27、翠煙の家
27、翠煙の家
扉の先に続いていた通路をさらに進んで、チルトはひとつ、扉を開けてくぐった。
途端煙の焦げる匂いが、鼻をかすめた。
ほのかにすいかずらの匂いがする。
部屋がひらけていた。
図書館なんかよりはずっと小さいが、それでも大きく取られた空間には、真ん中にぽつんと家が一軒建っていた。
硝子造りの家で、壁は漆喰の色で塗られ、屋根が焦げ茶に葺かれていた。
背の低い、一階建ての家は、全てが本物をかたどった硝子造りだったが、遠眼には本物のようにも見えた。
ただおかしなのは、ひとつ屋根から突き出た煙突から翡翠のもやのような煙が次から次へと飛び出して、部屋中を満たしてうっすらと漂わせていたことだ。
チルトはこの煙をみたことがある。
あすこを見ろよ、老婆の家だ
煙草が好きな、老婆の家だ
煙突見ろよ、薪じゃないぜ
もくもくあれは、
煙草の煙さ
チルトはふと、そんな童謡を思い出した。
チルトは注意深く眼を据えて意識を張りながらも、その家に近付いていく。
壁には窓や扉がひとつづつ着いていた。
試しに窓を覗いても、煙で何も見えなかった。
扉の横には住所の代わりに妙な但し書きがされていた。
“吸いすぎ厳禁。綿になるから。”
チルトはノブを回して、硝子戸を開けた。
いらっしゃい、私たちの生徒、さあお入りなさい。
女性の声がすると開け放った傍から、内の溜まっていた煙がぐるりと回って流れ出し、部屋が少しだけ晴れて見えるようになる。
退屈、退屈、退屈だから。
続く声は、気だるげだった。花のような匂いも、ぐっと強まって鼻を刺した。
正面に机がひとつ、木目のものが事務机のように置いてあった。
対面に腰掛けるのは、煙草をふかす女性。
ミルキーグリーンの薄くしゃんとした生地の洋服を着た、“展覧会”で見た幽霊だった。
部屋の中央には普通の家なら生活に必要である家具がひとしきり置いてあったが、全て硝子だった。
硝子でないのは、その幽霊と座る椅子、煙草と机に転がる灰だけだった。
灰は、すでにうず高く積まれていた。
「あなたはここまで来るのに、何かを失ったかしら、それとも何かを得たものかしら、」
ミルキーグリーンの女性はれいとした声でチルトに訊ねた。
チルトは、答えなかった。
見かねた女性が、そんなチルトの内を見抜いたように、眼を鋭くして、睫を跳ねさせた。
「私が行うのは、問答試験です。筆記試験の他に、対面試験があるように。だけど退屈、・・・・・・何て言わないわ、もちろんですとも。退屈。退屈。」
しかし鋭くしたと思わせた眼は、途端気だるげに歪んで閉じかけた。ふざけているのだろうか。
女性は、鋭い針を持ちつつも、退屈そうに煙草をふかした。
チルトは、言葉からしても、彼女が何か、よく分からなかった
「“幽霊”、」
チルトは言葉を漏らしたが、女性は反応しない。
しかしやはり、“展覧会”やある部屋でも感じた通り、“幽霊”であるのだろう。
問答試験と言ったが、この女性は面接官のようなものだろうかと、チルトは考えた。
そこでまた、女性の睫が跳ねて眼差しが鋭くなった。
「あの優秀な模範生徒を、私は奨励していますよ。」
女性の口から飛び出たことに、チルトは何だか背が跳ねた。
「今まで私は、幾人かの生徒を問答して来たわ。だけどあなた相手に、それをするほど私は暇ではないのです。もちろん、退屈ではいたいのよ。煙突から煙を吹き出すほど、煙草を吸ってはいたいのよ。」
意表を突いたかと思えば、女性はまたよく分からない態度になる。
吸い続ける煙に、チルトはくらりと眩暈を感じた。
サントマルテ先生の部屋で、訳知り顔で現れた女性。
翠煙の彼女は、あの優等生の彼女のことを知っているのだろうかと、チルトは疑問に思った。
「あなたは、態度から見ても、落第ぎりぎりと言ったところですね。この学校はお嫌い、?」
チルトは、答えない。
「じゃあ、あの優秀な模範生徒はどうかしら、」
チルトは口をつぐんだ。
答えない。
そんなチルトを女性が見て、眠たげに煙を吹きこぼした。
「彼女に愛想を向けて、彼女に恋をして、彼女を愛した少年がいました。少年は、抱えた重さに耐えきれず、彼女と同じ階に立つことが許されず、それでも彼女のとなりにいようとして、床の硝子を割って、重なりあう硝子を割り続けて、下へ下へ、引き裂かれてずたずたになって死にました。」
チルトは眉をしかめてしまった。
それを見て、女性は肩を竦めた。
「あなたに似ているのよ、だから余計にね、眼を見ることも恐いのよ。」
あの女の子は、眼を見ない。チルトだけに関わらず、みんなの、他の生徒の眼も見ないのだと思っていた。
しかし、違うのだろうか。
「向けられた愛想を、一体どうやって返せばいいの? 」
女性は抜け出しに投げ出すようにして言った。
「あの子はよく、私にそう訊いたものよ。」
煙がこぼれて、止めどなく部屋を満たしていく。
取り巻く煙が、彼女の一切を緑に見せる。
染まった睫は、再び跳ねた。
「中途半端に向けるから、だから困ってしまうのよ。中途半端に向けるくらいなら、おやめなさい。あの子は半端じゃないんだから。」
灰がひたりと机に積もる。
「さて、私の試験はおしまいです。いいえ、授業だったかしら、実際と感情のお勉強、 感情だけなら、子どもでも知っているわ。生徒は感情の勉強をするけれど、その反面、すればするほど忘れていきます、子どもが成長すると、失ってしまう何ものかがあるという、迷信のように。もちろん真実ですけれど。感情なんて、もともと煙を掴むようなものなのですからね、それともあなたは、そんなこともないのかしら。わざわざ、言うまでもないお話だったかしら。退屈。退屈。」
チルトは答えない。
今度は、何も言えなかった。
彼女は手を横に掲げて、後ろの扉を示していた。
「あなた、彼女を助けたことがあるでしょう、」
「“斜塔祭”のことよ。
「あなたに少しだけ、お願いをしたり
「、何だかアテのない話をするのは、
「そういうわけよ。
「退屈は死ぬことだと思う、?
「だけど私は、角砂糖ひとつ分くらいの感情で、退屈したいと願うのですよ。変わっているでしょう、“ワタシ”。
「ああ、退屈。退屈。
すると彼女は瞬きした途端、幽霊のように消えた。
硝子や煙の翠に奥まって、溶けてしまったように、チルトを煙に捲いていった。
チルトはぼんやりとした心地で机を横切り、小さな家の部屋を出た。
扉を後ろ手に閉めると、すり抜けた煙が漂って翻ると、すぐに消えていく。
チルトはまた歩き出した。
階段を、ひとつ上る。
何だかチルトには、彼女の休まらない口が、大分堪えていた。
俯きながら、チルトは階段を上っていく。




