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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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134/219

【倫理SF】ネクタール

 テレビのニュースが流れている。


 『ネクタール自販機、また新たな被害者。渋谷区在住の四十二歳男性が、全ての記憶を失った状態で発見されました。家族によると、男性は末期癌の妻のためにネクタールを購入したとみられています』


 画面には、病院のベッドに横たわる男性が映っている。目は開いているが、焦点が合っていない。表情がない。隣には妻が座っている。完全に回復した身体。しかし、涙を流している。


 『政府は改めて国民に警告を発しました。ネクタール自販機は使用しないでください。代価があまりにも大きすぎます』


 厚生労働大臣が会見している映像。「我々は自販機の撤去を試みましたが、不可能でした。破壊も、移動も、できません。国民の皆様にお願いします。どんな理由があっても、使用しないでください」


 しかし、使用者は増え続けている。


 ユウタはテレビを消した。リビングの窓から朝日が差し込んでいる。六時。いつもの時間。ユウタは制服に着替え、朝食を作る。トースト二枚、目玉焼き、サラダ。母の分と自分の分。


 しかし、母は起きてこない。


 ユウタは母の部屋のドアをノックする。「母さん、朝ごはん」。返事がない。ユウタはドアを開ける。母はベッドで横になっている。起き上がろうとして、できない。顔が青白い。


 「大丈夫?」ユウタが訊く。


 母は微笑もうとする。しかし、痛みで顔が歪む。「ごめんね、ユウタ。今日は起きられそうにない」


 ユウタの胸が締め付けられる。三週間前、母は膵臓癌だと診断された。ステージ4。手術不可能。化学療法も効果なし。余命三ヶ月。それから、母の体調は日に日に悪化している。


 「病院行く?」


 「大丈夫。薬を飲んだから。少し休めば」


 ユウタは母の額に手を当てる。熱い。発熱している。「無理しないで。何かあったら連絡して」


 「分かってる。学校、遅刻するわよ」


 ユウタは頷く。部屋を出る。朝食を一人で食べる。トーストが喉を通らない。無理に飲み込む。家を出る。


 駅に向かう途中、ユウタはスマートフォンを取り出す。ネットの掲示板を開く。「ネクタール」のスレッド。書き込みが溢れている。


 『母が使った。今は植物状態。俺は後悔してる』


 『妹が買った。俺の癌を治すために。妹は十二歳だった。今は何も分からない。言葉も話せない。俺は生きていたくない』


 『政府は嘘をついてる。自販機を撤去できないんじゃない。したくないんだ。人口削減のためだ』


 『いや、違う。自販機は人類への試練だ。愛を試している』


 様々な意見。様々な感情。怒り、悲しみ、絶望、陰謀論。


 ユウタはスレッドを閉じる。しかし、また開く。一つの書き込みに目が止まる。


 『俺は使った。後悔はしていない。父が助かった。それでいい。記憶は消えた。俺は今、誰が俺なのか分からない。でも、父が生きている。それだけで十分だ』


 この書き込みは、他の人間が代理で投稿したものだろう。記憶を失った本人が書けるはずがない。しかし、ユウタの心に響く。


 母が助かるなら。自分が消えても。


 ユウタは駅に着く。電車に乗る。窓の外を眺める。街が流れていく。


 学校に着く。教室に入る。友達が声をかけてくる。「おはよう、ユウタ」


 「おはよう」ユウタは笑顔を作る。


 授業が始まる。先生が何かを話している。しかし、ユウタの頭には入ってこない。母のことばかり考えている。このままだと、三ヶ月後には死ぬ。いや、もっと早いかもしれない。体調の悪化が早すぎる。


 昼休み。ユウタは一人で屋上に行く。弁当を開ける。母が昨日作ったおにぎり。ユウタは一口食べる。涙が溢れてくる。止められない。


 「ユウタ?」声がする。


 振り返る。クラスメイトのケンジだ。心配そうな顔をしている。


 「大丈夫か?」


 「大丈夫」ユウタは涙を拭く。


 ケンジは隣に座る。「母さんのこと?」


 ユウタは頷く。ケンジには話していた。母の病気のこと。


 「辛いよな」ケンジが呟く。「俺の祖父も去年、癌で死んだ。何もできなかった」


 「ケンジは、ネクタールのこと知ってる?」


 ケンジは顔をしかめる。「ああ。あの自販機だろ。ニュースで見た。使っちゃダメだぞ、ユウタ」


 「でも」


 「でも、じゃない」ケンジの声が強くなる。「お前が消えたら、母さんはどうなる。助かっても、お前がいなくなったら、意味ないだろ」


 ユウタは黙る。ケンジの言うことは正しい。しかし、母が死ぬのを見ているだけなのか。何もできないのか。


 ケンジは立ち上がる。「考え直せ。他に方法があるはずだ」


 そう言って、ケンジは去っていく。


 ユウタは一人、屋上に残る。空を見上げる。青い。雲が流れている。母は、もうこの空を見られないかもしれない。


 その日の放課後、ユウタは病院に向かった。母の病室。個室。窓からは夕日が差し込んでいる。母はベッドに横たわっている。点滴が繋がっている。顔色が悪い。


 「ユウタ」母が微笑む。


 「母さん」ユウタは椅子に座る。母の手を握る。冷たい。


 「学校、どうだった?」


 「普通」


 「友達とは遊んだ?」


 「うん」嘘だ。ユウタは友達と遊ぶ気になれない。


 母はユウタの顔を見つめる。「ユウタ、無理しないで。私のことは気にしないで」


 「気にするよ」ユウタの声が震える。「母さんは、俺の母さんなんだから」


 母は涙を浮かべる。「ありがとう」


 二人は黙る。ただ、手を握り合う。


 窓の外では、夕日が沈んでいく。


 ユウタは帰路につく。駅前のロータリーを通る。そこで、ユウタは足を止めた。


 自動販売機がある。


 駅前のロータリー。タクシー乗り場の横。他の自販機に並んで、それは立っている。見た目は普通だ。白い筐体。しかし、よく見ると違和感がある。表面に傷一つない。新品のように綺麗だ。他の自販機は使い古されて汚れているのに、この自販機だけが異様に清潔だ。


 ボタンが一つ。大きい。赤い。他には何もない。商品表示はない。ラベルもない。値段も書かれていない。


 ただ、そこにある。


 ユウタは近づく。周囲を見回す。人通りは多い。誰もこの自販機を気にしていない。普通の自販機として認識されている。ユウタだけが、その意味を知っている。


 ユウタは手を伸ばす。ボタンに触れる。


 ユウタは手を伸ばす。ボタンに触れる。


 瞬間。


 頭の中に何かが流れ込んだ。


 電流のような感覚。しかし、痛くはない。ただ、強烈だ。言葉ではない。映像でもない。音でもない。しかし、「意味」が直接理解される。脳に刻み込まれる。


 『このボタンを押せば、ネクタールが出る』


 映像が浮かぶ。小瓶。金色の液体。


 『飲んだ者は、全ての病気と怪我が治る』


 母の顔。健康な母。笑っている母。


 『老化も止まる。後遺症もない。完全な治癒』


 しかし。


 次の瞬間、ユウタの全身が凍りついた。


 『代価がある』


 暗闇。


 『購入者の全記憶が消える』


 ユウタの記憶が引き剥がされていくイメージ。母との思い出。友達の顔。学校。家。全部。


 『言語も、知識も、自己認識も、全て』


 ユウタという存在が消える。空白になる。


 『不可逆。取り戻せない』


 永遠に。


 『理解したか?』


 ユウタは手を引いた。


 ボタンから離れる。後ずさる。息が荒い。心臓が破裂しそうだ。汗が噴き出している。


 怖い。


 あまりにも怖い。


 消えるのが怖い。存在が消えるのが怖い。ユウタでなくなるのが怖い。


 ユウタは走り出す。自販機から離れる。駅に向かう。電車に飛び乗る。家に帰る。


 部屋に入る。ベッドに倒れ込む。全身が震えている。


 無理だ。


 できない。


 あんな代価、払えない。


 ユウタは枕に顔を埋める。涙が溢れてくる。


 しかし、母はどうなる。このままでは死ぬ。


 ユウタは叫びたくなる。しかし、声は出ない。


 その夜、ユウタは眠れなかった。天井を見つめ続ける。何度も何度も、あの感覚が蘇る。記憶が消える感覚。存在が消える感覚。


 翌日。ユウタは学校を休んだ。母に「体調が悪い」と嘘をついた。一日中、部屋にいた。ネットを見る。ネクタールのスレッド。新しい書き込みが増えている。


 『娘が使った。七歳だった。今は何も分からない。食事も一人でできない。排泄も。完全に赤ちゃんに戻った。俺は娘を殺した』


 ユウタは吐き気を感じる。


 しかし、読み続ける。


 『使うな。絶対に使うな。俺は妻を失った。いや、妻の身体はある。でも、中身は空っぽだ。これなら、死んでくれた方が良かった』


 ユウタはスマートフォンを投げ出す。


 無理だ。やはり無理だ。


 三日後。母の容態が急変した。病院から連絡が来た。ユウタは学校を早退し、病院に駆けつける。母は集中治療室に入っていた。医者が説明する。


 「腫瘍が急速に拡大しています。内臓を圧迫しています。このままでは、一週間持たないでしょう」


 一週間。


 余命三ヶ月ではなかった。一週間だ。


 ユウタは母の顔を見る。酸素マスクをつけている。意識はある。ユウタに気づき、手を伸ばす。ユウタは母の手を握る。


 「大丈夫」母が囁く。声が弱い。「心配しないで」


 ユウタは何も言えない。涙が止まらない。


 その夜、ユウタは再び自販機の前にいた。


 夜の駅前。人通りは少ない。自販機が、静かに立っている。


 ユウタは震える手を伸ばす。ボタンに触れる。


 再び、あの感覚。


 『理解したか?』


 ユウタは頷く。理解している。全て理解している。


 代価。全記憶の消失。自己の消滅。


 しかし。


 母が助かる。


 それだけでいい。


 ユウタは深呼吸をする。震えが止まらない。しかし、決めた。


 母を救う。


 自分が消えても。


 ユウタでなくなっても。


 それでいい。


 ユウタはボタンを押した。


 ガコン、という音。


 自販機の取り出し口。何かが落ちてくる音。ユウタは屈み込む。手を伸ばす。


 小瓶。


 ユウタは瓶を取り出す。


 透明なガラス製。手のひらに収まるサイズ。しかし、持った瞬間、ユウタは驚く。


 重い。


 異常に重い。


 まるで鉛の塊のようだ。この小さな瓶が、十キログラム以上あるように感じる。ユウタは両手で持つ。それでも重い。腕が震える。しかし、持てないわけではない。ユウタだけが持てる。購入者だけが。


 瓶の中身を見る。液体が入っている。淡い金色。いや、金色というより、光そのもののような色だ。瓶を傾けると、液体が流れる。粘度は水と同じくらい。しかし、光を反射してきらめく。まるで液体の宝石のようだ。


 蓋はコルク栓。ラベルはない。何の表示もない。ただ、この液体だけ。


 ユウタは瓶をカバンに入れる。重さで肩が引っ張られる。しかし、我慢する。


 周囲を見回す。誰も気づいていない。自販機は、また静かに佇んでいる。まるで何事もなかったかのように。


 ユウタは走り出す。病院に向かう。


 夜の街。街灯が道を照らす。ユウタの息が白く見える。寒い。しかし、ユウタは走り続ける。


 病院に着く。自動ドアを抜ける。エレベーターに乗る。三階。母の病室がある階。廊下を走る。


 個室の前で止まる。


 ドアを開ける。


 母がベッドに横たわっている。酸素マスクをつけている。点滴が複数繋がっている。モニターが心拍数を表示している。規則的な音。ピッ、ピッ、ピッ。


 母は眠っている。苦しそうな表情。眉間に皺が寄っている。


 ユウタは椅子に座る。カバンから瓶を取り出す。


 ネクタール。


 母を救うもの。


 そして、ユウタを消すもの。


 ユウタは瓶を見つめる。金色の液体が、淡く光っている。


 飲ませれば、母は助かる。完全に治る。癌は消える。痛みもなくなる。母はまた笑える。また料理を作れる。また一緒に過ごせる。


 しかし、ユウタは消える。


 記憶が消える。母の顔も、名前も、思い出も、全部消える。言葉も消える。ユウタは何も分からなくなる。赤ちゃんよりも何も知らない存在になる。


 ユウタは震える手で瓶を持つ。


 本当にいいのか。


 本当に、これでいいのか。


 母なら、望まないだろう。ユウタが消えるくらいなら、自分が死ぬ方を選ぶだろう。


 しかし、ユウタは母に死んでほしくない。


 どんな代価を払っても。


 ユウタはコルク栓に手をかける。


 その時、母が目を覚ました。


 「ユウタ?」かすれた声。


 ユウタは振り返る。母が見ている。酸素マスク越しの目。


 「こんな時間に、どうしたの?」


 ユウタは答えられない。言葉が出ない。


 母はユウタの手を見る。瓶を見る。


 「それ、何?」


 ユウタは瓶を母の前に置く。「薬」声が震える。「これを飲めば、治る」


 母は瓶を見つめる。しばらく黙っている。そして、訊く。「ユウタ、それネクタールじゃないの?」


 ユウタは何も言えない。


 母は悲しそうな顔をする。「ダメよ、ユウタ。そんなもの」


 「でも」


 「でも、じゃない」母の声が強くなる。しかし、すぐに咳き込む。苦しそうだ。ユウタは母の背中をさする。


 咳が収まる。母は酸素マスクを直す。深呼吸をする。そして、ユウタを見つめる。


 「ユウタ。私はね、あなたが生きていてくれるだけでいいの。私が死んでも、あなたが生きていれば、それでいい。だから、お願い。そんなもの使わないで」


 ユウタの目から涙が溢れる。「でも、母さんが死んだら、俺は」


 「大丈夫」母が微笑む。「あなたは強い子。一人でも生きていける」


 「嫌だ」ユウタは首を振る。「母さんがいなくなるのは嫌だ」


 母は何も言わない。ただ、ユウタの頭を撫でる。


 二人は黙る。


 時計の音だけが響く。


 ユウタは決意を固める。


 母は拒否する。しかし、ユウタは決めた。


 母さん、ごめん。


 ユウタはコルク栓を開ける。母が止めようとする。しかし、ユウタは速く動く。


 母の酸素マスクを外す。


 母が何か言おうとする。


 ユウタは瓶を母の口に当てる。


 液体を流し込む。


 母が飲み込む。


 瞬間。


 ユウタの頭が真っ白になった。


 いや、白ではない。


 何かが、引き抜かれる。


 最初は、最近の記憶から。


 今日、学校を休んだこと。


 消える。


 昨日、母を見舞ったこと。


 消える。


 ネットでネクタールのことを調べたこと。


 消える。


 次は、もっと前の記憶。


 友達の顔。ケンジ。誰だ。知らない。


 先生の顔。知らない。


 学校。どこだ。


 そして、もっと前。


 中学の入学式。


 小学校。


 幼稚園。


 全部消える。


 母との思い出。


 母と公園に行ったこと。


 母が作ったカレー。


 母の笑顔。


 母の声。


 母の名前。


 誰だ。


 この人は誰だ。


 そして、言葉が消える。


 「母」という言葉の意味が分からなくなる。


 「病院」も分からない。


 「自分」も分からない。


 ユウタは、自分が誰か分からなくなる。


 名前。


 ユウタ。


 何だそれは。


 意味が分からない。


 自分が何者か分からない。


 なぜ、ここにいるのか分からない。


 何をしていたのか分からない。


 全て。


 全部。


 消える。


 ユウタは床に崩れ落ちた。


 身体が動かない。


 いや、動かし方が分からない。


 立つ、という行為の意味が分からない。


 視界がぼやける。


 いや、「見る」という行為の意味が分からない。


 音が聞こえる。


 しかし、それが何の音か分からない。


 意識が遠のく。


 暗闇。


 何もない。


 誰もいない。


 ユウタは、消えた。




 ユウタが目を覚ましたとき、病室にいた。自分がベッドに寝かされている。周囲に人がいる。白衣を着た人。その隣に女の人。他にも何人か。


 しかし、ユウタには何も分からない。


 この人たちが誰か。


 ここがどこか。


 自分が誰か。


 全て、分からない。


 白衣の人が話しかけてくる。音が聞こえる。口が動いている。しかし、意味が分からない。言葉が理解できない。音の羅列でしかない。


 ユウタは混乱する。


 何が起きているのか。


 なぜ、自分はここにいるのか。


 なぜ、何も分からないのか。


 女の人が近づいてくる。涙を流している。ユウタの手を握る。何かを言っている。しかし、ユウタには分からない。


 ユウタは恐怖を感じる。


 何も分からない恐怖。


 存在する意味が分からない恐怖。


 ユウタは叫ぼうとする。


 しかし、声の出し方が分からない。


 口を開ける。


 音が出ない。


 いや、音は出ている。


 しかし、それは言葉ではない。


 意味のない音。


 獣のような音。


 白衣の人が女の人に何かを言う。女の人が頷く。白衣の人が出ていく。


 女の人がユウタを抱きしめる。


 温かい。


 しかし、ユウタには理解できない。


 なぜ、この人は自分を抱きしめるのか。


 この人は誰なのか。


 ユウタは、ただ、存在している。


 意味も分からず。


 目的も分からず。


 ただ、存在している。




 一ヶ月後。


 母は完全に回復していた。


 癌は消えた。


 腫瘍は跡形もなく消失していた。


 医者は驚愕した。「医学では説明がつかない」と言った。しかし、母は知っている。ネクタールだ。息子が命と引き換えに手に入れたものだ。


 母は退院した。


 しかし、家に帰っても、何も嬉しくない。


 ユウタがいる。


 身体はユウタだ。


 しかし、中身は空っぽ。


 ユウタは何もできない。


 話せない。


 歩けない。


 食事も一人でできない。


 トイレも一人でできない。


 着替えも。


 全て、母が手伝う。


 まるで赤ちゃんのよう。


 いや、赤ちゃん以下だ。


 赤ちゃんは成長する。


 しかし、ユウタは成長しない。


 記憶がないから。


 学習ができないから。


 ユウタは、ただの身体だ。


 十五歳の身体。


 しかし、中身は何もない。


 母は毎日、ユウタに話しかける。


 「ユウタ、今日は天気がいいね」


 ユウタは反応しない。


 ただ、母を見つめる。


 「ユウタ、ご飯食べようか」


 ユウタは口を開ける。


 母がスプーンで食べさせる。


 ユウタは飲み込む。


 しかし、味が分かっているのかどうか、分からない。


 「ユウタ、散歩に行こう」


 母はユウタを車椅子に乗せる。


 公園に行く。


 かつて、ユウタと一緒に遊んだ公園。


 母は思い出す。


 ユウタが小さい頃、ブランコに乗った。


 ユウタが笑った。


 ユウタが「母さん、見て!」と叫んだ。


 しかし、今のユウタは何も言わない。


 ただ、座っている。


 表情もない。


 母は涙を流す。


 「ごめんね、ユウタ」


 「ごめんね」


 「ごめんね」


 何度も謝る。


 しかし、ユウタには届かない。


 ユウタは、もういない。




 三ヶ月後。


 母は心療内科を受診していた。


 鬱だった。


 毎日、自分を責めている。


 なぜ、あの時、ネクタールを飲んだのか。


 なぜ、ユウタを止められなかったのか。


 自分が死ねば良かった。


 そうすれば、ユウタは生きていた。


 ユウタとして。


 しかし、今は。


 ユウタは生きている。


 しかし、ユウタではない。


 空っぽの身体が生きているだけ。


 医者は言う。「あなたのせいではありません」


 しかし、母は信じない。


 自分のせいだ。


 自分が癌にならなければ。


 ユウタはこんなことにならなかった。


 母は薬を飲む。


 抗鬱剤。


 睡眠薬。


 しかし、眠れない。


 毎晩、ユウタの部屋を見に行く。


 ユウタはベッドで眠っている。


 穏やかな寝顔。


 しかし、母は知っている。


 この子は、もうユウタではない。


 母は部屋を出る。


 リビングに座る。


 テレビをつける。


 ニュースが流れている。


 『ネクタール自販機、また新たな被害者』


 画面には、十二歳の少女が映っている。


 表情がない。


 母親が涙を流している。


 「娘を返してください」と叫んでいる。


 しかし、誰も返せない。


 娘は消えた。


 記憶が消えた。


 母はテレビを消す。


 暗闇の中で、座っている。




 六ヶ月後。


 母の生活は完全に変わっていた。


 朝六時に起きる。ユウタの部屋に行く。ユウタはベッドで目を覚ましている。しかし、起き上がれない。起き上がり方が分からない。


 母はユウタを抱き起こす。十五歳の身体。重い。母の腰が痛む。しかし、やるしかない。


 ユウタを車椅子に移す。トイレに連れて行く。排泄を手伝う。ユウタは自分で用を足せない。母がオムツを交換する。


 ユウタを洗面所に連れて行く。歯磨きをさせる。しかし、ユウタは歯ブラシの使い方が分からない。母が手を添えて磨く。


 着替えをさせる。ユウタは自分で服を着られない。母が一つ一つ着せる。


 リビングに移動する。朝食を食べさせる。ユウタは自分でスプーンを使えない。母が口に運ぶ。


 一連の作業に二時間かかる。


 母は疲れている。しかし、休めない。


 昼。ユウタをリハビリセンターに連れて行く。週三回通っている。理学療法士が身体を動かす訓練をする。しかし、効果は薄い。ユウタは指示を理解できない。


 夕方。家に戻る。夕食の準備。ユウタに食べさせる。入浴させる。これも大変だ。ユウタを浴槽に入れる。身体を洗う。髪を洗う。


 夜。ユウタを寝かせる。オムツを確認する。


 そして、母は自分の部屋に戻る。


 ベッドに倒れ込む。


 身体が痛い。腰、肩、膝。全身が痛い。


 しかし、それよりも心が痛い。


 毎日、同じことの繰り返し。


 ユウタの世話。


 しかし、ユウタは何も反応しない。


 「ありがとう」も言わない。


 笑顔も見せない。


 ただ、存在しているだけ。


 母は天井を見つめる。


 いつまで続くのか。


 この生活は。


 一年?


 十年?


 一生?


 母は涙を流す。


 声を殺して泣く。


 ユウタに聞こえないように。




 ある日、母は支援団体の集会に参加した。「ネクタール被害者家族の会」。同じ境遇の人々が集まる場所。


 会場は公民館の一室。二十人ほどが集まっている。全員、疲れた顔をしている。


 司会者が話し始める。中年の女性。彼女も被害者家族だ。


 「皆さん、今日も来てくださってありがとうございます。今日は新しい参加者の方がいらっしゃいます。自己紹介をお願いします」


 母が立ち上がる。「佐藤です。息子が、ネクタールを使いました。十五歳でした」


 他のメンバーが頷く。共感の表情。


 「息子は、私の癌を治すために。でも、今は」母の声が震える。「何も分かりません。言葉も話せません。私は、毎日介護しています」


 母は座る。


 次の人が話す。四十代の男性。「私の娘は七歳でした。妻の難病を治すために使いました。今は、赤ちゃんのようです。何もできません」


 また次の人。六十代の女性。「孫が使いました。十二歳。息子の事故の後遺症を治すために。孫は今、施設にいます。私たちでは面倒を見られないので」


 一人、また一人と話す。


 みんな、同じだ。


 愛する人を救うために、ネクタールを使った。


 そして、使った本人は消えた。


 残されたのは、空っぽの身体。


 そして、介護する家族の苦しみ。


 集会が終わる。母は他のメンバーと話す。


 「大変ですよね」一人の女性が言う。


 「はい」母は頷く。


 「私も最初は、何度も死のうと思いました」女性が続ける。「でも、娘の身体がある限り、世話をしなければと」


 「そうですね」


 「政府に何度も訴えました。自販機を撤去してくれと。でも、何もしてくれない」


 「なぜでしょう」


 「分かりません。できないのか、したくないのか」


 母は黙る。


 自販機。


 あの自販機さえなければ。


 ユウタはこんなことにならなかった。




 一年後。


 母はユウタを連れて、公園にいた。


 かつて、ユウタが小さい頃、よく来た公園。


 ブランコ、滑り台、砂場。


 母は車椅子を押す。ベンチに座る。ユウタの横に。


 子供たちが遊んでいる。笑い声が響く。


 母は思い出す。


 ユウタもあんな風に遊んでいた。


 友達と追いかけっこをした。


 滑り台を何度も滑った。


 母に「見て!」と叫んだ。


 あの頃のユウタ。


 生き生きとしたユウタ。


 笑顔のユウタ。


 しかし、今のユウタは。


 母はユウタの顔を見る。


 表情がない。


 ただ、前を見ている。


 何を見ているのか。


 何を考えているのか。


 そもそも、何か考えているのか。


 母には分からない。


 「ユウタ」母が呼びかける。


 ユウタは反応しない。


 「ユウタ、聞こえてる?」


 何も言わない。


 母は諦める。


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 鳥が鳴く。


 穏やかな日。


 しかし、母の心は穏やかではない。


 絶望と罪悪感。


 それが、母を蝕み続けている。




 ある夜、母はネットを見ていた。


 ネクタールのスレッド。


 新しい書き込みがある。


 『政府はなぜ自販機を撤去しないのか』


 『撤去できないんだよ。物理的に』


 『いや、できるはずだ。本気でやれば』


 『陰謀だ。人口削減計画だ』


 『違う。これは人類への試練だ』


 様々な意見。


 母はスクロールする。


 一つの書き込みに目が止まる。


 『俺は使った者の一人だ。記憶は消えた。今、これを書いているのは代理人だ。でも、伝えたい。後悔はしていない。母が生きている。それでいい』


 母は画面を見つめる。


 後悔していない。


 ユウタも、そう思っているのだろうか。


 記憶がないユウタに、そんな感情があるのだろうか。


 母には分からない。


 しかし、信じたい。


 ユウタは後悔していないと。


 母を救えたことを、喜んでいると。


 そう信じたい。


 しかし、現実は残酷だ。


 ユウタは何も感じていない。


 喜びも、悲しみも、後悔も。


 何もない。


 空っぽだ。


 母はパソコンを閉じる。


 暗闇の中で、座っている。


 そして、決意する。


 生きる。


 ユウタのために。


 ユウタが生きている限り、自分も生きる。


 それが、母にできる唯一のことだった。


 


 自動販売機は、また別の場所にある。


 今日は、商店街の角。


 誰かが、それを見つける。


 誰かが、ボタンに触れる。


 誰かが、理解する。


 そして、誰かが、選択する。


 自販機は、ただ、そこにある。


 善でも悪でもなく。


 ただ、選択と代価を交換する装置として。


 愛は、自己を消す。


 愛は、自己を犠牲にする。


 それは美しいか。


 それは正しいか。


 誰にも分からない。


 選択した者だけが、代価を払う。


 それだけが、ネクタールの真実だった。

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水が死んだ日

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