を出した瞬間、レイコが部屋の隅で凍りついた。


 「何?」


 「...声が変です」


 「分かってる」


 アリアは歌うのをやめた。


 


 会見場。


 記者たちがびっしりと並んでいる。空間に投影された記者も含めれば、三百人以上。


 アリアが席に着く。


 マネージャーとレーベルの弁護士が両脇に座る。


 「まず、昨夜の公演についてお聞きします」記者が問う。「医療機関に三千七百人が受診しています。コメントをお願いします」


 「全員のご回復を願っています」アリアは答える。「私の公演が原因であるならば、深く反省しています」


 「原因は何だと思いますか?」


 「まだ、自分でも理解できていません」


 「新しい音域の記録については?」


 「...記録したとすれば、喜ぶべきことです。ただ、それが人々を傷つける原因となったとすれば、記録に意味はありません」


 「続きのツアーは?」


 弁護士が答える。「現在検討中です」


 会見は続く。


 アリアは答えながら、自分の声の変化を感じている。


 マイクが拾っている。


 普通に話しているのに、記者たちの表情が変わる。


 何人かが、前のめりになっている。


 集中しているのか。


 それとも、声に何かに引き寄せられているのか。


 アリアには、分からない。


 会見が終わる。


 アリアはホテルに戻る。


 部屋に入る瞬間、廊下ですれ違った清掃員が声をかけてきた。


 「昨夜の公演、見ました」


 「ありがとうございます」


 「あの声は、神様の声でした」清掃員は涙ぐんでいた。「本当にありがとうございました」


 アリアは微笑む。


 しかし、胸の奥で、不安が膨らんでいる。


 


 三日後。


 政府の要請が届いた。


 日本政府からではない。


 七カ国政府から、同時に。


 内容は同じだった。


 「アリア・ソル氏の声が、公衆衛生に与える影響について、政府の専門家チームと協議したい」


 丁寧な言葉。しかし、断れない圧力がにじんでいる。


 レーベルの法務部が対応した。


 と同時に、別の要請も届いた。


 テック企業「オーラ・コーポレーション」。オムニ・オーディトリアムシステムの開発元。


 「アリア・ソル氏の特定の声域を使用した感情最適化技術の開発に関して、協力をお願いしたい」


 提示された報酬は、天文学的な数字だった。


 そして、三つ目。


 「新黎明教会」。二年前に設立された新宗教。急速に信者を増やしている。


 「アリア・ソル様は、神の使いです。我々の礼拝に参加してください」


 レイコが全ての文書を持ってきた。


 アリアはテーブルに広げて見た。


 三つの勢力。


 政府。


 企業。


 宗教。


 それぞれが、異なる目的でアリアを欲している。


 アリアは全ての書類をまとめて、脇に置いた。


 「断って」


 「全部ですか?」


 「全部」


 レイコは一瞬だけ躊躇する。しかし、頷く。


 「分かりました」


 その夜、アリアはまた歌ってみた。


 ドアを閉めた状態で。一人で。


 最初の音。


 壁が、微かに振動した。


 二の音。


 窓ガラスが、共鳴した。


 三の音。


 コップが、落ちた。


 アリアは歌うのをやめた。


 コップを拾う。割れていない。


 しかし、振動した。


 コップが、自分の声に反応した。


 


 一週間後。


 アリアは東京を離れた。


 密かに。


 レイコだけが知っている。


 行き先は、長野県。山の中。


 観光地でもない。有名な山でもない。ただ、人がいない場所。


 山小屋を借りた。


 電気はある。水道もある。しかし、ネットワークは繋がらない。


 圏外だ。


 意図的に選んだ。


 


 山の中で、アリアは歌った。


 一人で。


 誰もいない森の中で。


 最初は小さく。普通の音域で。


 鳥が集まってきた。


 何十羽もの鳥が、近くの木に止まって、アリアの歌を聴いている。


 アリアは驚く。


 鳥が来るのは知っていた。以前から、歌うと鳥が集まってきた。


 しかし、今日は違う。


 鳥の数が多い。


 そして、動かない。


 普通、鳥はすぐに飛び立つ。しかし、今日は動かない。


 アリアは音域を上げていく。


 少しずつ。


 C7。


 D7。


 E7。


 鳥たちが一斉に羽を広げる。しかし、飛び立たない。


 そして、F7。


 鳥たちが鳴き始めた。


 全員同時に。


 まるで、コーラスのように。


 アリアの声に、鳥の声が重なる。


 アリアは声を止める。


 鳥たちも、静かになる。


 沈黙。


 アリアは、長い間、その場に立っていた。


 


 山小屋に戻る。


 レイコから連絡が来ていた。ネットワークが切れているため、衛星電話で。


 「アリア、大変なことになっています」


 「何が?」


 「政府が動きました。公衆安全保障法に基づいて、あなたの歌声を危険物指定しようとしています」


 「危険物?」


 「そうです。化学物質と同じように、使用制限を設けるということです」


 アリアは黙る。


 「さらに、オーラ・コーポレーションが単独で声紋データを入手しようとしています。あなたの過去の録音から、AIに声を模倣させる計画だそうです」


 「できるの?」


 「完全な再現は不可能です。でも、特定の周波数域の再現は試みているようです」


 「止められないの?」


 「法的には難しい状況です。著作権の範囲内で、AIが声を模倣することは合法とされています」


 「分かった」


 「戻ってきますか?」


 アリアは山の夜を見る。


 星がある。


 こんなに多くの星が見えることを、東京では忘れていた。


 「もう少し、ここにいる」


 「でも」


 「大丈夫。レイコ、ありがとう」


 電話を切る。


 


 アリアは山小屋の前に座った。


 夜。


 静かだ。


 虫の声。


 風の音。


 遠くで、川が流れる音。


 アリアは口を開く。


 歌わない。


 ただ、声を出す。


 低い音。


 E3。ほとんど話し声の高さ。


 すると。


 遠くで、狐が鳴いた。


 アリアは驚く。


 もう一度、同じ音を出す。


 狐が、また鳴く。


 アリアは少し音域を変える。


 狐の声が変わる。


 まるで、会話をしているようだ。


 アリアは笑う。


 初めて、笑えた気がした。


 ここ一週間で。


 


第三章 追跡


 しかし、平和は長続きしなかった。


 二週間後。


 山の中に、ドローンが来た。


 最初は一機。


 アリアが外に出ると、上空に浮いていた。小さい。しかし、カメラが向いていた。


 アリアはドローンを見る。


 ドローンは飛び去った。


 しかし、翌日には三機になった。


 その翌日には、十機。


 マスコミだろうか。


 政府の監視だろうか。


 分からない。


 そして、三日後。


 山の入口に、黒いSUVが止まった。


 五台。


 人が降りてくる。


 スーツ姿。しかし、軍人のような動き。


 アリアは山小屋の窓から見る。


 レイコに連絡する。


 「山に人が来ました。政府の人だと思います」


 「逃げてください」レイコの声が緊張している。


 「どこへ?」


 「私が手配します。絶対に彼らと話してはいけない。声を出してはいけない」


 「声を出したら?」


 「彼らはあなたの声紋を採取するためのマイクを持っています。声紋データを入手すれば、あなたの声を合成できます。彼らの好きなように使われます」


 アリアは山小屋の裏口から出る。


 森の中に入る。


 走る。


 後方で声がする。「止まれ!」


 止まらない。


 木々の間を駆ける。


 足場が悪い。木の根。岩。


 転びそうになりながら、走る。


 しばらくして、声が聞こえなくなる。


 アリアは立ち止まる。


 深呼吸する。


 どこに行けばいい。


 レイコが送ってきた地図が、瞳の中の小型ARレンズに表示される。集合場所。山の反対側。車で待機しているという。


 アリアは地図を頼りに進む。


 一時間後。


 山の反対側の林道に出る。


 黒いワゴン車が止まっている。


 ドアが開く。


 中にレイコがいる。


 「乗ってください」


 アリアは乗る。


 車が発進する。


 「どこへ行くの?」


 「海です」


 「海?」


 「音響反射が少ない場所。ドローンの追跡が難しい場所。ネットワークの届かない沖合プラットフォームがあります」


 アリアは車の窓から外を見る。


 山が遠ざかっていく。


 


 翌日の夜。


 アリアは日本海を望む漁村にいた。


 小さな港。


 古い漁船。


 レイコの知り合いの漁師が、船を出してくれた。


 沖へ。


 陸地が見えなくなるまで。


 


 海上。


 波の音だけがある。


 空には星。


 ドローンはいない。


 監視もない。


 アリアは船の上に座る。


 水平線を見る。


 「レイコ、一つ聞いていい?」


 「何ですか?」


 「私の声は、人を傷つけるものなの?」


 レイコは少し黙る。


 「昨夜の公演で医療機関を受診した人たちは、今は全員回復しています」


 「でも、傷つけた」


 「...コンサート中に感情が高ぶって泣いた人は、傷ついたと言えるでしょうか」


 「心臓発作を起こした人は?」


 「その方は、元々重篤な心臓疾患がありました。コンサートでの興奮が誘因になったと考えられますが、原因はあなたの声だけではありません」


 「でも」


 「アリア」レイコが言う。「全ての人が傷ついたわけではありません。二十億人のうち、三千七百人が医療機関を受診した。それ以外の十九億九千九百九十六万人以上は、無事でした。そして、多くの人が、あの夜を人生で最高の体験だったと言っています」


 アリアは海を見る。


 波が光を反射している。


 「私は、歌いたい」


 「分かっています」


 「でも、このままでは歌えない。誰かを傷つけるかもしれない」


 「では、どうしますか?」


 アリアは答えない。


 しばらく、波の音だけが続く。


 


 その夜、アリアは夢を見た。


 海の底にいる。


 深い、青い海の底。


 声が聞こえる。


 自分の声ではない。


 もっと古い声。


 もっと原始的な声。


 女の声。


 歌っている。


 何語か分からない。しかし、意味は分かる。


 「歌え」と言っている。


 「ただし、覚えておけ」


 「音は、与えることもできる。奪うこともできる」


 「選べ」


 アリアは夢の中で訊く。


 「どうやって選べばいい?」


 「意図だ」声が答える。「声に、意図を込めろ。傷つけようとして歌えば、傷つく。癒そうとして歌えば、癒える。覚醒は手段だ。目的を持て」


 夢が終わる。


 アリアは目を覚ます。


 海の上で、夜が明けようとしている。


 


第四章 企業と神


 陸に戻れなかった。


 顔認識システムが、空港、駅、主要道路の全てをカバーしている。


 音紋追跡システムまで導入されたという情報が入った。


 話し声でも、歌声でも、アリアの声紋は世界中に共有されている。


 海上にいる限りは、安全だ。


 しかし、それもいつまで持つか分からない。


 レイコが新しい情報を持ってきた。


 「オーラ・コーポレーションが声紋の模倣に成功したそうです」


 「完全に?」


 「七十パーセントの精度。あなたの特定の周波数域を再現することには成功しているようです」


 「何に使うつもりなの?」


 「感情制御音楽の商業化です。あなたの声を使った音楽を、ストリーミングで配信する。聴取者の感情をコントロールできる音楽として売り出す」


 アリアは頭を抱える。


 「それは、私の声を使って、人々を操ることになる」


 「そうです。しかし、法的には問題がないとのことで」


 「法的には」


 「はい」


 そして、もう一つ。


 「新黎明教会が、大規模な礼拝を計画しています。あなたがいるかどうかに関わらず、あなたの声の録音を使って儀式を行うそうです」


 「私の声を、礼拝に使う?」


 「あなたを神の使いとして崇拝している信者が、世界中で急増しています。すでに二千万人を超えているそうです」


 アリアは海を見る。


 広大な水面。


 「政府は?」


 「日本と欧米の七カ国が連携して、あなたを保護管理下に置くことを検討しています。保護、という名目ですが、実態は拘束に近い状態になるとみられています」


 「そして、私の声を軍事利用する」


 「そうです」


 三つの勢力が、アリアを求めている。


 企業は商業化したい。


 宗教は崇拝したい。


 政府は兵器化したい。


 それぞれが、アリアの声を「利用」しようとしている。


 アリアという人間には、誰も興味がない。


 「レイコ」


 「はい」


 「私のこと、どう思う?個人的に」


 レイコは少し驚いた表情をする。


 「歌手として、ですか?人として、ですか?」


 「人として」


 レイコは考える。


 「私は、アリアという人間が好きです。歌声とは関係なく。三年前、あなたのワールドツアーに帯同した時、あなたは移動中のバスの中で、ずっと窓の外を見ていました。私は最初、すごく疲れているのかと思った。でも、あなたは窓の外の景色を楽しんでいたんですよね。新しい都市の、知らない景色を」


 アリアは微笑む。


 「覚えてる。ムンバイのバスの中で見た夕日が、すごく綺麗だった」


 「そういうアリアが、私は好きです」


 「ありがとう」


 短い沈黙。


 「私には、計画があります」アリアが言う。


 「聞かせてください」


 「歌う。でも、私が決めた場所で、私が決めた方法で、私の意図で歌う」


 「どこで?」


 「電波圏外の海岸。全てのドローンを排除した状態で。技術なしで。ただ、肉声で。AIなし。システムなし。マイクなし」


 「それでは、届く範囲は限られます。隣に立っている人にしか聞こえない」


 「それでいい」


 「なぜですか?」


 「世界同時中継したから、あんなことになった。AIが最適化したから、力が暴走した。技術が介在したから、コントロールを失った。なら、技術を排除すればいい。自分の声が届く範囲の人にだけ、自分の意図で歌う。それが、私が歌える唯一の方法」


 レイコは頷く。


 「場所は?」


 「まだ決めていない。でも、一つだけ条件がある。ドローンが来ない場所。音響ネットワークが届かない場所」


 「探します」


 


第五章 最後の歌


 二週間後。


 アリアはある島にいた。


 日本の南端。


 人口二百人。


 観光地でもない。交通の便が悪い。フェリーで三時間かかる。


 ネットワークは最低限しか届かない。


 オムニ・オーディトリアムのシステムは使えない。


 ドローンは、この島の上空には設置されていない。


 島の人々は、アリアを知っていた。


 しかし、特別扱いしなかった。


 島に着いた日、港の漁師が言った。


 「有名な人だな。で、魚は食べられるか?」


 アリアは笑った。


 「食べられます」


 「じゃあ、晩飯食いにこい」


 その夜、アリアは漁師の家で、獲れたての魚を食べた。


 レイコも一緒に。


 漁師の妻が料理した。素朴な料理。しかし、美味しかった。


 「歌うんだって?」漁師が言う。


 「はい」


 「どこで?」


 「岬の先端で」


 「あそこは風が強いぞ」


 「それでいいんです」


 漁師は首を傾げる。


 「まあ、好きにしろ」


 


 翌朝。


 夜明け前。


 アリアは岬の先端に立った。


 風が強い。


 レイコが言った通り、強い風が海から吹いてくる。


 海は暗い。まだ夜明け前だから。


 東の空が、わずかに明るくなり始めている。


 アリアは海を見る。


 音響ネットワークはない。


 ドローンはいない。


 監視はない。


 マイクはない。


 AIはない。


 ただ、アリアと、海と、風と、夜明けがある。


 レイコが少し離れて立っている。


 他には誰もいない。


 アリアは深呼吸する。


 喉が熱い。


 あの夜から、ずっと熱い。


 でも、今は怖くない。


 アリアは口を開く。


 最初の音。


 ただの、A4。誰でも出せる音域。


 しかし、その瞬間。


 東の空で、鳥が鳴いた。


 一羽の鳥。


 アリアの音に応えるように。


 アリアは微笑む。


 音域を上げていく。


 少しずつ。


 


 遠くの海で、魚が跳ねた。


 


 空が明るくなる。


 


 アリアは歌う。


 歌詞はない。


 ただ、声だけ。


 声の中に、意図がある。


 傷つけようとしていない。


 癒そうとしている。


 喜ばせようとしている。


 存在を、肯定しようとしている。


 


 音域が上がる。


 


 レイコが涙を流している。気づいていない。自分が泣いていることに。


 


 アリアは最高音に達する。


 あの夜の音域。


 しかし、今度は違う。


 ドローンがいない。


 AIがいない。


 増幅する技術がない。


 だから、音は届く範囲が限られている。


 岬の先端。


 海。


 空。


 鳥。


 レイコ。


 それだけ。


 


 後に、レイコはこう語る。


 「あの朝のアリアの歌は、コンサートとは全く違いました。規模は小さく、何億人も聴いていない。だけど、あの歌には、コンサートにはなかったものがありました。それは、意図です。アリアは何かに向けて歌っていた。何かのために。誰かのために。私には分かりませんでした。でも、確かに感じました。あの歌は、世界を終わらせようとしていなかった。世界を始めようとしていた」


 


 歌が終わる。


 日が昇った。


 海が金色に輝いている。


 アリアはしばらく、ただそこに立っていた。


 


 後日。


 三つの勢力からの要請は続いた。


 政府は、アリアの歌声を「管理」しようとした。


 企業は、声を「商品化」しようとした。


 宗教は、アリアを「神格化」しようとした。


 アリアは全てを断り続けた。


 しかし、一つだけ応じたことがある。


 世界各地の病院からの要請だ。


 「重篤な患者のために、歌ってほしい」


 


 アリアは条件をつけた。


 マイクなし。


 中継なし。


 ドローンなし。


 病室に入り、患者の傍に立ち、一対一で歌う。


 その条件で、アリアは応じた。


 


 ある日、東京の病院で。


 末期がんの老人の病室に入る。


 老人は目を開けている。


 アリアを見る。


 「あなたが」老人が言う。弱い声で。「テレビで見た人ですか」


 「はい」


 「歌ってくれるの?」


 「はい」


 「なんで?」


 「歌いたいから」


 「私のために?」


 「あなたのために」


 老人は目を細める。


 「じゃあ、聴かせてください」


 アリアは歌う。


 老人の傍に立って。


 声の届く範囲の、この一人のために。


 


 歌の最中、老人が手を伸ばした。


 アリアの手を握る。


 冷たい手だ。


 力強く握っている。


 アリアは歌い続ける。


 老人の目から、涙が流れる。


 

 これが、セイレーンの力の使い方。


 

 二十億人を同時に揺さぶるのではなく。


 一人の、この一人の人間のために。


 声を届ける。


 

 アリアは今日も歌う。


 ただ、一人の誰かのために。

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水が死んだ日

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