【ディストピアSF】幸福度9.7
画面に数字が表示されている。
『幸福度: 9.7』
レイは目を覚ました。視界の右上、常に表示されている数値。幸福度。脳に埋め込まれたチップが測定し、表示する。レイの現在の幸福度は9.7。10段階評価で、ほぼ最高値だ。
素晴らしい朝だ。レイはベッドから起き上がる。身体が軽い。気分がいい。窓の外を見る。灰色の空。工場の煙が立ち込めている。汚染された空気。AM2.5の濃度は基準値の三倍。しかし、レイは気にならない。幸福度が高いから。むしろ、空が美しく見える。灰色の中に、朝日の光が差し込んでいる。幻想的だ、とレイは思う。
レイはシャワーを浴びる。水の温度は三十八度。ぬるい。しかし、心地よく感じる。朝食を食べる。合成食品。大豆タンパクと栄養添加物を固めたもの。味はほとんどない。しかし、美味しく感じる。幸福度が高いから。舌に触れる食感、喉を通る感覚、全てが素晴らしい。
レイは鏡を見る。二十五歳。短い黒髪。平凡な顔。目の下に薄いクマ。睡眠不足の跡。しかし、笑顔だ。いつも笑顔だ。幸福度が高いから。鏡の中の自分が、とても幸せそうに見える。
三年前を思い出す。チップを埋め込む前。あの頃のレイは、毎日が辛かった。仕事のストレス、人間関係の悩み、将来への不安。朝起きるのが嫌だった。会社に行くのが嫌だった。全てが嫌だった。
そして、政府が「国民総幸福化計画」を発表した。全国民に幸福チップを無償で提供する。埋め込み手術も無料。ただし、三年以内に全員が埋め込むこと。それが法律で決まった。
レイは最初、反対だった。脳にチップを埋め込むなんて、危険だと思った。しかし、周囲の人々が次々と埋め込んでいった。そして、みんな幸せそうだった。笑顔が増えた。不満が消えた。
レイの同僚も埋め込んだ。「レイも早く埋め込みなよ。人生変わるから」と言われた。レイは迷った。しかし、ある日、母が倒れた。過労とストレスによる心臓発作。病院に運ばれた。
病室で、医者が言った。「お母さんは、ストレスが原因です。幸福チップを埋め込んでいれば、こんなことにはなりませんでした」
その言葉が、レイを動かした。母を救うため。そして、自分も救うため。レイはチップを埋め込むことを決めた。
手術は簡単だった。局所麻酔。頭皮を切開。頭蓋骨に小さな穴を開ける。チップを挿入。配線を脳の幸福中枢に接続。縫合。一時間で終わった。
目を覚ましたとき、世界が変わっていた。
『幸福度: 8.5』
視界に数字が表示されている。そして、身体中に幸福感が満ちていた。温かい。柔らかい。まるで、母の胸に抱かれているような感覚。レイは涙を流した。幸福の涙だ。
それから三年。レイは幸福だった。仕事も楽しい。人間関係も良好。将来への不安もない。全てが素晴らしい。母も回復し、チップを埋め込んだ。今は幸福度9.5で暮らしている。
レイは出勤する。アパートを出る。廊下にはゴミが散乱している。管理人がいないから。しかし、レイは気にならない。むしろ、ゴミがアートのように見える。色とりどりのパッケージ。興味深い配置。
エレベーターに乗る。一階。外に出る。街は人で溢れている。みんな、笑顔だ。みんな、幸福だ。幸福チップのおかげで。
レイは街並みを見渡す。高層ビル。しかし、多くは廃墟だ。十年前の経済崩壊で、企業が倒産した。ビルだけが残った。窓ガラスは割れている。壁は崩れている。しかし、人々は気にしない。幸福だから。廃墟すら、美しく見える。
道路には亀裂が走っている。メンテナンス不足だ。予算が削減された。幸福チップの開発と普及に、莫大な資金が投入されたから。インフラは後回しになった。しかし、誰も文句を言わない。幸福だから。
レイは地下鉄に乗る。満員だ。身体が押し潰されそう。隣の男の体臭が鼻を突く。しかし、レイは不快に感じない。これも人生の一部だ、と思う。むしろ、人々の温もりを感じる。素晴らしい。
『幸福度: 9.8』
レイの幸福度が上がった。満員電車も、幸福に感じる。素晴らしい。
会社に着く。「ニューロテック株式会社」。大手IT企業。レイはプログラマーだ。オフィスに入る。広いフロア。しかし、デスクの半分は空いている。人員削減があった。幸福チップ導入後、生産性が下がったから。人々は幸福で満足し、向上心を失った。しかし、誰も気にしない。幸福だから。
同僚が挨拶する。「おはよう、レイ!」みんな、笑顔だ。
「おはよう」レイも笑顔で返す。
仕事が始まる。コードを書く。単調な作業。バグが多い。しかし、楽しい。幸福度が高いから。エラーメッセージすら、美しい文字の羅列に見える。
昼休み。レイは同僚と食堂に行く。合成食品のランチ。グレーのペースト状。栄養は十分。味はない。食感もない。しかし、美味しい。
「レイ、幸福度いくつ?」同僚のケンが訊く。ケンは三十代。痩せている。目が窪んでいる。栄養失調の兆候。しかし、笑顔だ。
「9.8」
「いいね。俺は9.5」
「十分高いじゃないか」
「でも、もっと上げたい。プレミアムプランに入ろうかな」
プレミアムプラン。幸福チップの有料サービス。基本プランは政府が無償提供。しかし、プレミアムプランは月額料金が必要。幸福度を9.9まで上げられる。さらに、カスタマイズ機能もある。特定の活動での幸福度を上げたり、特定の感情を抑制したり。
「いくらかかる?」レイが訊く。
「月五万円」
「高いな」レイの月給は十五万円。家賃が五万円。食費が三万円。残りは光熱費と雑費。五万円の余裕はない。
「でも、価値はあるよ。人生が変わる」
「検討するよ」
ケンは嬉しそうに頷く。「絶対おすすめ。俺、先月から入ってるんだ。最高だよ」
レイは疑問に思う。ケンの幸福度は9.5だと言った。プレミアムプランなら9.9のはずでは。しかし、訊かない。幸福度が下がるかもしれないから。
午後も仕事。定時に終わる。しかし、誰も帰らない。残業だ。強制ではない。しかし、みんな残る。幸福度が高いから。仕事が楽しいから。
レイも残る。コードを書き続ける。バグが増える。しかし、気にならない。デバッグも楽しい。エラーを見つけるたび、小さな達成感がある。幸福度が上がる。
夜十時。レイは帰る。地下鉄に乗る。深夜だが、人は多い。みんな残業帰りだ。疲れた顔。しかし、笑顔だ。幸福だから。
家に着く。アパートの部屋。六畳。狭い。家具は最小限。ベッド、テーブル、椅子。テレビ。それだけだ。
レイはテレビをつける。ニュースが流れている。
『幸福チップ、満足度調査。国民の97%が満足と回答』
画面にグラフが表示される。満足度、97%。不満、1%。無回答、2%。キャスターが笑顔で読み上げる。
『これは素晴らしい結果です。我が国は、世界で最も幸福な国となりました』
次のニュース。
『幸福チップ開発企業、ニューロハピネス社の株価が過去最高を更新』
ニューロハピネス社。幸福チップの開発・製造・販売を独占する巨大企業。政府と密接な関係がある。いや、政府を支配していると言ってもいい。
画面には、ニューロハピネス社のCEOが映っている。五十代の男性。スーツ。笑顔。
『我が社の使命は、全人類を幸福にすることです。今後も、より良いチップの開発に努めてまいります』
カメラが引く。CEOの背後に、巨大なビルが映る。ニューロハピネス社の本社。百階建て。この国で最も高いビル。頂上には巨大なロゴ。NH。
次のニュース。
『チップ未装着者、また一人逮捕。違法な生活を続けていた模様』
画面には、手錠をかけられた男が映っている。三十代くらい。痩せている。汚れている。警察に連行されている。
『男は三年間、チップの装着を拒否していました。地下に潜伏し、違法な仕事で生計を立てていたとのことです』
インタビュー。警察官が話す。
『チップ未装着は重大な犯罪です。国民の義務を果たさない者は、厳しく処罰されます』
男はカメラに向かって叫ぶ。「俺は自由だ!お前たちは奴隷だ!」
しかし、その声は放送されない。映像だけが流れる。
レイは違和感を覚える。あの男は、何を言おうとしたのか。
『幸福度: 9.5』
幸福度が下がった。考えるのをやめる。すぐに戻る。
『幸福度: 9.7』
次のニュース。
『政府、幸福チップのアップデートを発表。来月から全国民に配信』
厚生大臣が会見している。
『新しいアップデートにより、幸福度がさらに向上します。また、不安や恐怖をより効果的に抑制できるようになります』
レイは首を傾げる。不安や恐怖を抑制?それは良いことなのか。不安や恐怖は、危険を察知するための感情では。
『幸福度: 9.3』
また下がった。レイは考えるのをやめる。
テレビを消す。ベッドに入る。目を閉じる。
しかし、眠れない。
頭の中で、何かが引っかかっている。
あの逮捕された男の顔。
叫んでいた。
何を?
「俺は自由だ」
自由。
レイは自由か。
幸福だ。しかし、自由か。
チップが感情をコントロールしている。
それは自由か。
『幸福度: 9.0』
大幅に下がった。
レイは目を開ける。天井を見る。
眠れない。
考えが止まらない。
そして、その夜。レイは夢を見た。
暗い部屋。
一人の男が座っている。
顔は見えない。
影だけ。
しかし、声が聞こえる。
「レイ、目を覚ませ」
誰だ。この声は。
「お前は騙されている」
何を言っている。
「幸福チップは、支配の道具だ」
違う。幸福チップは、みんなを幸せにする。
「違わない。お前は操られている」
嘘だ。
「本当だ。思い出せ、レイ。お前は誰だった」
俺は、レイ・タカハシ。プログラマー。
「違う。お前はもっと違う人間だった。チップを埋め込む前の、お前を思い出せ」
チップを埋め込む前。
レイは思い出そうとする。
しかし、思い出せない。
いや、思い出したくない。
あの頃は辛かった。
不幸だった。
今は幸福だ。
それでいい。
「それでいいのか、レイ」
声が問う。
「偽物の幸福で満足するのか」
偽物?
「そうだ。お前の幸福は、チップが作り出した幻だ」
幻。
レイは混乱する。
しかし、次の瞬間。
声が途切れる。
暗闇が深くなる。
そして、別の声が聞こえる。
機械的な声。
『警告。思考パターン異常。幸福度低下。自動調整を開始します』
レイの頭の中に、何かが流れ込む。
温かい。
心地よい。
幸福感。
『幸福度: 9.5』
『幸福度: 9.7』
『幸福度: 9.8』
戻った。
不安が消える。
疑問が消える。
幸福だけが残る。
レイは目を覚ました。
汗をかいている。心臓が早鐘を打っている。
しかし、すぐに落ち着く。
チップが調整してくれる。
『幸福度: 9.7』
夢だ。ただの夢だ。
気にすることはない。
レイは再び眠る。
今度は、幸福な夢を見る。
翌朝。レイは会社に行く途中、奇妙な光景を目にした。
駅前の広場。
一人の男が倒れている。
周囲に人がいる。十人以上。しかし、誰も助けない。ただ、見ている。笑顔で。
レイは足を止める。近づく。男は苦しそうだ。顔が青白い。呼吸が浅い。胸を押さえている。心臓発作かもしれない。
「大丈夫ですか?」レイが声をかける。
男は答えられない。ただ、苦しんでいる。
周囲の人々がレイを見る。
「何してるの?」
「放っておけばいいのに」
「幸福度が下がるよ」
レイは混乱する。なぜ、誰も助けないのか。
「救急車を呼びます」レイはスマートフォンを取り出す。
しかし、その瞬間。
『幸福度: 8.7』
幸福度が下がった。警告音が鳴る。
レイの手が止まる。
なぜだ。人助けは良いことではないのか。
周囲の人々が言う。
「ほら、幸福度が下がった」
「余計なことしない方がいいよ」
「自然に任せれば」
レイは戸惑う。
男はまだ苦しんでいる。
助けなければ。
しかし、幸福度が。
『幸福度: 8.5』
さらに下がる。
レイは決断できない。
そのとき、一人の女性が前に出た。
二十代。黒いフードを被っている。
女性は男に近づき、脈を確認する。そして、スマートフォンで救急車を呼ぶ。
周囲の人々がざわめく。
「あの人、チップ持ってるのかな」
「持ってないんじゃない?」
「違法だ」
女性は無視する。男の側に付き添う。
数分後、救急車が来る。男が運ばれる。
女性は立ち去ろうとする。
レイは声をかける。「あの、ありがとうございました」
女性は振り返る。フードの下から、鋭い目が覗く。
「あなた、疑問を持ち始めてるわね」
レイは驚く。「なぜ分かる?」
「表情よ。幸福度が高い人は、常に笑顔。でも、あなたは違う。迷っている」
レイは何も言えない。
女性は続ける。「もし、真実を知りたいなら、今夜十時。北区の廃工場に来なさい」
そう言って、女性は去っていく。
レイは立ち尽くす。言葉が出ない。
『幸福度: 8.8』
まだ低い。
レイは周囲を見回す。人々が通り過ぎていく。みんな、笑顔だ。さっきの男のことなど、もう忘れている。
レイは会社に向かう。
しかし、頭の中は混乱していた。
その日の夜。レイはネットを見ていた。しかし、違和感を感じる。
ニュースサイト。
『国民総幸福度、過去最高の9.4を記録』
『犯罪率、過去最低を更新』
『経済成長率、3%を維持』
全て、良いニュースばかり。悪いニュースがない。
レイは他のサイトを見る。
SNS。
みんな、幸せそうな投稿ばかり。「今日も幸福度9.8!」「最高の一日だった!」「幸せすぎる!」
誰も、不満を言わない。誰も、問題を指摘しない。
レイは違和感を覚える。
これは、普通なのか。
『幸福度: 8.8』
また下がる。
レイは検索する。「幸福チップ 問題」
結果が表示される。
『幸福チップに問題はありません』
『幸福チップは安全です』
『幸福チップは国民を幸せにします』
公式見解ばかり。批判的な記事がない。
レイは別のキーワードで検索する。「幸福チップ 副作用」
結果。
『副作用はありません』
『安全性は確認されています』
レイは諦める。情報がない。いや、情報は統制されているのか。
『幸福度: 8.2』
大幅に下がった。レイは頭を抱える。考えれば考えるほど、幸福度が下がる。
これは、おかしい。
幸福でいるために、考えることをやめなければならない。
それは、本当に幸福なのか。
『幸福度: 7.9』
レイは立ち上がる。このままでは、幸福度が危険水準まで下がる。6.0以下になると、警告が出る。5.0以下になると、強制メンテナンスだ。
レイは外に出る。夜の街を歩く。人々が行き交う。みんな、笑顔だ。
レイは一人だけ、笑えない。
『幸福度: 7.5』
下がり続ける。
レイは路地裏に入る。人気がない。暗い。
そこで、レイは一人の男と出会った。
フードを被った男。顔が見えない。
「お前、幸福度が低いな」男が言う。
レイは驚く。「なぜ分かる?」
「表情でわ
かる。お前は考えている。だから幸福度が下がる」
「あなたは?」
男はフードを取る。四十代くらい。傷だらけの顔。
「俺はチップを持っていない」
レイは息を呑む。「違法だ」
「そうだ。しかし、自由だ」
「自由?」
「ああ。俺は自分の感情を持っている。幸福も、悲しみも、怒りも。全部、本物だ」
レイは黙る。
男は続ける。「お前は疑問を持ち始めている。だから、幸福度が下がる。チップは、疑問を持つ者を幸福にできない」
「なぜだ」
「チップは脳を刺激する。しかし、思考は止められない。お前が考えれば考えるほど、チップの効果は薄れる」
レイは理解する。そうだ。考えることが、幸福度を下げる。
「では、どうすればいい」
「チップを外せ」
レイは首を横に振る。「無理だ。違法だ。逮捕される」
「お前は一生、偽物の幸福で満足するのか」
レイは答えられない。
男は立ち去る。「考えろ、レイ。お前が本当に求めているものは何だ」
男は闇に消える。
レイは一人、路地裏に残される。
『幸福度: 7.2』
レイは家に帰る。ベッドに倒れ込む。
考える。
本当に求めているものは何だ。
幸福。
しかし、それは本物の幸福か。
チップが作り出す幸福か。
レイには分からない。
『幸福度: 6.8』
危険水準に近づいている。
レイは決断する。
廃工場に行く。
真実を知る。
そして、この違和感を解消する。
レイは外に出る。夜の街。人通りは少ない。地下鉄に乗る。北区に向かう。
三十分後。レイは廃工場の前にいた。
古いコンクリートの建物。五階建て。窓ガラスは割れている。壁には落書き。「自由を」「目を覚ませ」「チップを外せ」。
レイは入口に向かう。扉が半開きになっている。中に入る。
暗い。
懐中電灯を点ける。スマートフォンのライト機能。
廊下を進む。足音が反響する。床には瓦礫が散らばっている。壁は剥がれ、配管が露出している。
奥に光が見える。
レイは光に向かって歩く。
広い部屋に出る。かつては倉庫だったのだろう。天井が高い。
そこには、十五人ほどの人々がいた。
全員、普通の服装。しかし、表情が違う。笑顔ではない。真剣な顔。不安そうな顔。怒っている顔。様々な感情がある。
あの女性もいる。フードを取っている。三十代くらい。短い髪。鋭い目。
「来たのね」女性が言う。
「あなたは?」
「私の名前はサキ。ここにいるのは、みんなチップを外した人たち。あるいは、外そうとしている人たち」
レイは驚く。「外した?違法だ」
「そうよ。でも、自由よ」
一人の男が前に出る。五十代。白髪。眼鏡をかけている。痩せている。
「レイさん、座ってください」男は椅子を指す。
レイは椅子に座る。周囲を見回す。みんな、レイを見ている。同情するような目。理解するような目。
男が話し始める。「私はタケシ。元ニューロハピネス社の主任研究員でした」
レイは息を呑む。「元?」
「ええ。三年前、会社を辞めました。いや、逃げました。真実を知ったからです」
「真実?」
タケシは深呼吸をする。そして、端末を取り出す。画面を見せる。
「これは、幸福チップの設計図です。最高機密文書。私が持ち出しました」
画面には、複雑な回路図が表示されている。配線、チップ、プログラムコード。レイはプログラマーだが、この複雑さは理解できない。
「見てください。この部分」タケシが指で示す。
「ここに、隠された機能があります。思考パターン監視機能。そして、思考制御機能」
「思考制御?」
「そうです。チップは、あなたの思考を常に監視しています。そして、政府にとって都合の悪い思考パターンを検出すると、自動的に幸福度を下げます」
レイは混乱する。「なぜそんなことを?」
「考えることをやめさせるためです。疑問を持つことをやめさせるため。政府を批判することをやめさせるため。反抗する意志を消すため」
サキが続ける。「あなた、最近幸福度が下がったことない?特定の状況で」
レイは頷く。「ある。倒れていた人を助けようとしたとき。ニュースを見て疑問を持ったとき。夢で奇妙な声を聞いたとき」
「それよ」サキが言う。「あなたが人道的な行動をしようとした。疑問を持った。真実に気づきかけた。だから、チップがあなたを罰した。幸福度を下げて、その行動をやめさせようとした」
タケシが続ける。「そして、もう一つ。最も重要なこと。チップには依存性があります」
「依存性?」
「ええ。長期間使用すると、チップなしでは幸福を感じられなくなります。脳の幸福中枢が萎縮するんです。自然な幸福感を生み出す能力が失われる」
レイは愕然とする。「では、一度埋め込んだら」
「一生、チップに依存することになります。外せば、永遠に幸福を感じられない身体になる。少なくとも、長期間のリハビリが必要になる」
サキが言う。「でも、外す方法はあるわ。リハビリは辛いけど、可能よ。ここにいる人たちの半分は、既にチップを外した」
レイは周囲を見回す。チップを外した人々。彼らの表情には、様々な感情がある。しかし、全員に共通しているのは、生きている感じだ。人形ではない。操られていない。
タケシが端末を操作する。別の画面が表示される。
「これを見てください。政府とニューロハピネス社の契約書です」
画面には、文書が表示されている。
『国民総幸福化計画における幸福チップ導入に関する契約』
『政府は、ニューロハピネス社に対し、年間500億円の開発費を支払う』
『ニューロハピネス社は、全国民へのチップ供給を保証する』
『チップには、思考監視機能および行動制御機能を実装する』
『政府は、チップから得られるデータを国民管理に使用する権利を有する』
レイは読み進める。契約書は三十ページに及ぶ。そこには、恐ろしい真実が書かれていた。
チップは、幸福のためではない。
支配のため。
管理のため。
国民を従順にするため。
反抗する意志を奪うため。
そして、ニューロハピネス社は、莫大な利益を得ている。チップ本体の販売。プレミアムプランの月額料金。メンテナンスサービス。全て、国民から搾り取る仕組み。
レイは端末から目を離せない。
そして、次のページ。
『副作用に関する記録』
『長期使用による脳機能低下: 85%の被験者で確認』
『思考能力の減退: 92%』
『創造性の喪失: 97%』
『意欲の低下: 89%』
『依存症形成: 100%』
全て、隠蔽されている。国民には知らされていない。
レイは震える。怒りと恐怖で。
『幸福度: 6.5』
大幅に下がった。
そして、警告音が鳴る。
『警告。思考パターン異常。危険思想検出。自動調整を開始します』
レイの頭の中に、何かが流れ込もうとする。幸福感。無理やり押し付けられる幸福感。
しかし、サキが素早く動く。レイの頭に何かの装置を当てる。小型の機械。手のひらサイズ。
「これは妨害装置。チップの信号を遮断するわ」
流れ込みが止まる。
しかし、幸福度は下がり続ける。
『幸福度: 6.0』
『幸福度: 5.5』
レイは不安に襲われる。本物の不安。チップに調整されていない、生の不安。
怖い。
幸福でなくなることが怖い。
しかし、同時に。
頭がクリアになる感覚がある。
霧が晴れていく。
今まで見えなかったものが見える。
真実が見える。
タケシが言う。「レイさん、あなたは今、選択の岐路に立っています。このまま幸福チップに支配された人生を送るか。それとも、自由を取り戻すか」
レイは答えられない。声が出ない。
サキが手を差し伸べる。「私たちと一緒に来て。チップを外しましょう。リハビリは辛いけど、本物の感情を取り戻せるわ。本物の人生を取り戻せる」
レイは迷う。
幸福。
それは素晴らしいものだった。
毎日が楽しかった。
不安もなかった。
苦しみもなかった。
しかし、それは偽物だった。
操られていた。
自由ではなかった。
そして、レイは思い出す。
チップを埋め込む前の自分。
辛かった。
しかし、生きていた。
本物の人生を生きていた。
レイは決断する。
「外します。チップを」
サキは微笑む。本物の微笑み。幸福チップによるものではない、心からの微笑み。
「よく決心したわ。でも、覚悟して。これから、とても辛い日々が始まる」
レイは頷く。「構いません。本物の人生を取り戻します」
翌日。
手術が始まった。
違法クリニック。廃ビルの地下室。薄暗い部屋。古い医療機器が並んでいる。十年前の型だ。しかし、機能する。
医者はサキの知り合い。六十代の男性。元脳外科医。チップ反対運動で医師免許を剥奪された。今は地下で、チップを外す手術を行っている。
「リスクは理解していますね」医者が訊く。
レイは手術台に横になっている。「はい」
「チップを外した後、数ヶ月は幸福を感じられません。鬱状態になります。自殺願望が出ることもあります。それでも?」
レイは息を呑む。自殺願望。しかし、覚悟は決めた。
「それでも、やります」
医者は頷く。「分かりました。では、始めます」
局所麻酔が打たれる。頭皮に注射。チクリとした痛み。
数分後、感覚が鈍くなる。
医者がメスを手に取る。
「では、切開します」
レイは目を閉じる。
頭皮を切る音。
血の匂い。
ドリルの音。頭蓋骨に穴を開けている。
レイは恐怖を感じる。しかし、動けない。動いてはいけない。
「チップが見えました。今から除去します」
何かを引っ張る感覚。
脳に埋め込まれていたチップが、取り出される。
『』
視界から、幸福度の表示が消える。
数字がない。
何もない。
空白。
レイは不安に襲われる。しかし、それは本物の不安だ。
「除去完了。これから縫合します」
針と糸で縫う音。
三十分後。
「手術完了です」
レイは起き上がろうとする。しかし、めまいがする。
「無理しないでください。今日は安静に」
レイはベッドに横になる。天井を見る。
何も感じない。
幸福も、悲しみも、何も。
ただ、空虚だ。
これが、チップのない世界か。
一週間後。
レイは廃工場で暮らしていた。チップを外した人々と共に。みんな、同じ境遇だ。幸福を感じられない。毎日が辛い。しかし、自由だ。
レイは毎日、リハビリを続ける。サキとタケシが指導してくれる。
朝六時。起床。ジョギング。身体を動かす。
最初は辛い。走る意味が分からない。疲れるだけだ。しかし、サキが言う。「運動すると、脳が自然な幸福物質を分泌するわ。少しずつ、感じられるようになる」
レイは走る。三キロメートル。息が上がる。汗が噴き出す。苦しい。
しかし、走り終えた後。
少しだけ、気分が良くなる。
ほんの少し。
でも、確かに感じる。
これが、本物の幸福感か。
昼。音楽療法。タケシが持ってきたクラシック音楽。ベートーヴェン、モーツァルト、バッハ。
最初は何も感じない。ただの音だ。意味がない。
三日目。
ある瞬間、音が心に響いた。
美しい、と感じる。
涙が出た。
なぜ泣いているのか分からない。
涙が止まらない。
サキが言う。
「それでいいのよ。感情が戻ってきてる」
夕方。絵画療法。レイは絵を描く。下手だ。何を描いていいか分からない。
しかし、タケシが言う。「上手い下手は関係ない。自分の感情を表現しなさい」
レイは筆を取る。キャンバスに色を塗る。
黒。
灰色。
暗い色ばかり。
これが、今のレイの心だ。
夜。みんなで話す。
それぞれの過去。チップを埋め込む前の記憶。辛かったこと。楽しかったこと。全て、本物の感情だった。
レイも話す。
母のこと。病気で倒れたこと。それがきっかけでチップを埋め込んだこと。
そして、今、後悔しているかと訊かれる。
レイは答える。
「後悔はしていません。あの時は、それが正しいと思った。でも、今は違う。真実を知った」
みんな、頷く。共感してくれる。
それだけで、少しだけ、温かい気持ちになる。
一ヶ月後。
レイは少しずつ、感情を取り戻していた。
朝、目覚めたとき。窓から差し込む光を見て、少しだけ嬉しく感じる。
食事をしたとき。合成食品ではなく、本物の野菜を食べる。サキが近くの農家から買ってきた。味がする。甘い。美味しい、と思う。
音楽を聴いたとき。心が動く。悲しい曲で涙が出る。嬉しい曲で微笑む。
絵を描いたとき。少しずつ、明るい色を使うようになる。黄色。赤。青。
ある夜。
レイは夢を見た。
母の夢。
母が笑っている。
「ユウタ、元気?」
レイの本名はユウタ・レイ・タカハシ。レイは愛称だ。
「元気だよ、母さん」
「そう。良かった」
母は優しく微笑む。
レイは目を覚ました。
涙が流れている。
しかし、それは悲しい涙ではない。
懐かしさの涙だ。
母を思い出した。
チップを埋め込む前の、本物の記憶。
レイは微笑む。小さな微笑み。本物の微笑み。
三ヶ月後。
レイは街を歩いていた。フードを被り、顔を隠している。チップを外したことは秘密だ。見つかれば、逮捕される。
街は相変わらずだ。人々は笑顔。幸福そう。しかし、レイには分かる。それは偽物だ。操られた幸福だ。
公園に入り。ベンチに座る。木々を見る。風が吹き、葉が揺れる。
深呼吸をする。空気が肺に入る。冷たく心地よい。
そして、感じた。
幸福を。
小さい。ほんの少し。
これが本物だ。チップが作り出したものではない。自分で感じたものだ。
レイは微笑む。
そのとき、スマートフォンが振動した。サキからのメッセージだ。
『緊急会議。すぐに廃工場に来て』
レイは立ち上がり、急いで廃工場に向かう。
廃工場。全員が集まっていた。二十人以上。チップを外した人々。そして、外そうとしている人々。
タケシが前に立つ。
「皆さん、重大なニュースです。政府が新しい法律を制定しようとしています」
画面に文書が表示される。
『幸福維持法案』
『幸福度が6.0以下の国民を、強制的に精神病院に収容する』
『チップの強制アップグレード。思考監視機能の強化』
『チップ未装着者の通報制度。通報者には報奨金』
レイは息を呑む。
サキが言う。「もう時間がない。私たちは行動しなければならない」
「何をする?」誰かが訊く。
タケシが答える。「真実を広める。ニューロハピネス社の内部文書を公開する。契約書、副作用のデータ、全てを」
「でも、政府が削除するだろう」
「だから、同時多発的に拡散する。全てのSNS、掲示板、メディア。一斉に」
レイが前に出る。「私が手伝います。プログラムを書きます。削除されても、自動で再アップロードされるシステムを」
タケシは頷く。「頼む」
一週間後。
レイは完成させた。自動拡散プログラム。政府が削除しても、無数のサーバーから再アップロードされる。完全に消すことは不可能だ。
そして、決行の日。
深夜零時。
レイはボタンを押す。
プログラムが起動する。
全てのSNSに、内部文書が投稿される。
契約書。
副作用のデータ。
被験者の証言。
全て。
朝、街は混乱していた。
ニュースが報道している。
『幸福チップ、内部文書流出。副作用の隠蔽が明らかに』
『政府とニューロハピネス社の癒着。契約書が公開される』
『国民の間に動揺広がる。幸福度が全国的に低下』
人々が街に出ている。しかし、笑顔ではない。不安そうな顔。怒っている顔。
幸福度が下がっている。真実を知ったから。
政府は必死に否定している。「偽造文書だ」「デマだ」
しかし、証拠は明白だ。
そして、数日後。
デモが始まった。
「チップを外せ!」
「自由を返せ!」
「政府は嘘つきだ!」
何万人もの人々が街に出ている。
政府は鎮圧しようとする。しかし、数が多すぎる。
レイは廃工場で、ニュースを見ていた。
サキが隣に座る。「やったわね」
「まだ終わっていません」
「そうね。でも、始まったわ。革命が」
レイは頷く。
長い戦いになる。
しかし、諦めない。
本物の自由を取り戻すまで。




