【ディストピア】透明な檻
赤い。
視界の隅に、赤い光が点滅している。
佐藤健二は足を止めた。駅の改札を通過したばかりだった。人々が行き交う通路の真ん中で立ち止まる。周囲の人間が避けて通り過ぎていく。誰も彼を見ない。誰も気にしない。しかし、システムは彼を見ている。
健二は右目の端に映る警告表示を確認した。拡張現実コンタクトレンズ越しに見える世界には、様々な情報が重なっている。『リスクスコア: 72 - 警戒レベル3』『監視強度: 高』『最寄り警備ステーションまでの距離: 120メートル』。七十二。昨日までは六十八だった。四ポイント上昇している。
理由は分かっている。昨夜、健二は禁止区域に指定された廃ビルに侵入した。システムに記録された。当然だ。この国には監視カメラのない場所など存在しない。
健二は歩き出した。自然な足取りで。急いではいけない。システムは不自然な動きを検知する。歩行パターン、心拍数、視線の動き。すべてが記録され、分析され、評価される。
改札から駅の外に出る。朝の首都は人で溢れている。ビルの壁面には巨大なスクリーンが設置され、政府の広告が流れている。『安全な社会は、透明性から生まれます』『監視は自由の対価です』『あなたの安全を、私たちが守ります』。健二は広告から目を逸らした。
街路には無数の監視カメラが設置されている。電柱、ビル、信号機。どこを向いてもカメラがある。黒い目がじっと見つめている。拡張現実レンズには、周囲の人々の情報が表示される。すれ違う人間の頭上に、緑色の数字が浮かんでいる。リスクスコアだ。『38』『21』『45』『19』。全員が健全な市民だ。リスクスコアが五十を超える人間は、この通りにはいない。いや、いた。健二自身が七十二だ。
健二は会社に向かって歩いた。いつもの道を。いつもの速度で。システムに異常を検知させてはいけない。会社は駅から徒歩十五分の場所にある。大手IT企業の開発部門だ。健二はそこでAIエンジニアとして働いている。皮肉なことに、彼が開発しているのは監視システムの一部だった。
オフィスビルのエントランスで、健二は社員証をかざした。ゲートが開く。『佐藤健二 - リスクスコア: 72 - 入館許可』。音声が流れる。機械的な女性の声だ。周囲の社員が振り返った。数人が健二を見る。視線に好奇心が混じっている。リスクスコア七十二。異常な数値だ。通常、会社員のスコアは三十から四十の範囲に収まる。健二は視線を無視して、エレベーターに向かった。
十二階のオフィスフロアに着く。デスクに座る。パソコンを起動する。画面に通知が表示された。『人事部よりメッセージ: 佐藤健二様、リスクスコアの上昇が確認されました。カウンセリングの予約を推奨します。返信期限: 本日17時』。健二は通知を閉じた。カウンセリング。名ばかりだ。実際には尋問と矯正が行われる。リスクスコアが高い人間は、思想に問題があると見なされる。カウンセラーは会話を通じて、その問題を「修正」しようとする。
健二は仕事に取り掛かった。監視システムのログを解析する。異常なパターンを検出するアルゴリズムの改良だ。画面には無数のデータが流れていく。市民の位置情報、移動パターン、購買履歴、通信記録、検索履歴。すべてが収集され、解析され、スコア化される。健二は自分が作っているものを理解している。完璧な監視社会。逃げ場のない世界。
三年前までは、健二もこのシステムを信じていた。いや、信じていたというより、疑問を持たなかった。監視は必要だ。犯罪を防ぐために。テロを防ぐために。社会の安全のために。しかし、三年前に妹が消えた。
当時二十三歳の大学院生だった。ある日突然、妹は姿を消した。リスクスコアが急上昇し、九十を超えた。そして、警察に連行された。理由は「反政府的言動」だった。妹は友人との会話で、監視社会への疑問を口にした。それだけだった。冗談交じりの会話だった。しかし、システムは会話を記録していた。AIが分析し、危険と判断した。妹は再教育施設に送られた。
半年後に戻ってきたとき、妹は別人になっていた。感情が消えていた。笑わない。怒らない。ただ、システムに従順な人形のようになっていた。健二は妹を見て、恐怖を感じた。これが、この国の現実なのだと。そして、健二は決意した。システムを破壊する。いや、それは不可能だ。ならば、せめて逃げる。この監視社会から。
それから三年。健二は密かに準備を進めてきた。情報を集める。システムの弱点を探る。監視カメラの死角を特定する。逃走ルートを計画する。そして昨夜、最後の準備として、廃ビルに侵入した。そこには、健二が隠していた物資がある。偽造身分証、現金、通信機器。すべて、逃走に必要なものだ。しかし、システムに検知された。リスクスコアが上昇した。時間がない。健二は今夜、逃げなければならない。
定時に退社した。
いつもより三十分早いが、これくらいなら許容範囲だろう。システムは極端な変化を警戒する。普段と大きく異なる行動をすれば、即座にフラグが立つ。
健二は駅に向かった。帰宅ルートだ。いつもと同じ。
しかし、途中で寄り道をする。コンビニエンスストアに入る。弁当とペットボトルの水を買う。普段はしない買い物だが、これも許容範囲だろう。
店を出て、再び駅に向かう。
拡張現実レンズに通知が表示された。
『移動パターン: 通常範囲内』
『リスクスコア: 72 - 変化なし』
健二は安堵した。まだ大丈夫だ。
電車に乗る。座席に座る。窓の外を眺める。
次の駅で降りる予定だった。しかし、健二は降りない。そのまま座り続ける。
三つ先の駅で降りる。
これが、計画の第一段階だ。
予定外の駅で降りる。システムは異常を検知するだろう。しかし、それだけではまだ決定的ではない。単なる気まぐれかもしれない。寄り道かもしれない。
健二は駅の外に出た。
この街に来るのは初めてだった。周囲の景色に見覚えがない。
拡張現実レンズに警告が表示される。
『移動パターン: 異常検知』
『リスクスコア: 72 → 75』
『監視強度: 最高』
スコアが上昇した。
健二は歩き続けた。目的地は決まっている。
この街の外れに、古い工場地帯がある。廃墟となった建物が並んでいる。監視カメラの密度が低い場所だ。
健二は三十分かけて、工場地帯に辿り着いた。
周囲には人がいない。ビルは崩れかけている。窓ガラスは割れている。
健二は一つの建物に入った。廃工場だ。かつては何かを製造していたのだろう。今は何もない。機械は撤去され、床にはゴミが散乱している。健二は建物の奥に進んだ。そこに、彼が隠していた物資がある。
壁の隅に、古い金属製のロッカーが置いてある。健二はロッカーを開けた。中には、リュックサックが入っている。健二はリュックサックを取り出し、中身を確認した。偽造身分証。田中一郎という名前だ。顔写真は健二のものだが、名前と住所が異なる。現金。十万円分の紙幣だ。電子決済はすべて追跡される。現金だけが、システムの目から逃れられる。通信機器。古い型の携帯電話だ。登録されていない端末。追跡できない。そして、最も重要なもの。拡張現実レンズの代替品だ。
システムは、全国民に拡張現実レンズの装着を義務付けている。レンズを通じて、情報を配信し、行動を監視する。レンズを外せば、即座にアラートが発せられる。しかし、健二が用意したレンズは特別だ。システムに接続されているように見せかけながら、実際には偽の情報を送信する。健二がどこにいても、システムには自宅にいるように見える。
健二は現在装着しているレンズを外した。視界から情報が消える。世界が生のまま見える。健二は新しいレンズを装着した。視界に情報が戻る。しかし、表示されている内容は異なる。『位置情報: 自宅』『リスクスコア: 68』『状態: 在宅・休息中』。成功だ。システムは、健二が自宅にいると認識している。
健二はリュックサックを背負い、廃工場を出た。これから、本当の逃走が始まる。
健二は夜の街を歩いた。監視カメラを避けるルートを選ぶ。裏通り、路地、廃墟。人目につかない場所を進む。三年間かけて調べ上げた死角を利用する。完璧な監視社会と言われているが、それでも穴はある。古い建物、メンテナンスされていない地区、システムの予算が回っていない場所。そこには、わずかな死角が存在する。健二は地図を頭に叩き込んでいる。すべての死角を記憶している。
二時間歩いて、健二は郊外に辿り着いた。ここからが難しい。都市部を離れるには、検問を通過しなければならない。すべての主要道路には検問所が設置されている。身分証を確認され、リスクスコアをチェックされる。健二の偽造身分証は精巧だが、完璧ではない。詳細に調べられれば、バレる可能性がある。しかし、他に方法はない。
健二は検問所に近づいた。ゲートがある。警備員が二人立っている。監視カメラが複数設置されている。健二は深呼吸をした。落ち着け。自然に振る舞え。ゲートに近づく。警備員の一人が手を上げた。「身分証を」。健二は偽造身分証を差し出した。警備員は身分証をスキャナーにかざした。機械が起動する。ピピピと音が鳴る。健二は息を殺した。数秒後、スキャナーが緑色に光った。「田中一郎さん、通過どうぞ」。健二は頷き、ゲートを通過した。成功だ。
検問所を抜けて、健二は道路を歩き続けた。都市の灯りが遠ざかっていく。周囲は暗くなっていく。街灯の数が減る。監視カメラも減っていく。郊外。田舎。限界集落。システムの監視が弱い場所。
健二の目的地は、ここから百キロメートル先にある。山間部の小さな村だ。その村には、システムに接続されていない人々が住んでいる。非接続者。政府は彼らを「社会不適合者」と呼ぶ。システムを拒否する者たち。しかし、彼らは自ら選んでその生活を送っている。健二はネット上の隠された掲示板で、非接続者のコミュニティの存在を知った。暗号化された通信を通じて、彼らと接触した。そして、受け入れてもらう約束を取り付けた。
ただし、条件がある。自力でそこまで辿り着くこと。システムに追跡されずに。それが、健二に課せられた試練だった。健二は歩き続けた。夜道を。闇の中を。時々、車が通り過ぎる。健二は道路脇の茂みに隠れる。見つかってはいけない。
明け方近く、健二は小さな町に辿り着いた。コンビニエンスストアを見つけた。24時間営業だ。健二は店に入り、食料と水を買った。偽造身分証を使って。レジの店員は眠そうな顔で商品をスキャンした。何も疑わない。健二は店を出て、町の外れにある公園に向かった。ベンチに座る。コンビニで買ったおにぎりを食べる。水を飲む。疲労が押し寄せてくる。しかし、眠るわけにはいかない。まだ危険だ。
健二は休憩を終え、再び歩き始めた。町を抜ける。山道に入る。舗装された道路から、未舗装の道へ。監視カメラは見当たらない。健二は安心した。ここまで来れば、システムの目は届かない。山道を登る。太陽が昇ってくる。朝だ。鳥が鳴いている。木々が風に揺れている。
健二は久しぶりに、自然の音を聞いた気がした。都市では、すべての音が人工的だった。車、機械、スクリーンの音。自然の音は消されていた。
健二は深呼吸をした。
空気がうまい。
汚染されていない空気。システムの目がない空気。
自由の空気。
健二は笑みを浮かべた。
やった。
逃げ切った。
少なくとも、今のところは。
二日間歩き続けて、健二はついに村に辿り着いた。
山の斜面に作られた小さな集落だ。家は十数軒しかない。畑が広がっている。煙突から煙が上がっている。
健二は村の入口で立ち止まった。
人影が見える。男性が一人、健二に向かって歩いてくる。
五十代くらいの男性だ。作業服を着ている。顔には無精髭が生えている。
「あなたが、佐藤さんか?」男性が近づきながら声をかける。
「はい」
「ようこそ。私は村長の山田です。話は聞いています。大変でしたね」温かい笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」健二は深々と頭を下げた。
「こちらへどうぞ。まずは休んでください。話はそれからです」山田は健二を村の中に案内する。家々を通り過ぎる。住民が出てきて、健二を見る。好奇心に満ちた視線だ。しかし、敵意はない。
山田の家に着く。中に入ると、居間には炉がある。火が燃えている。「座ってください」
山田が椅子を勧める。健二は座った。山田の妻が、お茶を持ってきた。「どうぞ」「ありがとうございます」。健二はお茶を飲んだ。温かい。身体に染み渡る。
「ここまで来るのに、どれくらいかかりましたか?」山田が炉の火を見つめながら訊く。
「二日です」
「そうですか。よく無事に辿り着けましたね」
「はい。準備していましたから」健二は湯気の立つ茶碗を両手で包んだ。
山田は静かに頷く。「この村には、あなたのような人が何人かいます。システムから逃れてきた人たちです。みんな、ここで新しい生活を始めています」
「どんな生活ですか?」
「シンプルです。畑を耕し、作物を育て、狩りをし、魚を捕る。昔ながらの生活です。電気はありますが、ネットには繋がっていません。監視カメラもありません。拡張現実レンズも必要ありません」
健二は拡張現実レンズを外した。視界から情報が消える。世界が、生のまま見える。「楽ですね」。健二は呟いた。「そうでしょう。ここでは、誰もあなたを監視しません。あなたは自由です」。山田は微笑んだ。健二は涙が溢れそうになった。三年間、求め続けた自由。ようやく手に入れた。
「ありがとうございます」。健二は再び頭を下げた。「礼には及びません。ただし、一つだけ条件があります」。山田の表情が真剣になった。「何ですか?」「この村の場所を、誰にも教えないこと。システムに戻らないこと。一度ここに来たら、二度と都市には戻れません。それでもいいですか?」
健二は頷いた。「もちろんです。戻るつもりはありません」「分かりました。では、あなたをこの村の一員として受け入れます」。山田は手を差し出した。健二はその手を握った。これが、新しい人生の始まりだった。
三ヶ月が経った。健二は村での生活に慣れていた。朝早く起きて、畑仕事をする。土を耕し、種を蒔き、水をやる。昼には、村の男たちと一緒に狩りに出る。罠を仕掛け、獲物を待つ。夕方には、魚を捕る。川に入り、網を投げる。夜には、村の人々と食事をする。火を囲んで、話をする。笑い合う。
シンプルな生活だった。しかし、満たされていた。都市での生活とは正反対だった。都市では、すべてが管理されていた。朝何時に起き、何を食べ、どこに行き、何をするか。すべてが記録され、評価され、スコア化された。ここでは、何も管理されない。自分で決める。自分で行動する。自分で責任を負う。それが、本当の自由だった。
健二は畑で作業をしていた。
隣で、同じように逃げてきた女性が働いている。
名前は鈴木花子。三十歳。元教師だった。
花子もまた、リスクスコアが上昇し、システムに追われていた。
理由は、授業で監視社会について批判的な意見を述べたことだった。
生徒たちに、考えることを教えようとした。システムに疑問を持つことを促した。
それが、危険と見なされた。花子は村に逃げてきた。半年前のことだ。
「佐藤さん、調子はどうですか?」花子が鍬を止めて訊く。
「良いです。この生活、気に入りました」
「私もです。最初は戸惑いましたけど、今は幸せです」花子が微笑む。
健二も微笑み返す。二人は作業を続けた。太陽が高く昇っている。雲一つない青空だ。遠くで、鳥が鳴いている。平和だった。
しかし、その平和は突然破られた。
サイレンの音が聞こえた。村の警報だ。健二は作業を止める。花子も動きを止めた。村人たちが集まってくる。
「何があったんだ?」誰かが叫ぶ。
山田が走ってくる。「みんな、家に戻れ! 政府の部隊が来る!」
健二の身体が硬直した。
政府の部隊。
見つかったのか。
この村が。
「早く! 隠れろ!」
山田が叫んだ。
村人たちが散っていく。
健二は花子を見た。
「逃げましょう」
「どこに?」
「山の中です。とにかく、ここから離れましょう」
二人は走り出す。村を抜けて、山道に入る。背後から、ヘリコプターの音が聞こえてくる。健二は振り返った。空に、黒いヘリコプターが見える。政府の武装ヘリだ。
健二は再び走る。花子と一緒に。木々の間を駆け抜ける。息が切れる。足が痛い。しかし、止まるわけにはいかない。
突然、前方に人影が現れた。黒い制服を着た男たちだ。
特殊部隊。
健二は立ち止まった。
花子も止まった。
包囲されている。
逃げ場がない。
特殊部隊の一人が前に出た。
「佐藤健二、鈴木花子。あなたたちを逮捕します。抵抗しないでください」
健二は拳を握った。
これで終わりなのか。
せっかく掴んだ自由が。
三ヶ月だけだったのか。
花子が健二の手を握った。
「大丈夫です。諦めないで」
花子は囁いた。
健二は花子を見た。
彼女の目には、諦めがなかった。
希望があった。
健二は頷いた。
「佐藤健二、鈴木花子。最後の警告です。抵抗すれば、武力を行使します」
特殊部隊の男が再び言った。
健二は前に出た。
「分かりました。抵抗しません」
健二は両手を上げた。
花子も両手を上げた。
特殊部隊の男たちが近づいてくる。
手錠をかけられる。
健二は何も言わなかった。
ただ、空を見上げた。
青い空。
自由の空。
もう二度と、見ることはできないのだろうか。
健二は拘置所の独房にいた。
狭い部屋だ。ベッドと便器だけがある。窓はない。
壁には監視カメラが設置されている。
二十四時間、監視されている。
健二は逮捕されてから三日が経っていた。
尋問を受けた。
なぜ逃げたのか。誰と接触したのか。村の場所はどこか。
健二は何も答えなかった。
村の場所を教えるわけにはいかない。村人たちを守らなければならない。
尋問官は怒った。脅した。しかし、健二は口を閉ざした。
そして今、健二は独房で待っている。
判決を。
ドアが開いた。
看守が入ってくる。
「佐藤健二。面会だ」
面会。
誰が来たのか。
健二は立ち上がり、看守に従った。
廊下を歩く。
面会室に案内される。
部屋の中央に、テーブルと椅子がある。
テーブルの向こう側に、一人の女性が座っていた。
健二は息が止まった。
妹だ。
佐藤瑠奈。
三年ぶりに見る妹の顔。
瑠奈は健二を見た。表情がない。感情がない。
健二は椅子に座った。
「瑠奈……」健二の声が低く漏れる。
「お兄ちゃん」機械的な声だった。
「どうして……」
「政府の依頼で来ました。あなたを説得するために」瑠奈は淡々と語る。
「説得?」
「はい。あなたを再教育施設に送ることが決まりました。そこで、あなたは矯正されます。正しい市民になります」
健二は首を横に振る。「嫌だ。俺は自由に生きたい」
「自由は幻想です。真の自由は、システムの中にあります」
健二は悲しくなった。これが、妹なのか。あの明るく、自由を愛していた妹が、こんな人形になってしまったのか。
「瑠奈、お前は本当にそう思っているのか?」
妹は少しだけ沈黙する。そして、答える。「はい。私は幸せです」
しかし、その目には、何かが映っていた。涙。ほんの一瞬、瑠奈の目に涙が浮かんだ。すぐに消えた。しかし、健二は見た。妹は、まだそこにいる。
心の奥底に。
システムに壊されながらも、まだ生きている。
健二は立ち上がった。
「瑠奈。俺は諦めない。お前を取り戻す。いつか必ず」
「それは無理です」
瑠奈は答えた。
「無理じゃない。俺は信じている」
健二は叫んだ。
看守が健二を連れ戻す。
健二は振り返った。
瑠奈が座っている。
表情がない。
しかし、健二には分かった。
妹は、まだ生きている。
希望は、まだある。
健二は再教育施設に送られた。
そこは、白い建物だった。
窓のない部屋に閉じ込められる。
毎日、カウンセリングを受ける。
いや、カウンセリングではない。洗脳だ。
映像を見せられる。音声を聞かされる。薬を飲まされる。
「システムは正しい」
「監視は自由だ」
「抵抗は無意味だ」
同じ言葉が繰り返される。
何度も、何度も。
健二は抵抗した。
心を閉ざした。耳を塞いだ。目を閉じた。
しかし、それでも言葉は入ってくる。
頭の中に。
浸透していく。
健二は感じた。
自分が壊れていくのを。
日々が過ぎていく。
一週間。二週間。一ヶ月。
健二の抵抗は弱まっていく。
疲れてくる。
考えることが辛くなる。
このまま、従った方が楽なのではないか。
システムに従えば、苦しまなくて済む。
自由なんて、幻想だったのではないか。
そんな考えが、頭をよぎる。
しかし、健二は思い出す。
村での三ヶ月を。
畑を耕したこと。狩りに出たこと。魚を捕ったこと。
村人たちと笑い合ったこと。花子と話したこと。あれは、幻想ではなかった。本物の自由だった。本物の幸せだった。
健二は歯を食いしばる。諦めるな。負けるな。自分を保て。
そして、ある日。健二の部屋のドアが開いた。看守ではない。一人の男が入ってきた。作業服を着ている。顔には無精髭が生えている。山田だ。村長の山田だ。
「佐藤さん」山田が囁く。
健二は驚きで固まった。「山田さん……どうして……」
「助けに来ました。静かに」山田は健二の手錠を外す。
「どうやって……」
「説明は後です。今は逃げます」山田は健二を連れて、部屋を出る。廊下には、気絶した看守が倒れている。
「こっちです」
山田は健二を先導した。
非常階段を降りる。
建物の裏口に出る。
そこには、トラックが停まっていた。
「乗ってください」
健二はトラックに乗り込んだ。
山田も乗った。
エンジンがかかる。
トラックが走り出す。健二は窓の外を見た。再教育施設が遠ざかっていく。
「ありがとうございます」健二は山田に言った。
「礼には及びません。あなたは村の一員です。仲間を見捨てるわけにはいきません」
山田は微笑んだ。
健二は涙が溢れてきた。仲間がいる。自分には仲間がいる。
トラックは山道を走り続けた。数時間後、村に戻った。
村人たちが出迎えた。
「おかえりなさい!」
みんなが叫んだ。
健二は笑顔で手を振った。
花子も出てきた。
「佐藤さん! 無事で良かった!」
花子が駆け寄ってきた。
健二は花子を抱きしめた。
「ありがとう。心配かけました」
「もう大丈夫ですか?」
「はい。もう大丈夫です」
健二は答えた。
村長の山田が前に出た。
「みんな、聞いてください。政府は私たちの村を見つけました。もう、ここにはいられません」
村人たちがざわめいた。
「どうするんだ?」
「どこに行くんだ?」
「落ち着いてください。私たちには、計画があります」
山田は手を上げた。
「この国には、まだ他にも非接続者のコミュニティがあります。私たちは、そこと連絡を取り合っています。これから、そのコミュニティと合流します。そして、より大きなネットワークを作ります」
健二は驚いた。
他にもコミュニティがあるのか。
「私たちは一人ではありません。全国に、何千人もの非接続者がいます。そして、彼らは皆、自由を求めています」
山田は続けた。
「政府は私たちを弾圧しようとしています。しかし、私たちは諦めません。私たちは抵抗し続けます。そして、いつか必ず、この監視社会を終わらせます」
村人たちが拍手をした。健二も拍手をした。まだ、希望はある。健二は空を見上げる。青い空が広がっている。
健二は決意した。戦う。システムと。監視社会と。妹を取り戻すために。すべての人々の自由を取り戻すために。健二は拳を握る。これは終わりではない。始まりだ。
それから一年が経った。
健二は、非接続者のネットワークの一員として活動していた。
村は別の場所に移転した。より深い山の中に。政府の目が届かない場所に。
そして、他のコミュニティと連携して、抵抗運動を展開していた。
情報を共有する。システムの弱点を探る。新しい逃走者を受け入れる。
ゆっくりとだが、着実に、ネットワークは拡大していた。
健二は、自分の専門知識を活かしていた。
システムのハッキング。監視カメラの無効化。偽造身分証の作成。
かつて、健二はシステムを作る側にいた。
今は、システムを壊す側にいる。
皮肉なものだ。
しかし、健二は満足していた。
自分のスキルが、人々の自由のために使われている。
それが、健二の誇りだった。
ある日、健二は新しい情報を受け取った。
再教育施設から脱走した者がいる。
その人物の名前を聞いて、健二は驚いた。
佐藤瑠奈。
妹だ。
妹が逃げてきた。
健二は急いで、指定された場所に向かった。
山の中腹にある廃屋だ。
そこに、一人の女性が座っていた。
瑠奈だ。
健二は駆け寄った。
「瑠奈!」
瑠奈は顔を上げた。
表情がある。
感情がある。涙が流れている。
「お兄ちゃん……」瑠奈の声が震える。
健二は妹を抱きしめた。「よく逃げてきた。よく頑張った」
「ごめんなさい……あのとき、冷たいこと言って……」
「いいんだ。お前のせいじゃない」健二は妹の背中を撫でる。瑠奈は泣き続けた。溜まっていた感情が、一気に溢れ出した。
しばらくして、瑠奈は落ち着く。
「どうやって逃げてきたの?」
「施設で、同じように再教育されている人たちと知り合ったの。みんな、心の奥底では抵抗していた。そして、計画を立てたの。脱走の計画を」瑠奈は語り始める。「十五人で逃げたわ。みんな、今は別々の場所にいる。でも、いつか合流する約束をした」
「そうか……」健二は静かに頷く。
「お兄ちゃんは、今どこにいるの?」
「非接続者のコミュニティだよ。みんな、自由に生きている場所だ」
「私も、そこに行きたい」
「もちろん。一緒に行こう」健二は妹の手を握った。
二人は立ち上がり、村に向かって歩き始めた。道は長い。しかし、二人は一緒だった。健二は空を見上げる。青い空が広がっている。
透明な檻は、まだ壊れていない。しかし、ヒビは入った。それで十分だった。




