【倫理SF】ネクタール
テレビのニュースが流れている。
『ネクタール自販機、また新たな被害者。渋谷区在住の四十二歳男性が、全ての記憶を失った状態で発見されました。家族によると、男性は末期癌の妻のためにネクタールを購入したとみられています』
画面には、病院のベッドに横たわる男性が映っている。目は開いているが、焦点が合っていない。表情がない。隣には妻が座っている。完全に回復した身体。しかし、涙を流している。
『政府は改めて国民に警告を発しました。ネクタール自販機は使用しないでください。代価があまりにも大きすぎます』
厚生労働大臣が会見している映像。「我々は自販機の撤去を試みましたが、不可能でした。破壊も、移動も、できません。国民の皆様にお願いします。どんな理由があっても、使用しないでください」
しかし、使用者は増え続けている。
ユウタはテレビを消した。リビングの窓から朝日が差し込んでいる。六時。いつもの時間。ユウタは制服に着替え、朝食を作る。トースト二枚、目玉焼き、サラダ。母の分と自分の分。
しかし、母は起きてこない。
ユウタは母の部屋のドアをノックする。「母さん、朝ごはん」。返事がない。ユウタはドアを開ける。母はベッドで横になっている。起き上がろうとして、できない。顔が青白い。
「大丈夫?」ユウタが訊く。
母は微笑もうとする。しかし、痛みで顔が歪む。「ごめんね、ユウタ。今日は起きられそうにない」
ユウタの胸が締め付けられる。三週間前、母は膵臓癌だと診断された。ステージ4。手術不可能。化学療法も効果なし。余命三ヶ月。それから、母の体調は日に日に悪化している。
「病院行く?」
「大丈夫。薬を飲んだから。少し休めば」
ユウタは母の額に手を当てる。熱い。発熱している。「無理しないで。何かあったら連絡して」
「分かってる。学校、遅刻するわよ」
ユウタは頷く。部屋を出る。朝食を一人で食べる。トーストが喉を通らない。無理に飲み込む。家を出る。
駅に向かう途中、ユウタはスマートフォンを取り出す。ネットの掲示板を開く。「ネクタール」のスレッド。書き込みが溢れている。
『母が使った。今は植物状態。俺は後悔してる』
『妹が買った。俺の癌を治すために。妹は十二歳だった。今は何も分からない。言葉も話せない。俺は生きていたくない』
『政府は嘘をついてる。自販機を撤去できないんじゃない。したくないんだ。人口削減のためだ』
『いや、違う。自販機は人類への試練だ。愛を試している』
様々な意見。様々な感情。怒り、悲しみ、絶望、陰謀論。
ユウタはスレッドを閉じる。しかし、また開く。一つの書き込みに目が止まる。
『俺は使った。後悔はしていない。父が助かった。それでいい。記憶は消えた。俺は今、誰が俺なのか分からない。でも、父が生きている。それだけで十分だ』
この書き込みは、他の人間が代理で投稿したものだろう。記憶を失った本人が書けるはずがない。しかし、ユウタの心に響く。
母が助かるなら。自分が消えても。
ユウタは駅に着く。電車に乗る。窓の外を眺める。街が流れていく。
学校に着く。教室に入る。友達が声をかけてくる。「おはよう、ユウタ」
「おはよう」ユウタは笑顔を作る。
授業が始まる。先生が何かを話している。しかし、ユウタの頭には入ってこない。母のことばかり考えている。このままだと、三ヶ月後には死ぬ。いや、もっと早いかもしれない。体調の悪化が早すぎる。
昼休み。ユウタは一人で屋上に行く。弁当を開ける。母が昨日作ったおにぎり。ユウタは一口食べる。涙が溢れてくる。止められない。
「ユウタ?」声がする。
振り返る。クラスメイトのケンジだ。心配そうな顔をしている。
「大丈夫か?」
「大丈夫」ユウタは涙を拭く。
ケンジは隣に座る。「母さんのこと?」
ユウタは頷く。ケンジには話していた。母の病気のこと。
「辛いよな」ケンジが呟く。「俺の祖父も去年、癌で死んだ。何もできなかった」
「ケンジは、ネクタールのこと知ってる?」
ケンジは顔をしかめる。「ああ。あの自販機だろ。ニュースで見た。使っちゃダメだぞ、ユウタ」
「でも」
「でも、じゃない」ケンジの声が強くなる。「お前が消えたら、母さんはどうなる。助かっても、お前がいなくなったら、意味ないだろ」
ユウタは黙る。ケンジの言うことは正しい。しかし、母が死ぬのを見ているだけなのか。何もできないのか。
ケンジは立ち上がる。「考え直せ。他に方法があるはずだ」
そう言って、ケンジは去っていく。
ユウタは一人、屋上に残る。空を見上げる。青い。雲が流れている。母は、もうこの空を見られないかもしれない。
その日の放課後、ユウタは病院に向かった。母の病室。個室。窓からは夕日が差し込んでいる。母はベッドに横たわっている。点滴が繋がっている。顔色が悪い。
「ユウタ」母が微笑む。
「母さん」ユウタは椅子に座る。母の手を握る。冷たい。
「学校、どうだった?」
「普通」
「友達とは遊んだ?」
「うん」嘘だ。ユウタは友達と遊ぶ気になれない。
母はユウタの顔を見つめる。「ユウタ、無理しないで。私のことは気にしないで」
「気にするよ」ユウタの声が震える。「母さんは、俺の母さんなんだから」
母は涙を浮かべる。「ありがとう」
二人は黙る。ただ、手を握り合う。
窓の外では、夕日が沈んでいく。
ユウタは帰路につく。駅前のロータリーを通る。そこで、ユウタは足を止めた。
自動販売機がある。
駅前のロータリー。タクシー乗り場の横。他の自販機に並んで、それは立っている。見た目は普通だ。白い筐体。しかし、よく見ると違和感がある。表面に傷一つない。新品のように綺麗だ。他の自販機は使い古されて汚れているのに、この自販機だけが異様に清潔だ。
ボタンが一つ。大きい。赤い。他には何もない。商品表示はない。ラベルもない。値段も書かれていない。
ただ、そこにある。
ユウタは近づく。周囲を見回す。人通りは多い。誰もこの自販機を気にしていない。普通の自販機として認識されている。ユウタだけが、その意味を知っている。
ユウタは手を伸ばす。ボタンに触れる。
ユウタは手を伸ばす。ボタンに触れる。
瞬間。
頭の中に何かが流れ込んだ。
電流のような感覚。しかし、痛くはない。ただ、強烈だ。言葉ではない。映像でもない。音でもない。しかし、「意味」が直接理解される。脳に刻み込まれる。
『このボタンを押せば、ネクタールが出る』
映像が浮かぶ。小瓶。金色の液体。
『飲んだ者は、全ての病気と怪我が治る』
母の顔。健康な母。笑っている母。
『老化も止まる。後遺症もない。完全な治癒』
しかし。
次の瞬間、ユウタの全身が凍りついた。
『代価がある』
暗闇。
『購入者の全記憶が消える』
ユウタの記憶が引き剥がされていくイメージ。母との思い出。友達の顔。学校。家。全部。
『言語も、知識も、自己認識も、全て』
ユウタという存在が消える。空白になる。
『不可逆。取り戻せない』
永遠に。
『理解したか?』
ユウタは手を引いた。
ボタンから離れる。後ずさる。息が荒い。心臓が破裂しそうだ。汗が噴き出している。
怖い。
あまりにも怖い。
消えるのが怖い。存在が消えるのが怖い。ユウタでなくなるのが怖い。
ユウタは走り出す。自販機から離れる。駅に向かう。電車に飛び乗る。家に帰る。
部屋に入る。ベッドに倒れ込む。全身が震えている。
無理だ。
できない。
あんな代価、払えない。
ユウタは枕に顔を埋める。涙が溢れてくる。
しかし、母はどうなる。このままでは死ぬ。
ユウタは叫びたくなる。しかし、声は出ない。
その夜、ユウタは眠れなかった。天井を見つめ続ける。何度も何度も、あの感覚が蘇る。記憶が消える感覚。存在が消える感覚。
翌日。ユウタは学校を休んだ。母に「体調が悪い」と嘘をついた。一日中、部屋にいた。ネットを見る。ネクタールのスレッド。新しい書き込みが増えている。
『娘が使った。七歳だった。今は何も分からない。食事も一人でできない。排泄も。完全に赤ちゃんに戻った。俺は娘を殺した』
ユウタは吐き気を感じる。
しかし、読み続ける。
『使うな。絶対に使うな。俺は妻を失った。いや、妻の身体はある。でも、中身は空っぽだ。これなら、死んでくれた方が良かった』
ユウタはスマートフォンを投げ出す。
無理だ。やはり無理だ。
三日後。母の容態が急変した。病院から連絡が来た。ユウタは学校を早退し、病院に駆けつける。母は集中治療室に入っていた。医者が説明する。
「腫瘍が急速に拡大しています。内臓を圧迫しています。このままでは、一週間持たないでしょう」
一週間。
余命三ヶ月ではなかった。一週間だ。
ユウタは母の顔を見る。酸素マスクをつけている。意識はある。ユウタに気づき、手を伸ばす。ユウタは母の手を握る。
「大丈夫」母が囁く。声が弱い。「心配しないで」
ユウタは何も言えない。涙が止まらない。
その夜、ユウタは再び自販機の前にいた。
夜の駅前。人通りは少ない。自販機が、静かに立っている。
ユウタは震える手を伸ばす。ボタンに触れる。
再び、あの感覚。
『理解したか?』
ユウタは頷く。理解している。全て理解している。
代価。全記憶の消失。自己の消滅。
しかし。
母が助かる。
それだけでいい。
ユウタは深呼吸をする。震えが止まらない。しかし、決めた。
母を救う。
自分が消えても。
ユウタでなくなっても。
それでいい。
ユウタはボタンを押した。
ガコン、という音。
自販機の取り出し口。何かが落ちてくる音。ユウタは屈み込む。手を伸ばす。
小瓶。
ユウタは瓶を取り出す。
透明なガラス製。手のひらに収まるサイズ。しかし、持った瞬間、ユウタは驚く。
重い。
異常に重い。
まるで鉛の塊のようだ。この小さな瓶が、十キログラム以上あるように感じる。ユウタは両手で持つ。それでも重い。腕が震える。しかし、持てないわけではない。ユウタだけが持てる。購入者だけが。
瓶の中身を見る。液体が入っている。淡い金色。いや、金色というより、光そのもののような色だ。瓶を傾けると、液体が流れる。粘度は水と同じくらい。しかし、光を反射してきらめく。まるで液体の宝石のようだ。
蓋はコルク栓。ラベルはない。何の表示もない。ただ、この液体だけ。
ユウタは瓶をカバンに入れる。重さで肩が引っ張られる。しかし、我慢する。
周囲を見回す。誰も気づいていない。自販機は、また静かに佇んでいる。まるで何事もなかったかのように。
ユウタは走り出す。病院に向かう。
夜の街。街灯が道を照らす。ユウタの息が白く見える。寒い。しかし、ユウタは走り続ける。
病院に着く。自動ドアを抜ける。エレベーターに乗る。三階。母の病室がある階。廊下を走る。
個室の前で止まる。
ドアを開ける。
母がベッドに横たわっている。酸素マスクをつけている。点滴が複数繋がっている。モニターが心拍数を表示している。規則的な音。ピッ、ピッ、ピッ。
母は眠っている。苦しそうな表情。眉間に皺が寄っている。
ユウタは椅子に座る。カバンから瓶を取り出す。
ネクタール。
母を救うもの。
そして、ユウタを消すもの。
ユウタは瓶を見つめる。金色の液体が、淡く光っている。
飲ませれば、母は助かる。完全に治る。癌は消える。痛みもなくなる。母はまた笑える。また料理を作れる。また一緒に過ごせる。
しかし、ユウタは消える。
記憶が消える。母の顔も、名前も、思い出も、全部消える。言葉も消える。ユウタは何も分からなくなる。赤ちゃんよりも何も知らない存在になる。
ユウタは震える手で瓶を持つ。
本当にいいのか。
本当に、これでいいのか。
母なら、望まないだろう。ユウタが消えるくらいなら、自分が死ぬ方を選ぶだろう。
しかし、ユウタは母に死んでほしくない。
どんな代価を払っても。
ユウタはコルク栓に手をかける。
その時、母が目を覚ました。
「ユウタ?」かすれた声。
ユウタは振り返る。母が見ている。酸素マスク越しの目。
「こんな時間に、どうしたの?」
ユウタは答えられない。言葉が出ない。
母はユウタの手を見る。瓶を見る。
「それ、何?」
ユウタは瓶を母の前に置く。「薬」声が震える。「これを飲めば、治る」
母は瓶を見つめる。しばらく黙っている。そして、訊く。「ユウタ、それネクタールじゃないの?」
ユウタは何も言えない。
母は悲しそうな顔をする。「ダメよ、ユウタ。そんなもの」
「でも」
「でも、じゃない」母の声が強くなる。しかし、すぐに咳き込む。苦しそうだ。ユウタは母の背中をさする。
咳が収まる。母は酸素マスクを直す。深呼吸をする。そして、ユウタを見つめる。
「ユウタ。私はね、あなたが生きていてくれるだけでいいの。私が死んでも、あなたが生きていれば、それでいい。だから、お願い。そんなもの使わないで」
ユウタの目から涙が溢れる。「でも、母さんが死んだら、俺は」
「大丈夫」母が微笑む。「あなたは強い子。一人でも生きていける」
「嫌だ」ユウタは首を振る。「母さんがいなくなるのは嫌だ」
母は何も言わない。ただ、ユウタの頭を撫でる。
二人は黙る。
時計の音だけが響く。
ユウタは決意を固める。
母は拒否する。しかし、ユウタは決めた。
母さん、ごめん。
ユウタはコルク栓を開ける。母が止めようとする。しかし、ユウタは速く動く。
母の酸素マスクを外す。
母が何か言おうとする。
ユウタは瓶を母の口に当てる。
液体を流し込む。
母が飲み込む。
瞬間。
ユウタの頭が真っ白になった。
いや、白ではない。
何かが、引き抜かれる。
最初は、最近の記憶から。
今日、学校を休んだこと。
消える。
昨日、母を見舞ったこと。
消える。
ネットでネクタールのことを調べたこと。
消える。
次は、もっと前の記憶。
友達の顔。ケンジ。誰だ。知らない。
先生の顔。知らない。
学校。どこだ。
そして、もっと前。
中学の入学式。
小学校。
幼稚園。
全部消える。
母との思い出。
母と公園に行ったこと。
母が作ったカレー。
母の笑顔。
母の声。
母の名前。
誰だ。
この人は誰だ。
そして、言葉が消える。
「母」という言葉の意味が分からなくなる。
「病院」も分からない。
「自分」も分からない。
ユウタは、自分が誰か分からなくなる。
名前。
ユウタ。
何だそれは。
意味が分からない。
自分が何者か分からない。
なぜ、ここにいるのか分からない。
何をしていたのか分からない。
全て。
全部。
消える。
ユウタは床に崩れ落ちた。
身体が動かない。
いや、動かし方が分からない。
立つ、という行為の意味が分からない。
視界がぼやける。
いや、「見る」という行為の意味が分からない。
音が聞こえる。
しかし、それが何の音か分からない。
意識が遠のく。
暗闇。
何もない。
誰もいない。
ユウタは、消えた。
ユウタが目を覚ましたとき、病室にいた。自分がベッドに寝かされている。周囲に人がいる。白衣を着た人。その隣に女の人。他にも何人か。
しかし、ユウタには何も分からない。
この人たちが誰か。
ここがどこか。
自分が誰か。
全て、分からない。
白衣の人が話しかけてくる。音が聞こえる。口が動いている。しかし、意味が分からない。言葉が理解できない。音の羅列でしかない。
ユウタは混乱する。
何が起きているのか。
なぜ、自分はここにいるのか。
なぜ、何も分からないのか。
女の人が近づいてくる。涙を流している。ユウタの手を握る。何かを言っている。しかし、ユウタには分からない。
ユウタは恐怖を感じる。
何も分からない恐怖。
存在する意味が分からない恐怖。
ユウタは叫ぼうとする。
しかし、声の出し方が分からない。
口を開ける。
音が出ない。
いや、音は出ている。
しかし、それは言葉ではない。
意味のない音。
獣のような音。
白衣の人が女の人に何かを言う。女の人が頷く。白衣の人が出ていく。
女の人がユウタを抱きしめる。
温かい。
しかし、ユウタには理解できない。
なぜ、この人は自分を抱きしめるのか。
この人は誰なのか。
ユウタは、ただ、存在している。
意味も分からず。
目的も分からず。
ただ、存在している。
一ヶ月後。
母は完全に回復していた。
癌は消えた。
腫瘍は跡形もなく消失していた。
医者は驚愕した。「医学では説明がつかない」と言った。しかし、母は知っている。ネクタールだ。息子が命と引き換えに手に入れたものだ。
母は退院した。
しかし、家に帰っても、何も嬉しくない。
ユウタがいる。
身体はユウタだ。
しかし、中身は空っぽ。
ユウタは何もできない。
話せない。
歩けない。
食事も一人でできない。
トイレも一人でできない。
着替えも。
全て、母が手伝う。
まるで赤ちゃんのよう。
いや、赤ちゃん以下だ。
赤ちゃんは成長する。
しかし、ユウタは成長しない。
記憶がないから。
学習ができないから。
ユウタは、ただの身体だ。
十五歳の身体。
しかし、中身は何もない。
母は毎日、ユウタに話しかける。
「ユウタ、今日は天気がいいね」
ユウタは反応しない。
ただ、母を見つめる。
「ユウタ、ご飯食べようか」
ユウタは口を開ける。
母がスプーンで食べさせる。
ユウタは飲み込む。
しかし、味が分かっているのかどうか、分からない。
「ユウタ、散歩に行こう」
母はユウタを車椅子に乗せる。
公園に行く。
かつて、ユウタと一緒に遊んだ公園。
母は思い出す。
ユウタが小さい頃、ブランコに乗った。
ユウタが笑った。
ユウタが「母さん、見て!」と叫んだ。
しかし、今のユウタは何も言わない。
ただ、座っている。
表情もない。
母は涙を流す。
「ごめんね、ユウタ」
「ごめんね」
「ごめんね」
何度も謝る。
しかし、ユウタには届かない。
ユウタは、もういない。
三ヶ月後。
母は心療内科を受診していた。
鬱だった。
毎日、自分を責めている。
なぜ、あの時、ネクタールを飲んだのか。
なぜ、ユウタを止められなかったのか。
自分が死ねば良かった。
そうすれば、ユウタは生きていた。
ユウタとして。
しかし、今は。
ユウタは生きている。
しかし、ユウタではない。
空っぽの身体が生きているだけ。
医者は言う。「あなたのせいではありません」
しかし、母は信じない。
自分のせいだ。
自分が癌にならなければ。
ユウタはこんなことにならなかった。
母は薬を飲む。
抗鬱剤。
睡眠薬。
しかし、眠れない。
毎晩、ユウタの部屋を見に行く。
ユウタはベッドで眠っている。
穏やかな寝顔。
しかし、母は知っている。
この子は、もうユウタではない。
母は部屋を出る。
リビングに座る。
テレビをつける。
ニュースが流れている。
『ネクタール自販機、また新たな被害者』
画面には、十二歳の少女が映っている。
表情がない。
母親が涙を流している。
「娘を返してください」と叫んでいる。
しかし、誰も返せない。
娘は消えた。
記憶が消えた。
母はテレビを消す。
暗闇の中で、座っている。
六ヶ月後。
母の生活は完全に変わっていた。
朝六時に起きる。ユウタの部屋に行く。ユウタはベッドで目を覚ましている。しかし、起き上がれない。起き上がり方が分からない。
母はユウタを抱き起こす。十五歳の身体。重い。母の腰が痛む。しかし、やるしかない。
ユウタを車椅子に移す。トイレに連れて行く。排泄を手伝う。ユウタは自分で用を足せない。母がオムツを交換する。
ユウタを洗面所に連れて行く。歯磨きをさせる。しかし、ユウタは歯ブラシの使い方が分からない。母が手を添えて磨く。
着替えをさせる。ユウタは自分で服を着られない。母が一つ一つ着せる。
リビングに移動する。朝食を食べさせる。ユウタは自分でスプーンを使えない。母が口に運ぶ。
一連の作業に二時間かかる。
母は疲れている。しかし、休めない。
昼。ユウタをリハビリセンターに連れて行く。週三回通っている。理学療法士が身体を動かす訓練をする。しかし、効果は薄い。ユウタは指示を理解できない。
夕方。家に戻る。夕食の準備。ユウタに食べさせる。入浴させる。これも大変だ。ユウタを浴槽に入れる。身体を洗う。髪を洗う。
夜。ユウタを寝かせる。オムツを確認する。
そして、母は自分の部屋に戻る。
ベッドに倒れ込む。
身体が痛い。腰、肩、膝。全身が痛い。
しかし、それよりも心が痛い。
毎日、同じことの繰り返し。
ユウタの世話。
しかし、ユウタは何も反応しない。
「ありがとう」も言わない。
笑顔も見せない。
ただ、存在しているだけ。
母は天井を見つめる。
いつまで続くのか。
この生活は。
一年?
十年?
一生?
母は涙を流す。
声を殺して泣く。
ユウタに聞こえないように。
ある日、母は支援団体の集会に参加した。「ネクタール被害者家族の会」。同じ境遇の人々が集まる場所。
会場は公民館の一室。二十人ほどが集まっている。全員、疲れた顔をしている。
司会者が話し始める。中年の女性。彼女も被害者家族だ。
「皆さん、今日も来てくださってありがとうございます。今日は新しい参加者の方がいらっしゃいます。自己紹介をお願いします」
母が立ち上がる。「佐藤です。息子が、ネクタールを使いました。十五歳でした」
他のメンバーが頷く。共感の表情。
「息子は、私の癌を治すために。でも、今は」母の声が震える。「何も分かりません。言葉も話せません。私は、毎日介護しています」
母は座る。
次の人が話す。四十代の男性。「私の娘は七歳でした。妻の難病を治すために使いました。今は、赤ちゃんのようです。何もできません」
また次の人。六十代の女性。「孫が使いました。十二歳。息子の事故の後遺症を治すために。孫は今、施設にいます。私たちでは面倒を見られないので」
一人、また一人と話す。
みんな、同じだ。
愛する人を救うために、ネクタールを使った。
そして、使った本人は消えた。
残されたのは、空っぽの身体。
そして、介護する家族の苦しみ。
集会が終わる。母は他のメンバーと話す。
「大変ですよね」一人の女性が言う。
「はい」母は頷く。
「私も最初は、何度も死のうと思いました」女性が続ける。「でも、娘の身体がある限り、世話をしなければと」
「そうですね」
「政府に何度も訴えました。自販機を撤去してくれと。でも、何もしてくれない」
「なぜでしょう」
「分かりません。できないのか、したくないのか」
母は黙る。
自販機。
あの自販機さえなければ。
ユウタはこんなことにならなかった。
一年後。
母はユウタを連れて、公園にいた。
かつて、ユウタが小さい頃、よく来た公園。
ブランコ、滑り台、砂場。
母は車椅子を押す。ベンチに座る。ユウタの横に。
子供たちが遊んでいる。笑い声が響く。
母は思い出す。
ユウタもあんな風に遊んでいた。
友達と追いかけっこをした。
滑り台を何度も滑った。
母に「見て!」と叫んだ。
あの頃のユウタ。
生き生きとしたユウタ。
笑顔のユウタ。
しかし、今のユウタは。
母はユウタの顔を見る。
表情がない。
ただ、前を見ている。
何を見ているのか。
何を考えているのか。
そもそも、何か考えているのか。
母には分からない。
「ユウタ」母が呼びかける。
ユウタは反応しない。
「ユウタ、聞こえてる?」
何も言わない。
母は諦める。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
鳥が鳴く。
穏やかな日。
しかし、母の心は穏やかではない。
絶望と罪悪感。
それが、母を蝕み続けている。
ある夜、母はネットを見ていた。
ネクタールのスレッド。
新しい書き込みがある。
『政府はなぜ自販機を撤去しないのか』
『撤去できないんだよ。物理的に』
『いや、できるはずだ。本気でやれば』
『陰謀だ。人口削減計画だ』
『違う。これは人類への試練だ』
様々な意見。
母はスクロールする。
一つの書き込みに目が止まる。
『俺は使った者の一人だ。記憶は消えた。今、これを書いているのは代理人だ。でも、伝えたい。後悔はしていない。母が生きている。それでいい』
母は画面を見つめる。
後悔していない。
ユウタも、そう思っているのだろうか。
記憶がないユウタに、そんな感情があるのだろうか。
母には分からない。
しかし、信じたい。
ユウタは後悔していないと。
母を救えたことを、喜んでいると。
そう信じたい。
しかし、現実は残酷だ。
ユウタは何も感じていない。
喜びも、悲しみも、後悔も。
何もない。
空っぽだ。
母はパソコンを閉じる。
暗闇の中で、座っている。
そして、決意する。
生きる。
ユウタのために。
ユウタが生きている限り、自分も生きる。
それが、母にできる唯一のことだった。
自動販売機は、また別の場所にある。
今日は、商店街の角。
誰かが、それを見つける。
誰かが、ボタンに触れる。
誰かが、理解する。
そして、誰かが、選択する。
自販機は、ただ、そこにある。
善でも悪でもなく。
ただ、選択と代価を交換する装置として。
愛は、自己を消す。
愛は、自己を犠牲にする。
それは美しいか。
それは正しいか。
誰にも分からない。
選択した者だけが、代価を払う。
それだけが、ネクタールの真実だった。




