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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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135/219

【ディストピアSF】幸福度9.7

 画面に数字が表示されている。


 『幸福度: 9.7』


 レイは目を覚ました。視界の右上、常に表示されている数値。幸福度。脳に埋め込まれたチップが測定し、表示する。レイの現在の幸福度は9.7。10段階評価で、ほぼ最高値だ。


 素晴らしい朝だ。レイはベッドから起き上がる。身体が軽い。気分がいい。窓の外を見る。灰色の空。工場の煙が立ち込めている。汚染された空気。AM2.5の濃度は基準値の三倍。しかし、レイは気にならない。幸福度が高いから。むしろ、空が美しく見える。灰色の中に、朝日の光が差し込んでいる。幻想的だ、とレイは思う。


 レイはシャワーを浴びる。水の温度は三十八度。ぬるい。しかし、心地よく感じる。朝食を食べる。合成食品。大豆タンパクと栄養添加物を固めたもの。味はほとんどない。しかし、美味しく感じる。幸福度が高いから。舌に触れる食感、喉を通る感覚、全てが素晴らしい。


 レイは鏡を見る。二十五歳。短い黒髪。平凡な顔。目の下に薄いクマ。睡眠不足の跡。しかし、笑顔だ。いつも笑顔だ。幸福度が高いから。鏡の中の自分が、とても幸せそうに見える。


 三年前を思い出す。チップを埋め込む前。あの頃のレイは、毎日が辛かった。仕事のストレス、人間関係の悩み、将来への不安。朝起きるのが嫌だった。会社に行くのが嫌だった。全てが嫌だった。


 そして、政府が「国民総幸福化計画」を発表した。全国民に幸福チップを無償で提供する。埋め込み手術も無料。ただし、三年以内に全員が埋め込むこと。それが法律で決まった。


 レイは最初、反対だった。脳にチップを埋め込むなんて、危険だと思った。しかし、周囲の人々が次々と埋め込んでいった。そして、みんな幸せそうだった。笑顔が増えた。不満が消えた。


 レイの同僚も埋め込んだ。「レイも早く埋め込みなよ。人生変わるから」と言われた。レイは迷った。しかし、ある日、母が倒れた。過労とストレスによる心臓発作。病院に運ばれた。


 病室で、医者が言った。「お母さんは、ストレスが原因です。幸福チップを埋め込んでいれば、こんなことにはなりませんでした」


 その言葉が、レイを動かした。母を救うため。そして、自分も救うため。レイはチップを埋め込むことを決めた。


 手術は簡単だった。局所麻酔。頭皮を切開。頭蓋骨に小さな穴を開ける。チップを挿入。配線を脳の幸福中枢に接続。縫合。一時間で終わった。


 目を覚ましたとき、世界が変わっていた。


 『幸福度: 8.5』


 視界に数字が表示されている。そして、身体中に幸福感が満ちていた。温かい。柔らかい。まるで、母の胸に抱かれているような感覚。レイは涙を流した。幸福の涙だ。


 それから三年。レイは幸福だった。仕事も楽しい。人間関係も良好。将来への不安もない。全てが素晴らしい。母も回復し、チップを埋め込んだ。今は幸福度9.5で暮らしている。


 レイは出勤する。アパートを出る。廊下にはゴミが散乱している。管理人がいないから。しかし、レイは気にならない。むしろ、ゴミがアートのように見える。色とりどりのパッケージ。興味深い配置。


 エレベーターに乗る。一階。外に出る。街は人で溢れている。みんな、笑顔だ。みんな、幸福だ。幸福チップのおかげで。


 レイは街並みを見渡す。高層ビル。しかし、多くは廃墟だ。十年前の経済崩壊で、企業が倒産した。ビルだけが残った。窓ガラスは割れている。壁は崩れている。しかし、人々は気にしない。幸福だから。廃墟すら、美しく見える。


 道路には亀裂が走っている。メンテナンス不足だ。予算が削減された。幸福チップの開発と普及に、莫大な資金が投入されたから。インフラは後回しになった。しかし、誰も文句を言わない。幸福だから。


 レイは地下鉄に乗る。満員だ。身体が押し潰されそう。隣の男の体臭が鼻を突く。しかし、レイは不快に感じない。これも人生の一部だ、と思う。むしろ、人々の温もりを感じる。素晴らしい。


 『幸福度: 9.8』


 レイの幸福度が上がった。満員電車も、幸福に感じる。素晴らしい。


 会社に着く。「ニューロテック株式会社」。大手IT企業。レイはプログラマーだ。オフィスに入る。広いフロア。しかし、デスクの半分は空いている。人員削減があった。幸福チップ導入後、生産性が下がったから。人々は幸福で満足し、向上心を失った。しかし、誰も気にしない。幸福だから。


 同僚が挨拶する。「おはよう、レイ!」みんな、笑顔だ。


 「おはよう」レイも笑顔で返す。


 仕事が始まる。コードを書く。単調な作業。バグが多い。しかし、楽しい。幸福度が高いから。エラーメッセージすら、美しい文字の羅列に見える。


 昼休み。レイは同僚と食堂に行く。合成食品のランチ。グレーのペースト状。栄養は十分。味はない。食感もない。しかし、美味しい。


 「レイ、幸福度いくつ?」同僚のケンが訊く。ケンは三十代。痩せている。目が窪んでいる。栄養失調の兆候。しかし、笑顔だ。


 「9.8」


 「いいね。俺は9.5」


 「十分高いじゃないか」


 「でも、もっと上げたい。プレミアムプランに入ろうかな」


 プレミアムプラン。幸福チップの有料サービス。基本プランは政府が無償提供。しかし、プレミアムプランは月額料金が必要。幸福度を9.9まで上げられる。さらに、カスタマイズ機能もある。特定の活動での幸福度を上げたり、特定の感情を抑制したり。


 「いくらかかる?」レイが訊く。


 「月五万円」


 「高いな」レイの月給は十五万円。家賃が五万円。食費が三万円。残りは光熱費と雑費。五万円の余裕はない。


 「でも、価値はあるよ。人生が変わる」


 「検討するよ」


 ケンは嬉しそうに頷く。「絶対おすすめ。俺、先月から入ってるんだ。最高だよ」


 レイは疑問に思う。ケンの幸福度は9.5だと言った。プレミアムプランなら9.9のはずでは。しかし、訊かない。幸福度が下がるかもしれないから。


 午後も仕事。定時に終わる。しかし、誰も帰らない。残業だ。強制ではない。しかし、みんな残る。幸福度が高いから。仕事が楽しいから。


 レイも残る。コードを書き続ける。バグが増える。しかし、気にならない。デバッグも楽しい。エラーを見つけるたび、小さな達成感がある。幸福度が上がる。


 夜十時。レイは帰る。地下鉄に乗る。深夜だが、人は多い。みんな残業帰りだ。疲れた顔。しかし、笑顔だ。幸福だから。


 家に着く。アパートの部屋。六畳。狭い。家具は最小限。ベッド、テーブル、椅子。テレビ。それだけだ。


 レイはテレビをつける。ニュースが流れている。


 『幸福チップ、満足度調査。国民の97%が満足と回答』


 画面にグラフが表示される。満足度、97%。不満、1%。無回答、2%。キャスターが笑顔で読み上げる。


 『これは素晴らしい結果です。我が国は、世界で最も幸福な国となりました』


 次のニュース。


 『幸福チップ開発企業、ニューロハピネス社の株価が過去最高を更新』


 ニューロハピネス社。幸福チップの開発・製造・販売を独占する巨大企業。政府と密接な関係がある。いや、政府を支配していると言ってもいい。


 画面には、ニューロハピネス社のCEOが映っている。五十代の男性。スーツ。笑顔。


 『我が社の使命は、全人類を幸福にすることです。今後も、より良いチップの開発に努めてまいります』


 カメラが引く。CEOの背後に、巨大なビルが映る。ニューロハピネス社の本社。百階建て。この国で最も高いビル。頂上には巨大なロゴ。NH。


 次のニュース。


 『チップ未装着者、また一人逮捕。違法な生活を続けていた模様』


 画面には、手錠をかけられた男が映っている。三十代くらい。痩せている。汚れている。警察に連行されている。


 『男は三年間、チップの装着を拒否していました。地下に潜伏し、違法な仕事で生計を立てていたとのことです』


 インタビュー。警察官が話す。


 『チップ未装着は重大な犯罪です。国民の義務を果たさない者は、厳しく処罰されます』


 男はカメラに向かって叫ぶ。「俺は自由だ!お前たちは奴隷だ!」


 しかし、その声は放送されない。映像だけが流れる。


 レイは違和感を覚える。あの男は、何を言おうとしたのか。


 『幸福度: 9.5』


 幸福度が下がった。考えるのをやめる。すぐに戻る。


 『幸福度: 9.7』


 次のニュース。


 『政府、幸福チップのアップデートを発表。来月から全国民に配信』


 厚生大臣が会見している。


 『新しいアップデートにより、幸福度がさらに向上します。また、不安や恐怖をより効果的に抑制できるようになります』


 レイは首を傾げる。不安や恐怖を抑制?それは良いことなのか。不安や恐怖は、危険を察知するための感情では。


 『幸福度: 9.3』


 また下がった。レイは考えるのをやめる。


 テレビを消す。ベッドに入る。目を閉じる。


 しかし、眠れない。


 頭の中で、何かが引っかかっている。


 あの逮捕された男の顔。


 叫んでいた。


 何を?


 「俺は自由だ」


 自由。


 レイは自由か。


 幸福だ。しかし、自由か。


 チップが感情をコントロールしている。


 それは自由か。


 『幸福度: 9.0』


 大幅に下がった。


 レイは目を開ける。天井を見る。


 眠れない。


 考えが止まらない。


 そして、その夜。レイは夢を見た。


 暗い部屋。


 一人の男が座っている。


 顔は見えない。


 影だけ。


 しかし、声が聞こえる。


 「レイ、目を覚ませ」


 誰だ。この声は。


 「お前は騙されている」


 何を言っている。


 「幸福チップは、支配の道具だ」


 違う。幸福チップは、みんなを幸せにする。


 「違わない。お前は操られている」


 嘘だ。


 「本当だ。思い出せ、レイ。お前は誰だった」


 俺は、レイ・タカハシ。プログラマー。


 「違う。お前はもっと違う人間だった。チップを埋め込む前の、お前を思い出せ」


 チップを埋め込む前。


 レイは思い出そうとする。


 しかし、思い出せない。


 いや、思い出したくない。


 あの頃は辛かった。


 不幸だった。


 今は幸福だ。


 それでいい。


 「それでいいのか、レイ」


 声が問う。


 「偽物の幸福で満足するのか」


 偽物?


 「そうだ。お前の幸福は、チップが作り出した幻だ」


 幻。


 レイは混乱する。


 しかし、次の瞬間。


 声が途切れる。


 暗闇が深くなる。


 そして、別の声が聞こえる。


 機械的な声。


 『警告。思考パターン異常。幸福度低下。自動調整を開始します』


 レイの頭の中に、何かが流れ込む。


 温かい。


 心地よい。


 幸福感。


 『幸福度: 9.5』


 『幸福度: 9.7』


 『幸福度: 9.8』


 戻った。


 不安が消える。


 疑問が消える。


 幸福だけが残る。


 レイは目を覚ました。


 汗をかいている。心臓が早鐘を打っている。


 しかし、すぐに落ち着く。


 チップが調整してくれる。


 『幸福度: 9.7』


 夢だ。ただの夢だ。


 気にすることはない。


 レイは再び眠る。


 今度は、幸福な夢を見る。




 翌朝。レイは会社に行く途中、奇妙な光景を目にした。


 駅前の広場。


 一人の男が倒れている。


 周囲に人がいる。十人以上。しかし、誰も助けない。ただ、見ている。笑顔で。


 レイは足を止める。近づく。男は苦しそうだ。顔が青白い。呼吸が浅い。胸を押さえている。心臓発作かもしれない。


 「大丈夫ですか?」レイが声をかける。


 男は答えられない。ただ、苦しんでいる。


 周囲の人々がレイを見る。


 「何してるの?」


 「放っておけばいいのに」


 「幸福度が下がるよ」


 レイは混乱する。なぜ、誰も助けないのか。


 「救急車を呼びます」レイはスマートフォンを取り出す。


 しかし、その瞬間。


 『幸福度: 8.7』


 幸福度が下がった。警告音が鳴る。


 レイの手が止まる。


 なぜだ。人助けは良いことではないのか。


 周囲の人々が言う。


 「ほら、幸福度が下がった」


 「余計なことしない方がいいよ」


 「自然に任せれば」


 レイは戸惑う。


 男はまだ苦しんでいる。


 助けなければ。


 しかし、幸福度が。


 『幸福度: 8.5』


 さらに下がる。


 レイは決断できない。


 そのとき、一人の女性が前に出た。


 二十代。黒いフードを被っている。


 女性は男に近づき、脈を確認する。そして、スマートフォンで救急車を呼ぶ。


 周囲の人々がざわめく。


 「あの人、チップ持ってるのかな」


 「持ってないんじゃない?」


 「違法だ」


 女性は無視する。男の側に付き添う。


 数分後、救急車が来る。男が運ばれる。


 女性は立ち去ろうとする。


 レイは声をかける。「あの、ありがとうございました」


 女性は振り返る。フードの下から、鋭い目が覗く。


 「あなた、疑問を持ち始めてるわね」


 レイは驚く。「なぜ分かる?」


 「表情よ。幸福度が高い人は、常に笑顔。でも、あなたは違う。迷っている」


 レイは何も言えない。


 女性は続ける。「もし、真実を知りたいなら、今夜十時。北区の廃工場に来なさい」


 そう言って、女性は去っていく。


 レイは立ち尽くす。言葉が出ない。


 『幸福度: 8.8』


 まだ低い。


 レイは周囲を見回す。人々が通り過ぎていく。みんな、笑顔だ。さっきの男のことなど、もう忘れている。


 レイは会社に向かう。


 しかし、頭の中は混乱していた。




 その日の夜。レイはネットを見ていた。しかし、違和感を感じる。


 ニュースサイト。


 『国民総幸福度、過去最高の9.4を記録』


 『犯罪率、過去最低を更新』


 『経済成長率、3%を維持』


 全て、良いニュースばかり。悪いニュースがない。


 レイは他のサイトを見る。


 SNS。


 みんな、幸せそうな投稿ばかり。「今日も幸福度9.8!」「最高の一日だった!」「幸せすぎる!」


 誰も、不満を言わない。誰も、問題を指摘しない。


 レイは違和感を覚える。


 これは、普通なのか。


 『幸福度: 8.8』


 また下がる。


 レイは検索する。「幸福チップ 問題」


 結果が表示される。


 『幸福チップに問題はありません』


 『幸福チップは安全です』


 『幸福チップは国民を幸せにします』


 公式見解ばかり。批判的な記事がない。


 レイは別のキーワードで検索する。「幸福チップ 副作用」


 結果。


 『副作用はありません』


 『安全性は確認されています』


 レイは諦める。情報がない。いや、情報は統制されているのか。


 『幸福度: 8.2』


 大幅に下がった。レイは頭を抱える。考えれば考えるほど、幸福度が下がる。


 これは、おかしい。


 幸福でいるために、考えることをやめなければならない。


 それは、本当に幸福なのか。


 『幸福度: 7.9』


 レイは立ち上がる。このままでは、幸福度が危険水準まで下がる。6.0以下になると、警告が出る。5.0以下になると、強制メンテナンスだ。


 レイは外に出る。夜の街を歩く。人々が行き交う。みんな、笑顔だ。


 レイは一人だけ、笑えない。


 『幸福度: 7.5』


 下がり続ける。


 レイは路地裏に入る。人気がない。暗い。


 そこで、レイは一人の男と出会った。


 フードを被った男。顔が見えない。


 「お前、幸福度が低いな」男が言う。


 レイは驚く。「なぜ分かる?」


 「表情でわ


かる。お前は考えている。だから幸福度が下がる」


 「あなたは?」


 男はフードを取る。四十代くらい。傷だらけの顔。


 「俺はチップを持っていない」


 レイは息を呑む。「違法だ」


 「そうだ。しかし、自由だ」


 「自由?」


 「ああ。俺は自分の感情を持っている。幸福も、悲しみも、怒りも。全部、本物だ」


 レイは黙る。


 男は続ける。「お前は疑問を持ち始めている。だから、幸福度が下がる。チップは、疑問を持つ者を幸福にできない」


 「なぜだ」


 「チップは脳を刺激する。しかし、思考は止められない。お前が考えれば考えるほど、チップの効果は薄れる」


 レイは理解する。そうだ。考えることが、幸福度を下げる。


 「では、どうすればいい」


 「チップを外せ」


 レイは首を横に振る。「無理だ。違法だ。逮捕される」


 「お前は一生、偽物の幸福で満足するのか」


 レイは答えられない。


 男は立ち去る。「考えろ、レイ。お前が本当に求めているものは何だ」


 男は闇に消える。


 レイは一人、路地裏に残される。


 『幸福度: 7.2』


 レイは家に帰る。ベッドに倒れ込む。


 考える。


 本当に求めているものは何だ。


 幸福。


 しかし、それは本物の幸福か。


 チップが作り出す幸福か。


 レイには分からない。


 『幸福度: 6.8』


 危険水準に近づいている。


 レイは決断する。


 廃工場に行く。


 真実を知る。


 そして、この違和感を解消する。


 レイは外に出る。夜の街。人通りは少ない。地下鉄に乗る。北区に向かう。


 三十分後。レイは廃工場の前にいた。


 古いコンクリートの建物。五階建て。窓ガラスは割れている。壁には落書き。「自由を」「目を覚ませ」「チップを外せ」。


 レイは入口に向かう。扉が半開きになっている。中に入る。


 暗い。


 懐中電灯を点ける。スマートフォンのライト機能。


 廊下を進む。足音が反響する。床には瓦礫が散らばっている。壁は剥がれ、配管が露出している。


 奥に光が見える。


 レイは光に向かって歩く。


 広い部屋に出る。かつては倉庫だったのだろう。天井が高い。


 そこには、十五人ほどの人々がいた。


 全員、普通の服装。しかし、表情が違う。笑顔ではない。真剣な顔。不安そうな顔。怒っている顔。様々な感情がある。


 あの女性もいる。フードを取っている。三十代くらい。短い髪。鋭い目。


 「来たのね」女性が言う。


 「あなたは?」


 「私の名前はサキ。ここにいるのは、みんなチップを外した人たち。あるいは、外そうとしている人たち」


 レイは驚く。「外した?違法だ」


 「そうよ。でも、自由よ」


 一人の男が前に出る。五十代。白髪。眼鏡をかけている。痩せている。


 「レイさん、座ってください」男は椅子を指す。


 レイは椅子に座る。周囲を見回す。みんな、レイを見ている。同情するような目。理解するような目。


 男が話し始める。「私はタケシ。元ニューロハピネス社の主任研究員でした」


 レイは息を呑む。「元?」


 「ええ。三年前、会社を辞めました。いや、逃げました。真実を知ったからです」


 「真実?」


 タケシは深呼吸をする。そして、端末を取り出す。画面を見せる。


 「これは、幸福チップの設計図です。最高機密文書。私が持ち出しました」


 画面には、複雑な回路図が表示されている。配線、チップ、プログラムコード。レイはプログラマーだが、この複雑さは理解できない。


 「見てください。この部分」タケシが指で示す。


 「ここに、隠された機能があります。思考パターン監視機能。そして、思考制御機能」


 「思考制御?」


 「そうです。チップは、あなたの思考を常に監視しています。そして、政府にとって都合の悪い思考パターンを検出すると、自動的に幸福度を下げます」


 レイは混乱する。「なぜそんなことを?」


 「考えることをやめさせるためです。疑問を持つことをやめさせるため。政府を批判することをやめさせるため。反抗する意志を消すため」


 サキが続ける。「あなた、最近幸福度が下がったことない?特定の状況で」


 レイは頷く。「ある。倒れていた人を助けようとしたとき。ニュースを見て疑問を持ったとき。夢で奇妙な声を聞いたとき」


 「それよ」サキが言う。「あなたが人道的な行動をしようとした。疑問を持った。真実に気づきかけた。だから、チップがあなたを罰した。幸福度を下げて、その行動をやめさせようとした」


 タケシが続ける。「そして、もう一つ。最も重要なこと。チップには依存性があります」


 「依存性?」


 「ええ。長期間使用すると、チップなしでは幸福を感じられなくなります。脳の幸福中枢が萎縮するんです。自然な幸福感を生み出す能力が失われる」


 レイは愕然とする。「では、一度埋め込んだら」


 「一生、チップに依存することになります。外せば、永遠に幸福を感じられない身体になる。少なくとも、長期間のリハビリが必要になる」


 サキが言う。「でも、外す方法はあるわ。リハビリは辛いけど、可能よ。ここにいる人たちの半分は、既にチップを外した」


 レイは周囲を見回す。チップを外した人々。彼らの表情には、様々な感情がある。しかし、全員に共通しているのは、生きている感じだ。人形ではない。操られていない。


 タケシが端末を操作する。別の画面が表示される。


 「これを見てください。政府とニューロハピネス社の契約書です」


 画面には、文書が表示されている。


 『国民総幸福化計画における幸福チップ導入に関する契約』


 『政府は、ニューロハピネス社に対し、年間500億円の開発費を支払う』


 『ニューロハピネス社は、全国民へのチップ供給を保証する』


 『チップには、思考監視機能および行動制御機能を実装する』


 『政府は、チップから得られるデータを国民管理に使用する権利を有する』


 レイは読み進める。契約書は三十ページに及ぶ。そこには、恐ろしい真実が書かれていた。


 チップは、幸福のためではない。


 支配のため。


 管理のため。


 国民を従順にするため。


 反抗する意志を奪うため。


 そして、ニューロハピネス社は、莫大な利益を得ている。チップ本体の販売。プレミアムプランの月額料金。メンテナンスサービス。全て、国民から搾り取る仕組み。


 レイは端末から目を離せない。


 そして、次のページ。


 『副作用に関する記録』


 『長期使用による脳機能低下: 85%の被験者で確認』


 『思考能力の減退: 92%』


 『創造性の喪失: 97%』


 『意欲の低下: 89%』


 『依存症形成: 100%』


 全て、隠蔽されている。国民には知らされていない。


 レイは震える。怒りと恐怖で。


 『幸福度: 6.5』


 大幅に下がった。


 そして、警告音が鳴る。


 『警告。思考パターン異常。危険思想検出。自動調整を開始します』


 レイの頭の中に、何かが流れ込もうとする。幸福感。無理やり押し付けられる幸福感。


 しかし、サキが素早く動く。レイの頭に何かの装置を当てる。小型の機械。手のひらサイズ。


 「これは妨害装置。チップの信号を遮断するわ」


 流れ込みが止まる。


 しかし、幸福度は下がり続ける。


 『幸福度: 6.0』


 『幸福度: 5.5』


 レイは不安に襲われる。本物の不安。チップに調整されていない、生の不安。


 怖い。


 幸福でなくなることが怖い。


 しかし、同時に。


 頭がクリアになる感覚がある。


 霧が晴れていく。


 今まで見えなかったものが見える。


 真実が見える。


 タケシが言う。「レイさん、あなたは今、選択の岐路に立っています。このまま幸福チップに支配された人生を送るか。それとも、自由を取り戻すか」


 レイは答えられない。声が出ない。


 サキが手を差し伸べる。「私たちと一緒に来て。チップを外しましょう。リハビリは辛いけど、本物の感情を取り戻せるわ。本物の人生を取り戻せる」


 レイは迷う。


 幸福。


 それは素晴らしいものだった。


 毎日が楽しかった。


 不安もなかった。


 苦しみもなかった。


 しかし、それは偽物だった。


 操られていた。


 自由ではなかった。


 そして、レイは思い出す。


 チップを埋め込む前の自分。


 辛かった。


 しかし、生きていた。


 本物の人生を生きていた。


 レイは決断する。


 「外します。チップを」


 サキは微笑む。本物の微笑み。幸福チップによるものではない、心からの微笑み。


 「よく決心したわ。でも、覚悟して。これから、とても辛い日々が始まる」


 レイは頷く。「構いません。本物の人生を取り戻します」




 翌日。


 手術が始まった。


 違法クリニック。廃ビルの地下室。薄暗い部屋。古い医療機器が並んでいる。十年前の型だ。しかし、機能する。


 医者はサキの知り合い。六十代の男性。元脳外科医。チップ反対運動で医師免許を剥奪された。今は地下で、チップを外す手術を行っている。


 「リスクは理解していますね」医者が訊く。


 レイは手術台に横になっている。「はい」


 「チップを外した後、数ヶ月は幸福を感じられません。鬱状態になります。自殺願望が出ることもあります。それでも?」


 レイは息を呑む。自殺願望。しかし、覚悟は決めた。


 「それでも、やります」


 医者は頷く。「分かりました。では、始めます」


 局所麻酔が打たれる。頭皮に注射。チクリとした痛み。


 数分後、感覚が鈍くなる。


 医者がメスを手に取る。


 「では、切開します」


 レイは目を閉じる。


 頭皮を切る音。


 血の匂い。


 ドリルの音。頭蓋骨に穴を開けている。


 レイは恐怖を感じる。しかし、動けない。動いてはいけない。


 「チップが見えました。今から除去します」


 何かを引っ張る感覚。


 脳に埋め込まれていたチップが、取り出される。


 『』


 視界から、幸福度の表示が消える。


 数字がない。


 何もない。


 空白。


 レイは不安に襲われる。しかし、それは本物の不安だ。


 「除去完了。これから縫合します」


 針と糸で縫う音。


 三十分後。


 「手術完了です」


 レイは起き上がろうとする。しかし、めまいがする。


 「無理しないでください。今日は安静に」


 レイはベッドに横になる。天井を見る。


 何も感じない。


 幸福も、悲しみも、何も。


 ただ、空虚だ。


 これが、チップのない世界か。


 


 一週間後。


 レイは廃工場で暮らしていた。チップを外した人々と共に。みんな、同じ境遇だ。幸福を感じられない。毎日が辛い。しかし、自由だ。


 レイは毎日、リハビリを続ける。サキとタケシが指導してくれる。


 朝六時。起床。ジョギング。身体を動かす。


 最初は辛い。走る意味が分からない。疲れるだけだ。しかし、サキが言う。「運動すると、脳が自然な幸福物質を分泌するわ。少しずつ、感じられるようになる」


 レイは走る。三キロメートル。息が上がる。汗が噴き出す。苦しい。


 しかし、走り終えた後。


 少しだけ、気分が良くなる。


 ほんの少し。


 でも、確かに感じる。


 これが、本物の幸福感か。


 昼。音楽療法。タケシが持ってきたクラシック音楽。ベートーヴェン、モーツァルト、バッハ。


 最初は何も感じない。ただの音だ。意味がない。


 三日目。


 ある瞬間、音が心に響いた。


 美しい、と感じる。


 涙が出た。


 なぜ泣いているのか分からない。


 涙が止まらない。


 サキが言う。

「それでいいのよ。感情が戻ってきてる」


 夕方。絵画療法。レイは絵を描く。下手だ。何を描いていいか分からない。


 しかし、タケシが言う。「上手い下手は関係ない。自分の感情を表現しなさい」


 レイは筆を取る。キャンバスに色を塗る。


 黒。


 灰色。


 暗い色ばかり。


 これが、今のレイの心だ。


 夜。みんなで話す。


 それぞれの過去。チップを埋め込む前の記憶。辛かったこと。楽しかったこと。全て、本物の感情だった。


 レイも話す。


 母のこと。病気で倒れたこと。それがきっかけでチップを埋め込んだこと。


 そして、今、後悔しているかと訊かれる。


 レイは答える。

「後悔はしていません。あの時は、それが正しいと思った。でも、今は違う。真実を知った」


 みんな、頷く。共感してくれる。


 それだけで、少しだけ、温かい気持ちになる。

 


 一ヶ月後。


 レイは少しずつ、感情を取り戻していた。


 朝、目覚めたとき。窓から差し込む光を見て、少しだけ嬉しく感じる。


 食事をしたとき。合成食品ではなく、本物の野菜を食べる。サキが近くの農家から買ってきた。味がする。甘い。美味しい、と思う。


 音楽を聴いたとき。心が動く。悲しい曲で涙が出る。嬉しい曲で微笑む。


 絵を描いたとき。少しずつ、明るい色を使うようになる。黄色。赤。青。


 ある夜。


 レイは夢を見た。


 母の夢。


 母が笑っている。


 「ユウタ、元気?」


 レイの本名はユウタ・レイ・タカハシ。レイは愛称だ。


 「元気だよ、母さん」


 「そう。良かった」


 母は優しく微笑む。


 レイは目を覚ました。


 涙が流れている。


 しかし、それは悲しい涙ではない。


 懐かしさの涙だ。


 母を思い出した。


 チップを埋め込む前の、本物の記憶。


 レイは微笑む。小さな微笑み。本物の微笑み。


 


 三ヶ月後。


 レイは街を歩いていた。フードを被り、顔を隠している。チップを外したことは秘密だ。見つかれば、逮捕される。


 街は相変わらずだ。人々は笑顔。幸福そう。しかし、レイには分かる。それは偽物だ。操られた幸福だ。


 公園に入り。ベンチに座る。木々を見る。風が吹き、葉が揺れる。


 深呼吸をする。空気が肺に入る。冷たく心地よい。


 そして、感じた。


 幸福を。


 小さい。ほんの少し。


 これが本物だ。チップが作り出したものではない。自分で感じたものだ。


 レイは微笑む。


 そのとき、スマートフォンが振動した。サキからのメッセージだ。


 『緊急会議。すぐに廃工場に来て』


 レイは立ち上がり、急いで廃工場に向かう。


 


 廃工場。全員が集まっていた。二十人以上。チップを外した人々。そして、外そうとしている人々。


 タケシが前に立つ。


 「皆さん、重大なニュースです。政府が新しい法律を制定しようとしています」


 画面に文書が表示される。


 『幸福維持法案』


 『幸福度が6.0以下の国民を、強制的に精神病院に収容する』


 『チップの強制アップグレード。思考監視機能の強化』


 『チップ未装着者の通報制度。通報者には報奨金』


 レイは息を呑む。


 サキが言う。「もう時間がない。私たちは行動しなければならない」


 「何をする?」誰かが訊く。


 タケシが答える。「真実を広める。ニューロハピネス社の内部文書を公開する。契約書、副作用のデータ、全てを」


 「でも、政府が削除するだろう」


 「だから、同時多発的に拡散する。全てのSNS、掲示板、メディア。一斉に」


 レイが前に出る。「私が手伝います。プログラムを書きます。削除されても、自動で再アップロードされるシステムを」


 タケシは頷く。「頼む」


 


 一週間後。


 レイは完成させた。自動拡散プログラム。政府が削除しても、無数のサーバーから再アップロードされる。完全に消すことは不可能だ。


 そして、決行の日。


 深夜零時。


 レイはボタンを押す。


 プログラムが起動する。


 全てのSNSに、内部文書が投稿される。


 契約書。


 副作用のデータ。


 被験者の証言。


 全て。


 朝、街は混乱していた。


 ニュースが報道している。


 『幸福チップ、内部文書流出。副作用の隠蔽が明らかに』


 『政府とニューロハピネス社の癒着。契約書が公開される』


 『国民の間に動揺広がる。幸福度が全国的に低下』


 人々が街に出ている。しかし、笑顔ではない。不安そうな顔。怒っている顔。


 幸福度が下がっている。真実を知ったから。


 政府は必死に否定している。「偽造文書だ」「デマだ」


 しかし、証拠は明白だ。


 そして、数日後。


 デモが始まった。


 「チップを外せ!」


 「自由を返せ!」


 「政府は嘘つきだ!」


 何万人もの人々が街に出ている。


 政府は鎮圧しようとする。しかし、数が多すぎる。


 レイは廃工場で、ニュースを見ていた。


 サキが隣に座る。「やったわね」


 「まだ終わっていません」


 「そうね。でも、始まったわ。革命が」


 レイは頷く。


 長い戦いになる。


 しかし、諦めない。


 本物の自由を取り戻すまで。

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