【ディストピア】この世界では太らなくなりましたので。
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私の名前は北川真理子。四十二歳、栄養学者。国立大学の医学部で栄養代謝学を研究している。専門はレプチンとその関連ホルモンだ。レプチンは脂肪細胞から分泌されるホルモンで、脳の視床下部に作用して食欲を抑制し、エネルギー消費を増加させる。簡単に言えば、レプチンは「もう十分食べた」というシグナルを送るホルモンだ。肥満者の多くはレプチン抵抗性を持っている。つまり、レプチンが分泌されていても、脳がそのシグナルを受け取れない。だから食べ続けてしまう。私の研究は、このレプチン抵抗性をどう克服するか、というテーマだった。
それが、世界を終わらせることになるとは、誰が予想しただろうか。
すべては二〇二六年の春に始まった。最初の報告は、アメリカの疾病対策センターからだった。全米各地で原因不明の食欲減退が報告されているという。患者たちは、空腹感がなくなり、食事をする意欲が低下していた。味覚障害ではなく、食べ物は美味しく感じられるが、食べたいという欲求そのものが消失していた。初期には心因性の摂食障害と診断されたが、あまりにも症例が多く、しかも短期間に広がっていた。
一週間後、ヨーロッパからも同様の報告が上がった。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。すべて同じ症状だった。そして、日本でも始まった。私の研究室にも、原因究明の依頼が来た。
最初のサンプルは、首都圏内の患者の血液だった。私たちは血中レプチン濃度を測定した。驚くべきことに、レプチン濃度は正常範囲内、あるいはやや低めだった。通常、食欲が減退している場合、レプチン抵抗性が改善されているか、あるいは何らかの疾患が考えられる。だが、患者たちに疾患は見られなかった。
私たちはさらに詳しい検査を行った。脳のMRI、視床下部の機能検査、レプチン受容体の発現解析。そして、驚愕の事実が判明した。患者たちのレプチン受容体は、異常なほど高感度になっていた。通常、肥満者はレプチン抵抗性を持っているが、これらの患者は逆だった。レプチンに対する感受性が極端に高まっていた。わずかなレプチンシグナルでも、脳は「十分だ」と判断してしまっていた。
だが、なぜこんなことが起きたのか。遺伝的な変異ではない。短期間にこれだけ広がることはありえない。環境要因だ。何か、共通の環境要因がある。
私たちは患者たちの生活習慣を調査した。食事、飲料、医薬品、サプリメント。あらゆる可能性を探った。そして、共通点が見つかった。水だ。すべての患者が、水道水またはミネラルウォーターを飲んでいた。
私たちは水のサンプルを採取し、分析した。最初は何も見つからなかった。通常の分析では、異常は検出されなかった。だが、ペプチド分析を行ったとき、奇妙なペプチドが検出された。約三十アミノ酸残基からなる小型ペプチドで、既知のどのペプチドとも一致しなかった。私たちはそれを「X-ペプチド」と仮称した。
X-ペプチドは驚くべき特性を持っていた。加熱しても分解されない。消化酵素にも耐性がある。血液脳関門を通過する。そして、脳内でレプチン受容体の感受性を不可逆的に増強する。おそらく、受容体タンパク質の構造を変化させ、レプチンとの親和性を劇的に高めるのだろう。
私たちは厚生労働省に報告した。政府はパニックになった。だが、すでに手遅れだった。X-ペプチドは世界中の水源に拡散していた。水道水、地下水、河川、湖、さらには一部の海域にまで。起源は不明だった。どこから来たのか、誰が、あるいは何が混入させたのか。
一部の陰謀論者は、気候変動対策だと主張した。人類の食料消費を減らすための秘密計画だと。別の者は、食糧危機を回避するための人口抑制計画だと言った。バイオ企業の実験事故だという説もあった。宇宙由来の微生物が産生したという荒唐無稽な説まで飛び交った。だが、真相は誰も知らなかった。
そして、世界は変わり始めた。
最初の三週間は、比較的穏やかだった。人々は食欲が減退したことに戸惑ったが、それほど深刻には受け止めなかった。むしろ、ダイエットに悩んでいた人々は喜んだ。食べる量が自然に減り、体重が落ち始めた。肥満者たちは、努力なしに理想の体重に近づいていった。
だが、三か月後、状況は一変した。
体重減少が止まらなくなった。人々は痩せ続けた。BMIが正常範囲を下回り、低体重になった。女性たちは生理が止まり始めた。体脂肪率が一定以下になると、生殖機能が停止するのだ。男性も影響を受けた。精子数が減少し、性欲が低下した。
医療機関はパンクした。栄養失調の患者が急増した。だが、通常の栄養失調とは違っていた。患者たちは食べることができた。食べ物は手の届くところにある。味も分かる。だが、食べたくないのだ。脳が「必要ない」と判断してしまっていた。
私たちは治療法を探した。レプチン拮抗薬、受容体阻害剤、あらゆる薬剤を試した。だが、効果はなかった。X-ペプチドによる変化は不可逆的だった。一度変化した受容体は、元に戻らなかった。
唯一の対策は、強制的な栄養補給だった。経鼻栄養チューブ、胃瘻、中心静脈栄養。患者たちは自分の意思で食べることができないため、医療的に栄養を投与するしかなかった。だが、それは一時的な対処に過ぎなかった。世界中の医療機関が、すべての患者に栄養補給を続けることは不可能だった。
そして、経済が崩壊し始めた。
畜産業が最初に崩壊した。人々の肉への需要が激減したからだ。牛、豚、鶏。すべての家畜の価格が暴落した。牧場主たちは家畜を処分し始めた。だが、処分する場所もなかった。屠殺場も閉鎖されていた。家畜は放置され、野生化し、あるいは餓死した。
穀物価格も暴落した。小麦、米、トウモロコシ。すべての穀物が余剰となった。農家は作物を収穫せず、畑に放置した。食料輸出国の経済は壊滅した。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ブラジル。これらの国々の国家財政は崩壊した。
ファストフード企業は次々と倒産した。大手ハンバーガーチェーン、フライドチキンチェーン、ピザチェーン。すべてが閉鎖された。高カロリー食品への需要はゼロになった。
砂糖市場も消滅した。人々は甘いものを欲しがらなくなった。ケーキ屋、和菓子屋、チョコレート工場。すべて閉鎖された。私の好きだったケーキ屋も、シャッターを下ろした。
唯一成長したのは、栄養補助剤企業だった。カプセル型の栄養剤、高カロリー飲料、アミノ酸サプリメント。これらの製品が飛ぶように売れた。人々は食事の代わりに、これらを摂取した。だが、それは食事ではなかった。栄養補給に過ぎなかった。
そして、文化が消え始めた。
レストランが閉鎖された。高級フレンチも、庶民的なラーメン屋も、すべて。料理人たちは職を失った。何世代も続いてきた老舗も、廃業した。食を中心とした文化が、消滅していった。
祝祭も消えた。誕生日パーティー、結婚披露宴、新年会、忘年会。すべての宴会が意味を失った。人々は集まっても、食べなかった。乾杯もしなかった。ケーキも切らなかった。ただ座っているだけだった。
家族団らんも消えた。夕食を囲んでの会話。それは過去のものになった。家族はそれぞれ、栄養カプセルを飲み、自室に戻った。食卓は物置になった。
私の家族も変わった。夫は食事を作らなくなった。以前は料理が趣味だったのに。娘も、友達とカフェに行かなくなった。何を話すこともなくなったのだ。食という共通の話題が消えたから。
そして、人口動態が変化し始めた。
出生率が急落した。女性たちの多くが無月経になり、妊娠できなくなった。体脂肪率が低すぎて、生殖機能が停止していた。栄養を強制的に補給しても、体脂肪は増えなかった。レプチンシグナルが強すぎて、脂肪を蓄積できなかったのだ。
男性も不妊になった。精子数が激減し、性欲も低下した。テストステロンの分泌が減少していた。これもレプチンシグナルの影響だった。
少子化が加速した。日本の出生率は、0.3まで低下した。一年間に生まれる子供は、わずか数万人だった。高齢者は増え続け、若者は減り続けた。
軍隊も弱体化した。兵士たちは体力を失い、訓練に耐えられなくなった。筋肉量が減少し、持久力が低下した。エネルギー不足で、戦闘行動が困難になった。
労働力も減少した。人々は慢性的な疲労に苦しんだ。基礎代謝が過度に上昇し、常にエネルギー不足だった。仕事の効率は落ち、生産性は低下した。経済はさらに縮小した。
そして、格差が生まれた。
一部の富裕層は、影響を回避していた。彼らは汚染されていない水源を確保していたのだ。山奥の地下水、氷河の水、あるいは海外の孤島の水。彼らは正常な食欲を保っていた。
二つの人類が生まれた。「旧型人類」と「新型人類」。旧型人類は正常な食欲を持ち、脂肪を蓄積でき、生殖能力も保たれていた。新型人類は食欲を失い、痩せ続け、子供を作れなかった。
旧型人類は支配階級になった。彼らは体力があり、思考力も保たれていた。新型人類は労働力として搾取された。栄養カプセルを与えられ、最低限の生活を強いられた。
ブラックマーケットが形成された。「旧水」と呼ばれる、汚染されていない水が取引された。価格は天文学的だった。一リットルの旧水が、一か月分の給料に相当した。だが、それでも買う者がいた。生き残るために。子供を産むために。
水源を巡る争いが始まった。汚染されていない水源を持つ地域は、武装して守った。侵入者は射殺された。内戦が各地で勃発した。政府は機能を失い、無政府状態が広がった。
私は大学を辞めた。研究を続ける意味がなくなったからだ。レプチン抵抗性を克服する研究。それは、もう必要なかった。むしろ、レプチン抵抗性を復活させる研究が必要だったが、それは不可能だった。
私は栄養補給センターで働き始めた。政府が設立した施設で、新型人類に強制的に栄養を補給する場所だった。毎日、何百人もの人々が訪れた。彼らは栄養チューブを挿入され、高カロリー液を注入された。表情は虚ろだった。生きているが、生きる意欲を失っていた。
ある日、センターに若い女性が来た。二十代だった。彼女は妊娠を希望していた。だが、体脂肪率が十パーセントを下回っていた。生理も一年以上止まっていた。
私は彼女に説明した。妊娠するには、体脂肪率を少なくとも二十パーセント以上に増やす必要がある。だが、それは不可能に近い。レプチンシグナルが強すぎて、脂肪を蓄積できない。
彼女は泣いた。子供が欲しい、と。家族が欲しい、と。だが、私にはどうすることもできなかった。
その夜、私は家に帰って、鏡を見た。自分の姿を見た。痩せ細った体。浮き出た肋骨。くぼんだ頬。これが私だった。四十二歳の栄養学者。レプチンの専門家。だが、自分自身の栄養状態すらコントロールできない。
私は栄養カプセルを飲んだ。味はない。ただの化学物質の塊だった。だが、これが私の夕食だった。これが、人類の未来だった。
それから五年が経った。
世界人口は半分になった。八十億人から四十億人へ。死因のほとんどは栄養失調だった。特に高齢者と子供の死亡率が高かった。彼らは栄養カプセルだけでは生き延びられなかった。
出生率はさらに低下した。一年間に生まれる子供は、世界全体で数十万人だった。人類は絶滅に向かっていた。
経済は完全に崩壊した。GDPは十分の一になった。通貨はほとんど無価値になった。物々交換が復活した。だが、交換するものもなかった。食料は余っているが、誰も欲しがらなかった。
政府は機能を停止した。税収がなくなり、公務員も辞めていった。警察も消防も、ほとんど活動していなかった。法律は名目だけになった。
都市は廃墟になった。高層ビルは空き、商店街はゴーストタウンになった。人々は郊外の小さなコミュニティに集まり、細々と生活していた。
私は首都を離れ、山間部の小さな村に移住した。そこには数百人の新型人類が暮らしていた。全員が痩せ細り、疲れ果てていたが、それでも生きていた。
村には栄養補給ステーションがあった。週に一度、政府から栄養カプセルが配給された。それが私たちの食事だった。
ある日、村に旧型人類の一団が来た。彼らは水源を求めていた。村の近くに、まだ汚染されていない湧き水があると聞きつけたのだ。
村人たちは拒否した。その湧き水は、村の貴重な資源だった。汚染されていない水で育てた野菜を、わずかに栽培していたのだ。新型人類は食べたくないが、それでも生きるためには栄養が必要だった。
旧型人類は武力で脅した。銃を持っていた。村人たちは抵抗できなかった。私たちには体力がなかった。
湧き水は奪われた。旧型人類は去っていった。村人たちは絶望した。
だが、翌週、政府から配給が来た。栄養カプセルと、そして新しい水源の情報だった。政府はまだ、完全には崩壊していなかった。わずかに機能していた。
私は生き延びた。生きる意味を見失いながらも、生き延びた。
それから十五年が経った。
私は五十七歳になった。痩せ細り、白髪が増え、顔には深いしわが刻まれていた。だが、まだ生きていた。
世界人口は十億人を下回った。人類は絶滅危惧種になった。出生率はほぼゼロだった。新型人類は子供を産めず、旧型人類も減少していた。彼らも老いていた。
都市は完全に放棄された。自然が都市を飲み込んでいた。草木が高層ビルを覆い、動物たちが街を闊歩していた。人類の文明は、急速に消えていった。
私が暮らす村も、縮小していた。高齢者が次々と亡くなり、若者はいなかった。村人は百人を下回った。
だが、ある日、奇跡が起きた。
村に赤ん坊の泣き声が響いた。
私は驚いて駆けつけた。そこには、若い女性が赤ん坊を抱いていた。新型人類の女性だった。だが、彼女は妊娠していた。出産していた。
私は信じられなかった。どうやって? 彼女の体脂肪率は低いはずだ。生殖機能は停止しているはずだ。
だが、彼女は説明した。彼女は栄養補給を極限まで増やした。一日に何度も栄養カプセルを飲み、強制的に栄養チューブを挿入し続けた。苦痛だった。吐き気がした。だが、それでも続けた。子供が欲しかったから。
そして、体脂肪率が少しずつ上がった。生理が戻った。そして、妊娠した。
赤ん坊は小さかった。未熟児だった。だが、生きていた。泣いていた。
村人たちは喜んだ。希望が生まれた。人類はまだ、絶滅していなかった。
私は赤ん坊を抱いた。小さな、暖かな命だった。レプチンに支配された世界でも、命は生まれる。人類は生き延びる。
だが、それは簡単ではなかった。赤ん坊も新型人類だった。母親の体内で、すでにX-ペプチドの影響を受けていた。成長するには、強制的な栄養補給が必要だった。
村では、赤ん坊専用の栄養補給プログラムが始まった。母乳の代わりに、高カロリーミルクを与えた。成長するにつれて、栄養カプセルを砕いて混ぜた食事を与えた。
赤ん坊は育った。ゆっくりと、だが確実に。そして、他の赤ん坊も生まれ始めた。村の女性たちが、同じ方法で妊娠した。出生率はまだ低かったが、ゼロではなくなった。
私は希望を持ち始めた。人類は適応するかもしれない。新型人類として、新しい生き方を見つけるかもしれない。
だが、それには時間がかかるだろう。何世代も。そして、その間に失われるものも多いだろう。
私は栄養補給センターで働き続けた。今では子供たちの栄養管理が主な仕事だった。彼らは食べることを知らなかった。食欲を感じたことがなかった。だが、生きるためには栄養が必要だった。
ある日、五歳の男の子が尋ねた。「おばさん、『お腹が空いた』ってどういう意味?」
私は答えに窮した。どう説明すればいいのか。空腹という感覚を、経験したことのない子供に。
私は古い本を取り出した。料理本だった。色とりどりの料理の写真が載っていた。ハンバーグ、カレーライス、ラーメン、寿司、ケーキ。
「昔の人たちは、こういうものを食べてたんだよ」
男の子は不思議そうに見ていた。「これ、全部食べたの?」
「そうだよ。毎日、いろんなものを食べてた」
「なんで?」
「お腹が空いたから」
「お腹が空くって?」
私は微笑んだ。悲しい微笑みだった。
「お腹が空くっていうのは、食べたくなることだよ。体が栄養を欲しがって、食べたいって思うこと」
男の子は首を傾げた。「僕、食べたいって思ったことない」
「そうだね。君たちの世代は、もう空腹を感じないんだね」
「でも、おばさんは感じたことあるの?」
私は頷いた。「あるよ。昔はね」
「どんな感じ?」
私は目を閉じた。記憶を辿った。空腹の感覚。胃が空っぽで、何か食べたくて、美味しいものを想像して、口の中が唾液で満たされて。
「幸せな感覚だったよ」
「幸せ?」
「そう。お腹が空いて、美味しいものを食べる。それが幸せだった」
男の子は理解できないようだった。当然だ。彼は空腹を知らない。食べる喜びも知らない。
私は本を閉じた。そして、男の子に栄養カプセルを手渡した。
「これを飲んで。栄養が必要だから」
男の子はカプセルを飲んだ。水で流し込んだ。表情は変わらなかった。喜びも、満足も、何もなかった。ただ、義務として飲んだだけだった。
私は思った。これが、人類の未来なのか。空腹を知らず、食べる喜びも知らず、ただ生きるために栄養を補給する。機械のように。
だが、それでも生きている。命は続いている。それが大切なのだろうか。それとも、何かが失われているのだろうか。
私は答えを見つけられなかった。
それからさらに十年が経った。
私は六十七歳になった。体はさらに痩せ、動くのも辛くなった。だが、まだ生きていた。栄養補給のおかげで。
村には子供たちが増えていた。出生率は少しずつ回復していた。女性たちは強制的な栄養補給を続け、妊娠可能な体脂肪率を維持していた。苦痛だったが、それが唯一の方法だった。
子供たちは栄養カプセルで育った。食事というものを知らなかった。食卓を囲むこともなかった。家族団らんも、祝祭も、すべて過去のものだった。
だが、彼らは新しい文化を作り始めていた。食に代わる、何か別のものを。
子供たちは集まって、物語を語り合った。昔の人々の話。食べ物の話。料理の話。それは彼らにとって、おとぎ話のようなものだった。現実には存在しない、夢の世界。
ある少女が尋ねた。「おばあちゃん、ケーキって本当にあったの?」
私は頷いた。「あったよ。甘くて、柔らかくて、美味しかった」
「どんな味?」
「砂糖の味。バターの味。いちごの味。全部が混ざって、幸せな味だった」
少女は目を輝かせた。「食べてみたい」
私は微笑んだ。「もう作れないけどね。材料もないし、作る人もいない」
「じゃあ、もう永遠に食べられないの?」
「そうだね。君たちの世代は、もう食べることはないだろう」
少女は悲しそうだった。だが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、私が想像する。ケーキを。すごく美味しいケーキを」
そして、少女は目を閉じて、何かを想像し始めた。他の子供たちも一緒に。彼らは想像の中で、ケーキを食べていた。
私は思った。これが、新しい文化なのかもしれない。実際に食べることはできないが、想像の中で食べる。記憶の中の食べ物を、物語として語り継ぐ。
それは貧しい文化かもしれない。だが、それでも文化だった。人類は文化を失わなかった。形を変えただけだった。
私は安心した。人類は生き延びる。新型人類として、新しい形で。
だが、ある日、すべてが変わった。
村に旧型人類の集団が来た。彼らは大規模な武装集団だった。数百人いた。彼らは水源を求めていた。だが、それだけではなかった。彼らは新型人類を奴隷にしようとしていた。
村人たちは抵抗した。だが、体力の差は歴然だった。旧型人類は強く、速く、持久力があった。新型人類は弱く、遅く、すぐに疲れた。
村は制圧された。村人たちは捕らえられ、労働を強いられた。水を汲む労働、畑を耕す労働、建物を建てる労働。栄養カプセルは配給されたが、最低限だった。
私も働かされた。六十七歳の老女だったが、容赦はなかった。毎日、重い荷物を運んだ。体は悲鳴を上げたが、働くしかなかった。
子供たちも働かされた。幼い体で、過酷な労働を。泣く子供もいたが、殴られた。
私は絶望した。これが人類の未来なのか。新型人類が奴隷になり、旧型人類が支配する。格差は固定化され、二つの人類は永遠に分断される。
だが、ある夜、反乱が起きた。
新型人類の若者たちが、武器を手に取った。彼らは弱かったが、数は多かった。そして、何より、失うものがなかった。
戦いは短かった。旧型人類は強かったが、油断していた。新型人類が反乱を起こすとは思っていなかった。若者たちは夜襲をかけ、旧型人類の武器を奪い、指揮官を殺した。
混乱の中、旧型人類は逃げ去った。村は解放された。
だが、代償は大きかった。多くの若者が死んだ。村の人口はさらに減った。
私は生き延びた。だが、何のために生き延びたのか、分からなくなった。
それからさらに五年が経った。
私は七十二歳になった。もう動けなくなった。ベッドに横たわり、栄養チューブで命をつないでいた。
村は静かだった。人口は百人を下回った。高齢者ばかりだった。子供も少なかった。
ある日、村に訪問者が来た。政府の役人だった。まだ政府が存在していたことに、私は驚いた。
役人は説明した。政府は新型人類の保護プログラムを開始したと。各地の村を支援し、栄養補給を安定化させると。そして、研究を続けていると。X-ペプチドの影響を逆転させる方法を。
私は尋ねた。「可能なのか?」
役人は首を横に振った。「まだ分からない。だが、試みている」
「どれくらいかかる?」
「分からない。十年か、百年か。あるいは永遠にできないかもしれない」
私は笑った。乾いた笑いだった。
「私は、もう生きていないだろう」
「そうかもしれない。だが、次の世代が生きている」
私は窓の外を見た。子供たちが遊んでいた。痩せ細った体で、だが笑っていた。
「彼らは、空腹を知らない」
「そうだ」
「食べる喜びも知らない」
「そうだ」
「それでも、生きている」
「そうだ」
私は目を閉じた。
「それでいいのかもしれない」
役人は黙っていた。
私は言葉を続けた。
「人類は変わった。新型人類になった。もう戻れないかもしれない。だが、それでも生きている。命は続いている」
「あなたは、それを受け入れるのか?」
「受け入れるしかない。私たちは、もう旧型人類ではない」
役人は立ち上がった。
「分かった。あなたの言葉を、記録しておく」
そして、役人は去っていった。
私はベッドに横たわったまま、天井を見つめた。
人類は終わった。だが、新しい人類が始まった。新型人類。空腹を知らない人類。食べる喜びを知らない人類。
それは貧しい人類かもしれない。だが、それでも人類だった。
私は満たされていた。空腹を感じることもなく、食べる喜びもなく、ただ栄養を補給されているだけ。だが、それが私の人生になった。それが人類の未来になった。
満たされた世界。空腹のない世界。欲望のない世界。
それは天国なのか、地獄なのか。
私には分からない。
ただ、これが現実だった。
私は目を閉じた。そして、眠りに落ちた。深い、深い眠りに。




