32、ペンダント
32、ペンダント
部屋を抜けて、チルトとエルアは走り出した。
迷路の暗がりを二人で駆け抜けていく。
着崩したエルアの制服が翻っていた。
「こっちが近道だ、」
エルアは胸の内ポケットから三色菫の硝子細工を取り出すと、脇のステンドグラスに翳す。
チルトも引っ張られて、そこを擦り抜けると、先には別の道が続いていた。
「何これ、ずるい、」
「“私”も持っていただろう。候補生は一色だけだけどな、」
“私”とはあの少女のことだろう。
チルトは彼女が落とした桔梗のことを思い出していた。
「決意は、」
併走するエルアは、焦げ茶の瞳を向けて問うてくる。
「決まっているけど、固まってはいない、」
チルトは左手で、平丸いペンダントを玩ぶようにして持て余していた。
それを見咎めたエルアは言う。
「開ければいいだろうが、」
チルトはエルアの無遠慮さに、少し憤った。
「分かってない、」
「どうして、」
「このペンダントを開けるのは、彼女の心に土足で入り込むようなものだよ、」
言うと、エルアは舌打ちした。
そして走りながら器用に靴を脱ぎ始める。
「何をやってるの、」
驚いて訊ねると、エルアはそろえた両靴を差し出した。
「硝子の靴でなら入れるか、」
チルトは呆れた顔をする。
「だって、その靴は、」
「いいから受け取れ、」
躊躇するチルトに、エルアは無理矢理押し付けた。
されるままに、チルトは靴を抱えてしまう。
この斜塔自身の“私のもの”であるという、“特別な”硝子の靴は、南の涯てにある氷で靴を作れば、きっとこんな透き通り方をしているだろうと思わせた。
通ったことのないような階段を駆け上がり、通路を突き進む。
「俺には親がいなかったから、そのペンダントを開けられない気持ちはよく分からない。ただ、それを開けられるのは、感情を持ったお前だけだ、」
廊下の先に何かが見えた。
チルトは眼を凝らす。
「突き当りを左に行け。一つ部屋を抜ければ、階段がある。」
エルアは見据えながら言う。
その口調があまりに落ち着いたものだったので、チルトは疑問に思う。
正面のものが見えた。
押し車に、四角いお菓子箱のような台に突き刺さる針。
飛び出た小昼顔の花のような硝子管。
手回しハンドルを前にゆっくりと車を押していく、背の曲がった上に巻き重ねられた白い布服は、ところどころ途切れてつぎはぎされる。
それは昨日の夜に現れた老人だった。
老人はゆっくりと、しかし着実にこちらに向かってくる。
寄宿階なんかではなく、硝子の斜塔のこんな上層に突然現れた老人に、チルトは驚いた。
疑うように眼を凝らして見ると、老人は、ふと溜め息を吐いた。
チルトは走りながらその溜め息が、青く染まっていることを見て取った。
その時エルアが左に跳んだ。
一瞬前足があったところに、床から硝子が絡みつくように螺旋となって伸びていた。
チルトは、エルアを絡め捕ろうとしたそれに、眼を見張った。
「行け、チルト! 俺はお前にもらった重さを絶対にもう失くさない」
エルアは声を張り上げた。
「絶対だからな」
老人へと向かっていく。
老人は再び、溜め息を吐いた。
青く曇って斜塔に漂う。
“硝子の斜塔から逃れることはできない。”
“硝子の斜塔”。
逡巡を許さないエルアの言葉に、チルトはエルアが勝手に言っていたことを思い出して、何か無性に悲しくなった。眼が細まるのを隠すために眉を寄せて、拳を握って、エルアに向かって殴る動作をして叫んだ。
「絶対だよ」
そうするともう振り向かずに、チルトはエルアと老人を過ぎ去る。
突き当りを左に曲がり、部屋を抜けようとする。
ぼんやりとした明かりの中に、樋を見つけた。
涌水の先を辿ると、硝子の樹があった。
「オレンジの樹、」
チルトは呟く。
しかし、硝子の樹からは実がなくなっていた。
チルトは眺めて、部屋を通り過ぎた。
持て余していた金色のペンダントを、左手に握り締める。
蓋を開く。
中身はからっぽだった。




