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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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126/219

【社会派SF】原価ゼロのレストラン

 俺の名前は、まあ、特に重要じゃない。三十二歳。元サラリーマン。地方都市の中堅企業で営業をしていた。真面目に働いて、真面目に生きてきた。特に取り柄もなければ、特に欠点もない。ごく普通の人間だった。


 だから、この能力を手に入れたときも、最初は信じられなかった。


 それは、会社を辞めて一週間後のことだった。俺は、長年の夢だった飲食店を開くために、退職金をつぎ込んで小さなビストロを借りた。駅から徒歩十五分、商店街の端っこにある、十坪ほどの物件だった。家賃は月八万円。決して安くはないが、この立地なら許容範囲だと思った。


 内装を整え、厨房機器を揃え、食材を仕入れる準備をしていたとき、ふと気づいた。


 俺は、買ってきた食材を冷蔵庫にしまおうとしていた。高級スーパーで買った、A5ランクの和牛ステーキ肉だ。一枚五千円もした。開店記念に、自分へのご褒美として買ったものだ。


 その肉を手に取ったとき、頭の中に妙な感覚が走った。まるで、何かが「開いた」ような感じだった。


 そして、頭の中に、半透明の画面が浮かび上がった。


 いや、浮かび上がったというより、頭の中に直接表示された、という方が正しい。他人には見えない。俺にだけ見える画面だった。


 そこには、こう書かれていた。


『インベントリ:0/30』


 俺は、混乱した。何だこれは。ゲームか?現実じゃないのか?


 でも、手の中の肉は確かに存在していた。冷たくて、重くて、リアルだった。


 まず、その肉を画面に「入れる」イメージをしてみた。すると、肉が光に包まれて、スッと消えた。


 俺は、驚いて手を見た。何もなかった。肉が消えた。


 画面を見ると、こう変わっていた。


『インベントリ:1/30』

『スロット1:A5和牛ステーキ肉(200g)』


 俺は、恐る恐る「取り出す」イメージをしてみた。すると、光が現れて、手の中に肉が戻ってきた。


 いや、戻ってきた、というより、「新しく出現した」という感じだった。


 俺は、その肉を冷蔵庫に入れた。そして、もう一度「取り出す」イメージをしてみた。


 すると、また肉が出現した。


 俺は、冷蔵庫を開けた。中には、さっき入れた肉がそのまま残っていた。


 つまり、こういうことだ。


 俺が「保存」した物は、何度でも「複製」して取り出せる。しかも、元の物は消えない。


 俺は、その能力の意味を理解するのに、十分ほどかかった。


 そして、理解したとき、思わず笑ってしまった。


 これは、とんでもない能力だ。


 俺は、色々な物を保存してみた。


 高級ワインのボトル。フランス産のチーズ。イタリア産のオリーブオイル。スペイン産の生ハム。


 すべて、一度買って、保存すれば、無限に複製できた。


 俺は、興奮した。これがあれば、原価ゼロで飲食店を経営できる。


 いや、厳密には原価ゼロではない。最初の一回は買わなければならない。でも、二回目以降は無料だ。


 つまり、実質的に原価ゼロだ。


 俺は、すぐに行動に移した。


 高級食材店を回り、最高級の食材を片っ端から買った。A5和牛、フォアグラ、トリュフ、キャビア、高級ワイン、シャンパン。退職金の残りをすべて使って、三十種類の食材を揃えた。


 そして、すべてをインベントリに保存した。


 これで準備は整った。


 俺は、ビストロをオープンした。


 店名は「ビストロ・ラ・ルミエール」。フランス語で「光の食堂」という意味だ。別に深い意味はない。響きがかっこいいから選んだだけだ。


 メニューは、シンプルにした。


 A5和牛ステーキ:1,200円

 フォアグラのソテー:800円

 トリュフパスタ:1,500円

 高級ワイン(ボトル):2,000円


 この価格設定を見た税理士は、目を丸くした。


「え、これ本気ですか?A5和牛が1,200円?」


 税理士の名前は、佐藤といった。五十代の男性で、俺の父親の知り合いだった。俺が開業すると聞いて、格安で顧問契約を結んでくれた。


 俺は、頷いた。


「はい、本気です」


 佐藤は、電卓を叩いた。


「普通、A5和牛のステーキって、原価だけで200gで五千円くらいしますよ。それを1,200円で出したら、大赤字じゃないですか」


 俺は、曖昧に笑った。


「大丈夫です。仕入れルートがありますから」


 佐藤は、不安そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


 そして、開店初日。


 最初は、客が来なかった。当然だ。新しい店で、しかも無名だ。誰も知らない。


 でも、三日目くらいから、口コミで広がり始めた。


「あの店、めちゃくちゃ安いらしいよ」「A5和牛が1,200円だって」「マジで?」


 SNSでも話題になった。写真付きで投稿された。「信じられない価格で本物のA5和牛!」


 一週間後には、予約でいっぱいになった。


 俺は、毎日、インベントリから食材を取り出し続けた。A5和牛を、フォアグラを、トリュフを、ワインを。


 冷蔵庫は、ほとんど空だった。なぜなら、俺はインベントリから直接取り出して、すぐに調理していたからだ。在庫を保管する必要がなかった。


 店は大繁盛した。


 一ヶ月目の売上は、二百万円を超えた。


 二ヶ月目は、三百万円。


 三ヶ月目は、三百五十万円。


 俺は、毎日忙しかった。でも、楽しかった。客は喜んでくれた。料理は美味しいと言ってくれた。


 そして、一年が経った。


 年間売上は、二千四百万円に達した。


 俺は、初めての決算を迎えた。


 佐藤が、帳簿をチェックしに来た。


 俺は、売上台帳と、仕入帳を渡した。


 佐藤は、売上台帳を見て、満足そうに頷いた。


「いい売上ですね。順調じゃないですか」


 でも、仕入帳を見た瞬間、佐藤の表情が変わった。


 佐藤は、何度もページをめくった。そして、電卓を叩いた。何度も、何度も。


 やがて、佐藤は顔を上げて、俺を見た。


「あの、これ、間違いじゃないですよね?」


 俺は、首を横に振った。


「いえ、合ってます」


 佐藤は、深呼吸をした。そして、言った。


「年間仕入額、十二万円?」


 俺は、頷いた。


「はい」


 佐藤は、電卓を見せた。


「売上が二千四百万円で、仕入が十二万円。原価率が、0.5%?」


 俺は、また頷いた。


「はい」


 佐藤は、しばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。


「これ、税務署に絶対に目をつけられますよ」


 俺は、予想していた。


「やっぱりですか」


 佐藤は、頷いた。


「飲食業の平均原価率は、30%前後です。高級食材を扱う店なら、もっと高い。それが0.5%なんて、ありえない。税務署は、確実に疑います」


 俺は、聞いた。


「何を疑うんですか?」


 佐藤は、真剣な顔で答えた。


「隠れた仕入があると疑います。つまり、実際にはもっと仕入れているのに、帳簿に載せていない。その分を、所得隠しに使っているんじゃないかと」


 俺は、困った。


「でも、本当に仕入れてないんです」


 佐藤は、ため息をついた。


「それを、どうやって証明するんですか?」


 俺は、答えられなかった。


 佐藤は、続けた。


「税務署は、反面調査といって、仕入先に直接確認を取ります。あなたの取引先は?」


 俺は、答えた。


「最初の一回だけ、高級食材店で買いました。それ以降は、買ってません」


 佐藤は、頭を抱えた。


「それじゃ、説明がつかない。どうやって食材を調達してるんですか?」


 俺は、言えなかった。「インベントリで複製してます」なんて言えるわけがない。


 佐藤は、しばらく考え込んでいた。そして、言った。


「このまま申告します。でも、税務調査が来る可能性は、ほぼ百パーセントです。覚悟しておいてください」


 俺は、頷いた。


 そして、予想通り、三ヶ月後に税務署から電話が来た。


 電話に出たのは、俺だった。


「もしもし、ビストロ・ラ・ルミエールです」


 電話の向こうから、落ち着いた女性の声が聞こえた。


「こちら、国税局の者です。税務調査のご連絡です」


 俺の心臓が、ドクンと跳ねた。


 女性は、続けた。


「来週の火曜日、午前十時に、調査官二名が伺います。よろしいでしょうか」


 俺は、答えた。


「はい、大丈夫です」


 女性は、丁寧に言った。


「当日は、帳簿、領収書、通帳、その他関連資料をご用意ください。よろしくお願いいたします」


 電話は切れた。


 俺は、すぐに佐藤に電話した。


 佐藤は、予想していたような口調で言った。


「来ましたか。分かりました。当日、私も同席します」


 そして、火曜日がやってきた。


 午前十時ちょうど、二人の男性が店に入ってきた。


 一人は五十代くらいの男性で、スーツを着ていた。もう一人は三十代くらいの若い男性で、同じくスーツを着ていた。


 二人とも、表情は穏やかだった。怒っているようには見えなかった。ただ、淡々としていた。


 年配の方が、名刺を差し出した。


「国税局の山田と申します。こちらは田中です。本日は税務調査にご協力いただき、ありがとうございます」


 俺と佐藤は、名刺を受け取った。


 俺は、二人を店の奥に案内した。テーブルを片付けて、椅子を用意した。


 山田は、座りながら言った。


「それでは、まず帳簿を拝見させていただきます」


 佐藤が、帳簿を渡した。


 山田と田中は、帳簿を開いて、じっくりと読み始めた。


 二人とも、無言だった。ただ、ページをめくる音だけが聞こえた。


 十分ほど経ってから、山田が顔を上げた。


「年間売上、二千四百万円。これは間違いありませんか?」


 俺は、頷いた。


「はい、間違いありません」


 山田は、続けた。


「年間仕入額、十二万円。これも間違いありませんか?」


 俺は、また頷いた。


「はい」


 山田は、田中を見た。田中は、電卓を取り出して、何かを計算し始めた。


 やがて、田中が言った。


「原価率、0.5%です」


 山田は、頷いた。そして、俺を見た。


「この数字について、ご説明いただけますか?」


 俺は、深呼吸をした。


「はい。私は、最初に食材を仕入れた後、それをずっと使い続けています」


 山田は、眉をひそめた。


「ずっと、というと?」


 俺は、答えた。


「最初に買った食材が、まだ残っているんです」


 山田は、首をかしげた。


「一年間で、十二万円分の食材が残り続ける?」


 俺は、頷いた。


「はい」


 山田は、田中を見た。田中は、メモを取り始めた。


 山田は、質問を続けた。


「では、現在の在庫を拝見できますか?」


 俺は、立ち上がった。


「どうぞ」


 山田と田中は、俺について厨房に入った。


 俺は、冷蔵庫を開けた。


 中は、ほとんど空だった。調味料が少しあるだけだった。


 山田は、冷蔵庫を覗き込んだ。そして、言った。


「在庫がありませんが?」


 俺は、答えた。


「必要な分だけ、その都度取り出しているので」


 山田は、聞いた。


「どこから取り出しているんですか?」


 俺は、困った。


「えっと、その……」


 佐藤が、助け舟を出した。


「特殊な仕入先がありまして」


 山田は、佐藤を見た。


「特殊な仕入先?」


 佐藤は、頷いた。


「はい。非常に安価で、かつ高品質な食材を提供してくれる業者がありまして」


 山田は、メモを取りながら言った。


「その業者の名前と連絡先を教えていただけますか?」


 佐藤は、言葉に詰まった。


 俺は、正直に言った。


「それが、個人の方なので、名前は伏せてほしいと言われていまして」


 山田は、表情を変えずに言った。


「税務調査においては、取引先の情報開示は義務です。守秘義務があるとしても、税務調査は優先されます」


 俺は、黙った。


 山田は、続けた。


「では、こう考えてください。もし本当にその業者が存在するなら、私たちはそちらにも確認を取ります。それで問題ないですよね?」


 俺は、頷くしかなかった。


 山田は、言った。


「では、その業者からの請求書、領収書はありますか?」


 俺は、首を横に振った。


「ありません」


 山田は、眉を上げた。


「請求書も領収書もなく、取引をしている?」


 俺は、答えた。


「はい。現金で直接払っているので」


 山田は、メモを取った。


「その現金の出金記録は?」


 俺は、通帳を渡した。


 山田は、通帳を開いて、じっくりと見た。


 やがて、山田は言った。


「この通帳には、大きな現金引き出しの記録がありませんが?」


 俺は、答えた。


「別の口座から出しました」


 山田は、聞いた。


「その口座の通帳を見せていただけますか?」


 俺は、困った。別の口座なんて存在しない。


 佐藤が、割って入った。


「すみません、それは個人口座でして」


 山田は、冷静に言った。


「事業に関連する取引であれば、個人口座でも確認の対象になります」


 俺は、観念した。


「実は、別の口座はありません」


 山田は、頷いた。


「では、現金で払ったというのは?」


 俺は、黙った。


 山田は、ため息をついた。そして、言った。


「申し訳ありませんが、現状では、あなたの説明には整合性がありません」


 俺は、頭を下げた。


「すみません」


 山田は、続けた。


「通常、飲食業の原価率は30%前後です。あなたの売上が二千四百万円なら、仕入は七百万円程度あるはずです。しかし、帳簿には十二万円しか記載されていない。この差額、六百八十八万円について、説明がつきません」


 俺は、何も言えなかった。


 山田は、淡々と続けた。


「この場合、私たちは推計課税を行う可能性があります。つまり、同業他社のデータを基に、あなたの仕入額を推計し、その差額を所得隠しと見なします」


 俺は、驚いた。


「でも、本当に隠してないんです!」


 山田は、穏やかに言った。


「それを証明できる資料がありますか?」


 俺は、黙った。


 山田は、立ち上がった。


「本日はこれで失礼します。後日、再度訪問させていただきます。その際、取引先の情報、仕入の詳細、在庫の説明ができるよう、ご準備ください」


 二人は、礼をして帰っていった。


 俺と佐藤は、店に残された。


 佐藤は、頭を抱えた。


「どうするんですか、これ」


 俺は、答えられなかった。


 佐藤は、続けた。


「推計課税されたら、追徴課税だけで数百万円かかりますよ。下手したら、脱税の疑いで刑事告発されるかもしれない」


 俺は、焦った。


「でも、本当に脱税してないんです!」


 佐藤は、叫んだ。


「だから、それをどう証明するんですか!インベントリで複製してますなんて、言えるわけないでしょう!」


 俺は、ハッとした。佐藤に話していたのか。いや、話していない。でも、佐藤は勘づいていた。


 佐藤は、ため息をついた。


「あなたの能力が本物だとしても、税務署には通じません。制度は、奇跡を想定していないんです」


 俺は、絶望した。


 その夜、俺は店を閉めて、一人で考え込んだ。


 どうすればいいんだ。正直に話すべきか。でも、信じてもらえるわけがない。


 そのとき、店のドアが開いた。


 入ってきたのは、若い女性だった。二十代後半くらいだろうか。スーツを着ていた。


 女性は、言った。


「すみません、まだ営業してますか?」


 俺は、答えた。


「いえ、今日は閉店です」


 女性は、残念そうな顔をした。


「そうですか。実は、噂を聞いて、どうしても来たくて」


 俺は、聞いた。


「噂?」


 女性は、頷いた。


「A5和牛が1,200円で食べられるって。本当ですか?」


 俺は、頷いた。


「はい、本当です」


 女性は、目を輝かせた。


「すごい!どうやってそんな価格で?」


 俺は、苦笑いした。


「それが、今問題になってるんです」


 女性は、首をかしげた。


「問題?」


 俺は、事情を説明した。税務調査のこと。原価率のこと。説明できないこと。


 女性は、真剣に聞いていた。そして、言った。


「それ、面白いですね」


 俺は、驚いた。


「面白い?」


 女性は、頷いた。


「はい。実は、私、経済学の研究者なんです。大学で教えています」


 俺は、興味を持った。


「経済学?」


 女性は、続けた。


「あなたの店は、経済学的に非常に興味深い。原価ゼロで価値を生み出している。これは、通常の経済理論では説明できない」


 俺は、聞いた。


「どういうことですか?」


 女性は、説明し始めた。


「経済学では、価値は希少性から生まれるとされています。つまり、供給が限られているから、価格がつく。でも、あなたの場合、供給は無限です。にもかかわらず、価値が維持されている。これは、矛盾です」


 俺は、混乱した。


「つまり?」


 女性は、微笑んだ。


「つまり、あなたの店は、経済学の常識を覆している。もしこれが広く知られたら、経済理論そのものが書き換わるかもしれません」


 俺は、驚きで言葉が出なかった。


 女性は、名刺を渡した。


「私の名前は、田村ユリコといいます。もし良かったら、この件について、共同研究しませんか?」


 俺は、名刺を受け取った。


「共同研究?」


 ユリコは、頷いた。


「はい。あなたの店を、経済学の視点から分析する。そして、論文にまとめる。これは、世界的に注目される研究になるはずです」


 俺は、考えた。


「でも、税務署の問題は?」


 ユリコは、微笑んだ。


「それも含めて、研究対象です。制度と奇跡の衝突。これは、法哲学的にも興味深い」


 俺は、少し希望が見えた気がした。


 でも、翌日、さらなる問題が起きた。


 地元の新聞に、記事が載った。


『異常な低価格レストラン、税務調査へ』


 記事には、俺の店の名前と、原価率0.5%という数字が書かれていた。


 記事は、続けた。


『同業者からは、不公正競争だとの声も上がっている。地元の飲食業組合は、調査を求めている』


 俺は、頭を抱えた。


 その日の午後、同業者が押しかけてきた。


 十人くらいの、近隣のレストランオーナーたちだった。


 彼らは、口々に言った。


「お前のせいで、客が来なくなった」「価格破壊だ」「どうやって仕入れてるんだ」


 俺は、謝った。


「すみません、でも、私は正当にやってます」


 一人のオーナーが、怒鳴った。


「正当?原価率0.5%が正当か?ふざけるな!」


 俺は、何も言えなかった。


 そのとき、ユリコが店に入ってきた。


「すみません、何か問題ですか?」


 オーナーたちは、ユリコを見た。


 ユリコは、堂々と言った。


「私は、経済学者です。この店を研究しています。この店は、何も違法なことはしていません」


 オーナーの一人が、言った。


「でも、不公正だろう!」


 ユリコは、冷静に答えた。


「不公正ではありません。彼は、独自の方法で仕入コストを削減しているだけです。それは、企業努力です」


 オーナーたちは、反論した。


「そんな方法があるわけない!」


 ユリコは、微笑んだ。


「あるんです。ただ、あなた方が知らないだけで」


 オーナーたちは、何も言えなくなった。


 やがて、彼らは帰っていった。


 俺は、ユリコに礼を言った。


「ありがとうございます」


 ユリコは、微笑んだ。


「いえ、当然のことをしただけです」


 でも、問題は終わらなかった。


 政府との交渉が終わった一週間後、同業者の動きが活発化した。


 最初は、地元の飲食業組合からだった。


 組合の会長、小林という六十代の男性が、部下を連れて店に来た。


 小林は、厳しい顔で言った。


「あんたの店のせいで、みんな困ってるんだ」


 俺は、謝った。


「すみません」


 小林は、続けた。


「客が、あんたの店に流れてる。うちの売上は、三割減った。他の店も同じだ」


 俺は、何も言えなかった。


 小林は、言った。


「組合として、あんたの店を問題視してる。不公正な競争だ」


 俺は、反論した。


「でも、私は違法なことは何もしていません」


 小林は、鼻で笑った。


「違法じゃなくても、不公正だ。原価率0.5%なんて、ありえない」


 俺は、黙った。


 小林は、脅すように言った。


「組合として、行政に訴える。営業許可の取り消しを求める」


 俺は、驚いた。


「そんなことできるんですか?」


 小林は、にやりと笑った。


「できるかどうかは、やってみないと分からないな」


 小林たちは、帰っていった。


 俺は、佐藤に相談した。


 佐藤は、言った。


「組合が動くと、厄介ですね。彼らには、政治家とのパイプがあります」


 俺は、不安になった。


「どうなるんですか?」


 佐藤は、答えた。


「分かりません。でも、準備はしておいた方がいいでしょう」


 そして、予想通り、一ヶ月後、地元の市議会議員が店に来た。


 議員の名前は、中村といった。五十代の男性で、地元では有力な政治家だった。


 中村は、丁寧な口調で言った。


「あなたの店が、地元で話題になっていますね」


 俺は、頷いた。


「はい」


 中村は、続けた。


「しかし、同時に、多くの事業者が困っているのも事実です」


 俺は、黙った。


 中村は、言った。


「私は、地元の経済を守る立場にあります。公正な競争環境を維持することが、私の責務です」


 俺は、聞いた。


「つまり?」


 中村は、微笑んだ。


「つまり、あなたの店の経営方法について、調査を求める声が上がっています」


 俺は、言った。


「すでに税務調査は受けました」


 中村は、頷いた。


「それは知っています。しかし、税務だけではない。食品衛生、消防、建築基準法。様々な観点から、調査が必要だという意見があります」


 俺は、理解した。嫌がらせだ。


 中村は、続けた。


「もちろん、私は、あなたの店を潰したいわけではありません。ただ、地元の事業者との調和を図ってほしい」


 俺は、聞いた。


「具体的には?」


 中村は、言った。


「価格を見直す。あるいは、営業日を減らす。何らかの形で、影響を小さくしてほしい」


 俺は、反発した。


「それは、営業の自由を侵害しています」


 中村は、冷たく言った。


「自由には、責任が伴います」


 中村は、帰っていった。


 俺は、怒りと不安を感じた。


 そして、さらに悪いことに、一週間後、地元のテレビ局が取材に来た。


 レポーターは、若い女性だった。


「ビストロ・ラ・ルミエールの経営者の方ですね?」


 俺は、頷いた。


「はい」


 レポーターは、カメラを向けて言った。


「あなたの店は、異常な低価格で話題になっていますが、どのように実現しているんですか?」


 俺は、答えた。


「企業努力です」


 レポーターは、続けた。


「しかし、地元の事業者からは、不公正だという声も上がっています。それについては、どうお考えですか?」


 俺は、言った。


「私は、違法なことは何もしていません」


 レポーターは、言った。


「では、仕入先を教えていただけますか?」


 俺は、答えられなかった。


 レポーターは、続けた。


「答えられないということは、何か隠しているんですか?」


 俺は、カメラを遮った。


「取材は終わりです。帰ってください」


 レポーターは、不満そうに帰っていった。


 その夜、ニュースで俺の店が取り上げられた。


 報道の内容は、偏っていた。


「地元事業者を苦しめる、謎の低価格レストラン」「仕入先を明かさず、不透明な経営」


 俺は、頭を抱えた。


 翌日、店の前に、抗議の人々が集まった。


 同業者たちだった。プラカードを持って、声を上げた。


「不公正な競争反対!」「透明性を求める!」


 俺は、店を開けることができなかった。


 佐藤が、駆けつけた。


「大変なことになりましたね」


 俺は、言った。


「どうすればいいんですか」


 佐藤は、答えた。


「弁護士を雇いましょう。法的に対抗しないと」


 俺は、頷いた。


 佐藤の紹介で、弁護士の吉田という四十代の男性に会った。


 吉田は、状況を聞いて、言った。


「これは、難しい案件ですね」


 俺は、聞いた。


「何が難しいんですか?」


 吉田は、説明した。


「あなたは、法律的には何も問題ありません。しかし、社会的には、非難されている。法律で守れる部分と、守れない部分があります」


 俺は、言った。


「つまり?」


 吉田は、答えた。


「営業妨害については、法的措置を取れます。しかし、世論を変えることはできません」


 俺は、絶望した。


 吉田は、続けた。


「ただし、一つ方法があります」


 俺は、聞いた。


「何ですか?」


 吉田は、言った。


「政府に介入してもらう」


 俺は、驚いた。


「政府?」


 吉田は、頷いた。


「あなたの件は、すでに政府が把握しています。彼らに、公式に支持してもらえば、世論も変わるかもしれません」


 俺は、考えた。


 そして、鈴木に連絡を取った。


 鈴木は、状況を聞いて、言った。


「分かりました。対応します」


 数日後、内閣官房から、公式声明が発表された。


「ビストロ・ラ・ルミエールの経営については、関係省庁が調査し、法令違反は確認されなかった。同店の経営手法は、独自の企業努力によるものであり、不公正な競争には当たらない」


 この声明により、世論は少し変わった。


 抗議は収まった。メディアも、トーンを変えた。


 しかし、同業者の不満は残った。


 小林が、再び店に来た。


「政府に守られて、いい気なもんだな」


 俺は、言った。


「私は、何も悪いことをしていません」


 小林は、吐き捨てるように言った。


「あんたのせいで、何人の店が潰れたと思ってる」


 俺は、黙った。


 小林は、続けた。


「まあいい。いつか、あんたも分かる日が来る」


 小林は、帰っていった。


 俺は、罪悪感を感じた。


 本当に、俺は正しいことをしているのか。


 三人は、言葉を失っていた。


 やがて、鈴木が口を開いた。


「これは、トリックですか?」


 俺は、首を横に振った。


「いいえ、本物です」


 山田が、肉を手に取った。触った。匂いを嗅いだ。


「本物の肉だ」


 田中が、言った。


「でも、どうやって?」


 俺は、説明した。


「私には、インベントリという能力があります。一度保存した物を、無限に複製できます」


 三人は、信じられないという顔をしていた。


 鈴木は、しばらく黙っていた。そして、顔を上げて、俺を見た。


「あなたは、これを誰かに話しましたか?」


 俺は、答えた。


「いえ、あなた方が初めてです」


 鈴木は、頷いた。


「分かりました。今日のことは、誰にも話さないでください」


 俺は、頷いた。


 鈴木は、山田と田中を見た。


「我々も、今日見たことは、報告書には書かない。まず、上層部と直接話す」


 三人は、帰っていった。


 俺は、不安だった。どうなるんだろう。


 その夜、ユリコが店に来た。


「どうでしたか?」


 俺は、事情を説明した。


 ユリコは、目を輝かせた。


「実演したんですね!それで?」


 俺は、答えた。


「分からない。上に報告するって言ってた」


 ユリコは、興奮した様子で言った。


「これは、すごいことですよ。もし公表されたら、世界が変わります」


 俺は、首を横に振った。


「公表なんてしないと思う。むしろ、隠すんじゃないかな」


 ユリコは、真剣な顔で言った。


「でも、公表すべきです。あなたの能力は、食料問題を解決できる。飢餓をなくせる。経済を根本から変えられる」


 俺は、戸惑った。


「でも、俺はただ、静かに店をやりたいだけで」


 ユリコは、強い口調で言った。


「それは、個人のエゴです。あなたには、世界を変える責任があります」


 俺は、言葉に詰まった。


 ユリコは、続けた。


「私は、研究者です。真実を明らかにし、世界に伝えることが使命です。あなたの能力を論文にまとめ、発表すべきです」


 俺は、反論した。


「でも、それをしたら、俺の生活は壊れる」


 ユリコは、冷たく言った。


「あなた一人の生活と、世界中の人々の幸福。どちらが大切ですか?」


 俺は、黙った。


 ユリコは、ため息をついた。


「考えてください。これは、大きな決断です」


 ユリコは、帰っていった。


 俺は、一人残されて、考え込んだ。


 一方、鈴木は、その日の夜、緊急で上司に連絡を取った。


 国税局の局長、斎藤という六十代の男性だった。


 鈴木は、斎藤の自宅に呼ばれた。


 斎藤は、鈴木の報告を聞いて、しばらく黙っていた。そして、言った。


「つまり、物質を無限に複製できる人間がいる、と」


 鈴木は、頷いた。


「はい。私も、最初は信じられませんでした。でも、目の前で見ました」


 斎藤は、深刻な顔で言った。


「これは、税務の問題じゃない。国家の問題だ」


 鈴木は、頷いた。


 斎藤は、続けた。


「もしこれが公表されたら、どうなると思う?」


 鈴木は、答えた。


「経済が崩壊します」


 斎藤は、頷いた。


「そうだ。食料の価値がゼロになる。農業が壊滅する。流通が停止する。市場経済そのものが成り立たなくなる」


 鈴木は、続けた。


「さらに、この能力が悪用されたら?」


 斎藤は、顔を曇らせた。


「兵器。通貨。薬物。何でも複製できる」


 鈴木は、言った。


「だから、極秘にすべきです」


 斎藤は、頷いた。


「財務省、経済産業省、内閣府に報告する。明日、緊急会議を開く」


 翌日、都内の政府機関の会議室で、秘密会議が開かれた。


 出席者は、財務省の次官、経済産業省の局長、内閣官房の副長官、そして国税局の斎藤と鈴木だった。


 鈴木は、再度、状況を説明した。


 財務省の次官、木村という五十代の男性が、言った。


「本当に、物質を複製できるのか?」


 鈴木は、頷いた。


「はい。私が目の前で確認しました」


 経済産業省の局長、田所という四十代の男性が、言った。


「これは、経済安全保障の問題だ。もしこの技術が外国に渡ったら?」


 内閣官房の副長官、高橋という六十代の男性が、言った。


「そもそも、これは技術ではない。個人の能力だ。再現性がない」


 木村が、言った。


「だからこそ、管理が必要だ。本人を保護観察下に置くべきだ」


 鈴木は、反論した。


「彼は、何も悪いことをしていません」


 木村は、冷たく言った。


「悪いことをしているかどうかではない。国家にとって危険かどうかだ」


 高橋が、割って入った。


「しかし、強制的に管理すれば、人権問題になる」


 田所が、言った。


「では、どうする?放置するのか?」


 斎藤が、提案した。


「本人と交渉すべきです。能力を公表しないこと、悪用しないことを約束させる。その代わり、税務上の特例を認める」


 木村が、言った。


「それで本人が納得するか?」


 鈴木が、答えた。


「彼は、静かに店をやりたいだけです。公表を望んでいません」


 高橋が、言った。


「ならば、交渉の余地はある」


 田所が、懸念を述べた。


「しかし、彼の周辺にいる人間は?経済学者がいると聞いた」


 鈴木は、頷いた。


「田村ユリコという研究者です。彼女は、公表すべきだと主張しています」


 木村が、言った。


「危険だ。彼女を説得するか、黙らせるか」


 高橋が、言った。


「強制はできない。しかし、説得は試みるべきだ」


 会議は、三時間続いた。


 最終的に、以下の方針が決まった。


 1. 本人と交渉し、能力の秘匿を条件に税務上の特例を認める

 2. 周辺人物ユリコにも、秘密保持を要請する

 3. 本人を定期的に監視するが、強制はしない

 4. この件は、最高機密として扱う


 鈴木は、その決定を受けて、俺の店を再訪した。


 今回は、一人だった。


 鈴木は、俺に、政府の方針を伝えた。


 俺は、驚いた。


「政府レベルの話になってるんですか?」


 鈴木は、頷いた。


「あなたの能力は、国家を揺るがす問題です」


 俺は、言った。


「でも、俺はただの飲食店経営者です」


 鈴木は、真剣な顔で言った。


「あなたは、それ以上の存在です。もし、あなたの能力が公表されたら、世界経済が崩壊します」


 俺は、黙った。


 鈴木は、続けた。


「農業が壊滅します。流通が停止します。市場経済が成り立たなくなります。何百万人もの人々が職を失います」


 俺は、言った。


「でも、飢餓がなくなるんじゃないですか?」


 鈴木は、首を横に振った。


「それは理想論です。現実には、混乱だけが生まれます。誰が配分を決めるのか。誰が秩序を保つのか。答えはありません」


 俺は、納得した。


「分かりました。能力は公表しません」


 鈴木は、安堵した。


「ありがとうございます。その代わり、税務上の特例を認めます」


 俺は、頷いた。


「ただし、条件があります」


 俺は、聞いた。


「条件?」


 鈴木は、言った。


「田村ユリコさんにも、秘密を守ってもらう必要があります」


 俺は、困った。


「彼女を説得できるか分かりません」


 鈴木は、言った。


「私たちも、彼女と話します」


 その日の夜、ユリコの研究室に、鈴木と、内閣官房の高橋が訪れた。


 ユリコは、驚いた。


「国税局と内閣官房?」


 高橋は、丁寧に言った。


「田村先生、お話があります」


 ユリコは、二人を招き入れた。


 高橋は、単刀直入に言った。


「あの店主の能力について、公表しないでいただきたい」


 ユリコは、反論した。


「なぜですか?これは、人類史上最大の発見です」


 高橋は、説明した。


「公表すれば、経済が崩壊します。社会が混乱します。多くの人々が苦しみます」


 ユリコは、言った。


「でも、長期的には、人類の利益になります」


 高橋は、首を横に振った。


「長期的に、などという保証はありません。むしろ、混乱が続くだけでしょう」


 ユリコは、黙った。


 鈴木が、言った。


「先生は、研究者として、真実を追求したい。その気持ちは分かります。しかし、真実を公表することが、常に正しいとは限りません」


 ユリコは、反論した。


「科学は、真実を明らかにするものです」


 高橋は、言った。


「科学には、倫理的責任もあります。核兵器の開発者たちは、真実を追求しました。しかし、その結果、何が起きましたか?」


 ユリコは、言葉に詰まった。


 高橋は、続けた。


「先生には、選択肢があります。公表するか、秘匿するか。しかし、公表すれば、その責任も負うことになります」


 ユリコは、しばらく考え込んでいた。そして、言った。


「分かりました。公表しません」


 高橋は、安堵した。


「ありがとうございます」


 ユリコは、続けた。


「ただし、条件があります」


 高橋は、聞いた。


「条件?」


 ユリコは、言った。


「私は、この件について、個人的に研究を続けます。論文は発表しませんが、記録は残します」


 高橋は、頷いた。


「それは構いません」


 ユリコは、続けた。


「そして、もう一つ。彼の能力が、将来、必要になったとき、私が関与できるようにしてください」


 高橋は、考えた。そして、言った。


「分かりました。約束します」


 こうして、ユリコも秘密を守ることに同意した。


 その夜、ユリコが店に来た。


 彼女は、新聞を手に持っていた。


「見ましたか?地元紙の記事」


 俺は、頷いた。


「見ました」


 ユリコは、新聞を広げた。


「『原価ゼロレストラン、同業者を圧迫』。ひどい書き方ですね」


 俺は、ため息をついた。


「事実ですから」


 ユリコは、真剣な顔で言った。


「でも、あなたは悪くない。能力を持っているだけです」


 俺は、言った。


「でも、その能力で、他の人が苦しんでいる」


 ユリコは、反論した。


「それは、構造の問題です。あなた個人の問題ではない」


 俺は、黙った。


 ユリコは、続けた。


「むしろ、これを機に、経済システムそのものを変えるべきです」


 俺は、驚いた。


「まだ、そんなことを言ってるんですか」


 ユリコは、熱く語った。


「あなたの能力は、希少性に基づく経済を終わらせることができます。すべての人が、必要なものを手に入れられる社会を作れます」


 俺は、首を横に振った。


「無理です。そんなこと、俺一人じゃできない」


 ユリコは、言った。


「一人じゃない。私が手伝います。政府も、最終的には理解するはずです」


 俺は、強い口調で言った。


「やめてください。俺は、ただの飲食店経営者です。世界を変えるとか、そんな大それたことは考えてません」


 ユリコは、言葉に詰まった。


 俺は、続けた。


「それに、もし本当に能力を公表したら、どうなると思いますか?混乱するだけです。誰も幸せになりません」


 ユリコは、反論した。


「短期的には混乱するでしょう。でも、長期的には」


 俺は、遮った。


「長期的にも、変わりません。人間は、希少性がなくても、別の理由で争います。権力、名誉、承認。何でもいい。結局、平等な社会なんて、幻想です」


 ユリコは、黙った。


 俺は、ため息をついた。


「すみません。言い過ぎました」


 ユリコは、小さな声で言った。


「いえ、あなたの言う通りかもしれません」


 二人は、しばらく黙っていた。


 やがて、ユリコが言った。


「でも、一つだけ聞いてもいいですか?」


 俺は、頷いた。


 ユリコは、聞いた。


「あなたは、なぜ料理をするんですか?」


 俺は、考えた。


「なぜ?」


 ユリコは、続けた。


「能力があれば、食材は無限に手に入ります。でも、調理は、あなた自身がやっている。なぜですか?」


 俺は、答えた。


「それは、料理が好きだからです」


 ユリコは、微笑んだ。


「そうですよね。原価はゼロでも、労働はゼロじゃない」


 俺は、ハッとした。


 ユリコは、続けた。


「あなたは、毎日、何時間も厨房に立っています。食材を切り、焼き、盛り付ける。その労働に、価値がある」


 俺は、頷いた。


 ユリコは、言った。


「経済学では、価値は希少性から生まれるとされています。でも、それは間違いかもしれません。価値は、労働から生まれる。あるいは、技術から生まれる。あるいは、体験から生まれる」


 俺は、理解した。


「つまり?」


 ユリコは、微笑んだ。


「あなたの店の価値は、原価ではない。あなたの調理技術と、客が得る体験です」


 俺は、納得した。


「そうかもしれません」


 ユリコは、言った。


「だから、原価ゼロでも、1,200円の価値がある。客は、あなたの労働と技術に対して、お金を払っているんです」


 俺は、初めて、自分の店の意味が分かった気がした。


 ユリコは、続けた。


「そして、それは、経済の本質かもしれません。人は、モノではなく、労働や体験に価値を見出す」


 俺は、言った。


「だから、能力を公表しても、意味がないんですね」


 ユリコは、頷いた。


「そうかもしれません。食材が無限にあっても、調理する人がいなければ、料理にはならない」


 俺は、微笑んだ。


「ありがとうございます。少し、楽になりました」


 ユリコは、微笑み返した。


「こちらこそ。私も、学びました」


 二人は、握手をした。


 それから、ユリコとの関係は、変わった。


 彼女は、もう能力の公表を主張しなくなった。代わりに、俺の店を、労働価値の実験場として観察し続けた。


 そして、数年後、ユリコは一冊の本を出版した。


 タイトルは、『原価ゼロの経済学——希少性を超えた価値論』


 本の中で、ユリコは、架空の事例として、俺の店を分析した。もちろん、能力のことは書かなかった。ただ、「もし原価がゼロになったら、経済はどうなるか」という思考実験として扱った。


 本は、学術界で話題になった。


 ユリコは、俺に一冊を贈呈した。


「これ、あなたのおかげです」


 俺は、本を読んだ。


 最後の章に、こう書かれていた。


「原価がゼロになっても、価値はゼロにならない。なぜなら、価値は、労働、技術、体験から生まれるからだ。経済の本質は、希少性ではない。人間の創造性である」


 俺は、その言葉に、深く感動した。


 そして、思った。


 俺の能力は、確かに特別だ。でも、本当に価値を生み出しているのは、俺の労働だ。


 毎日、厨房に立って、食材を切って、焼いて、盛り付ける。その労働が、客に体験を提供する。その体験が、価値になる。


 原価ゼロでも、価値はゼロじゃない。


 それが、俺の答えだった。


 そして、店は続いた。


 同業者たちも、やがて諦めた。俺の店は、異常だが、違法ではない。それを受け入れるしかなかった。


 中には、俺の店を参考にして、自分たちの店を改善する者もいた。


 小林も、数年後、俺の店に客として来た。


「久しぶりだな」


 俺は、驚いた。


「小林さん」


 小林は、席に座って、言った。


「A5和牛ステーキ、頼む」


 俺は、料理を作った。そして、出した。


 小林は、食べた。そして、頷いた。


「美味いな」


 俺は、言った。


「ありがとうございます」


 小林は、続けた。


「原価がどうとか、もうどうでもいいや。美味けりゃいいんだ」


 俺は、微笑んだ。


 小林は、食べ終わって、言った。


「あんた、いい料理人だよ」


 俺は、頭を下げた。


「ありがとうございます」


 小林は、帰り際に言った。


「またくるよ」


 俺は、嬉しかった。


 客は、相変わらず来続けた。A5和牛が1,200円で食べられる店として、有名になった。


 でも、俺は気づいていた。


 客が来るのは、安いからだけじゃない。美味しいからだ。


 俺は、毎日、全力で料理を作った。


 食材は無限にある。でも、時間は有限だ。体力も有限だ。


 俺は、朝から晩まで、厨房に立ち続けた。


 ある日、常連客の一人、田中という中年の男性が、言った。


「ここの料理、本当に美味しいですね。原価がどうとか関係なく、美味しい」


 俺は、微笑んだ。


「ありがとうございます」


 田中は、続けた。


「私、他の高級レストランにも行きますけど、ここの方が美味しいと思います」


 俺は、驚いた。


「本当ですか?」


 田中は、頷いた。


「はい。多分、店主さんの気持ちが、料理に込められているからだと思います」


 俺は、その言葉に、ハッとした。


 そうだ。俺は、毎日、一つ一つの料理に、心を込めている。


 食材は無限でも、心は無限じゃない。一つ一つの料理に、俺の心が入っている。


 それが、価値なんだ。


 田中は、続けた。


「価値って、値段じゃないんですね」


 俺は、頷いた。


「そうかもしれません」


 田中は、微笑んだ。


「これからも、美味しい料理、お願いします」


 俺は、頭を下げた。


「はい、頑張ります」


 それから、俺は、改めて料理に向き合った。


 原価はゼロでも、労働はゼロじゃない。


 毎日、何時間も立ち続けて、食材を切って、焼いて、盛り付ける。


 その労働に、価値がある。


 そして、客が、その価値を認めてくれる。


 それが、俺の幸せだった。


 ある日、若いカップルが店に来た。


 二人は、料理を食べて、幸せそうに笑った。


 女性が、男性に言った。


「ここで、プロポーズしてくれて、ありがとう」


 男性は、照れながら言った。


「いや、こっちこそ。ここの料理、最高だから」


 俺は、二人の様子を見て、胸が温かくなった。


 俺の料理が、誰かの大切な思い出になる。


 それが、何よりも嬉しかった。


 原価がゼロでも、この体験は、プライスレスだ。


 俺は、厨房で、一人微笑んだ。


 それから、数年が経った。


 俺の店は、今も続いている。原価率0.5%のまま、A5和牛を1,200円で提供し続けている。


 税務署は、もう何も言ってこない。特例として認められているからだ。


 同業者たちも、諦めた。俺の店と競争しても無駄だと理解したからだ。


 メディアも、もう騒がない。俺の店は、地元の名物として定着した。


 ユリコは、今も時々店に来る。そして、俺と経済の話をする。


 佐藤は、今も顧問税理士として、俺を支えてくれている。


「まあ、あなたの帳簿は、世界で一番簡単ですけどね」と、佐藤は笑う。


 俺は、幸せだった。


 能力を手に入れて、店を開いて、色々な問題があった。でも、すべて乗り越えた。


 そして、今、俺は理解している。


 原価ゼロでも、価値は生まれる。


 なぜなら、価値は、原価ではなく、労働と技術と体験から生まれるものだから。


 俺の店の料理が美味しいと思ってくれる客がいる限り、価値はある。


 それが、俺の答えだった。


 ある日、新しい客が店に来た。


 その客は、俺の料理を食べて、満足そうに言った。


「本当に美味しい。これで1,200円なんて、信じられない」


 俺は、微笑んだ。


「ありがとうございます」


 客は、聞いた。


「どうやって、こんな価格でやってるんですか?」


 俺は、答えた。


「企業努力と、毎日の労働です」


 客は、笑った。


「すごい企業努力ですね」


 俺も、笑った。


 そして、思った。


 これでいいんだ。


 俺の秘密は、俺だけが知っていればいい。


 大切なのは、客が幸せになることだ。


 そして、俺自身が、料理を作ることに喜びを感じることだ。


 俺は、今日も、インベントリから食材を取り出す。


 A5和牛を。フォアグラを。トリュフを。


 そして、料理を作る。


 一つ一つの料理に、心を込めて。


 食材は無限でも、俺の時間は有限だ。


 だからこそ、一つ一つの料理が、かけがえのないものになる。


 客は、喜んでくれる。


 それが、俺の幸せだ。


 原価ゼロのレストラン。


 それは、制度が想定しない、奇跡の店だった。


 でも、本当の奇跡は、原価がゼロになったことじゃない。


 本当の奇跡は、俺が毎日、料理を作り続けていることだ。


 労働することに、喜びを感じていることだ。


 客に、笑顔を届けられることだ。


 それが、価値の源泉だ。


 俺は、厨房に立ち、次の料理を作り始める。


 今日も、客が待っている。


 俺の労働を。俺の技術を。俺が提供する体験を。


 原価ゼロでも、価値はある。


 それを、俺は毎日、実感している。

コメディ書いてたのに、完成したらコメディじゃなくなりました。

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同作者の完結作品

水が死んだ日

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