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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【ディストピア】感情を忘れた世界

 目覚めた。すぐに起き、薬を飲む。白い錠剤、エモゼロ。感情抑制薬。これを飲めば、すべてがフラットになる。喜びも悲しみも怒りも、何もかも。俺の名前は、タケシ。三十五歳。この街で生きている。いや、機能している。


 出勤する。地下鉄には無表情な人々。誰も話さない。オフィスに着く。デスクに座る。データ入力。数字、グラフ、レポート。昼食。栄養バー。午後も同じ。定時で帰る。夕食。栄養バー。就寝。夢は見ない。感情がないから。


 ニューハーモニー。人口二千万の巨大都市。全市民がエモゼロを飲む。感情は「生産性を下げる病気」とされている。政府の方針だ。三十年前、世界は混乱していた。戦争、テロ、犯罪。すべて感情が原因だった。だから、感情を排除した。理想の社会が完成した。


 だが、ある朝、変化が起きた。薬の容器が空だった。予備もない。薬局は九時から。俺は、薬を飲まないまま出勤した。一日くらい大丈夫だろう。


 地下鉄の中で、奇妙な感覚があった。胸の奥に、何かが蠢いていた。それが何なのか分からなかった。オフィスでも、集中できなかった。頭に雑念が湧いた。こんなこと、初めてだった。


 午前中が過ぎ、俺は薬局に行った。

「エモゼロを一ヶ月分」

 薬剤師は、棚から取り出した。だが、その時、俺の視線が別の薬に向いた。赤い錠剤。ラベルには「エモリバース」。

「あれは?」

 薬剤師は一瞬、動きを止めた。

「エモゼロの解毒剤です。感情を取り戻す薬。使用は禁止されています」

 俺は、衝動的に言った。

「それも、ください」

 薬剤師は驚いた表情を見せた。

「違法です。見つかれば逮捕されますよ」

「構いません」

 薬剤師は迷ったが、周囲を確認してから赤い錠剤を渡した。

「これで、あなたも終わりですね」


 アパートに戻り、俺は赤い錠剤を見つめた。なぜ、これを買ったのか?自分でも分からなかった。だが、飲みたいという衝動があった。俺は、エモリバースを飲んだ。


 数分後、変化が始まった。頭の中に、何かが流れ込んできた。暖かくて、痛くて、眩しくて、暗かった。俺は床に倒れ込んだ。涙が流れた。なぜ?何年も泣いたことがなかった。体が震えた。感情の洪水に飲み込まれた。


 どれくらい経ったか分からない。やがて、落ち着いてきた。俺は立ち上がり、鏡を見た。涙で濡れた顔。だが、表情があった。長い間、失っていた表情が。俺は、笑った。声を出して笑った。そして、泣いた。これが、感情だった。これが、人間だった。


 だが、すぐに現実に戻った。感情を持つ俺は、この社会では異常者だ。隠れて生きるしかない。


 翌日、オフィスに行った。すべてが違って見えた。無表情の人々。機械的な動き。これは、狂っている。人間が機械になっている。


 俺は、ネットで調べた。エモゼロについて。断片的な情報を集めた。三十年前の開発。当初は任意。徐々に義務化。反対者は「感情障害者」として施設送り。


 俺は、暗号化されたメッセージを発信した。

「感情を取り戻した者へ。集まれ」

 数日後、返信があった。下層区の廃ビルで会うことになった。


 夜、廃ビルに行くと、一人の男が立っていた。ケンジと名乗った。彼も、エモリバースを飲んでいた。その後、何人もが集まった。俺たちは「フィーリング」というグループを作った。


 ある夜、俺たちはエモゼロの製造工場に侵入した。ケンジがセキュリティをハッキングし、管理室に入った。そこで、衝撃的な資料を見つけた。


 エモゼロには重大な副作用があった。長期使用により、脳の感情を司る部分が永久に破壊される。つまり、エモリバースを飲んでも、いずれ感情が戻らなくなる。政府は、この事実を知っていた。だが、隠していた。完全にコントロールできる人間を作るために。


 俺たちは資料をコピーした。だが、警報が鳴った。武装警備員が追ってきた。俺とケンジは分かれて逃げた。俺は追い詰められたが、レジスタンスのリーダー、アヤに助けられた。


 アヤの隠れ家で、俺たちは資料を公開する計画を立てた。だが、その前に、政府の中枢人物と会うことになった。


 数日後、俺は政府庁舎に呼び出された。最上階の執務室。そこには、エモゼロ政策の最高責任者、ハヤシ長官が待っていた。


 ハヤシは六十代の男性だった。驚いたことに、彼には表情があった。彼は、エモゼロを飲んでいなかった。ハヤシは、俺に椅子を勧めた。

「座りたま」

 俺は座った。ハヤシは、窓の外を見ながら言った。

「感情を取り戻したそうだね」

「ああ」

 ハヤシは振り返った。彼の目には、深い悲しみがあった。

「話しておきたいことがある。なぜ、私がエモゼロを推進したのか」


 ハヤシは、語り始めた。三十五年前、世界は混乱していた。彼には、妻のユキと、五歳の娘のアイがいた。愛する家族だった。彼は、大学で神経科学を研究していた。幸せな日々だった。


 だが、ある日曜日、すべてが変わった。妻と娘は、ショッピングモールにいた。そこに、テロリストが爆弾を持ち込んだ。宗教的な憎悪が原因だった。爆発が起きた。二百人以上が死んだ。その中に、ユキとアイがいた。


「すぐに現場に駆けつけたよ。だが、遅かった」

 ハヤシの声は、震えていた。

「娘の体を抱きしめた。温かかった。でも、もう息はしていなかった」


 ハヤシは、窓の外を見た。

「私は絶望したんだ。なぜ、人間は憎み合うのか。なぜ、愛する者を奪い合うのか。何週間も、答えを探した。そして、気づいたんだよ。すべての争いの根源は、感情、だと」


 ハヤシは続けた。

「憎しみ、嫉妬、怒り、恐怖。これらの感情が、人を狂わせる。テロリストも感情に支配されていた。もし、奴らに感情がなければ、爆弾を爆発させることはなかった。もし、すべての人に感情がなければ、争いは起きない。戦争も、犯罪も、すべてなくなる、とね」


 俺は、反論した。

「でも、愛も喜びも失われる」

 ハヤシは頷いた。

「その通り。だが、愛は苦しみを生む。愛する者を失う苦しみ。君は、愛する者を失ったことがあるかい?分からないだろう。だが、私は知っている。愛の裏には、必ず苦しみがある。ならば、最初から愛などない方がいい」


 俺は言った。

「それは、逃げてるだけだ」

 ハヤシは、悲しそうに微笑んだ。

「その通りだ。私は、逃げている。苦しみから、逃げているんだ。そして、他の人々に、同じ苦しみを味わってほしくなかった。だから、エモゼロを開発した」


 ハヤシは続けた。

「十年間は研究に没頭したよ。神経科学、薬理学、すべてを学んだ。そして、エモゼロを完成させた。最初の臨床試験で、被験者は感情を失った。彼らは、穏やかだった。争わなかった。苦しまなかった。私は、成功したと思った」


「でも、それは人間じゃない」

 俺は言った。

 ハヤシは首を横に振った。

「人間の定義とは?感情を持つことか?それとも、理性を持つことか?私は、後者だと信じている。感情は、人間を獣にする。理性こそが、真の人間性だ」


 俺は、ハヤシの目を見た。彼は、本気だった。彼なりの正義があった。それが、恐ろしかった。善意の独裁者。最も危険な存在だ。


「あんたは、エモゼロを飲まなかったじゃないか。なぜだ?」

 ハヤシは答えた。

「罰を受けるべきだからだ。妻と娘を守れなかった罰を。だから、私は感情を持ち続ける。苦しみ続ける。それが、私の贖罪となる」

 ハヤシは続けた。

「毎日ね、妻と娘のことを思い出すんだ。苦しいよ。だがね、それでいいんだ。私は、苦しむべきなんだ。だけどね、他の人々は違う。彼らには、幸せになってほしい。感情のない、穏やかな幸せ」


 言葉が出なかった。ハヤシの論理は歪んでいた。だが、彼の苦しみは、本物だった。


 俺は、政府庁舎を出た。ハヤシの言葉が、頭から離れない。本当に、感情を取り戻すことが正しいのか?だが、迷っている時間はなかった。


 その夜、アヤのハッカーチームが、政府の放送システムをハッキングした。資料を全市民に公開した。


 翌日、ニューハーモニーは混乱をきたした。大型モニターに、エモゼロの副作用、政府の隠蔽、すべてが映し出され人々は動揺した。だが、感情がないため、すぐには暴動にならなかった。


 だが、一部の人々、俺たちのように感情を取り戻していた人々は、怒った。彼らは、政府庁舎に向かった。


 そして、他の人々もエモゼロを飲むのをやめ始めた。


 一週間後、街に変化が現れた。感情を取り戻し始めた人々が街に溢れたのだ。最初は、喜びだった。人々は、泣き、笑い、抱き合った。長い間、失っていた感情を取り戻した喜び。


 俺は、街の中心広場にいた。そこには、数千人の人々が集まっていた。ある老人は、地面に座り込んで、ただ泣いていた。

「息子の顔を思い出したんだ。二十年ぶりに、息子の顔を思い出したんだよ」

 老人は、笑いながら泣いていた。


 若い女性は、友人と抱き合っていた。

「あなたのことが好きだった!ずっと好きだったの!でも、言えなかった!」

 二人は、泣きながら笑っていた。


 だが、喜びは、長く続かなかった。


 別の感情が湧いてきたのだ。怒り。三十年間、騙されていた怒り。人生を奪われた怒り。その怒りは、すぐに暴力に変わった。


 オフィス街で、暴動を目撃した。数百人の人々が、ビルに石を投げていた。窓ガラスが割れた。

「政府に復讐しろ!」

「俺たちの人生を返せ!」

 人々は叫んでいた。警備員が出てきたが、すぐに襲われ、血が流れた。


 別の場所では、もっと悲惨な光景があった。ある男が、妻を殴っていた。

「お前は、俺を愛していなかった!感じる!感じるんだ!お前の嘘を!」

 だが、男は、何を嘘つかれたのか覚えていなかった。ただ、怒りだけがあった。制御できない怒りが。


 妻は、泣きながら叫んでいた。

「やめて!お願い!私も、分からないの!何が本当だったのか!」

 男は、止まらなかった。俺は、止めに入ろうとしたが、男は俺を突き飛ばした。

「お前には関係ない!これは、俺たち夫婦の問題だ!」


 俺は、無力だと感じた。


 その夜、自殺者が、急増しているという報道が流れた。感情の重さに耐えられず命を絶つ人々。一日で、百人以上。翌日は、二百人以上。数は、増え続けた。


 次の日、俺は病院を訪れた。精神科の待合室は人で溢れていた。医師は疲弊していた。

「感情の扱い方を忘れているんです。三十年間、感情を抑制されていたから。でも、私たちも、どう教えていいか分からないんです」

 医師は、頭を抱えた。

「このままでは、崩壊します」


 街を歩く。至る所で混乱が起きていた。


 ある公園では、中年の女性がベンチに座って泣いていた。俺は、声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 女性は、俺を見た。目は虚ろだった。

「思い出したのよ。娘のことを。十五年前に、病気で死んだ娘のこと。エモゼロを飲んでいる間は何も感じなかった。でも、今はね、悲しくて悲しくて、悲しみが止まらないの」

 女性は続けた。

「娘がね、死んだ時、私は泣かなかった。葬式でも、泣かなかった。泣けなかったの。それがね、ずっと心に引っかかっていたの。でも、今、やっと泣ける。やっと。でもね、今更遅すぎるわよ」


 俺は、何も言えなかった。


 別の場所では、若い男性がビルの屋上に立っていた。警察が説得している。

「降りてきてください!」

 だが、男性は首を横に振った。

「感情が重すぎるんだ!こんなんじゃ生きていけない!エモゼロを飲んでいた方が楽だった!感情なんかいらなかった!!」

 男性が飛び降り。悲鳴が響いた。


 俺は、その場を離れた。吐き気がした。これは、俺たちのせい。俺たちが真実を公開したせいだ。


 アヤの隠れ家に戻ると、彼女も同じ光景を見ていた。

「タケシ、これは」

 アヤの声は、震えていた。

「私たちの責任よ。私たちが感情を取り戻させたせいで」

「でも、俺たちは正しいことをした。したよな?」

 俺は、自分に言い聞かせるように言った。

「正しいって何よ」

 アヤは、俺を見た。

「みんな苦しんでる。死んでる。これが、正しいことなの?」


 俺は、答えられなかった。


 ケンジが入ってきた。彼の顔は血で汚れていた。服も破れていた。

「外は地獄だ。暴動、殺人、自殺。至る所で起きてる」

 ケンジは続けた。

「でも、これが、感情を持つことの代償だ。人間らしく生きるための、代償なんだよ」


 俺は、ケンジを見た。

「お前は、後悔してないのか?」

 ケンジが答えた。

「後悔?してるよ。でも、後悔してないって思いもある。矛盾してるよな。感情があるから人間は苦しむんだ。でも、感情があるから、人間は生きられる」


 アヤが言った。

「私たちに、今できることは支援することだけや。カウンセリング、感情管理の講座、自殺防止ホットライン。できることを全部やらないと」


 俺たちは活動を始めた。だが、焼け石に水だった。自殺者は減らず、暴力も続いた。


 数週間後、混乱は少しずつ収まっていった。政府は崩壊し、新しい政府が樹立された。エモゼロは禁止され、人々は感情と向き合い始めた。カウンセラーによる、感情の扱い方を教える講座が開かれた。


 完全に元に戻ることはなかった。多くの人々が感情の重さに押しつぶされていた。自殺率は急上昇し、犯罪率も増えた。


 ある日、俺はハヤシを訪ねた。彼は、自宅に軟禁されていた。彼は、窓の外を見ながら言った。

「やはり、こうなったか」

 俺は答えた。

「あんたの言う通りだった」

 ハヤシは振り返った。

「後悔しているのか?」

 俺は正直に答えた。

「分からない。感情を取り戻して、苦しんでいる人々を見ると後悔する。でも、同時に、感情があるから生きている実感もある」


 ハヤシは、深くうなずいた。

「感情は祝福であり、呪いでもある。人間は、その両方を背負って生きるしかない」

 ハヤシは続けた。

「私はね、呪いだけを排除しようとしたんだ。だけれど、祝福も一緒に失われた。私の過ちだ」

 俺は聞いた。

「あんたは、自分ではエモゼロを飲まなかったのに、なぜ他人に飲ませたんだ?」

 ハヤシは答えた。

「前にも言ったが、私は自分を罰していた。感情を持ち続けることで、苦しみ続けることで、妻と娘への贖罪としていたんだよ。他の人々にはね、同じ苦しみを味わわせたくなかった。」


 俺はハヤシを見た。彼は、悪人ではなかった。ただ、間違った善意を持っていた。そして、俺たちも、正しいことをしたのかどうか、分からなかった。


 ハヤシの家を出て、街を歩いた。街は以前とは違う。人々には表情があった。笑っている人もいれば、泣いている人もいた。怒っている人もいれば、恐れている人もいた。みな生きていた。


 だが、同時に苦しんでいた。公園のベンチに、一人の老人が座り、泣いていた。俺は声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 老人が俺をみる。

「感情が重すぎるよ。三十年間何も感じなかったんだよ。でも今はね、すべてを感じてしまう。辛くて苦しいんだよ。だけどね生きているという実感もあるんだ」

 老人は続けた。

「これが人間なんだな」


 俺は、頷いた。これが、人間だった。感情と共に生きる。喜びも悲しみも。すべてを背負って生きる。


 夜、俺はアパートに戻りベッドに横になった。目を閉じると、様々な感情が湧いてくる。後悔、罪悪感、希望、恐怖。すべてが混ざり合っていた。


 俺は思った。ハヤシの言う通り、感情のない方が幸せだったのかもしれない。でも、それでは、人間とはいえない。俺たちは、人間として生きることを選んだ。その代償が苦しみだった。


 俺は、そう思うことにした。苦しみも、人間として生きている証だ。


 翌朝、目覚めてすぐに窓を開けた。街は、まだ混乱していた。街の人々は、感情と共に生きていた。


 今日はアヤとケンジに会う約束があった。

感情を取り戻した人々を支援する活動。カウンセリング。感情管理の講座。自殺防止のホットライン。やるべきことは山ほどあった。


 途中、俺は墓地の前を通る。新しい立てられた墓がたくさんあった。感情の重さに耐えられず、自ら命を絶った人々の墓だ。俺は立ち止まる。彼らは、俺たちのせいで死んだ。その事実は重かった。 


 アヤの隠れ家に着くと、ケンジが待っていた。

「遅いぞ、タケシ」

 俺は答えた。

「悪い。少し考え事をしてた」

 アヤが言った。

「今日は、新しいプログラムを始めるわ。感情を取り戻した子供たちのための、教育プログラム」

 俺は頷いた。

「ああ、やろう」


 俺たちは、子供たちに感情との付き合い方を教えた。怒りを感じたら深呼吸する。悲しみを感じたら泣いてもいい。喜びを感じたら笑う。当たり前のことだが、エモゼロを飲んでいた人々には、すべてが新しかった。


 夕方、仕事が終わり。街を歩いて帰る。途中、小さな女の子が、母親と手を繋いで歩いていた。女の子は笑っていた。母親も笑っていた。その光景を見て、俺は少しだけ救われた気がした。


 感情を取り戻したことで、多くの人が苦しみ、多くの人が死んだ。だが、こうして笑顔を取り戻した人々もいた。


 アパートに戻り夕食を食べる。以前のような栄養バーではなく、ちゃんとした食事。まだ料理は下手だったが、味があった。美味しいと感じた。


 夜、ベランダに出て街を見下ろす。ネオンの光が輝いていた。以前とは違い。人々の営みが見えた。生きている人々。苦しんでいても、それでも生きている人々。


 深呼吸をした。胸に様々な感情があった。後悔、罪悪感、希望、恐怖、悲しみ、喜び。すべてが混ざり合っていた。


 これが人間だと思った。感情と共に生きる。苦しみも、喜びも、すべてを背負って生きる。


 正直、本当にこれで良かったのかまだ分からなかった。だが、選択はもう済んだ。後戻りはできない。俺たちはこの道を選んだ。


 部屋に戻りベッドに横になる。眠りにつくと夢を見た。母親の夢。彼女は、笑っていた。俺は、その夢の中で泣いていた。


 朝、枕が涙で濡れていた。また新しい一日が始まった。


 窓を開け外をみる。街はまだ混乱している。だが、少しずつ、少しずつだが変わり始めていた。人々は、感情と向き合い苦しみながらも、生きていた。


 俺も、そのうちの一人だった。


 感情を忘れた世界を終わらせ、感情と共に生きる世界を始めた。それが正しかったのかどうか、俺には分からない。


 今日もやるべきことがある。苦しんでいる人々を支援する。希望を失った人々に寄り添う。それが、俺の贖罪。


 街を歩きながら、俺は思う。ハヤシは、今、何を思っているだろうか。彼の予言は当たった。感情を取り戻した人々は、苦しんでいる。だが生きてもいる。


 俺は、まだ答えを見つけていなかった。


 三ヶ月が経ち状況は、少しずつ改善していた。自殺率はピーク時の半分になり。暴動も少なくなった。


 俺は、毎週、ハヤシを訪ねるようになっていた。彼は軟禁状態のまま、窓の外を見る日々を送っていた。ある日、ハヤシが言った。

「自殺者の数、知っているか?」

「ああ」

「三ヶ月で、五千人を超えた」

 ハヤシは、俺を見た。

「君は、どう思う?この五千人は君たちが殺したのと同じだ」


 俺は、何も言えなかった。


 ハヤシは続けた。

「私が、エモゼロを推進した三十年間で、自殺者はいなかった。犯罪もほぼゼロだった。それが、君たちの行動で、すべて元に戻った。いや、悪化した」

「でも」

 俺は言葉を探した。

「でも、人は生きている。機械じゃなく人間として」

 ハヤシが悲しそうに笑った。

「生きている?苦しみながら死んでいく人々を見て、本当にそう言えるのか?」


 俺は、答えられなかった。


 半年が経った。新政府は「感情教育プログラム」を開始した。学校では、子供たちに感情の扱い方を教え、カウンセラーの数を増やし、自殺防止ホットラインを二十四時間体制にした。


 大人たちは苦しみ続けていた。三十年間、感情を抑制されていた彼らにとって、感情は異物だった。制御のできない恐ろしいものだった。


 俺は、支援センターで働いていた。毎日、何十人もの人々と話をした。


 ある日、四十代の男性が来た。

「助けてください。妻と喧嘩ばかりしています。エモゼロを飲んでいた時は、こんなことなかったのに」

 俺は聞いた。

「何が原因ですか?」

 男性は答えた。

「分かりません。些細なことで怒りが爆発するんです。制御できない」

 俺は、感情管理の技術を教えた。深呼吸、数を数える、その場を離れる。だが、男性の目は絶望に満ちていた。

「これが一生続くんですか?」

 俺は、正直に答えた。

「分かりません」


 別の日、六十代の女性が来た。

「息子が自殺しました」

 女性は涙を流していなかった。ただ、虚ろな目で言った。

「息子は、感情に耐えられませんでした。エモゼロを飲んでいた方が、良かったのかもしれません」

 俺は、言葉を失った。


 一年が経った。統計が発表された。感情を取り戻してから一年間で、自殺者は八千人。殺人事件は三千件。暴力事件は十万件を超えた。エモゼロの時代と比べて、すべてが悪化していた。


 世論は分裂した。

「感情を取り戻して良かった」という人々と、「エモゼロの時代に戻すべき」という人々に。


 ある集会で、エモゼロ復活を求める人々が集まった。俺はその集会を見に行った。壇上に立った老人が叫んだ。

「我々は間違った選択をした!感情など、必要なかった!エモゼロを復活させるべきだ!」

 群衆が拍手する。


 戸惑った。彼らの言うことも一理ある。感情は、苦しみを生んだ。多くの人が死んだ。


 別の集会もあった。感情を取り戻して良かったと言う人々の集会。壇上に立った若い女性が言った。

「私は、初めて、母親を愛していると感じました!エモゼロの時代には、何も感じることができませんでした!でも、今は違う!母親が、愛おしい!私は、これが人間だと思います。」

 群衆が涙を流していた。


 俺には、どちらが正しいのか分からなかった。


 ある夜、俺は一人で街を歩いていた。公園のベンチに座り空を見上げる。星が見えた。スモッグが減り、星が見えるようになっていた。


 隣に、誰かが座った。振り返るとハヤシだった。

「散歩か?」

 俺は聞いた。

「軟禁は?」

 ハヤシは笑った。

「解かれたよ。もう、私を監視する必要はないらしい」


 二人は、しばらく沈黙した。やがて、ハヤシが言った。

「君は後悔しているか?」

 正直に答えた。

「後悔していないと言えば嘘になるな。正直よく分からないよ」

 ハヤシは頷いた。

「それが感情だ。矛盾している。苦しい。でも、それが人間だよ」


 ハヤシは続けた。

「私もね、正直後悔している。エモゼロを作ったこと。だが、同時に後悔していないという思いもあるんだ。あれはね、私なりの正義だった。間違っていたかもしれない。だが、私は信じていたんだよ」


 俺は、ハヤシを見た。

「これから、どうなると思いますか?」

 ハヤシは、空を見上げた。

「分からないね。だが、人間は適応する。いずれは感情と共に生きる方法を見つけるだろう。時間はかかると思うがね。それまでは犠牲も多いだろう。だが、人類は生き残るよ」


 俺は、その言葉に、少しだけ希望を感じた。


 二年が経った。状況は、徐々に安定していった。自殺率はまだ高かったが、減少傾向にあった。犯罪率も下がり始めた。人々は、感情との付き合い方を学んでいた。


 学校では、感情教育が定着した。子供たちは、怒りを感じたら深呼吸する、悲しみを感じたら誰かに話す、喜びを感じたら笑う。当たり前のことを一から学んでいた。


 だが、大人たちは、まだ苦しんでいた。三十年間の空白は、簡単には埋まらなかった。


 俺は、ある日、墓地を訪れた。そこには、感情に耐えられず自殺した人々の墓があった。八千以上の墓。俺は、一つ一つの墓に手を合わせ謝った。「すまない」


 墓地を出ると、アヤが待っていた。

「タケシ、また来たの?」

「ああ。彼らは、俺たちのせいで死んだんだ」

 アヤは、俺の肩に手を置いた。

「私たちのせいでもあるし、私たちのせいでもない。彼らは感情に耐えられなかった。それだけよ」

「でも」

 アヤは続けた。

「いま、生きている人達がいる。私たちは、その人達のために働く。それが私たちの責任よ」


 俺は、アヤの言葉に、少しだけ救われた気がした。



本当にこれで良かったのか、まだ分からなかった。おそらく、一生分からないだろう。


 俺たちは、この道を選んだ。感情と共に生きる道を。それが正しかったのかどうか、歴史が判断するだろう。だが、今は、ただ生きる。この選択の結果を、背負って生きる。


 俺は、眠りについた。夢を見た。母親の夢。ハヤシの妻と娘の夢。自殺した人々の夢。すべてが、混ざり合った夢。俺は、その夢の中で、泣いた。


 朝、目覚めると、枕が涙で濡れていた。俺は、起き上がった。窓を開けた。外を見た。


 光は煌々と世界を照らしていた。

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水が死んだ日

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